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偽りの王女は、王国を滅ぼしたくない  作者: 安威要


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第11話 伯爵の遺書

 伯爵自身に罪を認めてもらう。

 とっさに考えたにしては、なかなかよい考えだと思った。


 私は目の前で倒れ込んだ男を見た。

 問題は、その伯爵がすでに死んでいることだった。


 今から起こして書類を書かせることは、当然できない。

 けれど、私なら伯爵になれる。


 私は姿を変えた。

 背丈を伸ばし、髪を整える。

 頬の肉づきも、指の形も、記憶にある通りに変えていく。


 ベルク伯爵の姿になった。

 執事の服を着た伯爵という、少し妙な格好だった。


 もっとも、誰かに見せるわけではない。

 今はこれで十分だろう。


 私は伯爵の椅子へ腰を下ろした。


 いつも使っている机。

 右手に並べた書類。

 少しだけすり減った肘掛け。


 すべて、伯爵の記憶にある。


 この椅子で、何度も仕事をしてきたことを知っている。


 けれど、私が座るのは初めてだった。

 妙な感覚だ。

 私は机の上から筆を取った。

 伯爵が書類へ署名したときの記憶を探す。


 文字の傾き。

 筆圧。

 名前を書くとき、最後の線を少し長く引く癖。


 それらを思い浮かべながら、自分の手を動かした。


 紙に、ベルク伯爵の名前が現れた。

 もう一度書いてみる。


 ほとんど違いはない。

 私は満足した。


 魔族に仕込まれた訓練が、こんなところで役に立つとは思わなかった。


 あの頃は、王女の筆跡ばかり練習させられていた。

 何枚書いても、少し違うと言われたものだ。


 今なら、その理由も分かる。

 魔族は最初から、私に本物のエルシアを喰らわせるつもりだった。


 そのときには記憶も手に入り、筆跡を真似ることはもっと簡単になる。

 私は机に新しい紙を広げた。


 さて、何を書こう。



 まず、救済金について。

 国庫から支出された金は、いくつもの名義を経由して伯爵の手元へ流れていた。


 書類上は、倉庫の修繕費。

 荷車の雇い入れ料。

 道路の補修費。


 その中には、実際には行われなかった仕事がいくつもある。

 私は記憶にある日付と金額を書き出した。


 続いて、救済用の麦。

 地方へ運ぶはずだった麦を、途中の倉庫へ移す。

 商会を通じて売り払い、代金を分ける。


 伯爵家の印を使って、運搬先を変更させたことも記した。

 御者が嘘をついていたわけではなかった。


 あの男は、本当に伯爵家の印を見せられたのだ。

 それでも、伯爵は盗まれたと答えていた。


 私は少し考えた。

 本人がそう言ったからといって、本当とは限らない。

 当たり前のことだ。


 けれど、人間の国では、本人が何を言ったかを随分と大切にする。


 だから、証言を集める。

 書類を残す。

 署名を求める。


 その決まりに従えば、私の知っていることも役に立つはずだった。

 私はさらに筆を進めた。


 関与した官吏の名前。

 金を受け取った商会。

 取引に使用した倉庫。


 魔族の買収予定者名簿に載っていた名前も、いくつかあった。

 しかし、私は名簿にある名前をすべて書いたわけではない。


 伯爵が実際に金を渡したと記憶している相手だけだ。

 名簿に載っているという理由だけでは、罪を犯したことにはならない。


 それは、オズワルドから何度も聞かされた。

 今なら、少し理解できる。


 私は書き終えた紙を読み返した。


 金の移動。

 麦の数量。

 関係者の名前。


 かなりの量になっていた。


 これを読むオズワルドは、また疲れた顔をするかもしれない。

 ただ、調べる場所が分かっていれば、今までよりは楽になるだろう。


 少なくとも、何も知らないまま帳簿を探す必要はない。


 私は次の紙を取り出した。

 伯爵の隠し財産についても、書いておこう。


 金貨や宝石を預けた場所。

 別名義で購入した土地。

 商会に保管させている取引の控え。


 どれも、伯爵自身の記憶にあるものだ。


 オズワルドが実際に調べれば、本当かどうか分かるはずだった。


 私は最後に、王国の情報を売った取引についても記した。


 街道の位置。

 備蓄倉庫。

 国境の守備隊。


 それらを、商人を名乗る男へ渡したこと。


 ただし、その男の正体については書かなかった。

 伯爵自身も、相手が何者なのか詳しく知らなかったからだ。

 私には心当たりがある。


 けれど、今は余計なことを増やさない方がよさそうだった。



 書類を書き終え、私は一息ついた。


 机の上には、何枚もの紙が並んでいる。


 なかなか立派な自白書になった。

 これなら、伯爵が自分の罪を認めたように見えるだろう。

 もっとも、まだ肝心なことを書いていない。


 なぜ、伯爵が突然すべてを告白する気になったのか。

 それについても、説明が必要なはずだった。


 私は考えた。


 人間が罪を告白する理由には、何があるだろう。


 後悔。

 恐怖。

 諦め。


 そういったものだろうか。

 ベルク伯爵は、最後まで自分の罪を認めなかった。

 だから、どれが適切なのか分からない。

 ただ、この男には守りたいものがあったらしい。


 私は、伯爵の記憶をもう一度たどった。



 幼い娘が庭で転んだ日。

 伯爵は慌てて駆け寄り、その膝についた土を払っていた。

 初めて馬に乗った息子が、嬉しそうに手を振っている。


 妻と食事をした夜。

 何でもないことで口論し、翌朝まで口をきかなかったこと。


 そんな記憶が、次々と浮かんできた。

 この男は家族を大切にしていたらしい。

 随分と不思議だった。


 他人が食べるはずだった麦を売り、国のお金を隠していた人間が、自分の家族には優しくできる。


 私は、リネットの顔を思い浮かべた。

 以前、彼女が話していた村には、救済用の麦が届かなかったという。

 家畜を売って食いつないだ人々もいた。


 伯爵の家族は、そうしたことを知っていたのだろうか。

 記憶を探してみた。


 少なくとも、伯爵が妻子へ不正の詳しい内容を話した様子はなかった。

 私が知る限り、彼らは関わっていない。

 それなら、一緒に罰を受ける必要はないだろう。

 私は新しい紙を取り出した。


 そして、伯爵の筆跡で書き始めた。



 このたびの不正は、すべて私の判断と命令によるものである。

 国の救済金と麦を私物とした罪を認め、その責任を負い、一命をもってお詫び申し上げる。


 ただし、妻子はこれらの不正に関与していない。

 私の犯した罪によって、何も知らぬ家族にまで咎が及ぶことのないよう、伏してお願い申し上げる。



 私は最後に、ベルク伯爵の名前を書いた。


 筆を置き、しばらく眺めた。


 悪くないと思う。

 伯爵の家族を守るための言葉だ。

 実際の伯爵も、こんな状況になれば似たようなことを書いたかもしれない。


 もっとも、それを確かめることはできない。

 この男は、もう何も答えてくれないのだから。


 私は机の端に置かれた茶器を見た。

 すっかり冷めていた。


 伯爵は、飲みかけの茶を残して死んだ。

 私はその隣へ自白書を重ねた。


 あとは、この書類を誰かに見つけてもらえばいい。


 それだけなら簡単だろう。


 問題は、伯爵自身だった。



 私は椅子の脇に横たわる男を見た。


 このまま見つかれば、誰もが不審に思う。


 先ほどまで生きていたはずの伯爵が、書斎で突然死んでいる。

 しかも、普通の死に方とは違う。


 私は人間を傷つけずに記憶だけを奪えるわけではない。


 脳を取り込んだ以上、体の中には何らかの痕跡が残っているはずだ。


 人間の医者がそれをどう判断するのか、私には分からない。


 ただ、死んだ理由を調べられれば、面倒なことになる。


 窓の外へ目を向けた。


 屋敷の裏手には、石畳の中庭が見える。


 伯爵の書斎は、地面からそれなりの高さにあった。


 私は自白書を見た。


 一命をもってお詫び申し上げる。


 そう書いてある。


 ならば、伯爵が自分の意思で命を絶ったと思われる形にすればよいのではないだろうか。


 私はそう考えた。


 もちろん、誰もが信じるとは限らない。


 あの書類は私が書いたものだ。

 伯爵本人が罪を認めたわけではない。


 だが、不正について記した内容は確かめられる。


 それで十分だろう。

 少なくとも、国のお金を取り戻すためには。


 私は執事の姿に戻り、伯爵の遺体を窓のそばへ運んだ。

 重さはあったが、動かせないほどではない。


 伯爵はもう抵抗しない。

 少し前まで、私の質問にあれほど怒っていたのに。


 私は窓を開けた。


 冷たい夜風が入ってきた。

 中庭には、人の姿が見えない。

 屋敷の中は、まだ静かだった。

 私は一度だけ、伯爵の顔を見た。


 妻の笑顔。

 子供たちの声。

 家族と過ごした時間。


 すべて、この男の記憶だった。


 今では私も、それを知っている。

 けれど、この男の家族が私の家族になったわけではない。

 私は伯爵の遺体を窓の外へ落とした。


 しばらくして、中庭から悲鳴が上がった。


 人を呼ぶ声が聞こえる。

 続いて、慌ただしい足音。

 私は窓から離れた。


 予想よりも早く騒ぎになったらしい。


 まあ、当然かもしれない。

 伯爵家の主人が中庭に倒れていたら、誰でも驚くだろう。


 書斎の外から、扉を叩く音がした。


「閣下! 何がございました!」


 先ほどの護衛の声だった。


 私は扉を開けた。


「執事殿!」


 男が驚いたように私を見た。


「閣下は?」

「窓から……」


 私は中庭の方を指した。


 護衛は書斎へ駆け込んだ。


 開いた窓。

 机の上の書類。

 誰も座っていない椅子。


 男は一瞬だけ立ち止まった。

 それから窓へ駆け寄った。


「旦那様!」


 大きな声だった。

 私はその間に扉へ向かった。


「執事殿、どちらへ!」

「医者を呼びに参ります。あなたは閣下のもとへ」

「しかし、先ほど書斎で何が……」

「お話はあとで。今は一刻を争います」


 護衛は何か言いかけたが、窓の下へ視線を戻した。

 私はそのまま廊下へ出た。


 あの護衛は、私が書斎にいたことを覚えているだろう。

 あとから事情を尋ねられるかもしれない。


 ただ、今ここで捕まるわけにはいかなかった。


 屋敷には、すでに中庭へ向かう者たちが集まっている。

 私は彼らの間を抜け、表玄関へ向かった。

 途中、若い使用人に声をかけられた。


「執事長、何があったのですか!」

「旦那様が倒れられた。医者を呼ぶよう伝えなさい」

「は、はい!」


 彼は慌てて駆け出した。

 執事の記憶があれば、こうした会話は難しくない。


 ただ、いつまでも続けるつもりはなかった。

 やがて旧保管庫の護衛たちも戻るだろう。

 護衛長が帰らないことを不審に思い、建物の中を調べるかもしれない。


 そうなれば、二人の遺体が見つかる。

 その執事が、今ここを歩いている。


 調べられれば、妙なことになるだろう。

 私は屋敷の外へ出た。


 門の近くでは、すでに使用人たちが騒いでいる。

 伯爵が亡くなったという知らせが広まるのも、時間の問題だ。

 私は人目の少ない道へ向かい、屋敷から離れた。



 王宮へ戻る途中、私は三人分の記憶を整理した。


 護衛長。

 執事。

 ベルク伯爵。


 それぞれ違う人生だった。


 護衛長は剣を振るっていた。

 執事は屋敷を切り盛りしていた。

 伯爵は領地と財産を管理していた。


 三人とも、伯爵家のために働いていた。

 そして、三人とも死んだ。

 私はそのすべてを知っている。


 ただ、知ったところで三人が戻ってくるわけではない。


 この方法は、随分と便利だ。

 その代わり、使うたびに誰かがいなくなる。


 少なくとも、今の私にはほかに方法がなかった。

 そう考えてから、少しだけ疑問が浮かんだ。


 本当に、ほかに方法がなかったのだろうか。

 オズワルドは、まだ調べていた。

 時間をかければ、証拠が見つかったかもしれない。


 けれど、いつ見つかるか分からない。

 その間にも、国のお金は戻らず、麦を必要としている人々がいる。


 私は自分が選んだ方法を思い出した。

 もう、やり直すことはできない。

 ならば、今は得られた情報を役立てるしかないだろう。


 王宮へ戻ったときには、夜も随分と更けていた。

 私は人目のないところでエルシアの姿へ戻り、自室へ入った。

 借りてきた服を脱ぎ、いつもの寝間着に着替える。

 寝台には、リネットが整えてくれた柔らかい布団があった。


 ようやく戻ってこられた。


 私は椅子へ腰を下ろした。

 机には、読みかけの書類が残っていた。

 明日になれば、オズワルドから伯爵の死について聞かされるかもしれない。

 驚いた顔をした方がいいだろうか。

 それとも、悲しそうな顔だろうか。


 あの人は、最近私の顔をよく見ている。

 どちらにしても、あまり簡単ではなさそうだった。

 それに、ガルドもいる。

 あの人は、もっと面倒だ。


 私は小さく息を吐いた。

 伯爵の不正を調べるための手がかりは残した。

 あとは、オズワルドが確かめてくれるはずだ。


 けれど、私の問題が一つ減ったとは限らない。


 どうやら、別の問題を増やしてしまったらしい。

 それは少し困る。



 私は寝台へ向かった。

 今日はもう休もう。


 そう思ったとき、ふと、伯爵の記憶に残っていた商人の顔が浮かんだ。

 魔族と関わっていた、あの男だ。

 そういえば、最後まで詳しく確かめていなかった。


 私は寝台へ腰を下ろし、目を閉じた。


 夜の書斎。

 伯爵の前に、身なりのよい商人が座っている。

 痩せた男だった。


 机には金貨の入った小箱と、王国の地図が置かれている。

 男は地図を指しながら、伯爵へ質問していた。


 王都の食糧備蓄。

 街道の管理。

 国境近くの守備隊。


 私は、その会話を記憶の中でたどった。

 伯爵は、求められた情報を渡している。

 男は満足した様子で頷き、金貨を残した。


 そのとき、伯爵が何かを尋ねた。


『そういえば、第二王女についてはどうなっているのだ』


 私は少し驚いた。

 私のことだ。

 商人は、すぐには答えなかった。


『お前が知る必要はない』

『しかし、あの姫君が随分と変わられたという話は聞いている。こちらの取引に影響はないのか』

『余計な詮索はするな』


 男の声は冷たかった。

 伯爵は口を閉じた。

 それ以上聞くべきではないと考えたらしい。


 だが、商人は最後に、呟くように言った。


『王女の原型は、まだ保管されている』


 私は目を開けた。


 原型。


 その言葉を、私は知っている。

 魔族は、私が姿を真似る対象をそう呼ぶことがあった。

 私がエルシアになるため、何度も観察させられた少女。

 本物のエルシアだ。


 彼女は、最初から殺される予定だったわけではない。

 私が記憶を取得するため、生きたまま残されていた。


 王宮側の責任者が死んでから、もう随分と時間が経っている。


 連絡は途絶えた。

 命令も届かなくなった。


 だから、私は計画そのものが終わったと思っていた。

 けれど、あの商人は言った。


 まだ保管されている、と。

 その言葉が交わされたあと、どうなったのかは分からない。


 伯爵も知らなかった。

 それでも、少なくともあのときは、本物のエルシアが生きていた可能性がある。


 私は窓の外を見た。

 夜の王宮は静かだった。


 いつも通りの部屋。

 いつも通りの寝台。

 明日になれば、リネットがお茶を運んできてくれる。


 私がようやく手に入れた生活だ。

 その本当の持ち主が、まだどこかにいるのかもしれない。


 ……それは、困る。

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