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第8話 一週間だけ

山の水場に戻ってからも、俺はしばらく千咲の言葉を考えていた。


 私たちはまだ恵まれている方。


 千咲は、そう言った。


 家がある。


 仲間がいる。


 若くて動ける。


 神力持ちもいる。


 情報網もある。


 それでも、火がないだけで生活が崩れている。


 お湯が作れない。まともな食事が作れない。風呂に入れない。夜が怖い。見張りも必要。水も食料も心細い。


 なら、もっと条件の悪い人間はどうなる。


 高齢者だけの家。


 小さな子供のいる家庭。


 怪我人。


 一人暮らしの人間。


 キャンプ道具もなく、保存食もなく、水場も知らない人間。


 そういう人間たちは、今どうしているのか。


 考えたくないのに、考えてしまう。


 自分の手を見る。


 この手は火を出せる。


 風も起こせる。


 まだ試していないだけで、もっと別のこともできるかもしれない。


 もし俺が街に出て、火を配れば。


 もし俺が炊き出しを手伝えば。


 もし俺が、困っている人間に神力を使えば。


 救える人間は、いるのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥が冷える。


 嫌だった。


 俺は他人が嫌いだ。


 他人は平気で近づいてくる。善意のふりをする。心配のふりをする。面白半分で人を壊そうとする。


 中学の頃、俺に近づいてきたあいつもそうだった。


 味方みたいな顔をして、こちらが気を許したところで、理由もなく踏みつけてきた。


 理由は、たぶん大したものではなかった。


 明るいやつを潰したら面白い。


 それくらいの、くだらないものだった。


 そんな他人を、俺が助ける?


 冗談じゃない。


 そう思う。


 そう思うのに、千咲たちの顔が頭に残る。


 軽い口調で笑う千咲。


 まだ見ぬ四人の女子。


 彼女たちは、比較的恵まれている若者の代表例だ。


 その代表例ですら困っている。


 なら、この世界は想像以上にまずい。


「燈真」


 澪奈の声で、俺は顔を上げた。


 水場のそばで、澪奈がカップに水を注いでいる。俺の様子を見ていたらしく、少し眉を寄せていた。


「また考え込んでる」


「考えることが多いからな」


「千咲ちゃんたちのこと?」


「ああ」


「行くの?」


 澪奈の問いは、まっすぐだった。


 俺はすぐには答えなかった。


 ハサミは少し離れた岩の上に置いてある。布に包み、勝手に会話が始まってもこちらの話が拾われにくいようにしていた。意味があるかは分からないが、何もしないよりはいい。


「行く価値はある」


 俺は言った。


「価値?」


「神力持ちが五人いる可能性がある。千咲含めてな。もし全員に別の神力があるなら、情報としてかなり重要だ」


「うん」


「千咲の情報網も使える。東京方面の情報、神力持ちの扱い、危険なグループ、配布場所。俺たちだけで街を歩き回るより効率がいい」


「うん」


「それに、千咲たちの状況を見ることで、今の若者グループがどう生活してるかも分かる」


「うん」


 澪奈は頷きながら、じっと俺を見ていた。


 その目が、少しだけ痛い。


「それだけ?」


「……それだけだ」


「本当に?」


「他に何がある」


「困ってるから助けたい、とか」


「ない」


 俺は即答した。


 澪奈は少し黙った。


 俺は自分の声が硬くなったことに気づいたが、訂正しなかった。


「俺は他人を助けるために動けるほど、できた人間じゃない」


「うん」


「火を使えるからって、街の人間を助け始めたら終わりがない。千咲たちを助けたら、次は別の誰かが来る。湯を沸かせ、飯を作れ、火をつけろ、家電を動かせ。そうなる」


「家電?」


「……たとえ話だ」


 まだ、電気の可能性は澪奈にも詳しくは言っていない。


 火と風。


 エネルギー。


 もし形を変えられるなら、電気も。


 その仮説は、危険すぎる。


 俺自身、まだ試す覚悟ができていない。


「だから、他人のためじゃない。情報のためだ。俺たちが生き残るために必要だから行く」


「そっか」


 澪奈は静かに言った。


 納得しているのか、していないのかは分からない。


 ただ、責めるような目ではなかった。


「私は、燈真がそう言うならそれでいいと思う」


「意外だな」


「何が?」


「もっと止めるかと思った」


「止めたいよ」


 澪奈は即答した。


「正直、知らない女子五人の家に一人で行くとか、危険すぎると思う」


「一人で行くとはまだ言ってない」


「じゃあ私も行く?」


 その問いに、俺は一瞬詰まった。


 澪奈を連れていく。


 メリットはある。


 俺が一人で囲まれるリスクは減る。澪奈の目があれば、俺が何かを見落とした時に気づけるかもしれない。千咲たちも、女子の澪奈がいた方が警戒しにくい可能性がある。


 だが、デメリットの方が大きい。


 澪奈の洗浄能力は、知られればかなり危険だ。


 千咲たちが困っているのは、火だけではない。風呂も、洗濯も、水も足りていない。


 そんな場所に、洗浄能力を持つ澪奈を連れていく。


 それは、澪奈自身を資源として見せるようなものだ。


「いや」


 俺は首を横に振った。


「最初は俺一人で行く」


「やっぱり」


「澪奈の能力は隠すべきだ。あの状況で洗浄ができると知られたら、千咲たちが悪気なくても頼られる」


「それは……そうかも」


「それに、報酬なしの仕事だ」


「仕事?」


「千咲たちの生活を一時的に手伝うだけだ。火を使って、神力を調べて、情報をもらう。物資を貰うわけじゃない。なら、俺一人がとりあえず行くのが妥当だ」


「それ、燈真が危険を引き受けるって意味でもあるよね」


「そうだな」


「軽く言わないで」


 澪奈の声が少し強くなった。


 俺は黙る。


「相手が本当に神力持ってるの一人か分からないんだよ? 隠してるだけかもしれない。千咲ちゃんが嘘ついてる可能性だってある。女子五人って言ってたけど、本当に五人だけかも分からない」


「分かってる」


「分かってて行くの?」


「だから条件をつける」


「条件?」


「一週間だけ。俺の拠点は明かさない。必要最低限の荷物しか持っていかない。帰る日を決める。ハサミで定期連絡する。危険だと判断したら即帰る」


「それでも危ないよ」


「ああ」


「燈真」


「でも、行かないと分からないことがある」


 俺は水場の流れを見た。


 澄んだ水が岩の間を流れていく。


 ここにいれば、しばらくは生きられる。


 俺と澪奈だけなら、かなり安定している。水があり、食料があり、火があり、洗浄がある。


 だが、ずっとここに閉じこもっていればいいわけではない。


 親は帰ってこない。


 妹とは連絡が取れない。


 東京がどうなっているのか分からない。


 神力持ちがどう扱われるのかも分からない。


 俺たちは、すでに普通の被災者ではない。


 神力持ちだ。


 それも、かなり有用な神力を持っている。


 知らないままでいる方が危険だった。


「一週間」


 澪奈は小さく繰り返した。


「一週間で帰ってくる?」


「帰ってくる」


「絶対?」


「状況による、とは言わない方がいいんだろうな」


「言ったら怒る」


「帰ってくる」


 俺がそう言うと、澪奈はしばらく黙っていた。


 それから、諦めたように息を吐く。


「じゃあ、泊まる場所と道順、ちゃんと教えて」


「ああ」


「毎日ハサミで連絡して」


「ああ」


「三日連絡なかったら、私も行く」


「それは危険だ」


「燈真が帰ってこない方が危険でしょ」


 澪奈の目は真剣だった。


 怖がりなのに、こういう時は引かない。


 昔からそうだった。


 一人でゲーセンの奥へ行くのは怖がるくせに、俺を誘う時だけは妙に強引だった。俺が断っても、何度も誘いに来た。


 敵でも味方でもなく、ただ一緒に遊びたいから。


 いや、正確には一人で行くのが怖いから。


 その身勝手さに、俺は救われた。


「分かった」


 俺は頷いた。


「三日連絡がなかったら、来てもいい。ただし、千咲にハサミで確認してからだ」


「うん」


「一人では無理に突っ込むな」


「それ、燈真が言う?」


「俺は準備して行く」


「私も準備して行く」


「……まあ、そう言うよな」


 澪奈は少しだけ笑った。


 それでも不安は消えていなかった。


 俺はハサミの布を外し、岩の上に置く。


「千咲」


 少し待つ。


 反応はない。


 俺はハサミに向かってもう一度声をかける。


「千咲、聞こえるか?」


 数秒後、ハサミが小さく鳴った。


『はいはーい! 聞こえてるよ!』


 やけに元気な声が響く。


 澪奈が少し顔をしかめた。


 俺も声を落とす。


「声が大きい」


『あ、ごめん。そっち今どこ?』


「それは言わない」


『だよね。で、返事?』


「ああ」


『来てくれる?』


「一週間だけだ」


『ほんと!?』


「声」


『ごめん! でも、ほんとに!?』


「一週間だけ手伝う。火起こし、生活の確認、神力調査。危険だと判断したら途中で帰る」


『やった! ありがと燈真くん!』


「礼はいい。条件がある」


『うんうん、何でも言って』


「何でもは聞けないだろ」


『まあ、内容による』


「まず、俺の拠点の場所を探るな」


『うん』


「澪奈の能力について聞くな」


『……うん』


 少し間があった。


 やはり気づいている可能性はある。


 だが、ここで問い詰めても意味はない。


「俺が持ち込む物資は俺のものだ。勝手に触るな」


『分かった』


「俺の帰宅日は守る。引き止めるな」


『努力する』


「そこは守れ」


『はーい』


「あと、俺が女子だけの家に入ることになる。そっち全員が納得しているのか確認しろ。嫌がる人間がいるなら行かない」


『え、そこ気にするんだ』


「当たり前だろ」


『燈真くん、そういうところちゃんとしてるよね』


「そういう問題じゃない。警戒しない方がおかしい」


『うん。確認しとく。まあ、たぶん大歓迎だよ』


「たぶんで済ませるな」


『分かったってば。じゃあ場所送る……ってスマホ使えないんだった』


「口頭で言え。地図で確認する」


 千咲は住宅地の目印や道順を説明した。


 俺はノートに書き取り、持っていた紙地図と照らし合わせる。


 繁華街から少し離れた住宅地。


 大通りから一本入ったところにある、比較的大きな一軒家らしい。


 持ち主は千咲たちのうちの一人の家族。


 両親が遠出していて帰ってこられず、今は女子五人で使っているという。


「明日の夕方に行く」


『夕方?』


「移動中に目立ちにくい。暗くなりすぎる前に着く」


『了解! ご飯期待していい?』


「期待するな」


『えー』


「食材があるなら調理はできる。何もないなら無理だ」


『食材はある! でも火が大変でちゃんと作れてない!』


「なら見てから判断する」


『やったー!』


「まだ何もしてない」


『もう助かる予感しかしない』


「その期待が重い」


 通信を切ると、山の水場に静けさが戻った。


 澪奈は俺を見ていた。


「一週間か」


「ああ」


「長いね」


「短い方だと思う」


「私には長い」


 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。


 俺は荷物の整理を始めるふりをした。


 何かをしていないと、妙な感情に捕まりそうだった。


 翌日。


 俺は必要最低限の荷物をまとめた。


 寝袋。


 着替え。


 水筒。


 保存食少し。


 マッチ。


 ナイフ。


 ロープ。


 救急セット。


 ノート。


 鉛筆。


 ガスボンベを少し持っていくか迷ったが、やめた。


 あれは貴重すぎる。


 どうしても必要なら、後から考える。


 代わりに、火打ち石と予備のマッチを持つ。俺がいれば火はつけられるが、能力を使い続けるわけにもいかない。


 澪奈は俺の荷物を一つ一つ確認していた。


「水、足りる?」


「途中で補給する」


「食料は?」


「向こうの状況を見る。最悪、一週間分は持っていない」


「それで大丈夫?」


「大丈夫じゃなければ帰る」


「ちゃんと帰ってよ」


「ああ」


 出発前、澪奈は少し迷ったように俺の袖を掴んだ。


 ゲーセンでいつもそうしていたように。


「燈真」


「なんだ」


「無理しないで」


「努力する」


「努力じゃなくて、約束」


「……約束する」


「あと、他人のために倒れるとか、絶対なしだから」


「しない」


「ほんと?」


「俺はそこまで善人じゃない」


「燈真は、自分で思ってるよりは善人だと思うけど」


「それは買いかぶりだ」


「そうかな」


 澪奈は手を離した。


 俺はリュックを背負う。


 山の水場を出る前に、もう一度だけ周囲を確認した。


 ここが俺たちの拠点だ。


 俺と澪奈の場所。


 千咲たちの家へ行くのは、あくまで一時的なこと。


 帰る場所はここだ。


 そう自分に言い聞かせてから、俺は山を下りた。


 指定された住宅地に着いたのは、夕方だった。


 空は少し赤い。


 電気のない世界では、日が落ちる前の時間がとても貴重だ。暗くなれば移動が難しくなる。灯りがない。信号もない。人の顔も見えにくくなる。


 だから、夕方のうちに着く必要があった。


 千咲に教えられた家は、思ったより立派だった。


 二階建ての一軒家。


 庭があり、門があり、玄関までのアプローチも広い。周囲の家より少し大きい。


 なるほど。


 女子五人で住めるだけの広さはある。


 同時に、目立つ。


 水や食料があると知られれば、狙われる可能性は高い。


 俺は門の前で一度立ち止まった。


 周囲を確認する。


 人の気配は少ない。


 窓は閉まっている。


 カーテンの隙間から、誰かがこちらを見ている気配があった。


 俺は門を開け、玄関へ向かう。


 ノックする前に、扉が開いた。


「いらっしゃい!」


 千咲が出てきた。


 その後ろから、さらに四人の少女が顔を出す。


 一人は、柔らかそうな雰囲気のショートカットの少女。眠そうな目でこちらを見ている。


 一人は、背筋の伸びた、育ちのよさそうな少女。俺を見るなり不安そうに頭を下げた。


 一人は、明るい茶色の髪をゆるく結んだ少女。どこか軽音部っぽい雰囲気がある。


 最後の一人は、腕を組んで明らかに警戒している少女だった。


 五人全員が、玄関に並んでこちらを見ている。


 圧が強い。


「……歓迎されすぎだろ」


 俺は思わず言った。


「普通でいいよ」


 千咲は笑う。


「だって、火の人が来たんだよ? 歓迎するでしょ」


「その呼び方はやめろ」


 警戒していた少女が、じろりと俺を見る。


「私、男と住むの不安なんだけど」


「その感覚は正しい」


 俺が即答すると、少女は少し驚いた顔をした。


「……え?」


「この状況で、女子だけの家に男を入れるのを不安がるのは普通だ。むしろ全員そのくらい警戒した方がいい」


 千咲が苦笑する。


「燈真くん、最初から正論で殴るじゃん」


「大事なことだろ」


「まあ、そうだけど」


 育ちのよさそうな少女が、慌てて頭を下げた。


「す、すみません。わざわざ来ていただいたのに」


「謝ることじゃない。俺も一週間だけのつもりだ」


「一週間……」


 茶色い髪の少女が、少し残念そうに言う。


「短くない? せっかく来てくれたのに」


「長くいる理由がない」


「クールだ」


 ショートカットの少女が、ぽつりと言った。


「もし今が戦時中なら、僕なら二十キル二デスは余裕なのに」


「二十キルはいいが、二デスはおかしいだろ」


 反射的に突っ込んでしまった。


 少女は目を瞬かせる。


「たしかに」


「たしかになのか」


 千咲が笑い出した。


「はいはい、とりあえず中入って。紹介は後でいいでしょ」


「いや、先に名前くらいは」


「それもそうか。私は狭間千咲。知ってるよね」


「知ってる」


 千咲は順番に指差した。


「こっちが久我透子。一人称僕だけど女の子。FPS好き」


「よろしく、火の人」


「小鳥遊燈真だ」


「火の人の方が覚えやすい」


「やめろ」


「こちらが白河詩乃。家主みたいなもの」


「し、白河詩乃です。足手まといですみません」


「まだ何もしてないのに謝るな」


「すみません」


「謝るな」


 詩乃はまた頭を下げた。


 かなり自己評価が低いらしい。


「こっちが鳴海紗良。ギター練習してた子」


「よろしく、燈真くん。あとでギター聞いてくれない? 一人じゃ寂しくてさ」


「今それどころか?」


「それどころだよ。こういう時こそ音楽でしょ」


 紗良は軽く笑った。


 その笑い方は少し疲れていた。


「で、最後が早乙女莉子」


「……莉子でいい。言っとくけど、まだ認めたわけじゃないから」


「認めなくていい。俺も一週間だけだ」


「ならいいけど」


 莉子はまだ警戒している。


 むしろ、それでいい。


 全員が最初から歓迎していたら、逆に危うい。


 家の中に入ると、生活の痕跡が一気に見えた。


 玄関には靴が乱雑に並んでいる。


 廊下には水を入れた鍋やペットボトル。


 リビングには毛布やクッションが集められていた。


 電気がないので、部屋は薄暗い。


 窓際に集まるようにして生活しているらしい。


 台所には食材があった。


 米、乾麺、野菜、缶詰、レトルト食品。


 食料自体は、まだある。


 だが、火の問題でうまく使えていないのだろう。


 カセットコンロもある。


 ただ、着火できずに苦労した跡がある。ライターが何個も転がっていた。たぶん圧電式で、今は使えない。


「……なるほどな」


 俺は台所を見回した。


「食料はある。水もある程度ある。火がないから調理が滞ってる。あと風呂か」


 千咲が勢いよく頷く。


「そう! 風呂! ほんとに風呂!」


「最優先が風呂なのか」


「最優先だよ!」


 透子も頷いた。


「風呂入れないのは士気が下がる」


「FPS用語みたいに言うな」


 莉子が腕を組んだまま、そっぽを向く。


「別に私はそこまで困ってないけど」


 その直後、紗良が笑う。


「莉子、昨日めっちゃ髪洗いたいって言ってたじゃん」


「言ってない!」


「言ってたよ」


「言ってない!」


 どうやら、風呂への需要は高いらしい。


 俺は風呂場を確認した。


 浴槽には水が張ってある。


 水道がまだ使えた時に溜めたものだろう。追い焚き機能は当然使えない。給湯器も死んでいる。つまり、水はあるが湯にできない。


 普通なら、カセットコンロで少しずつ湯を沸かすしかない。


 しかし五人分の風呂となると、相当な手間だ。


「全部を温めるのは無理だな」


 俺は言った。


 千咲が肩を落とす。


「えー」


「ただ、体を洗うための湯なら作れる。浴槽全部を風呂にするんじゃなくて、たらいかバケツに湯を作って使う」


「それでもいい!」


「髪も洗える?」


 詩乃が控えめに聞いてくる。


「量を調整すればな」


 五人の表情が明るくなる。


 俺は少し引いた。


 火と湯。


 それだけで、ここまで反応が変わる。


 俺が思っていた以上に、彼女たちは追い詰められていたのだ。


「とりあえず、夕方だし湯を作る。ついでに飯も作る」


 俺がそう言うと、千咲が両手を上げた。


「神!」


「神じゃない」


「神力だし!」


「うまくない」


 俺は庭に出た。


 室内で火を使うのは換気の問題がある。カセットコンロを使うにしても、まずは屋外で状態を見る。


 五人がぞろぞろついてくる。


 見世物ではないのだが、追い払うのも面倒だった。


 俺はカセットコンロを確認し、ガスが出るかを見る。


 問題ない。


 ただ点火装置は動かない。


 なら、俺の神力で火をつける。


「離れてろ」


「どのくらい?」


 千咲が聞く。


「二歩くらい」


「近くない?」


「大きい火は出さない」


 俺は指先に意識を集中する。


 火。


 小さな火。


 マッチの先程度。


 神力が少し減る感覚。


 指先に、小さな炎が灯った。


 その瞬間、五人が同時に声を上げた。


「すっご!」


「本当に火出してる!?」


「え、魔法じゃん!」


「火の人だ」


「……ほんとに出るんだ」


 俺は無視して、コンロに火を移した。


 青い炎が安定する。


 指先の火を消す。


 それだけの作業だった。


 だが、五人の目は明らかに変わっていた。


 千咲は興奮し、透子は観察し、詩乃は口元に手を当て、紗良は楽しそうに笑い、莉子は驚きを隠しきれていない。


 俺はその視線を受けて、少しだけ息苦しくなる。


 火を出しただけだ。


 それだけで、俺はここで価値を持ってしまった。


 それが分かる。


「……本当に便利なんだね」


 莉子が小さく言った。


「便利だが、使い放題じゃない」


「疲れるの?」


「ああ」


「そう」


 莉子は少しだけ視線を逸らした。


 さっきより、警戒の棘が薄くなっている。


 認められた、ということなのだろうか。


 というか、そうじゃないと困る。


 一週間、ずっと刺々しくされるのは普通にしんどい。


 俺は湯を沸かし始めた。


 大鍋に水を入れ、コンロにかける。


 火があるだけで、作業が進む。


 野菜を切る。


 乾麺を用意する。


 缶詰と調味料を確認する。


 五人はそれぞれ手伝おうとするが、動きがぎこちない。


 キャンプ慣れしていない集団が、急に非常時の共同生活を始めたのだ。無理もない。


「千咲、食材を種類ごとに分けろ。紗良、鍋と食器を洗って持ってきて。透子、庭の外と道路の様子を見てくれ。詩乃は水の残量確認。莉子は玄関と窓の鍵を全部確認」


「え、急に指示出すじゃん」


 紗良が笑った。


「何もしないで見てるよりいいだろ」


「いいけど」


 透子がのんびり手を上げる。


「僕、見張り?」


「そうだ。人が来たらすぐ言え。戦うな」


「二十キルは?」


「ゼロキルゼロデスを目指せ」


「なるほど、平和プレイ」


「そういうことだ」


 透子は妙に納得して庭の端へ向かった。


 俺は作業を進める。


 湯が沸く。


 食材に火が通る。


 温かい匂いが庭に広がる。


 その匂いだけで、五人の空気が変わった。


 腹が減っているのだろう。


 温かい食べ物の匂いは、それだけで人を正気に戻す。


 千咲が鍋を覗き込みながら呟いた。


「……いいなあ」


「何が」


「火があるって、いいなあ」


「そうだな」


「燈真くんたち、これ毎日できてるんだよね」


「できる範囲ではな」


「ずるい」


「ずるいと言われてもな」


「いや、分かってるけど。ほんと、こっちだと火をつけるだけでイベントなんだよ」


 千咲の声は軽いが、言葉は重い。


 火をつけるだけでイベント。


 文明がどれだけ電気と火に頼っていたのか、嫌でも分かる。


 食事ができる頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。


 電気のない夕方は早い。


 俺は食事を分けながら、家の中を見た。


 女子五人。


 大きめの家。


 火を求めて喜ぶ少女たち。


 比較的恵まれているはずの彼女たちですら、この状態だ。


 なら、街は。


 東京は。


 家族は。


 俺は鍋の蓋を閉じ、低く呟いた。


「……女子五人で住むの、危険すぎるだろ」


 千咲が苦笑する。


「やっぱりそう思う?」


「正気とは思えない」


「ひどい」


「ひどくない。防犯、火、水、食料、見張り、役割分担。全部見直した方がいい」


「うわ、キャンプの先生だ」


「先生じゃない」


 俺は五人を見た。


「一週間だけだ。その間に、最低限どうにかする」


 千咲は嬉しそうに笑った。


 透子は温かい食事を見て頷き、詩乃は何度も礼を言い、紗良は「じゃあ夜にギター聞いてよ」と言い、莉子はまだ少し不満そうな顔をしながらも、湯気の立つ椀をしっかり受け取っていた。


 俺はその光景を見ながら、胸の奥で小さく息を吐く。


 助けたいから来たわけじゃない。


 情報のためだ。


 現実を見るためだ。


 家族を探すために必要だからだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 けれど、温かい食事を前に少しだけ表情を緩める五人を見ていると、その言い訳が少し揺らいだ。


 俺は救世主じゃない。


 他人なんて嫌いだ。


 それでも、火一つで救われる顔を、見てしまった。


 だから、この一週間はきっと面倒になる。


 そう思った。

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