第7話 古い児童館の取引
街へ下りる前に、俺と澪奈はもう一度だけ互いの格好を確認した。
清潔すぎないか。
落ち着きすぎて見えないか。
荷物が整いすぎていないか。
昨日までなら馬鹿みたいな確認だ。
けれど今は違う。
服が綺麗であること。髪が整っていること。水の匂いがしないこと。靴が泥だらけではないこと。そういう、ごく当たり前だったはずのものが、今では生活に余裕がある証拠になってしまう。
そして、余裕がある人間は狙われる。
水を持っているのか。
食料を持っているのか。
安全な拠点を持っているのか。
あるいは、神力を持っているのか。
そう見られる。
「……どう?」
澪奈が少し嫌そうな顔で聞いてきた。
袖口には軽く土をつけてある。髪も、いつもより少しだけ乱していた。靴もわざと汚した。
それでも、俺から見ると十分綺麗だった。
山の水場で手や顔を洗い、服の汚れも澪奈の神力で落とせる。普通に生活できている。その差は、隠しても完全には消えない。
「まだ綺麗だな」
「えぇ……これ以上汚すのやだよ」
「分かってる。これでいい」
「本当に?」
「完全に汚す方が不自然だ」
「何その難しい調整」
「今の街では、普通に見えることが一番難しい」
俺がそう言うと、澪奈は複雑そうな顔をした。
「普通に見えることが難しい、か」
「ああ」
「嫌な世界になったね」
「そうだな」
俺は短く答えた。
本当に嫌な世界だ。
綺麗でいることを隠さなければならない。
助かるための力を隠さなければならない。
人に声を掛けられたら、まず疑わなければならない。
昨日までの世界だって、人間関係が楽だったわけではない。
けれど、少なくとも水と火と洗濯を理由に狙われる世界ではなかった。
俺は布で包んだハサミを確認する。
千咲から渡された、神力で作られたらしいハサミ。
今は静かだ。
だが、昨日のように突然声が聞こえる可能性がある。
便利で、危険な通信手段。
俺はそれをリュックの外ポケットに入れた。
「行くぞ」
「うん」
俺たちは山の水場を離れた。
目的地は、繁華街の近くにある古い児童館の裏手。
千咲が指定した場所だ。
俺も存在は知っている。小さい頃に一度か二度、親に連れられて行った記憶があった。今では利用者が少なく、近くの公民館に機能を移す話も出ていたはずだ。
人は少ない。
だが、完全に無人とは限らない。
千咲が一人で来る保証もない。
罠の可能性もある。
俺は歩きながら、何度も周囲を確認した。
「燈真、ずっと後ろ見てる」
「尾行されてないか確認してる」
「されてたら分かるの?」
「素人なら」
「プロなら?」
「無理」
「じゃあ意味なくない?」
「素人に気づけるだけでも意味はある」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
澪奈は納得したような、していないような顔をした。
山を下り、住宅地に入る。
昨日よりも人が増えていた。
いや、増えたというより、家の中にいた人間が外へ出始めたのだろう。
家の前で近所同士が話している。
ポリタンクを持って歩く人がいる。
自転車の荷台に段ボールを積んでいる人がいる。
道端に座り込んでいる老人もいた。
電気が戻らない二日目。
人々の顔から、昨日の「そのうち戻るだろう」という楽観が消え始めている。
代わりにあるのは、不安と苛立ちだった。
川の方からは、また人の声が聞こえた。
配布所へ向かう人の流れもある。
学校や公園が避難所になっているという話も耳に入った。
その中で、俺たちはできるだけ目立たないように歩いた。
児童館が見えてきたのは、昼前だった。
古びた二階建ての建物。
入口には、色褪せた看板がかかっている。
窓は閉まっていた。電気がないので当然中は暗い。正面には人の気配が少しあったが、裏手へ回るとほとんど誰もいなかった。
古い遊具がある小さな裏庭。
錆びた鉄棒。
砂の減った砂場。
低いフェンス。
そのフェンスにもたれるように、狭間千咲が立っていた。
昨日と同じように軽い格好をしている。
髪は少し乱れていたが、表情は明るい。
こちらに気づくと、千咲は大きく手を振った。
「燈真くーん! 澪奈ちゃーん!」
「声が大きい」
「あ、ごめん」
千咲は口元に指を当て、わざとらしく声を落とした。
「来てくれてありがと。二人とも、本当に来るんだね」
「約束したからな」
「意外と律儀」
「信用問題だろ」
「そのわりに、めっちゃ警戒してる顔してるけど」
「信用してるとは言ってない」
「そこは嘘でも信用してるって言おうよ」
「嘘は後で面倒になる」
「燈真くん、ほんとそういう感じだよね」
千咲は笑った。
澪奈は俺の半歩後ろに立っている。
その位置取りを千咲がちらりと見た。
「澪奈ちゃん、緊張してる?」
「してるよ。普通に」
「正直でかわいい」
「かわいいって言われる状況じゃないと思う」
「まあね」
千咲は肩をすくめた。
そして俺たちの服を見て、少しだけ目を細める。
「ちゃんと汚してきたんだ」
「お前が言ったからな」
「あはは。素直」
「目立ちたくないだけだ」
「でも、まだ綺麗だよ」
やはりか。
俺は内心で舌打ちした。
千咲は続ける。
「というか、清潔感が消えてない。服をちょっと汚しても、なんか余裕ある感じが残ってる」
「どういう意味だ」
「髪とか、肌とか、匂いとか、荷物の整い方とか。水を使えてる人って感じがする」
澪奈が小さく息を呑んだ。
俺は表情を変えないようにする。
千咲はそれを見て、にっと笑った。
「やっぱり水場持ちって大きいね」
「場所は言わない」
「聞いてないってば。今は」
「今は、をつけるな」
「だって興味はあるし」
「興味があることを隠さないのは美点かもしれないが、信用を減らすぞ」
「うーん、難しい」
千咲はあまり反省していない顔だった。
とはいえ、ここで余計な探りを続ける気はないらしい。
彼女はフェンスから離れ、砂場の横に腰を下ろした。
「とりあえず座る? 立ち話も目立つし」
「周囲は?」
「さっき見たけど、今のところ誰もいない。児童館の中には何人かいるかもだけど、裏までは来てないと思う」
「思う、か」
「燈真くんが確認してもいいよ」
「そうする」
俺は児童館の裏口、窓、フェンスの外を確認した。
隠れている人間はいないように見える。
足跡はあるが、新しいものかどうかまでは分からない。児童館の中から微かに声が聞こえる。だが距離はある。
完全に安全ではない。
だが、話すには許容範囲だ。
俺は千咲から少し距離を取って座った。
澪奈は俺の隣。
千咲はそれを見て、少し面白そうに笑う。
「仲いいね」
「そういう話をしに来たんじゃない」
「はいはい。情報交換ね」
千咲は両手を軽く叩いた。
「じゃあ、まず何から話す?」
「神力持ちの扱い」
俺は即答した。
千咲は少しだけ真面目な顔になる。
「やっぱりそこ気になるよね」
「ああ。街でどう見られている?」
「まだ、みんな半信半疑。昨日までは噂話だった。でも今日はちょっと変わってきた」
「どう変わった」
「神力持ちっぽい人を探す人が出てきた」
澪奈の肩がわずかに揺れた。
俺は千咲を見る。
「探す?」
「うん。何かできる人いませんかーって、避難所で聞いて回ってる人がいた。怪我を治せる人、水を探せる人、火を起こせる人、物を出せる人。そういうのを探してるっぽい」
「誰が?」
「色々。若者グループもいるし、自治会っぽい大人もいるし、なんか会社の人っぽいのもいた」
「会社?」
「腕章つけてた。名前までは分かんない。電気が消えたのに会社って何するのって思ったけど」
東京。
会社。
大人。
俺の頭に、帰ってこない両親のことが浮かぶ。
だが今は置く。
「その人たちは、神力持ちをどうするつもりだ」
「さあ。表向きは協力してほしいって感じ。火起こしとか、水探しとか、怪我人の手当てとか。でも、みんながみんな善意とは限らないよね」
「囲い込みか」
「たぶん」
千咲はあっさり言った。
「便利な人を集めたグループが強くなる。食べ物持ってる人、水場知ってる人、力が強い人、神力持ってる人。そういうのが一緒にいる方が生きやすいから」
「逆に言えば、持ってる人間は狙われる」
「そうだね」
「……早すぎる」
「でも、そんなものじゃない?」
千咲は砂の上に指で丸を描いた。
「電気が消えたでしょ。水も足りない。火も足りない。スマホも使えない。みんな不安。そういう時に、普通じゃないことができる人がいたら、欲しがるよ」
欲しがる。
人間を物みたいに言う。
だが、千咲の言い方は間違っていない。
神力持ちは、すでに人間ではなく資源として見られ始めている。
俺はノートを開き、今の情報を書き込んだ。
「燈真くん、本当にメモ取るんだ」
「忘れると困る」
「研究者みたい」
「ただの高校生だ」
「火を出せる高校生?」
「まだ言ってない」
「否定もしないんだ」
千咲は楽しそうに笑った。
澪奈が俺を見る。
俺は小さく息を吐いた。
ここまで来れば、完全に隠すのは難しい。
ただし、全部を明かす必要はない。
「火を起こせる」
俺は短く言った。
千咲の目が輝いた。
「やっぱり!」
「ただし、人前では見せない」
「見たい」
「見せない」
「ちょっとだけ」
「見せない」
「火、出せるんだよね?」
「火を起こせる、と言った」
「同じじゃない?」
「違う」
厳密には違う。
俺は自分の神力が何なのか、まだ完全には分かっていない。
火を生み出す、という表現が一番近い。
だが、風も起こせる。
なら、火属性などではない。
エネルギーを別の形に変換している可能性がある。
その仮説はまだ千咲には言わない。
言うには危険すぎる。
「火を起こせるって、めちゃくちゃ便利じゃん」
千咲は身を乗り出した。
「お湯作れる? 料理できる? お風呂沸かせる?」
「水と道具があればな」
「ずるっ」
「ずるいって何だ」
「こっち、火起こしだけでも苦労してるのに」
「マッチは?」
「少ない。ライターは使えないやつ多いし。カセットコンロはあるけど、点火できなくて困ってる子もいる。火がつけられないって、こんなに詰むんだって思った」
千咲の声に、わずかな疲れが混ざった。
軽口の下に、現実が見える。
「お前たちの拠点、五人いると言っていたな」
「うん」
「全員女子か」
「そう」
「全員、家族がいない?」
「いないっていうか、今はいない。親が仕事で帰ってこない子、遠出して戻れない子、避難所が合わなかった子、家に一人でいるのが怖かった子。そんな感じ」
「神力持ちは?」
「私だけ……って言いたいけど、まだ分かんない。みんな何かあるかもって試してる途中」
「試してるのか」
「まあね。でも、燈真くんみたいにちゃんと記録とかはしてないよ。だいたい気合い」
「危ないな」
「それは思う」
千咲にしては珍しく、素直な返事だった。
「こっちもさ、困ってるんだよ。家はある。女の子だけで集まってる。水も配布で少しはある。食料もゼロじゃない。でも、火がない。お湯がない。風呂に入れない。まともに料理できない。夜は怖い。見張りも大変」
千咲は砂場の砂を指でなぞった。
「たぶん、私たちってまだ恵まれてる方なんだよね。家があるし、仲間もいるし、ハサミもあるし」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
そうだ。
千咲たちは、恵まれている方だ。
若くて動ける。
仲間がいる。
雨風をしのげる家がある。
千咲という神力持ちもいる。
情報を集める能力もある。
それでも、火がなくて困っている。
湯がない。
料理ができない。
風呂に入れない。
夜が怖い。
なら、他はどうだ。
高齢者だけの家は。
小さな子供を抱えた家庭は。
怪我人は。
水場も情報網もない人間は。
神力に気づいていない人間は。
俺の知らないところで、どれだけの人間が困っているのか。
胸の奥に、重いものが落ちた。
それは同情に似ていた。
だが、同情だけではない。
俺の火があれば、助かる人間がいるかもしれない。
俺がもっと神力を使いこなせれば、火を配れるかもしれない。湯を沸かせるかもしれない。料理を手伝えるかもしれない。
もし、電気まで生み出せるなら。
もっと多くのものを取り戻せるかもしれない。
そう考えた瞬間、俺は自分の思考に嫌気が差した。
助ける?
誰を?
他人を?
俺は他人が嫌いだ。
味方のふりをして近づいてきたやつも、腫れ物みたいに俺を扱ったやつらも、心配しているふりをして面白がっていたやつらも、全部他人だった。
そんな他人を、どうして俺が助けなければならない。
俺には家族がいる。
東京から帰ってこない両親。
京都にいる妹。
そして、今隣にいる澪奈。
優先するなら、そっちだ。
他人ではない。
まずは家族だ。
そう思うのに、千咲の言葉が頭に残る。
私たちはまだ恵まれている方。
それでも困っている。
なら。
街全体は、もっと困っている。
「燈真?」
澪奈の声で我に返った。
俺は軽く首を振る。
「いや、何でもない」
「顔怖かったよ」
「考え事だ」
千咲も俺を見ていた。
いつもの軽い笑顔ではなく、少し探るような目だ。
「燈真くんってさ」
「なんだ」
「火を出せるなら、他の人を助けようとか思う?」
直球だった。
澪奈が息を呑む。
俺は千咲を見る。
「……思わないと言ったら?」
「別に責めないよ」
「本当か?」
「うん。だって、そんなの始めたら終わらないじゃん」
千咲は淡々と言った。
「一人助けたら、次も助けてって言われる。火をつけて、お湯を沸かして、ご飯作って、風呂を沸かして。どんどん人が集まる。燈真くんが倒れるまで使われると思う」
「分かってるなら聞くな」
「でも、気になるじゃん。燈真くん、助けられる側じゃなくて、助けられる力がある側だから」
助けられる力がある側。
その言葉が、少し刺さった。
昨日まで俺は、ただの高校生だった。
キャンプ道具を少し多く持っているだけの、人間不信の高校生。
なのに今は、火を出せる。
風を起こせる。
俺の能力には、まだ先があるかもしれない。
俺は、助けられる側ではなく、助ける力がある側に回ってしまった。
望んでもいないのに。
「俺は救世主じゃない」
俺は低く言った。
「まず、自分と澪奈を守る。家族の安否を確認する。それが先だ」
「家族?」
千咲が首を傾げる。
「親が東京から帰ってこない。妹は京都にいる」
「そっか」
「だから、他人を助ける余裕はない」
言いながら、自分に言い聞かせている気がした。
他人を助ける余裕はない。
だから助けない。
それでいい。
いいはずだ。
「いいと思うよ」
千咲は軽く言った。
「家族優先で。普通でしょ」
「普通か」
「少なくとも、私はそう思う。私だって、うちの子たち優先だし」
「うちの子たち?」
「一緒に住んでる四人。まあ、友達っていうか、仲間っていうか、拾ったっていうか」
「拾ったって」
「だって本当にそんな感じだし。避難所で泣きそうになってた子とか、家に一人でいた子とか、声かけて集めた」
「お前が?」
「うん」
千咲はさらっと言った。
軽いようで、やっていることは重い。
女子だけで住む危険を承知で、誰かを集めている。
それは無謀にも見えるし、強さにも見える。
「だから、燈真くんが家族優先って言うのも分かるよ。でも、情報交換くらいはしてほしい」
「それはする」
「よかった」
千咲は笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ警戒を緩めた。
信用したわけではない。
だが、千咲にも千咲の守りたい範囲がある。
それは分かった。
「じゃあ、こっちの情報を話す」
俺はノートを開いた。
「神力には、使用時に消費感覚がある。俺も千咲も同じような感覚を持っている。体力とは少し違うが、疲労や空腹と無関係ではなさそうだ」
「うん」
「使いすぎると眠気や疲労が出る可能性がある。千咲が十本ハサミを出して眠くなったのもそれだろう」
「やっぱり出しすぎだったかあ」
「当たり前だ」
「はい」
「能力は人によって違う可能性が高い。俺と千咲で違いすぎる。だから、他の四人にもそれぞれ別の神力がある可能性がある」
「どうやって調べればいい?」
「危険の少ない対象から試す。火、爆発、刃物、電気、強い力は避ける。水、布、紙、石、声、視界、感覚。本人が何か減ったと感じるかを確認する」
「なるほど」
千咲は珍しく真剣に聞いていた。
俺は続ける。
「ただし、本人が望む能力が出るとは限らない。欲しい力と実際の力は違う可能性がある」
「それ、困るなあ」
「困っても仕方ない」
「うちの一人、遠距離攻撃できたら強そうって言ってたんだけど」
「危ないから最初に試すな」
「だよね」
俺は澪奈の方をちらりと見た。
澪奈は黙って聞いている。
彼女の洗浄能力については、今は伏せる。
千咲もそこには踏み込んでこなかった。
気づいているのか、気づいていないのかは分からない。
「千咲。東京方面の情報は?」
俺が聞くと、千咲は少し考え込んだ。
「まだ少ない。でも、東京から来た人は本当に少ないみたい。逆に、東京方面へ行こうとして止められた人はいるって話は聞いた」
「止められた?」
「橋とか大きい道とか、通れない場所があるらしい。理由は不明。事故か、混乱防止か、封鎖か」
「封鎖……」
「噂だけどね」
父と母。
東京。
帰ってこない理由。
俺の中で、それらが嫌な形で繋がり始める。
「もっと詳しい情報は?」
「集めてみる。女子の若者ネットワーク、結構あるから」
「女子の若者ネットワーク?」
「そう。避難所とか配布列とかで、危ない場所、危ない人、配布情報、寝泊まりできそうな場所、神力持ちの噂、そういうの共有してるの」
「そんなものがもうできてるのか」
「できるよ。スマホ使えないから直接だけど。むしろ直接だから早いところもある。女の子同士だと、危ない情報はすぐ回るし」
それは重要な情報網だ。
千咲がただの神力持ちではなく、情報の結節点になりつつあることが分かる。
取引相手としての価値は高い。
同時に、危険でもある。
「じゃあ、東京方面の情報を集めてくれ」
「いいよ。その代わり」
「何だ」
「こっちの四人の神力調査、手伝ってくれない?」
来た。
俺はすぐには答えなかった。
千咲は続ける。
「燈真くん、ちゃんと考えて試せるでしょ。私たちだけだと危なそうだし、正直、何からやればいいか分かんない。あと、火も少し貸してほしい」
「火を貸すって何だ」
「お湯沸かしたい。ご飯作りたい。できればお風呂入りたい」
「欲望が増えたな」
「切実なんだよ」
千咲は両手を合わせた。
「お願い。一回だけでもいいから、こっち手伝って」
「……俺たちの拠点の場所は教えない」
「うん」
「澪奈の能力については聞くな」
澪奈が俺を見る。
千咲は一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐに笑う。
「了解。聞かない」
「今は、をつけるなよ」
「……聞かない」
「それから、俺が危険だと判断したらすぐ帰る」
「うん」
「対価は情報。東京方面、神力持ちの扱い、危険なグループ。集められる限り集めろ」
「分かった」
千咲はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ来てくれる?」
「まだ行くとは言ってない」
「えー!」
「今日は無理だ。場所も確認していない。澪奈とも相談する」
「慎重すぎる」
「慎重で悪かったな」
「悪くないけど、こっちは早くお風呂入りたいんだよ」
「知るか」
「ひどい!」
千咲は大げさに嘆いた。
だが、その目は笑っていた。
交渉は成立しかけている。
俺はそれを理解していた。
情報が欲しい。
千咲のネットワークが欲しい。
神力の事例が欲しい。
なら、千咲たちの拠点を一度見る価値はある。
そして、火を出せる俺が一度手伝えば、彼女たちの生活は少し改善するだろう。
それは分かる。
分かってしまう。
だからこそ、面倒だった。
俺は救世主じゃない。
他人は嫌いだ。
でも、目の前に困っている人間がいて、自分に手段がある。
その状況は、思ったよりずっと厄介だった。
「一度持ち帰る」
俺はそう言って立ち上がった。
「明日、ハサミで返事する」
「うん。待ってる」
「期待はするな」
「するよ」
「するな」
「無理。燈真くん、絶対来てくれそうだもん」
「勝手に決めるな」
千咲は笑った。
「じゃあ、またね。燈真くん、澪奈ちゃん」
俺たちは児童館の裏手を離れた。
帰り道、澪奈はしばらく黙っていた。
繁華街の喧騒が遠ざかり、住宅地に入ったところで、ようやく口を開く。
「燈真、行くの?」
「まだ決めてない」
「でも、行く気あるでしょ」
「情報は欲しい」
「それだけ?」
俺は答えなかった。
澪奈はそれ以上追及しなかった。
ただ、静かに言う。
「私は、燈真が家族を優先するのは当然だと思うよ」
「……何の話だ」
「さっき、千咲ちゃんと話してた時の顔」
「そんなに顔に出てたか」
「出てた」
「そうか」
俺は息を吐いた。
「他人を助ける余裕はない」
「うん」
「俺は、親と妹のことを確認したい。澪奈のことも守らないといけない。千咲たちを助け始めたら、きりがない」
「うん」
「だから、優先順位は変えない」
「うん」
澪奈は頷いた。
俺は続ける。
「それでも、見なかったことにはできない」
「……うん」
その一言だけは、認めざるを得なかった。
千咲たちは、まだ恵まれている方。
それでも困っている。
その事実を、俺は見てしまった。
俺は他人が嫌いだ。
それでも、困っている人間がいることを知らなかったことにはできない。
だから、迷う。
迷いながら、それでも家族を優先する。
今はそうするしかない。
山の水場へ戻る道で、俺は空を見上げた。
電気のない世界の空は、昨日より少しだけ広く見えた。
だが、その下にいる人間たちは、昨日よりずっと追い詰められている。
俺の手は、火を灯せる。
けれど、その火をどこまで差し出すべきなのか。
その答えは、まだ出なかった。




