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偽りの王女は、王国を滅ぼしたくない  作者: 安威要


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23/23

第23話 私の名前

 自分の名前を決めるのは、思っていたより難しかった。


 王宮へ戻ってから、私はずっと同じ部屋で暮らしていた。


 食事は出る。

 お茶も出る。

 寝台も、それほど悪くない。


 ただ、部屋の外には騎士が立っている。


 許可なく外へ出ることはできなかった。


 もっとも、外へ出たところで、特にすることもなかったのだけれど。


 オズワルドは何度か訪ねてきた。


 ベルク伯爵のこと。

 護衛長と執事のこと。

 私がどのように三人を殺し、何を偽装したのか。


 聞かれたことには、できる限り答えた。

 死んだ三人の記憶は、今も私の中にある。


 だから、彼らがどこで何をしていたかについては、かなり詳しく説明できた。


 オズワルドは、そのたびに難しい顔をした。


「……便利な能力ですね」


 ある日、彼はそう言った。


「ええ」


 私は頷いた。


「……もう、記憶を手に入れるために人を殺してはいけないのね」

「当然です。誰の記憶であっても、それを得るために命を奪うことは認められません」

「分かっているわ」


 オズワルドは、少し驚いたようだった。


「随分と素直ですね」

「便利だからといって、何でも使っていいわけではないのでしょう?」


 私は、そう答えた。

 以前なら、そんなことは考えなかった。


 記憶が必要なら、喰らえばよかった。

 邪魔な人間がいれば、いなくなってもらえばよかった。


 そうすれば、仕事が進む。

 けれど、仕事が進んだからといって、殺された人間が戻るわけではない。

 それは、もう分かっている。


 オズワルドは私をしばらく見ていた。


「……その言葉を、忘れないでください」

「ええ」


 私は頷いた。

 忘れるつもりはなかった。


 調査には、二か月ほどかかった。

 伯爵家の裏帳簿が改めて調べられ、取引先からも証言が集められた。

 伯爵の不正は、私が作った自白書だけでなく、残された記録によって裏づけられたという。


 ただし、私が偽装した書面は、正式な証拠から取り除かれた。

 伯爵が不正を働いていたことと、私が伯爵を殺したことは、別の問題なのだそうだ。


 私は、それでよいと思った。

 むしろ、最初からそうするべきだったのかもしれない。


 オズワルドは、三人の遺族についても調べていた。


 誰にどのような補償を行うか。

 何を知らせ、どこまで事実を確認するか。


 私には、まだ会うことを許されていなかった。

 会ったところで、何を言えばよいのか分からない。


 謝れば、許してもらえるのだろうか。

 たぶん、そんなに簡単ではない。

 それでも、殺したのは私だった。

 その事実だけは、誰かに代わってもらうことができなかった。


 ある日の午後、オズワルドがいつもより厚い書類を持ってきた。


「陛下がお呼びです」


 私は顔を上げた。


「処分が決まったの?」

「はい」


 オズワルドは頷いた。


「ただし、その前に確認したいことがあります」

「何かしら」

「名前です」


 私は黙った。


「正式な記録には、あなたの名前が必要になります。いつまでも『偽エルシア』と書くわけにはいきません」


 それはそうだと思う。

 私がしたことを記録するのに、本物のエルシアの名前を使うわけにはいかない。


「決めてありますか」


 私は頷いた。


「……ええ」


 名前は、考えていた。

 何度も。

 紙に書いてみたり、声に出してみたり。


 長い名前も考えた。

 立派そうな名前も考えた。


 けれど、どうもしっくりこなかった。

 最後に残ったのは、短い名前だった。


「ミラ」


 私は答えた。


「……ミラ、ですか」

「ええ」


 オズワルドは手元の紙に書きつけた。


「何か、由来でも?」

「……特にないわ」


 私は少し考えた。


「呼びやすいでしょう?」

「それは、まあ」

「書くのも簡単そうだし」

「確かに」


 オズワルドは、何とも言えない顔をした。


「それだけで決めたのですか」

「いけない?」

「いいえ」


 彼は首を横に振った。


「あなた自身が選んだのであれば、それで構いません」


 私は頷いた。


 そう。


 私が選んだ。

 誰かに命令されたわけでも、誰かから奪ったわけでもない。

 それだけで、十分な気がした。


 国王との面会は、以前と同じ会議室で行われた。

 ガルドとオズワルドが同席していた。


 本物のエルシアはいなかった。

 まだ静養が必要なのだろう。


 私は国王の前に立った。


「……陛下」


 頭を下げる。


「顔を上げよ」


 私は顔を上げた。

 国王は、手元の書類に目を落とした。


「調査は、おおむね終わった」


 私は黙って聞いていた。


「お前が三人の命を奪い、その死亡状況と書面を偽装したことは、本人の供述と残された証拠によって確認された」


 私は頷いた。


「また、お前が魔族の命令で娘に成り代わり、王宮へ入り込んだことも事実だ」


「はい」


 国王は顔を上げた。


「本来であれば、極めて重い処罰を受けるべき行為だ」


 私は、その言葉を聞いた。

 処刑されるかもしれない。

 王宮へ帰ってきたときから、ずっと考えていたことだった。


 核を壊されれば、私も死ぬ。

 それは、少し怖い。


 せっかく、自分の名前を決めたばかりなのだから。


「しかし」


 国王が続けた。


「お前は、その後、魔族の侵攻を妨げ、王国の流通を立て直し、娘を救った」


 私は黙った。


「また、逃亡できる立場にありながら王宮へ戻り、自ら三人の殺害を認めた」


 国王は書類を置いた。


「それらを踏まえ、極刑は適用しないこととした」


 私は顔を上げた。


「……そうなのですか」

「喜ぶのは早い」


 国王は、厳しい声で言った。


「無罪とするわけではない。お前には、これから責任を果たしてもらう」


 私は頷いた。


「はい」


 オズワルドが、一枚の書類を広げた。


「陛下の裁可により、あなたには向こう十年間、王領での行政業務に従事していただきます」


「……行政業務?」


「主に、食糧流通と倉庫の管理、官吏の業務監査です」


「これは褒賞ではありません。あなたの能力を王国の監督下で使わせ、その働きによって責任の一部を果たしていただくための措置です」


「……そうなのね」


「働きがよければ罪が消える、という話でもありません」


「分かっているわ」


 私は少し考えた。

 聞き覚えのある仕事だった。


「……前にもやったわ」

「ですから、任せるのです」


 オズワルドは淡々と答えた。


「ただし、自由に行動できるわけではありません。居住地は指定され、王領の外へ出るには許可が必要です。重要な決裁には、監督官の署名を要します」


 私は頷いた。


「それから、給与の一部は、あなたが殺害した三人の遺族に対する補償に充てられます」


 私は、その言葉を聞いた。


「……どのくらい?」

「定められた額です。十年で払い終わるとは限りません」


 オズワルドが答えた。


「補償を受け取るかどうかは、先方の意思もあります。あなたに会いたくないという方がいれば、それも尊重していただきます」


「……分かったわ」


「十年間の従事が終わっても、それですべてが済んだことにはなりません。補償の状況や勤務実績を確認し、その後の扱いを改めて判断します」


 私は頷いた。

 随分と長い話だった。


 けれど、何もすることがなく、いつ処分されるか分からないまま部屋で暮らすよりは、よい気がした。


「一つ、よろしいですか」


 私は尋ねた。


「何だ」


 国王が答えた。


「その仕事をしている間、食事は出ますか?」


 オズワルドが目を閉じた。

 ガルドも、小さく息を吐いている。

 国王は、しばらく私を見ていた。


「……給与を出すと言ったであろう」

「ええ」

「その中から食事を用意すればよい」

「なるほど」


 私は頷いた。

 つまり、働かなければ食べられないらしい。

 王女だった頃とは、随分違う。

 けれど。


「……それなら、頑張らないといけないわね」


 私が言うと、オズワルドは額を押さえた。


「今さら気づかれたのですか」


 どうやら、そういうことらしかった。


「最後に、一つ」


 国王が言った。


「名を決めたと聞いた」


「はい」


「何という」


 私は答えた。


「ミラです」


 国王は、ゆっくりと頷いた。


「では、今後の記録には、その名を用いる」


 オズワルドが、書類に名前を書き込んだ。


 ミラ。


 短い、シンプルな名前だった。


 けれど、その紙には私がしたことが記されている。


 三人の殺害も。

 王女への成り代わりも。

 王国を守るために働いたことも。


 すべて、ミラという者がしたことになる。


 それは、少し不思議な気分だった。


「それから……」


 私は、もう一つ尋ねた。


「姿を変えても、よろしいでしょうか」


 国王が眉を上げた。


「娘の姿を、やめるということか」

「はい」


 私は頷いた。


「もう、エルシア殿下の顔を使う理由がありませんから」


 国王は、しばらく私を見つめていた。


「……そうだな」


 短く答えた。

 私は、目を閉じた。

 今まで、数え切れないほど多くの人間の姿を真似てきた。


 顔も。

 声も。

 歩き方も。


 けれど、今度は誰かを真似る必要がない。


 髪の色を変える。

 目の形を少し変える。

 頬の輪郭も、鼻の高さも。


 鏡を見ながら何度か考えていた、私が気に入った顔に整えていく。

 特別に美しいわけではない。


 王女らしくもない。


 ただ、私がこれでいいと思った顔だった。

 目を開けると、ガルドがこちらを見ていた。


「……随分と変わられましたな」


「変かしら」


「いいえ」


 ガルドは、少し考えた。


「見慣れるまで、時間がかかりそうです」


 私は頷いた。


「私も、そう思うわ」


 国王は新しい私の顔を、しばらく見ていた。

 それから、書類を閉じた。


「ミラ」


 初めて、その名前で呼ばれた。


「はい」


「お前には、与えられた仕事を果たしてもらう。逃げることも、罪をなかったことにすることも認めぬ」


「はい」


「そのうえで、お前がこれから何をする者になるかは、お前自身が決めよ」


 私は少し考えた。


「……分かりました」


 頭を下げた。

 今度は、誰かに命じられて他人になる必要はない。

 ミラとして、働くのだ。


 それからさらに一か月ほどして、私は王宮を出ることになった。

 行き先は、王都から馬車で一日ほどの王領だった。


 大きな町ではない。

 周辺にいくつかの村があり、農地と倉庫がある。

 食糧を王都へ送る際の中継地にもなっているらしい。


 私に任されたのは、その流通を管理する仕事だった。

 もっとも、領主になるわけではない。


 王領の土地は国王のもので、私はそこで働く管理官にすぎない。

 大きな支出も、人事も、監督官の確認が必要だった。


 オズワルドは、そのことを何度も説明した。


「決して、以前のように独断で動かないでください」


「……分かっているわ」


「本当に?」

「ええ」


 私は頷いた。


「書類を見せればいいのでしょう?」

「そうです。できれば、私が確認する前に妙なことをしないでいただきたいのですが」


 私は少し考えた。


「……なるべく」


「そこは、必ずと答えてください」


 オズワルドは、いつものようにため息をついた。

 私は、少し懐かしくなった。

 王女だった頃も、こんなふうに仕事を持ち込まれていた。


 ただし、今度は本当に私の仕事らしい。


 そう思うと、不思議と嫌ではなかった。


 出発の日、ガルドが見送りに来てくれた。

 彼は王宮での仕事を続けるのだという。


 本物のエルシアは、すでに馬に乗れるほど回復していた。

 最近は、ガルドが乗馬の相手をすることもあるらしい。

 その話を聞いたとき、私は少し安心した。


「では、お元気で」


 ガルドが言った。


「ええ」


 私は頷いた。


「また会えるかしら」

「仕事の都合がつけば、視察に参ることもありましょう」


「……監視?」

「それも、仕事のうちですな」


 ガルドは、わずかに笑った。

 私は少し考えた。


「お茶くらいは出すわ」

「それは楽しみです」


 彼は一歩下がった。


「……ミラ殿」


 私は顔を上げた。

 ガルドが私の名前を呼んだのは、これが初めてだった。


「何?」

「どうか、これからはご自分の名前を大切になさってください」


 私は頷いた。


「……ええ」


 それは、そうしようと思っていた。

 リネットも、見送りに来ていた。

 彼女は本物のエルシアに仕え続けることになっている。


 当然のことだった。


 私が王宮で暮らしていた間、彼女には随分と世話になった。

 けれど、それは本来、本物のエルシアに向けられるはずのものだったのだ。


「……元気でね」


 私は言った。

 リネットは、少し寂しそうに笑った。


「ミラ様も、お身体にお気をつけください」

「身体は、そんなに心配しなくても大丈夫よ」

「そういう問題ではありません」


 即答された。

 私は頷いた。

 どうやら、人間にはいろいろと心配することがあるらしい。


「休暇が取れましたら、伺ってもよろしいですか」


 リネットが尋ねた。

 私は少し驚いた。


「……私のところへ?」

「はい」


「でも、もう王女ではないわよ」

「存じております」


 リネットは、少し笑った。


「ミラ様に、お会いしたいのです」


 私は黙った。

 彼女は、もう私の侍女ではない。

 仕事として世話をする必要もない。

 それなのに、会いに来てくれるという。


「……そう」


 私は頷いた。


「それなら、胡桃の焼き菓子を持ってきてくれると嬉しいわ」


 リネットは、少し呆れたような顔をした。


「承知いたしました」


 それから、二人で笑った。


 本物のエルシアとは、出発の前日に会っていた。

 彼女は、私の新しい顔を見て少し驚いた。


「……本当に変えたのね」

「ええ」

「前の顔の方が、綺麗だったのに」


 私は少し考えた。


「でも、あれはあなたの顔でしょう?」

「そうね」


 エルシアは頷いた。


「今の方が、私には似合う気がするの」


 私がそう言うと、彼女は新しい顔をじっと見た。


「……そうかもしれないわね」


 それから、少し黙った。


「あなたのしたことを、私はまだ全部許していないわ」


「分かっているわ」


「私の人生を奪おうとしたことも、忘れるつもりはない」


「ええ」


 エルシアは、窓の外へ目を向けた。


「でも、採石場で私を守ってくれたことは、感謝しているの」


 私は少し驚いた。


「……そう」


「それだけは、ちゃんと伝えておこうと思って」


 エルシアは私を見た。


「ありがとう、ミラ」


 私は、すぐには答えられなかった。

 本物のエルシアに、私の名前で呼ばれた。

 それは、少し不思議な気分だった。


「……どういたしまして」


 私は答えた。

 エルシアは、少し笑った。


「また会うこともあるでしょうね」

「そうかしら」

「ええ。あなた、仕事が得意なのでしょう?」


 私は首を傾げた。


「……どうだろう」


「オズワルドが言っていたわ。王宮の仕事を随分と増やしたそうね」


「増やしたつもりはないのだけれど」


「そういうところよ」


 エルシアは、少し楽しそうに言った。

 私は、よく分からなかった。

 けれど、彼女が笑っているのを見るのは、悪くない気分だった。


 新しい仕事は、想像していたより忙しかった。

 倉庫の数を調べる。

 食糧の運び方を確認する。

 途中で荷が止まる場所を調べる。


 見覚えのある仕事ばかりだった。


 王国を滅ぼすために調べられた弱点が、まだあちこちに残っている。

 ただし、今回は魔族の侵略計画書だけを頼りにする必要はなかった。


 現地の官吏が帳簿を持ってくる。

 倉庫の管理人が困っていることを説明する。

 荷馬車の御者が、道の悪い場所を教えてくれる。


 私は、それらを聞いて、順番に確認していけばよかった。


 以前は、誰かの記憶を奪えばすぐに分かることだと思っていた。

 けれど、人間は尋ねれば教えてくれることもある。


 もちろん、嘘をつく人間もいる。


 それでも、帳簿と実際の倉庫を比べれば、分かることは多かった。

 その方が、少し時間はかかる。


 でも、誰も死なない。


 私は、その方法を気に入り始めていた。

 オズワルドからは、毎月のように書類が届いた。


 報告の様式。

 倉庫の在庫。

 補償金として納める額。

 新しい仕事の指示。


 随分と多い。


 しかも、私が提出した書類には、いつも何かしらの指摘がついて戻ってきた。

 ある日、監督官が、その束を見て言った。


「宰相閣下は、随分と細かい方なのですね」


「ええ」


 私は頷いた。


「昔からよ」


 そう答えてから、少し考えた。

 昔、と言っても、数か月前のことなのだけれど。

 私にとっては、もう随分と前のように感じられた。


 ガルドも、一度だけ訪ねてきた。

 王領の倉庫を視察するためだという。

 私は、前日に掃除をしておいた。


 リネットなら、きっとそうすると思ったからだ。


 ガルドは部屋に入るなり、机の上に積まれた書類を見た。


「……随分と働いておられますな」

「ええ」


 私は頷いた。


「働かないと、食事が出ないもの」


 ガルドは、しばらく黙っていた。


「……まだ、それを気にしておられるのですか」


「大事なことでしょう?」


「それは、そうですが」


 彼は小さく笑った。

 私はお茶を出した。

 リネットほど上手には淹れられなかったけれど、ガルドは何も言わずに飲んでくれた。


 帰り際、彼は一枚の報告書を確認した。

 そこには、私が殺した三人への補償に充てられる金額も記されていた。


 ガルドは、その部分を長く見ていた。


「……忘れてはおりませんな」


 彼が言った。


「ええ」


 私は頷いた。


「忘れたら、都合がよすぎるでしょう?」


 ガルドは、少し考えた。


「……そうですな」


 それ以上は、何も言わなかった。

 私も、何も言わなかった。

 三人の記憶は、今も私の中にある。


 そのことを、便利だと思う日もある。

 けれど、もうそれだけでは済まないことも、知っていた。


 リネットが訪ねてきたのは、その少しあとだった。

 休暇を取ったのだという。


 約束通り、胡桃の焼き菓子を持ってきてくれた。


「……本当に持ってきてくれたのね」


「お約束しましたから」


 リネットは笑った。

 私は、お茶を淹れた。

 すると、彼女は一口飲んで、少し首を傾げた。


「……茶葉が多すぎますね」


「そうなの?」

「はい。それから、お湯の温度も少し高いです」


 私は頷いた。

 なるほど。

 まだまだ覚えることがあるらしい。


「リネット、教えてくれる?」

「もちろんです」


 リネットは、少し嬉しそうだった。

 私は、彼女がお茶を淹れ直すところを眺めていた。

 何度も見た光景だ。


 王宮で、エルシアとして暮らしていた頃から。


 けれど、今は違う。


 リネットは私の侍女ではない。

 私は王女でもない。

 それでも、こうして一緒にお茶を飲んでいる。


 私は焼き菓子を一つ取った。

 胡桃の香りがした。

 その味を、私は知っている。


 誰かの脳を喰らって手に入れたものではない。

 自分で食べて、自分で覚えた味だった。


 その日の夕方、リネットが帰ったあと、私は屋敷の中を歩いた。

 屋敷と言っても、それほど立派なものではない。


 王領の管理官が使うための建物だ。

 小さな居間と、寝室と、仕事部屋。

 台所もある。


 庭には、手入れの行き届いていない木が一本立っていた。

 王宮の部屋に比べれば、随分と質素だった。

 けれど、私は気に入っていた。


 ここには、私の仕事の書類がある。

 私が選んだ食器がある。

 机の引き出しには、リネットが置いていってくれた焼き菓子が入っている。

 窓辺には、ガルドが視察のときに忘れていった手袋もあった。


 後で送り返さなければならない。


 私は、寝室へ入った。

 寝台は、それほど柔らかくない。


 王宮のものの方が、ずっと立派だった。

 最初にエルシアの部屋で眠った夜のことを思い出した。

 誰にも命令されず、朝まで眠っていてよいと気づいたこと。


 温かい食事が出ること。

 柔らかい寝台があること。

 誰かが名前を呼んでくれること。


 あの頃、私はそれを失いたくなかった。

 だから、王女であり続けようとした。

 けれど、もうエルシアではない。


 王女でもない。


 ミラだ。


 王国の管理官として働き、毎月書類を提出し、決められた額を補償に充てている。

 自由にどこへでも行けるわけではない。

 私がしたことは、これからも記録に残る。


 その責任がなくなるわけでもない。

 けれど。

 ここには、私の帰る場所がある。


 誰かに成り代わって手に入れた部屋ではない。

 仕事を与えられ、ここで暮らすことを認められた。

 私が、ミラとして住んでいる家だ。


 翌朝、王都から新しい書類が届いた。

 オズワルドからだった。

 倉庫の管理方法について、追加で確認したいことがあるらしい。


 私は封筒の中身を確かめた。

 随分と厚い。

「……また、こんなに」

 思わず呟いた。


 机の上には、まだ昨日の仕事が残っている。

 困ったことになった。

 けれど、少しだけ嬉しくもあった。

 どうやら、オズワルドは私に仕事を任せるつもりらしい。


 私は書類を机に置いた。


 窓の外では、朝の光が庭を照らしている。

 今日も、やることがたくさんある。


 まずは倉庫へ行って、昨日の報告を確認しなければならない。

 その前に、朝食も食べたい。


 私は仕事部屋を出て、台所へ向かった。

 途中で、廊下の壁に掛けた鏡が目に入った。

 そこには、一人の女が映っていた。


 私が選んだ顔だ。


 私は、少し立ち止まった。


「……おはよう、ミラ」


 試しに、声に出してみた。

 鏡の中の女も、同じように口を動かした。

 当然だ。

 私なのだから。


 私は少し笑った。


 それから、もう一度部屋を見渡した。


 大きな屋敷ではない。

 豪華な家具もない。

 王女の寝台も、立派な食卓もない。


 それでも、ここは私の家だった。


「……そう」


 私は頷いた。


「それなら、悪くないわね」

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