第9話 女子五人の拠点
温かい食事というものは、想像以上に人間の警戒心を緩めるらしい。
庭先で作った簡単な煮込み料理を食べ始めてから、五人の空気は目に見えて変わった。
最初に変化したのは千咲だった。
「うま……」
それまで散々騒いでいたくせに、一口食べた瞬間だけ妙に静かになった。
「お前、急に黙るな」
「いや、だって……温かいご飯だよ? 温かいだけでこんな違う?」
「違うだろうな」
「違いすぎる……。やばい、泣きそう」
「そこまでか?」
「そこまでだよ!」
千咲は椀を両手で抱え込むようにして、湯気の立つ汁を見つめていた。
こいつは軽い。
図々しいし、距離の詰め方も妙に上手い。
だが、今の反応を見る限り、困っていたのは本当なのだろう。
次に反応が大きかったのは透子だった。
一人称が「僕」の、FPS好きだという少女。
おっとりした喋り方のわりに、言うことはたまに物騒だ。
「温かい食事、士気回復効果が高いね」
「だからゲーム用語みたいに言うな」
「でも事実だよ。空腹デバフ解除。寒さデバフ軽減。精神状態改善」
「言い方はともかく、間違ってはいない」
「でしょ」
透子はゆっくり頷きながら、椀を口元に運んだ。
動きはのんびりしているが、目は意外と周囲を見ている。
さっき見張りを頼んだ時も、何も分からないままぼんやりしているわけではなかった。庭の端に立ち、道路と門の両方が見える位置に移動していた。
ゲーム感覚なのかもしれない。
だが、視界を取るという意味では悪くない。
問題は、本人がたぶん現実とゲームの差をまだ完全には理解していないことだ。
「もし今が戦時中だったら、僕なら二十キル二デスくらいは余裕だと思うんだよね」
「だから二デスはおかしいだろ」
「リスポーン地点がないから?」
「根本から間違ってる。死んだら終わりだ」
「厳しいゲームだ」
「ゲームじゃない」
「それはそう」
透子は素直に頷く。
この素直さが危うい。
物分かりはいいが、どこまで本気で理解しているのか判断しづらい。
次に、詩乃。
白河詩乃は、この家の持ち主に一番近い立場らしい。
両親が遠出していて帰ってこられず、家だけが残った。金はある。家も広い。備蓄も少しある。けれど、電気が消えた今、金は紙と金属の塊に近い。
その状況は、少し俺と似ている。
俺も両親が東京から帰ってこない。
家もある。キャンプ道具もある。保存食もある。
ただ、詩乃と違って俺には扱える道具と知識があった。
詩乃は椀を両手で持ち、何度も頭を下げていた。
「あの、本当にありがとうございます。私、何もできなくて……足手まといですみません」
「だから、まだ足手まといかどうか判断してない」
「でも、お湯も沸かせませんでしたし、料理も満足にできなくて」
「火がなければ大半の人間はそうなる。詩乃だけの問題じゃない」
「そう、でしょうか」
「そうだ。むしろ、家を使えているだけで大きい。雨風をしのげる場所があるのはかなり重要だ」
そう言うと、詩乃は少しだけ目を丸くした。
「家があるだけで……役に立っているのでしょうか?」
「当たり前だろ」
「当たり前、ですか」
「この状況で拠点があるのはかなり強い。問題は、その拠点をどう守るかだ」
「守る……」
詩乃は自分の家を見回した。
今まで、この家はただの家だったのだろう。
帰る場所。
親のいる場所。
安心できる場所。
けれど今は違う。
物資のある場所。
人が集まる場所。
狙われる可能性のある場所。
電気が消えただけで、家の意味が変わってしまった。
それを詩乃は、まだ完全には受け止めきれていないようだった。
紗良は、比較的明るい。
鳴海紗良。
バンドを組むつもりでギターを練習していたらしい。
彼女は食事をしながら、庭の端に置かれたギターケースをちらちら見ていた。
「燈真くん、あとでギター聞いてよ」
「今か?」
「今だからでしょ。電気なくてもギターは鳴るし」
「アコギか」
「そう。ほんとはエレキもやりたかったんだけど、今は無理だね。アンプ死んでるし」
「そうだな」
「でもさ、音があるだけでちょっと違うと思うんだよね。一人で練習してても寂しいし」
紗良は軽い口調で笑った。
だが、その笑顔には少しだけ無理があった。
電気が消えた世界で、音楽は贅沢品に見える。
食料、水、火、防犯。
まず考えるべきものは他にいくらでもある。
けれど、長期的に見れば娯楽や音楽は馬鹿にできない。
人間は食って寝ればそれで生きられるわけではない。
不安の中で、ただ黙って夜を過ごすのはきつい。
火のそばで誰かが楽器を鳴らす。
それだけで、夜を越えやすくなることはある。
「あとで少しなら」
俺がそう言うと、紗良はぱっと表情を明るくした。
「ほんと?」
「ああ。ただし、防犯確認と風呂の湯を作ってからだ」
「やった。じゃあ、それまでにチューニングしとく。……チューナー使えないけど」
「耳でやるしかないな」
「そこが問題なんだよねー」
紗良は困ったように笑った。
最後に、莉子。
早乙女莉子は、最初から一番警戒していた。
俺が男であることを不安がったのも莉子だ。
その反応は正しい。
だから俺は、彼女の警戒心を否定するつもりはなかった。
莉子は食事を受け取った後も、しばらく不満そうな顔をしていた。
けれど、一口食べた瞬間、表情が少し変わった。
「……まあ」
「まあ?」
「悪くはない」
「それはよかった」
「認めたわけじゃないから」
「何をだよ」
「色々」
莉子はそっぽを向いて食べ続ける。
ただ、食べる速度は明らかに速くなっていた。
分かりやすい。
漫画ならツンデレと言われそうな反応だが、今の状況では単純に警戒心が強いだけだろう。
いや、少しツンデレっぽくもある。
口には出さないが。
「莉子」
「なによ」
「食べ終わったら、玄関と窓の確認をもう一回する」
「さっきしたでしょ」
「暗くなる前にもう一回だ。夜に気づいても遅い」
「……分かったわよ」
「あと、誰がどの部屋で寝てるかも確認したい」
「はあ!?」
莉子が露骨に身構えた。
俺はすぐに手を上げる。
「配置の確認だ。覗きたいわけじゃない」
「当たり前でしょ!」
「侵入口に近い部屋、二階、玄関から見える場所、窓の鍵。誰がどこにいるかで対応が変わる」
「……そういうこと」
「そういうことだ」
莉子は少し気まずそうに目を逸らした。
「だったら、最初からそう言いなさいよ」
「今言った」
「言い方!」
千咲が横で笑っていた。
「莉子、燈真くんはたぶんそういう変なことしないよ」
「たぶんって何よ!」
「だって燈真くん、女子の部屋より水と火と防犯の方が気になってそうだし」
「それはそれでどうなの?」
紗良が笑いながら言う。
俺は何も言い返せなかった。
実際、今は女子の部屋がどうこうより、窓の位置と見張りの動線の方が気になっている。
それはそれで人としてどうなのか、という気もするが、今は仕方ない。
食事が終わる頃には、五人の表情はだいぶ落ち着いていた。
温かいものを食べた。
それだけで、家の中の空気が少し変わった。
俺は食器を片付けながら言う。
「次は湯だ。全員が風呂に入れるほどの量は無理だ。体を拭く、髪を洗う、最低限温まる。その程度にする」
「それでも十分!」
千咲が即答した。
透子も頷く。
「髪を洗えるだけで士気が上がる」
「また士気か」
「大事」
詩乃は申し訳なさそうに言う。
「水、かなり使ってしまいますよね」
「使う。だから量を決める」
「すみません」
「謝るな。水を管理するのは必要なことだ」
俺は風呂場と台所を行き来しながら、使える容器を確認した。
バケツ。
洗面器。
鍋。
大きめのたらい。
浴槽に溜めてある水。
水は思ったよりある。
ただし、無限ではない。
この家の水道がいつまで出るか分からない以上、使い方を決める必要がある。
「まず、体を洗う用の湯を人数分に分ける。髪を洗うなら優先順位を決めろ。全員が毎日洗えるとは思うな」
「えー」
千咲が不満そうな声を出す。
「不満なら水を増やしてこい」
「無理」
「なら我慢しろ」
「はい……」
紗良が笑いながら手を挙げた。
「じゃあ今日、髪洗う権利じゃんけん?」
「遊びみたいにするな」
「でも揉めるよりよくない?」
「それはそうだが」
結局、五人で話し合った結果、今日は千咲と莉子が髪を洗うことになった。
千咲は外を歩き回って情報収集していたため、かなり汚れている。
莉子は何も言わなかったが、他の四人から「一番気にしてたから」と押し切られていた。
「べ、別に私はそこまでじゃ」
「昨日からずっと髪洗いたいって言ってたよね」
紗良が言う。
「言ってない!」
「言ってた」
透子が淡々と追撃する。
「言ってないってば!」
莉子は顔を赤くして怒っていたが、最終的には黙って洗面器を受け取っていた。
認めたということだろう。
たぶん。
俺は庭で湯を沸かし、必要な量を風呂場へ運んだ。
当然、風呂場へは入らない。
湯を置いたらすぐに離れる。
そこは徹底した。
余計な誤解を生みたくないし、莉子の警戒心を刺激する必要もない。
千咲はそのあたりを見て、からかうように言った。
「燈真くん、めっちゃ気を遣うね」
「トラブルを避けたいだけだ」
「そういうところ、逆に信用されると思うよ」
「信用は時間をかけて作るものだろ」
「それはそう」
千咲は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、本当に助かる。お湯があるだけで全然違う」
「そうだろうな」
「こっち、昨日まで水で体拭くだけだったから。冷たいし、寒いし、髪もべたつくし、最悪だった」
「火がないとそうなる」
「うん。火って大事なんだね」
千咲の言葉に、俺は庭のコンロを見る。
青い火が揺れている。
俺がつけた火。
マッチでもライターでもなく、俺の神力で灯した火。
これがあるだけで、食事ができる。
湯が作れる。
体を拭ける。
安心できる。
俺は自分の能力を、最初は「ガス代節約くらい」と考えていた。
火は便利だが、水を生み出せるわけではない。食料を作れるわけでもない。電気がない世界で、火だけでは文明は戻らない。
だから、外れではないが大当たりでもないと思っていた。
だが、実際に火を失った人間たちを見ると、その認識は少し甘かった。
火は生活の中心だ。
温かい食事。
湯。
暖。
明かり。
安心。
これらを支えている。
千咲たちは、比較的恵まれている。
家もある。仲間もいる。食料もある。水も少しある。神力持ちもいる。
それでも、火がないだけでここまで生活が落ちる。
なら、街全体はどうなっている。
もっと困っている人間が、どれだけいる。
また、その考えが頭をよぎる。
俺は小さく息を吐き、意識して思考を切った。
今考えるべきは、この家の状況だ。
全員を助けることではない。
この一週間で、情報を得る。
神力の事例を得る。
東京方面の手掛かりを得る。
それだけだ。
「燈真くん」
千咲がこちらを見ていた。
「何」
「また難しい顔してる」
「元からだ」
「それは否定しないけど」
「否定しろよ」
「いや、燈真くん、だいたい難しい顔してるし」
千咲は笑った。
「でも、ありがと。火、本当に助かる」
「礼はいい。対価は情報で払え」
「払う払う。女子ネットワークなめないでよ。東京方面も探ってるから」
「頼む」
俺は短く答えた。
やがて、風呂場から千咲の声が響いた。
「お湯最高ー!」
「声が大きい!」
莉子の怒鳴り声が続く。
「外まで聞こえるでしょ!」
「だって最高なんだもん!」
「静かにしなさいよ!」
紗良がリビングで笑い、透子が「士気爆上がり」と呟き、詩乃が申し訳なさそうに「すみません、騒がしくて」と頭を下げる。
俺は庭で火の番をしながら、その声を聞いていた。
女子五人の家。
危なっかしい共同生活。
だが、今この瞬間だけは、温かい湯で少しだけ世界が戻ったように見えた。
夜になり、食器を片付け、火の始末を終えた頃。
紗良が本当にギターを持ってきた。
「約束通り、聞いてくれる?」
「少しだけな」
「少しでいいよ。私もまだ下手だし」
リビングに五人が集まる。
電気のない部屋。
ケミカルライトと、俺が用意した小さな蝋燭の明かりだけ。
紗良はギターを抱え、少し照れたように弦を弾いた。
音が鳴る。
電気を使わない、ただの弦の音。
それが妙に部屋に染みた。
上手いかどうかは分からない。
たぶん、まだ練習中なのだろう。音が少し外れる。指もたまに止まる。
けれど、誰も笑わなかった。
千咲も、透子も、詩乃も、莉子も、静かに聞いていた。
俺も黙っていた。
電気が消えた世界でも、音は残る。
火があり、湯があり、食事があり、音楽がある。
それだけで、人間は少しだけ人間のままでいられる。
そんなことを思ってしまった。
演奏が終わると、千咲が小さく拍手した。
透子もゆっくり手を叩く。
詩乃は目を潤ませていて、莉子はそっぽを向きながらも「まあ、悪くなかった」と言った。
紗良は嬉しそうに笑った。
「ありがと。やっぱ誰かに聞いてもらえると違うね」
「そうだな」
俺は素直に頷いた。
「音楽も、生活維持の一部かもしれない」
「え、燈真くんに褒められた?」
「褒めたわけじゃない。必要性を認めただけだ」
「それ、褒めてるでしょ」
「好きに解釈しろ」
紗良は満足そうだった。
その後、俺は一階の和室を借りることになった。
玄関にも近く、庭にも出やすい。
何かあった時に動きやすい場所だ。
莉子は最初少し警戒していたが、俺が「扉は少し開けて寝る。勝手に二階には上がらない」と言うと、渋々納得した。
寝る前に、ハサミで澪奈へ連絡を入れる。
千咲が作ったハサミは、今回も普通に声を運んだ。
『燈真?』
「ああ。着いた。問題はない」
『よかった……』
澪奈の声に、明らかに安堵が混じる。
それを聞いて、少し胸が痛んだ。
「一週間だけだ。予定通り帰る」
『うん。そっちはどう?』
「思ったより深刻だ。火がないだけでかなり生活が崩れてる」
『そっか』
「でも、食料と水はまだある。家もある。比較的恵まれている方だと思う」
『それでも困ってるんだ』
「ああ」
少し沈黙があった。
澪奈も、俺と同じことを考えたのかもしれない。
恵まれている方ですら困っている。
なら、そうでない人たちは。
『燈真』
「なんだ」
『無理しないでね』
「分かってる」
『ちゃんと帰ってきてね』
「ああ」
『あと、女子五人に囲まれて浮かれないように』
「浮かれる要素がどこにある」
『一応』
「心配の方向がおかしい」
澪奈が少し笑った。
その笑い声を聞いて、俺も少しだけ肩の力が抜けた。
通信を切った後、俺は和室に寝袋を敷いた。
布団はあると言われたが、断った。
人の家で、しかも女子五人の家で、あまり生活に馴染みすぎるのはよくない。
俺はあくまで一週間だけの外部協力者だ。
そう線を引いておく必要がある。
横になっても、すぐには眠れなかった。
今日見たものが頭の中を回る。
火を見て驚く五人。
温かい食事で黙る千咲。
足手まといだと謝る詩乃。
ゲーム感覚で現実を見ようとする透子。
音楽で夜をつなごうとする紗良。
警戒しながらも湯と食事で少し態度を変えた莉子。
この五人は、たぶん今の若者の中では恵まれている方だ。
それでも、火一つでここまで変わる。
俺の火は、誰かを助けられる。
その事実を、今日嫌というほど見せられた。
けれど、俺は他人を助けるためにここへ来たわけじゃない。
家族を探すため。
澪奈を守るため。
情報を得るため。
それを忘れるな。
そう自分に言い聞かせる。
だが、リビングの方から聞こえる五人の小さな話し声を聞きながら、俺は思ってしまった。
一週間。
たった一週間だけでも。
この家を少しまともにすることくらいは、してもいいのかもしれない。
それは助けたいからじゃない。
たぶん、違う。
ただ、見てしまったからだ。
火を待つ顔を。
湯に喜ぶ声を。
温かい食事に救われる沈黙を。
見てしまったものを、なかったことにはできない。
俺は目を閉じた。
明日から、神力の調査を始める。
千咲以外の四人。
透子、詩乃、紗良、莉子。
彼女たちにも神力があるのか。
あるなら、どんな力なのか。
その結果次第で、この家の価値も危険度も変わる。
そしてたぶん、俺自身の迷いも深くなる。
そう思いながら、俺は電気のない夜に沈んでいった。




