第13話 滅ぼすなら、ここから
「確認された魔族は、どのくらいいるの?」
私は地図を見ながら尋ねた。
「正確な数は分かっておりません。砦の東側にある丘で、複数の集団が目撃されています」
オズワルドは報告書を一枚めくった。
「今のところ、国境を越えたという報告はありません。ただ、これまでにない規模で集まっているようです」
「砦を攻めるつもりなのかしら」
「守備隊も、その可能性を警戒しております」
私は地図へ目を戻した。
国境を通る街道。
その両側に広がる山地。
街道を守るために築かれた砦。
見覚えのある地形だった。
魔族の侵略計画書にも、同じ場所が記されている。
「砦の守りは?」
「正面からの攻撃には十分に備えております。城壁の補修も済んでおりますし、守備隊には増援の準備を命じました」
「食糧は?」
「砦の備蓄に加え、後方の倉庫から補給する手はずです」
オズワルドは地図の上に指を滑らせた。
「この街道を使います」
「……そう」
私はその場所を見た。
砦の背後を通る一本の道。
近くには倉庫を示す印がある。
確かに、便利な場所だ。
街道を通れば、王都からの物資をそのまま砦まで運べる。
大きな荷車も使えるのだろう。
だからこそ、魔族はそこを狙っていた。
「ほかに道はないの?」
「山を迂回する道はございますが、荷車を通すには不向きです」
「この辺りは?」
私は地図の北側を指した。
山間に細い線が引かれている。
「古い谷道ですな。今はほとんど使われておりません」
「橋があるのね」
「ええ。ただし、馬車は通れないと聞いております」
私は頷いた。
やはり、そうらしい。
魔族の資料には、その橋についての記述があった。
王国軍は、荷車を通せない道を補給路として使わない。
だから、守る必要もないと考えている。
それが、魔族の見つけた弱点だった。
「人は通れるの?」
「……人、ですか?」
「ええ」
「どうでしょう。近年は正式な通行路として管理されておりませんので」
オズワルドは私の指先を見た。
「何かお気づきですか?」
「少し、気になったの」
私は地図から手を離した。
魔族が考えていた攻撃方法を、そのまま話すわけにはいかない。
しかし、黙っているわけにもいかなかった。
部屋へ戻った私は、魔族の侵略資料を取り出した。
表紙には、王国の国境防衛に関する調査結果が記されている。
以前も読んだことがある。
けれど、当時はあまり興味がなかった。
私の仕事は、王宮でエルシアのふりをすることだった。
国境で何が起きるかなど、知る必要はなかったのだ。
今は違う。
国境が破られれば、王都にも魔族が来る。
そうなれば王宮も無事では済まないだろう。
リネットが淹れてくれるお茶も、胡桃の焼き菓子も、なくなってしまうかもしれない。
それは避けたい。
私は資料を開いた。
国境砦についての記述は、すぐに見つかった。
正面の城壁は厚く、守備兵も十分にいる。
街道から攻めるには、大きな損害が予想される。
そのため、正面突破は推奨しない。
ここまでは、オズワルドの説明と同じだった。
問題は、その次だ。
私は指で文章を追った。
砦の北側にある古い橋。
幅が狭く、荷車は通れない。
しかし、小人数の兵なら渡れる可能性がある。
谷間は砦の見張り台から見えにくい。
さらに、谷を抜ければ砦の背後に出られる。
そこを通って、補給のための街道を押さえる。
正面では別の部隊が砦の守備兵を引きつける。
その間に、背後の輸送を止めてしまうのだ。
私は資料を閉じた。
なるほど。
確かに、よく考えられている。
砦の城壁を壊さなくても、食糧がなくなれば守備兵は戦えない。
補給が届かなければ、増援を送ることも難しくなる。
以前、王都への食糧輸送を調べたときと同じだった。
道を塞げば、物は届かない。
ただし、魔族の資料にも問題はある。
調査されたのは、私が王女になる前のことだ。
今でも橋を渡れるかは分からない。
王国側が、すでに警備を強化している可能性もある。
それに、今回現れた魔族が、この計画通りに動くとは限らない。
王宮側の責任者が死んでから、命令系統も変わっているはずだ。
それでも、確かめる価値はある。
私は紙を一枚取り出した。
まず、古い橋の状態を確認すること。
谷間から砦の背後へ抜けられるかを調べること。
砦の補給が、一つの街道に頼っていないか確かめること。
それから、見張りの配置。
魔族の資料には、砦から見えない場所まで記されていた。
敵に知られている死角なら、埋めればよい。
私は項目を書き終え、しばらく眺めた。
王国を滅ぼすために集められた情報だ。
それを使えば、王国を守れるかもしれない。
魔族も、随分と親切な資料を残してくれたものだ。
翌朝、私はオズワルドを訪ねた。
机には昨日と同じ地図が広げられていた。
その周囲には、新しい報告書が積まれている。
「殿下。何かございましたか?」
「国境のことで、確認してほしいことがあるの」
私は持参した紙を渡した。
オズワルドは目を通した。
「古橋の通行状況。谷間の見張り。補給倉庫の配置……」
「ええ」
「随分と具体的ですな」
私は頷いた。
「砦の正面だけを守っていても、後ろの道を塞がれたら困るでしょう?」
「それは、その通りですが」
オズワルドは地図を見た。
「守備隊も補給路の防衛を考えております。ただ、北側の古橋までは重点的に警戒しておりませんでした」
「どうして?」
「馬車が通れないからです。大部隊が通るには適さないと考えられております」
「小さな部隊なら?」
オズワルドの手が止まった。
「……なるほど」
私は地図の北側を指した。
「もし、少人数で補給路を塞がれたら?」
「物資の輸送に支障が出ます」
「その間、正面から攻撃されたら?」
「砦の兵を外へ出しにくくなりますな」
オズワルドは顎に手を当てた。
「ですが、そこを魔族が通るとお考えになる理由は?」
「通れるかもしれないからよ」
「それだけですか?」
「それだけでは、足りない?」
オズワルドは答えなかった。
しばらく地図を眺めてから、紙を机へ置いた。
「確認すること自体に、大きな問題はありません。現地へ命じて、古橋と谷道の状況を調べさせましょう」
「お願い」
「ただし、軍の配置を変更するには守備隊の指揮官との協議が必要です。現地の状態も分からないまま、兵を動かすわけにはまいりません」
「そうね」
それは理解できる。
私も、古い資料に書いてあるという理由だけで、大勢の人間を危険な場所へ送るつもりはなかった。
「それから、補給のことなのだけれど」
「はい」
「倉庫が一つ使えなくなっても、砦へ食糧を届けられるようにできない?」
「予備の備蓄を置く、ということでしょうか」
「ええ。それと、荷車を動かす順番も考えておいた方がよさそうね」
オズワルドは再び紙を見た。
「殿下は、いつの間に軍の補給についてお詳しくなられたのです?」
「麦のことで、いろいろ勉強したもの」
「……そうでしたな」
納得したのだろうか。
そうは見えなかった。
「この件は軍務を担当する者にも伝えます。補給については、我々の方でも準備を進めましょう」
私は頷いた。
「それなら安心ね」
「まだ安心するには早うございます」
オズワルドは真面目な顔で言った。
「実際に魔族が侵攻してくるかも分かりません。殿下のご懸念が取り越し苦労に終われば、それが一番よいのですが」
「そうね」
それについては、私も同じ意見だった。
何も起きなければ、それが一番よい。
ただ、魔族は王国を滅ぼすために、随分と長い時間をかけて準備していた。
簡単に諦めてくれるとは思えない。
それから数日、国境からの報告が続いた。
最初の知らせは、古い橋についてだった。
橋は完全には崩れていなかった。
石組みの一部が傷み、荷車を通すには危険だという。
しかし、徒歩の兵が渡れる場所は残っていた。
谷道にも、人が通ったような跡が見つかったらしい。
ただ、それが魔族のものか、付近の住民が使ったものかは分からない。
「殿下のおっしゃった通りでしたな」
報告書を持ってきたオズワルドが言った。
「何が?」
「古橋です。確かに、少人数であれば通行できる状態でした」
「そう」
私は頷いた。
魔族の資料は、まだ役に立つらしい。
「現地の指揮官も、北側への警戒を強める必要があると判断しました。谷を見下ろせる場所に見張りを置き、古橋の周辺を巡回させます」
「砦からは見えないのでしょう?」
「ええ。そこで、谷の上にある見張り場を使うことになりました。異常があれば砦へ知らせます」
私は地図を見た。
谷の上には、確かに小さな印がある。
昔は見張り場として使われていたらしい。
今は常駐する兵がいない。
魔族の資料でも、そこは警戒されていない場所として扱われていた。
「補給は?」
「砦内の備蓄を増やす準備を進めております。また、後方の倉庫に集中していた物資の一部は、別の保管場所へ移すことにしました」
「間に合いそう?」
「すべてを一度に動かすことはできませんが、順次進めております」
オズワルドは報告書を閉じた。
「ただし、軍からは不満も出ております」
「どうして?」
「予定していた補給の手順を変更することになりますので。荷車も人手も、急には増やせません」
「そうなのね」
「それに、まだ魔族が攻めてくると決まったわけではありません」
私は少し考えた。
確かに、何も起きなければ余計な仕事になる。
けれど、攻められてから準備するのでは遅い。
「だったら、必要な分から動かせばいいわ」
「必要な分、ですか?」
「砦の中に置く食糧を先に増やして、ほかは運べる範囲で。すべてを変えなくても、少しは違うでしょう?」
「……なるほど」
オズワルドは少し考えたあと、頷いた。
「現地の輸送計画を確認してみましょう。増援の分まで含めて、優先順位をつける必要がありますな」
また仕事が増えてしまったらしい。
私は申し訳ないと思った。
ただ、今回は黙っておくことにした。
謝れば、では取り下げますかと聞かれるかもしれない。
それでは困る。
その日の夕方、オズワルドにもう一度呼ばれた。
執務室には、軍務を担当する官吏もいた。
机に広げられた地図には、いくつもの印が書き込まれている。
「殿下。国境の件で、少々確認したいことがございます」
オズワルドは私を椅子へ案内した。
「古橋については、殿下のご指摘によって警戒を強めることになりました」
「それはよかったわ」
「ですが、ほかにも見張りの配置や補給の分散について、随分と的確なご提案をいただいております」
私は頷いた。
「役に立ったのなら、よかった」
「ええ。大いに役立っております」
オズワルドはそこで言葉を切った。
軍務官が地図を見ながら、報告書へ何かを書き込んでいる。
その手が止まるのを待ってから、オズワルドは静かに尋ねた。
「殿下。なぜそこまで敵の考えが分かるのです?」
私は少し困った。
この人は、いつも肝心なところを聞いてくる。
魔族の侵略計画書を持っているからです。
そう答えれば簡単だ。
しかし、次には、その資料をどこで手に入れたのかと尋ねられるだろう。
王宮に潜伏していた魔族から受け取ったものだと説明すれば、今度はその魔族との関係を聞かれる。
そうなれば、最後には私が何者なのかという話になる。
それは、ぜひ避けたい。
「……敵が、困らせようとする場所を考えただけよ」
「そうですか」
「砦を正面から攻めるのは難しいのでしょう? だったら、別のところを狙うかもしれないわ」
「その別のところが、なぜ古橋だとお分かりになったのです?」
「地図に描いてあったから」
「地図には、ほかにも道がございます」
確かに。
私は返事に困った。
オズワルドは、しばらく私を見ていた。
「殿下」
彼は静かに言った。
「以前、ベルク伯爵が魔族へ売っていた情報について、お話ししましたな」
「ええ」
「あの取引には、国境の守備や備蓄に関する情報も含まれておりました」
「そうね」
「それらを知った敵が、どこを攻めるか。殿下は、まるでご存じであるかのように指摘なさる」
私は黙った。
「偶然にしては、重なることが多すぎます」
オズワルドはそこで一度、言葉を切った。
「何か、私どもにお話しいただけない事情がおありなのでしょうか」
私は考えた。
この人には、随分と助けられている。
私が王女として仕事を始めてから、帳簿の読み方も、書類の扱いも、いろいろと教えてくれた。
伯爵の不正についても、私が渡した手がかりを一つずつ確かめてくれた。
だからこそ、話せないことがある。
「……今は、説明できないわ」
私は答えた。
オズワルドは目を伏せた。
「そうですか」
「でも、橋を調べた方がいいと思ったのは本当よ」
「ええ。それについては、すでに結果が出ております」
彼は地図を見た。
「殿下のご提案は、軍の防備を見直すきっかけになりました。その点は感謝しております」
「……ありがとう」
「ただ、情報の出所が分からなければ、判断を誤る危険もございます」
私は頷いた。
それは、正しいと思う。
魔族の資料が古いことも、今回の敵が同じ計画を使うか分からないことも、私自身が理解している。
「だから、確かめてほしいの」
「何を、ですかな」
「私の言ったことが本当かどうか。橋も、道も、補給のことも」
私は地図を見た。
「間違っていたら、直せばいいでしょう?」
「……なるほど」
オズワルドは、ほんの少し口元を緩めた。
「殿下のおっしゃることにも、一理ございます」
どうやら、怒られずに済んだらしい。
けれど、彼はもう一度私の顔を見た。
その目は、いつもより真剣だった。
「では、今後も必要なことはお伝えください。確認できるものは、こちらで確認いたします」
「お願いするわ」
私は答えた。
とりあえず、今はそれでよいのだろう。
ただ、オズワルドが私への疑問を捨てたわけではない。
それだけは、分かった。
王宮へ戻ると、リネットが夕食の準備をしていた。
「お帰りなさいませ、殿下」
「ただいま」
「今日もお忙しかったのですね」
「ええ。少し」
私は椅子に腰を下ろした。
机には、朝のうちに片づけたはずの書類が、また増えている。
どうやら、オズワルドが届けさせたらしい。
国境の補給に関する報告書だった。
「またお仕事ですか?」
リネットが皿を並べながら尋ねた。
「そうみたい」
「最近は、本当にお休みになりませんね」
「休みたいのだけれど」
私が答えると、リネットは小さく笑った。
「以前の殿下でしたら、そのようなお仕事は宰相閣下にお任せになっていたでしょうに」
「そうね」
否定できない。
本物のエルシアなら、きっと今ごろ乗馬を楽しんでいただろう。
少なくとも、古い橋の通行状況を調べるために、何枚もの報告書を読むことはなかったはずだ。
「殿下」
「何?」
「国境の方で、何かあるのでしょうか」
私はリネットを見た。
「どうして?」
「厨房の者たちが話しておりました。国境へ運ぶ食糧が増えるかもしれないと」
「ええ。少し、備えを増やすことになったの」
「そうですか……」
リネットは皿を置いた。
「大きな戦にならなければよいのですが」
その声は、いつもより小さかった。
私は少し考えた。
魔族の資料には、砦が落ちたあとのことも書かれていた。
国境付近の村を押さえ、街道を使って王都へ進む。
その途中にある食糧や家畜は、すべて軍のために利用する。
人間の生活については、ほとんど記されていなかった。
ただ、進軍を妨げるものとして扱われていた。
「……そうね」
私は答えた。
「戦にならない方がいいわ」
「はい」
リネットは少し安心したように微笑んだ。
私は夕食の皿を見た。
温かいスープ。
焼いた肉。
小さなパン。
これを用意するためにも、誰かが材料を運び、料理をしている。
国境で道が塞がれれば、そうしたものも届かなくなるのだろう。
私はパンを一つ取った。
魔族の侵略計画書には、王国を滅ぼすための方法が書かれている。
けれど、そこに暮らす人間が何を食べ、誰と話し、どんな顔で笑うのかまでは、書かれていなかった。
リネットは、明日も胡桃の焼き菓子を用意してくれるだろうか。
私はそんなことを考えながら、パンを口に運んだ。
その頃、国境の向こうでは、魔族の斥候が一通の報告を持ち帰っていた。
古橋の付近に、新たな見張りが置かれている。
砦への補給も、予定とは違う動きを始めていた。
報告を受けた魔族の指揮官は、地図に目を落とした。
王国軍が、侵攻計画の要所を先回りして守り始めている。
偶然にしては、出来すぎていた。
「……王宮の駒は、何をしている?」
指揮官は、地図の上に置かれた駒を一つ動かした。




