第14話 王国を守る理由
「国境へ行きたいの」
私がそう言うと、オズワルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「……殿下。今、何とおっしゃいました?」
「国境へ行きたい、と言ったの」
「聞き間違いではございませんでしたか」
聞き間違いだったことにしたいらしい。
私は机に広げられた地図を指した。
「現地の様子を見ておきたいの。補給路も、避難する人たちのことも」
「そのために守備隊から報告を取り寄せております」
「でも、報告だけでは分からないこともあるでしょう?」
「ございます。だからといって、第二王女殿下が直接赴かれる必要はありません」
オズワルドはきっぱりと言った。
確かに、その通りかもしれない。
けれど、王宮へ届く報告書には、どうしても時間がかかる。
国境の守備については、魔族の侵略計画書を使って、いくつかの弱点を見つけることができた。
古橋の警戒も始まった。
補給用の物資も、少しずつ移されている。
しかし、実際にどこまで準備が進んでいるのかは、現地の人間に聞かなければ分からない。
「私も、戦うつもりはないわ」
「当然です」
「軍の指揮をするつもりもないの」
「それも当然です」
「それなら、何が問題なの?」
オズワルドはため息をつきつつ、額に手を当てた。
どうやら、いろいろと問題があるらしい。
「殿下のお身に何かあれば、王家にとって重大な事態となります」
「何もなければいいのでしょう?」
「その何もないことを保証できないのです」
なるほど。
言われてみれば、確かにそうだ。
私は少し考えた。
「それなら、ガルドと王宮の騎士に同行してもらうのはどう?」
「……ベルンハルト卿に?」
「ええ。あの人なら、危険な場所へは行かせないでしょう?」
オズワルドはしばらく黙っていた。
「少なくとも、私よりは上手に殿下を止められるでしょうな」
どうやら、それは認めるらしい。
結局、国境方面への視察が認められた。
ただし、私が行きたいと言っただけで決まったわけではない。
オズワルドは王宮内で必要な許可を取り、軍務を担当する官吏とも相談した。
守備隊への連絡も済ませ、訪問先を決めた。
主な目的は、後方の宿場で補給と避難の状況を確認することだ。
砦への訪問については、現地の指揮官が安全と判断した場合に限られる。
もちろん、軍の指揮は現地の指揮官が執る。
私は報告を受け、必要な支援について王宮へ伝える。
それなら、第二王女が赴く意味もあるという判断らしい。
ただし、オズワルドからは随分と念を押された。
「殿下。くれぐれも、ご自身の判断で予定を変更なさらぬよう」
「分かったわ」
「危険な場所へ近づくことも、お控えください」
「ええ」
「それから、現地で何かお気づきになりましたら、必ず同行の者へお伝えください」
「そうするわ」
私は頷いた。
オズワルドは、まだ何か言いたそうだった。
けれど、最後には諦めたように息を吐いた。
「……ベルンハルト卿にお願いしておきます」
どうやら、私よりガルドの方が信用されているらしい。
出発の朝、ガルドは今回の王女の外出のために選抜された、2名の王宮騎士と共に馬車の前で待っていた。
「殿下。念のため申し上げておきます」
私は頷いた。
「国境では、私の指示に従っていただきます」
「分かったわ」
「危険と判断した場合は、直ちにお戻りいただきます」
「ええ」
「たとえ殿下が何をおっしゃろうとも、です」
「……分かったわ」
ガルドは私の顔を見た。
「随分と素直でいらっしゃいますな」
「そう?」
「以前でしたら、もう少し言い返されたものですが」
「危険な場所なのでしょう?」
「ええ」
「だったら、詳しい人の言うことを聞いた方がいいわ」
ガルドは答えなかった。
どうやら、また何か間違えたらしい。
そのとき、リネットが荷物を抱えてやって来た。
「殿下。お忘れ物でございます」
「何かしら」
「膝掛けと、替えの手袋です。国境は王都より冷えると伺いましたので」
彼女は馬車の座席に荷物を置いた。
「それから、お茶の道具も入れております」
「ありがとう」
「道中、きちんとお休みになってくださいね」
「ええ」
リネットは少し迷ってから、私を見た。
「……どうか、ご無事でお戻りください」
私は頷いた。
「戻ってくるわ」
そう答えると、リネットはようやく微笑んだ。
私は馬車に乗り込んだ。
王宮の門を抜けるとき、少しだけ振り返った。
いつもの部屋。
いつもの食事。
リネットが淹れてくれるお茶。
ここへ戻るためにも、国境を守らなければならない。
今のところ、それが私の目的だった。
国境へ近づくにつれて、街道を行き交う荷車が増えていった。
最初は、砦へ物資を運ぶ車ばかりだった。
麦袋。
干し肉の樽。
武具を積んだ木箱。
荷台には、それぞれ送り先を記した札が取りつけられている。
オズワルドが進めていた補給の準備は、確かに動いているらしい。
しかし、国境に近い宿場へ着いた頃には、反対方向へ向かう荷車も目立つようになった。
家財道具を積んだ車だった。
毛布。
鍋。
衣服の入った木箱。
その隙間に、子供や老人が座っている。
「避難する人々ですな」
馬車の外を見ていたガルドが言った。
「砦の周辺にある村から、住民を移しているのでしょう」
「どこへ行くの?」
「比較的安全な後方の町です。受け入れ先は手配されているはずですが……」
ガルドは言葉を切った。
前方で荷車が止まっていた。
一台ではない。
何台もの車が、街道の途中で動けなくなっている。
砦へ向かう荷車と、王都の方へ避難する荷車が、狭い道で向かい合っていた。
どちらも荷物を積んでいる。
簡単には引き返せないらしい。
「通れないわね」
「そのようですな」
私は馬車から降りた。
ガルドがすぐに後ろへついてきた。
「殿下。あまり離れられませぬよう」
「分かっているわ」
街道では、荷車の御者たちが言い争っていた。
「こっちは砦への荷物だ! 急いでいるんだぞ!」
「こちらだって村を出てきたばかりなんだ! 戻れと言われても困る!」
「どちらかが道を空けろ!」
「空けられるなら、とっくにやってる!」
なるほど。
確かに困ったことになっている。
砦へ食糧を届けるための道が、避難する人々によって塞がれている。
しかし、その人々を追い返せば、危険な村へ戻すことになる。
私は周囲を見た。
少し先に、宿場へ入るための広い場所がある。
そこなら、荷車を何台か止められそうだった。
「誰がこの道を管理しているの?」
近くにいた兵士へ尋ねた。
「はっ。宿場の役人と、補給隊の担当官でございます」
「その人たちは?」
「前方で通行の整理をしております」
私は頷いた。
「呼んでもらえる?」
「承知いたしました」
兵士が走っていった。
ガルドは私を見ていた。
「何をなさるおつもりです?」
「道を通れるようにしたいの」
「それは皆、考えているでしょうな」
「そうね。だから、どう通すかを決めた方がいいと思うの」
しばらくして、役人と補給隊の担当官がやって来た。
話を聞くと、避難する住民の車も、砦へ物資を運ぶ車も、同じ街道を使っているという。
どちらも急いでいる。
その結果、狭い場所で互いに進めなくなっていた。
「この先に、広い場所があるのね?」
「はい。宿場の入口にございます」
「だったら、そこを待つ場所に使えない?」
私は街道の先を指した。
「まず広場に近い荷車から順番に下がってもらって、道を空けるの。それから、通る順番を決めればいいでしょう?」
「順番、でございますか?」
「ええ。砦へ向かう荷車を何台か通したら、次は避難する荷車を通すの」
担当官は道の先を見た。
「なるほど。両側で通行を止め、まとまった台数を通すわけですな」
「そう。途中で向かい合わなければ、進めると思うけれど」
役人が頷いた。
「それなら、宿場側にも兵を置きましょう。街道へ入る前に、次の車を待たせることができます」
「避難する人たちも、長く待たせないでね」
「承知いたしました」
二人は、その場で相談を始めた。
道の両端に兵士を置き、広場を一時的な待機場所として使うことになった。
先に進む車の列が通り終わるまで、反対側の車は待つ。
それだけのことだった。
私はしばらく様子を見ていた。
少し時間はかかったが、やがて一台目の荷車が動き始めた。
続いて、二台、三台。
御者たちの言い争う声も小さくなった。
以前も、似たようなことがあった。
王都へ麦を運ぶために、荷車の順番を調べたときだ。
道が狭いのなら、順番を決めればよい。
もっとも、道を通るのが麦袋だけなら、もう少し簡単だっただろう。
宿場の広場には、避難してきた人々が集まっていた。
荷車から降りて休んでいる者もいる。
地面に座り込み、子供へ水を飲ませている女性もいた。
私は、その近くを歩いた。
避難する人間を見るのは、初めてではない。
魔族の侵略計画書にも、国境付近の村についての情報があった。
村がいくつあるか。
食糧がどれだけあるか。
働ける人間が何人いるか。
そこには、村を占領した場合に利用できる物資の量まで記されていた。
今、目の前にいる人々も、資料の中ではそういう数字だったのだろう。
「殿下。こちらで休憩を取られますか」
ガルドが尋ねた。
「ええ。でも、その前に少し話を聞きたいわ」
私は補給隊の担当官を呼んでもらった。
「避難する人たちは、どこへ向かうの?」
「街道沿いの宿場と、後方の町で受け入れる予定です」
「人数は分かっている?」
「村ごとの人数は報告されております。ただ、実際に到着した人数との照合は、これからでございます」
私は少し考えた。
「だったら、ここで数えた方がいいわ」
「ここで、ですか?」
「ええ。どの村から何人来たのか、どこへ向かうのか。分からないまま送り出したら、食糧も寝る場所も足りなくなるでしょう?」
以前、オズワルドに言われたことだ。
麦袋を届けるにも、数量を記録する必要がある。
人間なら、なおさらだろう。
「承知いたしました。宿場の役人と協力して、記録をつけます」
「お願いね」
それから、もう一つ気になることがあった。
「砦へ向かう荷車は、帰りも空なの?」
「空になる車もございます。ただ、御者や車によって、次の仕事が決まっておりますので」
「全部でなくていいの。戻る車のうち、使えるものがあれば、避難する人を乗せられない?」
担当官は少し考えた。
「可能な車もあるかと。ただし、荷台の清掃や御者の手配は必要になります」
「使えるものだけでいいわ。荷物を運ぶついでに、人も運べるなら助かるでしょう?」
「……確かに。補給隊と相談いたします」
私は頷いた。
どうやら、ここでも調べることが増えたらしい。
けれど、今回はそれほど嫌ではなかった。
「お姉ちゃん」
声をかけられた。
振り向くと、小さな女の子が立っていた。
両手で古びた布袋を抱えている。
「何かしら」
「お城から来た人?」
私は自分の服を見た。
王宮で着るものより地味だが、旅のために仕立てられた衣服だ。
普通の村人とは違って見えるのだろう。
「ええ、そうよ。どうしたの、お嬢さん」
「じゃあ、兵隊さんにお願いできる?」
「何を?」
「お父さんも、こっちへ来るようにって」
私は少し困った。
子供の話はいまいち要領を得ないから困るのだ。
「お父さんは、どこにいるの?」
「砦。兵隊さんなの」
女の子は国境の方を指した。
「お母さんと先に行けって言われたの。でも、お父さんはまだお仕事があるんだって」
なるほど、と、私は頷いた。
兵士なら、砦を守るために残っているのだろう。
「みんなで逃げたら、砦を守る人がいなくなるわ」
「……そうなの?」
「ええ」
「じゃあ、お父さんは帰ってこないの?」
女の子は布袋を握り直した。
私は答えに困った。
魔族の侵略計画書なら、砦が落ちた場合の被害を予測している。
兵士がどれだけ死ぬか。
どれだけの物資を奪えるか。
そういうことは書かれている。
しかし、目の前の女の子の父親がどうなるかまでは、分からない。
「……帰ってこられるように、準備しているところよ」
私は答えた。
「本当?」
「ええ」
女の子はしばらく私を見ていた。
「じゃあ、早く帰ってくるようにしてね」
そう言って、頭を下げた。
私は頷いた。
「分かったわ」
女の子は母親らしい女性に呼ばれ、荷車の方へ戻っていった。
私はその後ろ姿を見送った。
簡単にお願いされてしまった。
けれど、できないとは言いたくなかった。
「殿下」
ガルドが言葉を選びながら、静かに声をかけた。
「安易なお約束は、なさらぬ方がよろしいかと」
「……そうね」
私は頷いた。
あの子の父親が無事に戻ってくるかどうか、私には分からない。
砦を守る兵士の中に、その人がいることさえ知らないのだ。
それでも、帰ってきてほしいと思った。
なぜだろう。
あの子が父親を失ったとしても、王宮の私の部屋がなくなるわけではない。
リネットが淹れるお茶も、胡桃の焼き菓子も変わらないはずだ。
それなのに、あの子がずっと父親を待つことになるのは嫌だった。
私は、伯爵の記憶を思い出した。
幼い娘が庭で笑った日。
息子が初めて馬に乗った日。
妻と食卓を囲んだ夜。
それらを、私はすべて知っている。
けれど、自分で経験したわけではない。
あの子の声を聞いたのは、私だ。
布袋を握りしめる手を見たのも、私だ。
だから、忘れないのだろうか。
「……あの子と、約束なさったのですかな」
ガルドが尋ねた。
「お願いを聞いただけよ」
「それでも、あの子には同じことでしょうな」
私はガルドを見た。
彼は、それ以上何も言わなかった。
広場では、避難する人々の名前を記録する仕事が始まっていた。
砦へ向かう荷車も、順番に街道へ入っていく。
私は、その様子を眺めた。
あの子の父親が帰ってこられるようにする。
そのために、何ができるのだろう。
魔族の侵略計画書には、王国の兵士を殺す方法が書かれている。
ならば、その逆を考えればいい。
少なくとも、何も知らないよりは役に立つはずだ。
私は国境の方へ目を向けた。
砦では、今も大勢の兵士が働いている。
その中には、帰りを待つ家族がいる者もいるのだろう。
私は、そのことを今まで考えたことがなかった。




