第20話 食べれば、本物になれる
「ようやく、完成させられるな」
魔族は、私を見てそう言った。
私は何も答えなかった。
何を完成させるのか、聞かなくても分かっていたからだ。
「殿下。お下がりください」
ガルドが私の前に立った。
剣を構え、魔族から目を離さない。
背後では、王宮騎士たちが本物のエルシアとリネットを守っていた。
魔族の後ろにいる二人も、剣の柄に手を置いている。
狭い廊下では、誰かが動けばすぐに斬り合いになりそうだった。
「貴様、何者だ!」
ガルドが再び尋ねた。
魔族は面倒そうに彼を見た。
「この国を落とすために、兵を動かしていた者だ。それで十分だろう」
「国境を攻めた魔族の指揮官か」
「そうだ。北の橋を使うはずだった兵が、随分と無駄な死に方をした」
魔族は私へ視線を戻した。
「王宮の駒が何をしているのかと思えば、敵に手を貸していたとはな」
私は黙った。
この魔族は、国境での失敗を知っている。
王国軍が古橋を警戒していたことも、補給路を守ったことも。
「王宮の連絡役が討たれたあと、報告が途絶えた。こちらから探らせても、何をしているのか分からなかった」
「……そう」
「そのうち、王女が王国の弱点を次々と塞いでいるという話が聞こえてきた」
魔族は小さく笑った。
「まさか、お前がやっていたとはな」
私は少し考えた。
王国を滅ぼすために調べた弱点を、私が塞いでいたのだから、魔族からすれば迷惑なことだろう。
それは分かる。
「それで、私を殺しに来たの?」
「そのつもりもあった」
魔族は答えた。
「だが、今は事情が変わった。この施設の管理を確認し、王女の身柄を移すために来てみれば、お前までいる」
その目が、本物のエルシアへ向けられた。
「しかも、まだ生きている。実に都合がよい」
エルシアが身体を強張らせた。
リネットが、その肩を支えている。
「何を言っているの?」
エルシアが尋ねた。
魔族は、彼女の問いには答えなかった。
「お前の仕事は、まだ終わっていない」
私に向かって言った。
「王女の記憶を手に入れろ。そうすれば、王宮での任務を続けられる」
「……今から?」
「何をためらう必要がある。目の前にいるではないか」
魔族は、当然のことのように言った。
「生きているうちに脳を喰らえ。それで完成だ」
誰も、すぐには声を出さなかった。
ガルドが、ゆっくりと振り返った。
「……何を、喰らうと?」
私は答えられなかった。
魔族が代わりに答えた。
「知らなかったのか。この者はドッペルゲンガーだ。人間の姿を模倣し、生きた脳を喰らうことで記憶を得る」
「……生きた、脳?」
リネットの声が聞こえた。
「死んだ者からは記憶を得られん。だから、王女は殺さずに保管していたのだ」
魔族は、少し不思議そうに私を見た。
「その程度のことも、説明していなかったのか」
私は首を横に振らなかった。
説明していなかった。
ガルドにも。
リネットにも。
もちろん、本物のエルシアにも。
人間の脳を喰らえば、記憶を得られる。
私にとっては、特別なことではない。
そういう生き物なのだから。
けれど、人間には違うらしい。
「……私を殺すつもりだったの?」
エルシアが言った。
私は彼女を見た。
「ええ」
嘘をついても仕方がなかった。
「最初から?」
「……そういう計画だったわ」
エルシアは黙った。
その顔には、先ほどまでとは違う怒りが浮かんでいた。
「私を閉じ込めていたのも、そのためなのね」
「ええ」
「そして、私を殺して、私になるつもりだった」
私は頷いた。
「……そうよ」
リネットが、エルシアを自分の方へ引き寄せた。
ガルドは剣を構えたまま、私と魔族を交互に見ていた。
その表情からは、何を考えているのか分からなかった。
「何をしている」
魔族が言った。
「早く済ませろ」
「……ここで?」
「ここでなくても構わん。だが、王女が生きているうちに終わらせろ」
私はエルシアを見た。
彼女は、リネットに支えられている。
長い間閉じ込められ、まともに歩くことも難しい。
抵抗する力は、ほとんど残っていないだろう。
私なら、簡単に殺せる。
人間の身体は、私ほど自由には変えられない。
骨も、皮膚も、内臓も、壊れれば元には戻らない。
それは、もう知っている。
私は、三人の人間を喰らっているのだから。
護衛長も。
執事も。
ベルク伯爵も。
みな、最初は生きていた。
私が脳を喰らったあと、動かなくなった。
それで、記憶が手に入った。
彼らが何を考え、何を知り、誰と会っていたのか。
私の中には、今も残っている。
本物のエルシアも、同じようにできる。
できない理由はなかった。
「……王女の記憶があれば、私は王宮に戻れるのね」
私は尋ねた。
魔族は頷いた。
「当然だ。お前を送り込んだのは、そのためなのだから」
「でも、私が偽物だという話は、もう王宮に伝わっているわ」
「記憶さえ手に入れば、本物として振る舞える。疑いを晴らす方法はいくらでもある」
魔族は、ガルドたちを見た。
「邪魔な者は、こちらで始末してやろう」
私は黙った。
ガルドが、剣を握り直した。
「誰一人、渡しはせぬ」
「老人が一人、何を守れるというのだ」
魔族の後ろにいた二人が、武器を構えた。
王宮騎士たちも剣を抜いている。
私は、その様子を見た。
もし私が命令に従えば、魔族は彼らを殺すつもりなのだろう。
そうしなければ、私が偽物だと知っている人間が残ってしまう。
王宮へ戻れたとしても、ガルドもリネットもいない。
それでは、少し困る。
「お前は、王宮での生活が気に入っているそうだな」
魔族が言った。
私は顔を上げた。
「……ええ」
「食事も、寝床も、身分も与えられている。何が不満だ?」
「別に、不満はないわ」
「ならば、仕事を終えろ」
簡単な話だった。
この魔族の言う通りにすれば、私は完全なエルシアになれる。
幼い頃の思い出も手に入る。
父親である国王のことも分かる。
王族として教えられてきた知識も、すべて私のものになる。
ガルドに昔のことを尋ねられても、困らなくなる。
馬に初めて乗った日のことも。
彼に口止めした理由も。
国王に叱られたときの気持ちも。
私は、答えられるようになる。
リネットが昔の話をしても、分からないことはなくなるだろう。
そうなれば、誰にも疑われない王女になれるかもしれない。
私は、ずっとそうなりたかったはずだ。
王宮で安心して暮らしたかった。
誰にも追い出されず、温かい食事と柔らかい寝台のある生活を続けたかった。
そのために必要なら、人を殺すこともしてきた。
今さら、一人増えたところで何が違うのだろう。
「……」
私はエルシアを見た。
彼女は、私を睨んでいた。
怖がっているのだと思う。
けれど、目を逸らそうとはしなかった。
「ねえ」
エルシアが口を開いた。
「あなた、本気で考えているの?」
私は答えなかった。
「私を殺して、私になることを」
その声は震えていた。
怒っているのか、怖がっているのか。
たぶん、両方なのだろう。
「……できるのよ」
私は答えた。
「できるから、考えているの?」
「……ええ」
エルシアは、少しだけ目を伏せた。
「そう」
それから、私を見た。
「私には、帰りたい場所があるの」
私は頷いた。
「知っているわ」
「いいえ。あなたは知らない」
エルシアは首を横に振った。
「お父様に会いたい。ガルドにも、リネットにも。王宮に戻って、何が起きたのか自分の目で確かめたい」
彼女は、少し息を整えた。
「あなたは私の顔を持っているのでしょう。でも、それは私が帰らなくていい理由にはならないわ」
私は何も言えなかった。
それは、そうだと思った。
私がどれほど上手にエルシアを演じても、彼女自身がいなくなってよい理由にはならない。
けれど、私にも帰りたい場所がある。
同じ王宮だ。
そこが、困ったところだった。
「話は終わったか」
魔族が言った。
「人間の言葉など、いちいち聞く必要はない」
「……そうなの?」
「お前の仕事は、対象の記憶を取得することだ。対象が何を望んでいるかなど、関係ない」
私は少し考えた。
確かに、以前ならそうだった。
相手が何を考えているのかは、喰らってから知ればよかった。
生きている間に尋ねる必要もない。
私はベルク伯爵のことを思い出した。
伯爵の記憶を手に入れたとき、たくさんのことが分かった。
不正の方法。
取引相手。
隠していた金のこと。
家族と過ごした時間も、少しはあった。
けれど、それを知っても、私は伯爵にはならなかった。
彼の記憶は私の中にある。
ただ、それだけだった。
「……どうした」
魔族が尋ねた。
「何を考えている」
私は答えなかった。
王宮へ帰ることを考えていた。
私が初めてあの部屋で眠った夜。
誰にも命令されず、朝まで眠っていてよいと気づいたこと。
リネットが焼き菓子を持ってきてくれたこと。
胡桃の香りを覚えたこと。
オズワルドが、困った顔で大量の書類を持ってきたこと。
ガルドが、何度も私に注意したこと。
あれは、本物のエルシアの記憶ではない。
私が、王宮で過ごした時間だ。
エルシアの脳を喰らっても、あの日のお茶がもう一度出てくるわけではない。
リネットが笑ってくれるわけでもない。
ガルドが、私を信じてくれるわけでもない。
むしろ、今ここでエルシアを殺せば、二人は私を許さないだろう。
それは、当然のことだと思う。
私は、ガルドを見た。
彼は、私の前に立っている。
本物のエルシアが見つかったあとも、私を守ろうとしている。
リネットも、エルシアの肩を支えながら、こちらを見ていた。
あの二人が知っている私は、本物のエルシアではない。
それでも、私が王宮で過ごした時間まで、なかったことにはならないはずだ。
「まだ迷うのか」
魔族の声が低くなった。
「命令だ。王女を喰らえ」
私は、その言葉を聞いた。
命令。
久しぶりに聞いた気がした。
王宮にいた魔族の責任者が死んでから、私は誰の命令も受けていない。
最初は、何をすればいいのか分からなかった。
王宮から逃げることも考えた。
別の誰かに化けて、どこかで暮らすこともできたはずだ。
けれど、そうしなかった。
王宮に住み続けたかったからだ。
だから、食糧の問題を調べた。
伯爵の不正を暴いた。
国境の砦を守ろうとした。
そのどれも、命令されたことではない。
私が考えて、私が決めたことだった。
「……ねえ」
私は魔族を見た。
「王女の記憶を手に入れれば、私は本物になれるのよね」
「そうだ」
「でも、私が王宮で過ごした時間は、もう私の記憶になっているわ」
「それがどうした」
「あなたが言う完成には、それは必要ないのね」
魔族は眉を寄せた。
「何の話をしている」
「……少し、考えていたの」
私はエルシアを見た。
彼女も、私を見ていた。
同じ顔だった。
けれど、私の知らないことを、たくさん知っている人だ。
そして、私が知っていることを、彼女は知らない。
王宮でリネットと飲んだお茶の味も。
国境の宿場で出会った女の子のことも。
ガルドが剣を抜かずにいてくれた日のことも。
あれは、私の記憶なのだ。
誰かを喰らって手に入れたものではない。
私は、そのことを今まで、あまり考えていなかった。
「答えろ」
魔族が言った。
「王女を喰らうのか」
私は、もう一度エルシアを見た。
彼女は生きている。
今ここで脳を喰らえば、私は彼女の記憶を手に入れられる。
それは、確かなことだった。
あの三人を殺したのも、私自身の意思だった。
必要だと思ったからだ。
彼らを殺した事実は、もう変えられない。
だからといって、目の前のエルシアまで殺さなければならない理由にはならなかった。
「……いらないわ」
私は答えた。
魔族が動きを止めた。
「何?」
「エルシアの記憶は、いらない」
私は、もう一度言った。
「私には、もう私の記憶があるもの」
魔族は、しばらく私を見ていた。
「……何を言っている」
「あなたの命令には、従わないということよ」
「王宮に戻れなくなるぞ」
「そうかもしれないわ」
私は頷いた。
それは、とても困る。
今だって、困っている。
けれど、エルシアを喰らったところで、すべてが元通りになるわけではない。
私が帰りたいと思っている王宮は、誰かを殺して手に入れられるものではなかった。
「私は、王宮に帰りたいの」
私は言った。
「ならば、命令に従え」
「でも、そこにいる人たちまで失うのは嫌なのよ」
魔族は黙った。
私は続けた。
「だから、エルシアは喰らわないわ」
それだけだった。
何か立派な理由を考えたわけではない。
ただ、そうしたくなかった。
そして、今はその気持ちを、誰かに命じられたからという理由で変えるつもりはなかった。
魔族の表情から、笑みが消えた。
「……そうか」
低い声だった。
「お前は、自分が何のために作られたのかを忘れたらしいな」
「覚えているわ」
「ならば、なぜ命令に従わん」
「従いたくないからよ」
魔族は、しばらく私を見つめていた。
それから、小さく息を吐いた。
「失敗作か」
私は黙った。
以前なら、その言葉を聞いて困ったかもしれない。
役に立たないと判断されれば、処分される。
新しい命令も、仕事も与えられない。
けれど、今は少し違った。
魔族の命令がなくても、自分で考えて動けることは分かっている。
これからどこで暮らすのかは、まだ決まっていないけれど。
「お前を残しておく理由はなくなった」
魔族が言った。
「王国側に寝返り、侵攻を妨げ、最後の命令まで拒むとはな」
その後ろにいた二人が、一歩前へ出た。
武器を構えている。
「処分する」
ガルドが剣を握り直した。
「それは、こちらの台詞だ」
魔族は彼を見た。
「老人。お前も、その失敗作を守るつもりか」
「守るべき者を、目の前で殺させるわけにはいかぬ」
ガルドは私を振り返らなかった。
「殿下。お下がりください」
私は少し驚いた。
殿下。
それは、誰に向けた言葉なのだろう。
けれど、ガルドは私の前に立っていた。
「……分かったわ」
私は一歩下がった。
背後では、リネットが本物のエルシアを支えている。
二人とも、こちらを見ていた。
私は、まだ王宮へ帰れるかどうか分からない。
それでも、今は帰りたいと思っていた。
誰かの人生を奪ってではなく。
私自身として。
魔族が武器を抜いた。
ガルドも、それに応じて剣を構える。
私は二人を見た。
もう、魔族の命令を待つつもりはなかった。




