第22話 偽りの王女の帰還
王宮へ戻る道中、私は馬車の中で服を眺めていた。
胸の辺りに、大きな縫い目がある。
リネットが直してくれたものだ。
破れた部分をあっという間につなぎ合わせてくれたけれど、完全な元通りにはならなかった。
「……新しい服が必要ね」
私が呟くと、向かいに座っていたガルドが顔を上げた。
「その前に、考えていただきたいことがございます」
「何かしら」
「王宮へ戻られてからのことです」
私は頷いた。
それは、私も考えていた。
本物のエルシアが見つかった。
魔族の指揮官も倒した。
王国を滅ぼすための計画は、少なくとも私が知る限り、ほとんど失敗したはずだ。
けれど、私の問題は何一つ片づいていない。
「陛下には、すべて報告いたします」
ガルドが言った。
「ええ」
「あなたが魔族の一員であったことも、本物の殿下に成り代わっていたことも」
「分かっているわ」
ガルドは、少しだけ眉を寄せた。
「随分と落ち着いておられますな」
「慌てても、変わらないでしょう?」
そう答えると、ガルドは小さく息を吐いた。
「……そうかもしれません」
私は窓の外を見た。
前方には、本物のエルシアを乗せた馬車が走っている。
彼女にはリネットが付き添っていた。
身体が弱っているため、道中も何度か休憩を取っている。
本物の王女は、王宮へ帰る。
では、私はどうなるのだろう。
ガルドが再び口を開いた。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
「何?」
「あなたは、逃げようとは思わないのですか」
私は少し考えた。
逃げることはできる。
姿を変えて、どこかの町に紛れ込めばいい。
私を探し出すのは、簡単ではないだろう。
以前なら、そうしたかもしれない。
「……帰りたいのよ」
「どこへ?」
「王宮よ」
私は即答した。
「せっかく帰る場所ができたのに、逃げたくないわ」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「王宮に帰れるとは、限りませんぞ」
「分かっているわ」
それでも、帰りたかった。
王宮で何が待っているのか、確かめたかった。
王宮へ着いたのは、二日後の午後だった。
本物のエルシアの帰還を知らせる使者が、先に到着していたらしい。
門には近衛騎士たちが並んでいた。
馬車が止まると、ガルドが降りて、本物のエルシアのもとへ向かった。
混乱を避けるため、本物のエルシアが降りるまでは馬車で待つよう、ガルドから言われていた。
私はその指示に従い、少し遅れて外へ出た。
王宮の建物が見える。
いつも通っていた廊下。
執務室の窓。
私の部屋がある辺り。
どれも、変わっていなかった。
けれど、以前と同じように入っていくことはできなかった。
「殿下、こちらへ」
騎士に案内されたのは、普段使っていた部屋とは別の場所だった。
客人を泊めるための、小さな一室だという。
扉の前には護衛が立つことになっていた。
「食事はここへ運んでもらえるのかしら」
尋ねると、騎士は少し困った顔をした。
「……そのように承っております」
「そう。ありがとう」
少し安心した。
部屋の中には寝台と机があり、窓もついていた。
王女の部屋ほど立派ではない。
それでも、十分に暮らせそうだった。
私は寝台へ腰を下ろした。
いつもの部屋へ帰ったわけではない。
けれど、王宮には戻ってきた。
今は、それでよしとするしかないだろう。
本物のエルシアは、帰還後すぐに国王と再会したらしい。
医師による診察も受け、しばらく静養することになったという。
私は、その場には呼ばれなかった。
当然だと思う。
親子が久しぶりに再会するところへ、同じ顔をした偽物が現れても困るだろう。
その間、私は部屋で過ごした。
食事は出た。
お茶も出た。
ただし、リネットが運んできてくれるわけではなかった。
彼女は、本物のエルシアの世話に戻っている。
そのことを聞いて、私は少し寂しくなった。
でも、本来はそれが彼女の仕事だったのだ。
私は、出されたお茶を飲んだ。
香りは悪くなかった。
ただ、リネットが淹れてくれたものとは、少し違った。
三日後、私は国王の前へ呼び出された。
案内されたのは、大勢の貴族が集まる謁見の間ではなく、小さな会議室だった。
中には国王がいた。
オズワルドもいる。
ガルドは扉の近くに立っていた。
そして、本物のエルシアとリネットも同席していた。
エルシアは椅子に座っている。
まだ顔色はよくないものの、採石場にいたときよりは元気そうだった。
私は部屋に入った。
「……陛下」
頭を下げる。
いつもなら、お父様と呼んでいた。
けれど、もうそう呼ぶべきではないだろう。
国王は、しばらく私を見つめていた。
その視線は、とても厳しかった。
「顔を上げよ」
私は顔を上げた。
国王は、私と本物のエルシアを見比べた。
「……よく似ている」
小さな声だった。
「いや、似ているというものではないな」
私は黙っていた。
「お前が、娘の姿を奪っていた者か」
「はい」
「ドッペルゲンガーだと聞いた」
「その通りです」
国王は深く息を吐いた。
「なぜ、王宮へ入り込んだ」
私は答えた。
「王国を滅ぼすためです」
部屋の空気が、少し重くなった。
「魔族に命じられ、エルシア殿下の姿を真似て王宮へ入りました。本物の殿下は、別の場所に監禁されていました」
国王の顔が険しくなった。
「最初から、娘を殺すつもりだったのか」
「はい。本物の殿下の記憶を奪い、完全に成り代わる計画でした」
「……そうか」
国王は、椅子の肘掛けを強く握った。
私は、その手を見た。
怒っているのだろう。
当然だと思う。
自分の娘を殺そうとしていた者が、娘の顔で目の前に立っているのだから。
「だが、お前は娘を救い出した」
国王が言った。
「はい」
「魔族の指揮官から、身を挺して守ったとも聞いている」
「……そうですね」
私は頷いた。
「なぜだ」
その質問には、少し困った。
ガルドとリネットが悲しむから。
そう答えるのが正しいのだろう。
けれど、それだけでもない気がした。
「……殺したくなかったからです」
私は答えた。
「最初は、王女としての生活を失うのが嫌でした。だから、本物の殿下を探そうとは思いませんでした」
エルシアが私を見た。
「でも、王宮で暮らしているうちに、いろいろな人と知り合いました。その人たちを失うのも、嫌になりました」
私は言葉を選んだ。
「本物の殿下が死ねば、ガルドもリネットも悲しみます。だから、死なせたくなかったのです」
国王は何も言わなかった。
私は続けた。
「それに、殿下が生きているなら、帰ってきてもらった方がいいと思いました」
「お前が、王女でいられなくなるとしてもか」
「……はい」
それは、少し残念だったけれど。
私は、そう思っていた。
「陛下」
オズワルドが口を開いた。
「確認させていただきたいことがございます」
国王が頷く。
オズワルドは、机の上の書類を示した。
「この者が王女殿下として行ってきた仕事については、すでに調査しております」
私は、見覚えのある書類を見た。
食糧の流通。
官吏の不正。
国境砦への補給。
どれも、私が関わった仕事だった。
「王国の財政と流通に一定の改善が見られたこと、また国境で魔族の侵攻を退けるうえで、この者の提案が役立ったことは事実です」
国王が頷いた。
「ガルド卿からも、そのように聞いている」
ガルドが一歩前へ出た。
「はい。陛下」
彼は深く頭を下げた。
「この者は、本物のエルシア殿下ではございません」
私はガルドを見た。
「しかし、国境の兵たちを救い、王国を守るために働いたのも、この者でございます」
ガルドは、静かに続けた。
「私は、その両方を見てまいりました」
国王は黙っていた。
オズワルドが次の書類を取り上げた。
「ただし、問題はそれだけではございません」
私は、その書類を見た。
ベルク伯爵の名前があった。
胸の奥で、何かが沈んだ気がした。
「ベルク伯爵の死についてです」
オズワルドが言った。
「伯爵の不正については、多くの証拠が見つかりました。しかし、死亡した状況には、いまだ不明な点がございます」
私は黙った。
「伯爵家では、護衛長と執事も死亡しております。残された書面と死の状況について、調査は続いておりますが……」
オズワルドが私を見た。
「あなたは、何かご存じではありませんか」
私は少し考えた。
ここで知らないと答えれば、それ以上追及されないかもしれない。
伯爵の記憶から得た情報は、まだ私の中に残っている。
護衛長の記憶も。
執事の記憶も。
誰も、私が何をしたのか見ていない。
知らないと言うのは、簡単だった。
けれど。
私は、エルシアを見た。
彼女は、自分の椅子に座っている。
ようやく取り戻した、自分の場所に。
私は、もうあの人の名前を使って隠れるつもりはなかった。
「……私が殺しました」
オズワルドの動きが止まった。
国王も、私を見た。
「何だと?」
私は答えた。
「護衛長と、執事と、ベルク伯爵です。三人とも、私が殺しました」
沈黙が落ちた。
リネットが口元を押さえた。
ガルドは目を見開いている。
オズワルドは、ゆっくりと書類を置いた。
「……理由を、お聞かせください」
私は頷いた。
「記憶が必要だったからです」
「記憶?」
「私は、生きている人間の脳を喰らえば、その人の記憶を得ることができます」
オズワルドの表情が変わった。
「そのために、三人を……?」
「はい」
私は、三人の顔を思い出した。
彼らの記憶は、今も私の中に残っている。
けれど、その記憶があるからといって、三人が生き返るわけではなかった。
「伯爵家の不正を知りたかったのです。それから、私自身の正体を守るためにも必要だと思いました」
国王が、低い声で尋ねた。
「では、伯爵家に残された書面も、お前が仕組んだことか」
「はい。死の状況も、書面も、私が偽装しました」
オズワルドが目を閉じた。
私は、その顔を見ていた。
以前、伯爵の不正について報告したとき、オズワルドは随分と感心してくれた。
あのとき、私は必要な情報を手に入れたから、仕事がうまくいったのだと思っていた。
けれど、その情報を手に入れるために、人を殺したことは話していなかった。
「……なぜ、そこまでしたのです」
オズワルドが尋ねた。
「ほかに方法がなかったと?」
「分かりません」
私は首を横に振った。
「ほかの方法を、探さなかったのだと思います」
自分の生活を守るために必要だと思った。
だから、殺した。
それだけだった。
「三人は、すでに死んでいます。私が今ここで何を言っても、生き返りません」
私は、少し考えた。
「でも、殺したのは私です」
それだけは、間違いなかった。
「……お前は」
国王が口を開いた。
「娘を救い、王国を守った。だが、その裏で三人を殺していたというのか」
「はい」
「その者たちに罪があったとしても、お前が勝手に命を奪ってよい理由にはならぬ」
「……はい」
私は頷いた。
国王は、しばらく私を睨んでいた。
「ガルド」
低い声だった。
「この話は、知っていたのか」
「……いいえ、陛下」
ガルドが答えた。
「伯爵家での死については疑念を抱いておりました。しかし、そこまでのこととは……」
彼は私を見た。
その顔は、国境で見たものとも、採石場で見たものとも違っていた。
「あなたは……」
言いかけて、ガルドは口を閉じた。
私は何も言わなかった。
彼には、何度も助けてもらった。
そのガルドに、私はまだ話していないことがあったのだ。
ガルドは、ゆっくりと視線を落とした。
「……陛下。私が見た功績については、先ほど申し上げた通りです」
彼は言った。
「ですが、今の話まで擁護することはできませぬ」
私は頷いた。
それでいいと思った。
「お父様」
エルシアが口を開いた。
国王が娘を見た。
「無理をして話すことはない」
「いいえ。私も、聞いておきたいのです」
エルシアは私を見た。
「あなたは、私の顔で人を殺したのね」
「……ええ」
「私の名前を使って、何か月も暮らしていた」
「そうよ」
エルシアは、少しだけ唇を噛んだ。
「あなたに助けられたことは、覚えているわ」
私は顔を上げた。
「でも、それで全部を許せるわけではないの」
「……分かっているわ」
エルシアは頷いた。
「だったら、まず私の人生を返しなさい」
私は黙っていた。
「私の名前も、部屋も、立場も。全部、私のものよ」
「ええ」
私は頷いた。
「返すわ」
エルシアは、しばらく私を見つめた。
「それから、あなたがしてきたことも、あなた自身のものとして引き受けて」
私は少し驚いた。
「……私自身の?」
「そうよ」
エルシアは言った。
「あなたが王国を守ったことも、人を殺したことも、私がしたことではないわ」
それは、当然の話だった。
私は、何も言えなかった。
「私の名前を使ってしたことだからといって、私の人生にしないでちょうだい」
その言葉は、少し厳しかった。
けれど、正しいと思った。
私は、エルシアの名前を使って暮らしてきた。
その間にした仕事も、失敗も、殺した人間のことも。
すべて、私がしたことだ。
エルシアのものではない。
「……分かったわ」
私は答えた。
「もう、あなたの名前は使わない」
エルシアは、ようやく小さく頷いた。
「リネット」
国王が呼んだ。
「お前は、この者の世話をしていたと聞いている」
「……はい、陛下」
リネットが立ち上がった。
「今の話について、何か申し述べることはあるか」
リネットは、少し考えた。
「私には、伯爵家で何が起きたのか分かりません」
彼女は正直に答えた。
「ですから、そのことについて、この方を庇うことはできません」
私は頷いた。
それは、そうだと思う。
「ただ……」
リネットは言葉を続けた。
「私がこの数か月お仕えしていた方が、どのような方だったのかは、少しだけ知っております」
国王は黙って聞いていた。
「お食事を楽しみにされる方でした。お茶の味にも、焼き菓子にも、よく気づかれました」
私は、少し恥ずかしくなった。
そればかりではないと思うのだけれど。
「仕事を持ち込まれると、放っておけない方でもありました。ご自分が困るからとおっしゃいながら、結局、最後まで手を尽くしてしまわれるのです」
リネットが私を見た。
「本物のエルシア殿下ではなかったのでしょう。それでも、私が一緒に過ごした時間は、確かにありました」
私は黙っていた。
「採石場で、この方が死んだと思ったとき……私は、とても怖かったのです」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「だからといって、これまでのことをすべて許せるわけではありません。ですが、この方が生きていてくださったことに、私は安堵しております」
リネットは頭を下げた。
「私から申し上げられるのは、それだけです」
国王は、しばらく何も言わなかった。
やがて、国王が立ち上がった。
「……話は分かった」
私は背筋を伸ばした。
「お前のしたことは、容易に許されるものではない。王族への成り代わり、魔族の侵略への加担、そして三人の殺害。どれも重大な問題だ」
「はい」
私は頷いた。
「一方で、お前が王国を守るために働き、娘を救ったことも事実だ」
国王はオズワルドを見た。
「伯爵家の件を調べ直せ。残された書面も、死亡の経緯も、すべてだ」
「承知いたしました」
オズワルドが頭を下げた。
「採石場で捕らえた魔族と管理人の証言も調べよ。侵略資料についても、残らず確認する」
「はい」
「功績は功績として、罪は罪として扱う。どちらかを理由に、もう一方をなかったことにはせぬ」
国王は私を見た。
「お前の処遇は、調査が終わるまで決められぬ」
私は頷いた。
「それまで、王宮内の指定された部屋で過ごせ。許可なく外へ出ることは認めない」
「分かりました」
国王は、少し意外そうな顔をした。
「異存はないのか」
「……食事は、出ますか?」
オズワルドが、額を押さえた。
ガルドも何か言いたそうだった。
国王は、しばらく私を見ていた。
「……出す」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
それなら、ひとまず暮らしていける。
もっとも、その先のことは何も決まっていないけれど。
「一つ、聞いておきたい」
国王が言った。
「お前は姿を変えられるのであろう」
「はい」
「ならば、ここから逃げることもできるのではないか」
私は少し考えた。
「……できると思います」
部屋の扉や窓くらいなら、どうにかなるかもしれない。
騎士の顔や声だって真似られる。制服まで用意しなければならないのは、少し面倒だけれど。
ただ、王宮の外へ出たあと、どこで暮らすのかは分からない。
「では、なぜ逃げぬ」
「……王宮へ帰ってきたかったからです」
私は答えた。
「ここで暮らせるかどうか、まだ分かりません。でも、逃げてしまえば、もう戻ってこられないと思います」
国王は黙った。
「それに、自分がしたことについては、答えなければいけないのでしょう?」
そう言うと、オズワルドが顔を上げた。
私は少し首を傾げた。
「……違いますか」
「いいえ」
オズワルドが答えた。
「その通りです」
国王は、深く息を吐いた。
「……今日は、ここまでとする」
会議が終わった。
部屋を出ると、ガルドがついてきた。
以前と同じように、少し後ろを歩いている。
私は廊下の途中で立ち止まった。
「……ガルド」
「何でしょう」
「怒っている?」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「……怒っております」
正直な答えだった。
「そう」
「三人の命を奪ったことも、それを隠していたことも。簡単に受け入れられる話ではございませぬ」
私は頷いた。
「分かっているわ」
ガルドは私を見た。
「ですが、あなたが本物のエルシア殿下を守ってくださったことも、忘れてはおりませぬ」
私は顔を上げた。
「……そうなのね」
「はい」
ガルドは続けた。
「だからこそ、これからどうするのか、きちんと見届けるつもりです」
私は少し考えた。
「それは、護衛の仕事?」
「……さあ」
ガルドは、わずかに笑った。
「それは私にも、まだ分かりませぬな」
部屋へ戻る途中、後ろから声をかけられた。
「待って」
振り返ると、本物のエルシアがいた。
リネットが隣で支えている。
「殿下。まだお休みになられた方が……」
リネットが心配そうに言った。
「少し話すだけよ」
エルシアはそう答え、私を見た。
「あなた、本当に私の名前を返すつもりなのね」
「ええ」
「王女でもなくなるのよ」
「そうね」
私は頷いた。
少し寂しい。
けれど、もう決めたことだった。
エルシアは、しばらく私を見つめていた。
「……だったら、一つ聞いてもいい?」
私は首を傾げた。
「何?」
「あなたの名前は?」
私は答えようとした。
けれど、言葉が出なかった。
エルシアではない。
それは、もう分かっている。
けれど、それ以外の名前を持っていなかった。
「……ないの」
私は答えた。
「名前が?」
「ええ。今まで、必要なかったから」
エルシアは少し驚いたようだった。
「それなら、これからどうするの?」
「……分からないわ」
正直な答えだった。
エルシアは、少し考えた。
「そう。でも、私の名前は貸さないわよ」
「分かっているわ」
「だったら、自分で考えなさい」
私は彼女を見た。
「……自分で?」
「そうよ。あなたの名前でしょう?」
エルシアは、当たり前のことのように言った。
私は黙った。
名前。
今まで、誰かに与えられた役割で生きてきた。
王女になるように命じられたから、王女の姿を取った。
エルシアと呼ばれたから、エルシアとして暮らした。
その名前を返したら、何も残らないと思っていた。
けれど。
リネットは、私を見ていた。
ガルドも、少し離れた場所で待っている。
私は、まだここにいる。
王女ではなくなっても。
エルシアではなくなっても。
これまで過ごしてきた時間まで、消えてしまったわけではない。
「……そうね」
私は答えた。
「考えてみるわ」
エルシアは頷いた。
「そうしなさい」
それから、リネットに支えられて廊下を戻っていった。
私は、その背中を見送った。
自分の名前を、自分で決める。
そんなことは、今まで一度も考えたことがなかった。
少し難しそうだ。
けれど、誰かの名前を借り続けるよりは、きっといいのだろう。




