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第6話 澪奈の神力

 翌朝、俺は水の入ったコップを前にして、しばらく黙っていた。


 山の水場から汲んだ水だ。


 浄水器を通し、念のため沸かしてから冷ましたもの。透明で、匂いもない。飲む分には問題ないはずの水。


 それを、金属のカップではなく、あえて透明なプラスチックのコップに入れてある。


 変化を見やすくするためだ。


「……ねえ、燈真」


 向かいに座った澪奈が、不安そうな顔で俺を見た。


「これ、本当にやるの?」


「やる」


「昨日も言ったけど、爆発しないやつからって約束だからね?」


「水が爆発する可能性は低い」


「低いって言い方やめてよ」


「絶対ではないからな」


「そういうところ!」


 澪奈は両手で自分の腕をさすった。


 怖がっている。


 無理もない。


 俺は火を出せた。風も起こせた。


 千咲はハサミを出せた。


 神力というものが人によって違う可能性がある以上、澪奈にも何かがあるかもしれない。だが、それが何かは分からない。


 安全な能力とは限らない。


 そもそも能力と呼んでいいのかも分からない。


 俺たちはまだ、世界がどう変わったのかを何一つ理解していない。


「澪奈、無理なら今じゃなくてもいい」


 俺がそう言うと、澪奈は意外そうに瞬きをした。


「やらない選択肢、あるんだ?」


「ある。自分の体で試すことだからな」


「燈真は自分の体で試しまくってるくせに」


「俺は俺だ」


「そういうの、よくないと思う」


「そうかもな」


「認めるんだ」


 澪奈は少しだけ困ったように笑った。


 その笑い方を見て、俺は自分の言い方が少し硬かったことに気づいた。


 火や風の実験は、自分で勝手にやればよかった。


 危険を負うのは俺だけだ。


 だが、澪奈の神力を調べるとなると違う。俺が必要だと思っていても、実際に試すのは澪奈自身だ。


 だから、無理にやらせるべきではない。


 けれど、知らないままでいるのも危険だった。


 もし澪奈に神力があるなら、何かの拍子に勝手に発動する可能性もある。使い方も限界も知らないまま街へ下りれば、思わぬ形で周囲に知られるかもしれない。


 それに、もし澪奈の神力が水に関係しているなら。


 今の生活は、大きく変わる。


 水は命だ。


 水道が止まった世界では、火よりも、水の方が重要になる場面はいくらでもある。


「……やるよ」


 しばらく黙っていた澪奈が、そう言った。


「いいのか?」


「いい。怖いけど、分からないままの方がもっと怖いし」


「そうか」


「でも、本当に危なそうだったら止めてよ」


「分かった」


「あと、燈真も変なテンションにならないで」


「変なテンション?」


「研究者みたいな顔になって止まらなくなるやつ」


「……気をつける」


「絶対だよ」


 澪奈は念を押すように言ってから、コップの前に座り直した。


 俺はノートを開く。


 鉛筆を持ち、まず状況を書く。


 神力実験。


 対象、瀬戸澪奈。


 使用物、水。


 目的、澪奈に神力が存在するか確認。危険性の低い対象から実験する。


 そこまで書いて、俺は澪奈を見る。


「まず、俺が火を出した時の感覚を説明する」


「うん」


「体の奥に、見えないエネルギーみたいなものがある。俺たちは仮に神力と呼んでる。それを手の方へ動かす感じだ」


「手の方へ……」


「正確には、動かすというより、使う。火を想像して、そこに神力を変換する感じ」


「分かるような、分からないような」


「俺も完全には分かってない」


「先生がそれでいいの?」


「先生じゃない」


「キャンプの先生で、神力の先生でしょ」


「勝手に増やすな」


 澪奈は少しだけ笑った。


 緊張が和らいだなら、それでいい。


「火を出そうとした時、俺は何かが減る感覚があった。千咲もハサミを出す時に似たようなことを言っていた。だから、澪奈も何かを使えたら、体の中の何かが減ったように感じるかもしれない」


「減ったら成功?」


「何かが起きた可能性がある」


「何も見た目が変わらなくても?」


「そうだ。見た目で分からない変化もあるかもしれない」


「分かった」


 澪奈はコップに手を伸ばした。


 透明な水の入ったコップ。


 そこに、澪奈はそっと右手を乗せる。


 俺は周囲を確認した。


 水場の近く。


 燃えやすいものは遠ざけてある。


 万が一コップが割れても問題ないよう、地面の上に置いている。爆発したらどうにもならないが、その時は諦めるしかない。


「じゃあ、やってみる」


「ああ」


「どうやるの?」


「気合い」


「雑」


「俺も最初は気合いだった」


「燈真に聞いた私が悪かった」


 澪奈は小さく息を吸った。


 そして、コップに手を乗せたまま目を閉じる。


「んんんん……」


「力みすぎるな」


「気合いって言ったじゃん」


「言ったけど、顔が怖い」


「うるさい」


 澪奈は眉間に皺を寄せながら、水に意識を向けているようだった。


 俺は水面をじっと見る。


 変化はない。


 泡も出ない。


 水量も増えない。


 色も変わらない。


 温度も、見た目では分からない。


 澪奈はしばらくそのまま手を乗せていたが、やがて目を開けた。


「……どう?」


「見た目は変わってない」


「だよね」


 澪奈は少し残念そうな顔をした。


 俺も正直、少し期待していた。


 澪奈が水を増やせる、あるいは生成できる神力を持っていたら、生活は大きく変わる。山の水場に依存する必要がなくなるし、水の配布列に並ぶ必要も減る。


 水生成は、今の世界では大当たりだ。


 だが、コップの水量は変わらない。


「ちがったか……?」


 俺が呟くと、澪奈は首を傾げた。


「いや、でも」


「でも?」


「なんか、減った気はする」


「水が?」


「違う。私の中の、変なエネルギーみたいなやつ」


 俺は顔を上げた。


「神力を消費した感覚があるのか?」


「たぶん。燈真が言ってたのと同じかは分からないけど、なんか、ちょっとだけ使った感じはある」


「水量は?」


「増えてない」


「温度は?」


 俺は指先でコップに触れる。


 特に変わったようには感じない。


「冷たいままだな」


「味は?」


「飲むのは待て」


「だよね」


 俺はノートに記録する。


 水量変化なし。


 温度変化不明、体感なし。


 色、匂い変化なし。


 澪奈、神力消費感覚あり。


 問題は、何が変わったのかだ。


 見た目で変化がないのに、神力を消費した。


 なら、何かが起きた可能性がある。


 見えない変化。


 水の性質。


 成分。


 不純物。


 ……不純物?


「澪奈」


「なに?」


「この水、元から綺麗すぎるのかもしれない」


「え?」


「もし澪奈の神力が水を増やす能力じゃなくて、水に何かする能力なら、綺麗な水だと変化が分かりにくい」


「水に何かって?」


「分からない。浄化、温度変化、味の変化、成分変化、毒性除去。色々ある」


「毒性って、怖い言葉出さないで」


「だから飲むのは後だ」


 俺はコップを置き、立ち上がった。


 水場の近くの土を少し取る。


 それを別のコップに入れ、水を注いだ。


 透明だった水が、すぐに茶色く濁る。


「うわ、泥水」


「これで試す」


「飲まないよね?」


「飲まない」


「本当に?」


「俺を何だと思ってるんだ」


「自分の体で実験するタイプ」


「飲まない」


 澪奈は疑わしそうな目で俺を見ながらも、泥水の入ったコップに手を乗せた。


「じゃあ、やるよ」


「ああ」


「んん……」


 今度はさっきよりも早かった。


 澪奈が目を閉じ、神力を込めたらしい次の瞬間。


 濁っていた泥水が、すっと透明になった。


 俺は息を止めた。


 コップの底に泥が沈殿したのではない。


 そうではない。


 水全体に広がっていた濁りが、薄まるように消えた。


 泥の粒がどこかへ行ったように見えた。


 いや、正確には、汚れだけが取り除かれたような。


「……え?」


 澪奈が自分で驚いた声を出した。


「燈真、これ」


「ああ」


「透明になったよね?」


「なった」


「泥、どこ行ったの?」


「分からない」


「分からないこと多すぎ!」


「今から調べる」


 俺はコップを手に取り、光にかざした。


 透明だ。


 完全に澄んでいるように見える。


 底にも泥はほとんど残っていない。


 匂いもない。


 ただし、飲めるかどうかは別問題だ。


 見た目が透明でも、細菌や毒素が残っている可能性はある。澪奈の神力が何をどこまで除去するのか分からない以上、飲用はまだ危険だ。


「飲んでみる?」


 澪奈が聞いた。


「飲まない」


「即答」


「検証不足だ」


「こういう時は慎重なんだ」


「こういう時こそ慎重だろ」


 俺はノートに記録する。


 泥水に対して使用。


 水が透明化。


 泥、不純物らしきものが消失。


 水量変化なし。


 澪奈、神力消費感覚あり。


「たぶん、水生成じゃない」


「じゃあ何?」


「浄化か、洗浄」


「洗浄?」


「汚れを落とす能力かもしれない」


「水を綺麗にするってこと?」


「水だけとは限らない」


 俺は自分の袖を見た。


 昨日から山と街を行き来しているせいで、袖口は土で汚れている。今朝わざと汚した部分もある。


 試すにはちょうどいい。


「澪奈、これに使えるか?」


「服?」


「ああ」


「え、燈真の服に?」


「汚れてるからな」


「失敗して燃えたら?」


「お前の能力で燃えるとは思えない」


「分かんないじゃん」


「燃えたら脱ぐ」


「そういう問題?」


 澪奈は戸惑いながらも、俺の袖口に手を伸ばした。


 汚れた布に指先を触れる。


「これも気合い?」


「たぶん」


「本当に雑」


 澪奈が小さく息を吸う。


 次の瞬間、袖口についた土汚れが薄くなった。


 いや、薄くなったどころではない。


 数秒もしないうちに、汚れはほとんど消えた。


 洗剤も、水も使っていない。


 擦ってすらいない。


 ただ澪奈が触れただけで、布が洗われたように綺麗になった。


「……洗濯機だ」


 澪奈が呟いた。


「違う」


「いや、これは洗濯機でしょ。私、洗濯機になった?」


「違う。たぶんもっと広い」


「洗濯機より広いって何?」


「浄化かもしれない」


 俺は綺麗になった袖口を見た。


 泥水が透明になった。


 服の汚れが落ちた。


 共通しているのは、汚れが消えたこと。


 なら、澪奈の神力は水そのものを増やす能力ではない。


 汚れを取り除く能力。


 水や物を洗浄する能力。


 あるいは、もっと広く、対象を清める能力。


 もしそれが本当なら。


「……当たりだ」


 俺は思わず呟いた。


 澪奈が目を瞬かせる。


「え?」


「澪奈、お前の神力は当たりだ」


「いや、でも水は増えないよ?」


「増えないな」


「火も出ないし、ハサミも出ないし、洗濯できるだけでしょ?」


「その“だけ”が、この世界ではかなり重要だ」


「そうなの?」


「水道が止まれば、飲み水だけじゃなく、洗濯、風呂、食器洗い、傷口の洗浄、トイレ、全部が問題になる」


「うん」


「服が汚れたままなら、皮膚病になるかもしれない。食器が洗えなければ腹を壊す。怪我をして傷口が汚れたら化膿する。川の水が使えなければ、水を確保しても飲めない」


「……あ」


 澪奈も少しずつ理解したようだった。


 水を作れない。


 それは確かに残念だ。


 だが、水を綺麗にできるなら。


 汚れた服を洗えるなら。


 衛生を保てるなら。


 それは終末世界では、火と同じか、それ以上に重要な能力になる。


「澪奈の能力は、生活を維持する力だ」


「生活を維持……」


「俺の火は、火起こしや調理には使える。でも水の安全は保証できない。お前の洗浄は、病気を防げるかもしれない」


「私、すごい?」


「かなり」


 澪奈は少しだけ嬉しそうな顔をした。


 だが、すぐに不安そうに眉を寄せる。


「でも、これバレたらまずくない?」


「かなりまずい」


「だよね」


「水を綺麗にできる。服を洗える。体も洗える可能性がある。知られたら、絶対に利用される」


「うわあ……」


「だから隠す」


「せっかく当たりなのに」


「当たりだから隠すんだ」


 俺はそう言いながら、昨日の千咲の言葉を思い出した。


 服が綺麗だと目立つ。


 生活が安定していると、神力持ちだと思われる。


 澪奈の能力は、使えば使うほど効果が外見に出る。


 服が綺麗になる。


 髪が洗える。


 体が臭わない。


 つまり、周囲から見れば「余裕がある人間」に見える。


 それ自体が危険になる。


「……皮肉だな」


「何が?」


「清潔でいるための能力なのに、清潔でいると目立つ」


「あー……」


 澪奈は自分の服を見下ろした。


「じゃあ、街に行く前に汚すの?」


「少しはな」


「やだなあ」


「命の方が大事だ」


「分かってるけど、せっかく洗えるのに汚すって、すごい嫌」


「俺も嫌だ」


「燈真も?」


「綺麗にできるなら綺麗な方がいいに決まってる」


「意外」


「俺を何だと思ってるんだ」


「キャンプだと汚れても平気な人」


「平気なだけで好きなわけじゃない」


 澪奈は少し笑った。


 その笑顔を見て、俺も少しだけ肩の力が抜けた。


 神力が何なのか分からない。


 世界がどうなるのかも分からない。


 でも、澪奈の力が危険なものではなく、少なくとも今のところ生活を助けるものだと分かった。


 それは大きい。


「もう少しだけ試す」


「約束は?」


「危険の少ない範囲だ」


「本当?」


「本当」


 俺たちは、いくつか簡単な実験をした。


 泥のついた布。


 すすで黒くした小石。


 油を少しつけた金属のスプーン。


 古くなった水。


 結果は、完全ではないが傾向が見えた。


 土汚れや泥はかなり落ちる。


 すすも落ちる。


 油汚れは少し時間がかかるが、薄くなる。


 古くなった水は、見た目と匂いが改善した。


 ただし、腐った食べ物には手を出さなかった。


 食料に使った場合、腐敗だけを取り除くのか、味や栄養まで変えてしまうのか分からない。危険すぎる。


「なんか、汚れの種類によって疲れ方違うかも」


 澪奈が言った。


「土は楽?」


「うん。泥水は意外といける。でも油っぽいのはちょっと嫌な感じ」


「毒とか病原菌は?」


「分かんない。そもそも見えないし」


「見えない汚れに効くかが重要だな」


「でも試すの怖くない?」


「怖い。だから今日はやらない」


「よかった」


 ノートに書き込む。


 澪奈の神力。


 仮称、洗浄。


 泥水透明化。


 衣服の土汚れ除去。


 すす除去。


 油汚れは負荷やや高い。


 水量は増えない。


 対象の汚れを取り除く、または浄化する能力の可能性。


 毒、細菌、腐敗物への効果は未検証。


 能力使用により神力消費。対象の汚染度に比例する可能性。


「洗浄って書いたの?」


 澪奈がノートを覗き込んだ。


「ああ。仮称だ」


「浄化じゃなくて?」


「最初は洗浄でいい。どこまでできるか分からないからな」


「浄化の方がかっこいいのに」


「かっこよさで決めるな」


「神力って名前つけた人に言われたくない」


「あれはお前だろ」


「そうだった」


 澪奈は笑った。


 そのあと、自分の手を見つめる。


「でも、そっか。私にもあったんだ」


「ああ」


「神力」


「そうだな」


「なんか変な感じ。昨日まで普通だったのに」


「俺もだ」


「燈真はちょっと楽しそうだけど」


「楽しくはない」


「ほんと?」


「……気になるだけだ」


「それを楽しそうって言うんじゃない?」


 否定しかけて、やめた。


 確かに、気になっている。


 怖いし、危険だし、状況は最悪だ。


 それでも、未知のルールを探ることに頭が動く。


 火が出る。


 風が起こる。


 洗浄ができる。


 ハサミが生まれ、ハサミ同士で会話できる。


 めちゃくちゃだ。


 だが、めちゃくちゃな中にも法則があるはずだ。


 それを知りたい。


 知らなければ生き残れないし、知らなければこの世界を理解できない。


「燈真」


「なんだ」


「私の能力、千咲ちゃんに言う?」


 俺は少し黙った。


 今日の昼、千咲と会う。


 情報交換をする約束だ。


 こちらも情報を出すと言った。


 だが、澪奈の洗浄能力をどこまで明かすかは慎重に決める必要がある。


 火を出せる能力も危険だ。


 だが、洗浄は生活基盤に直結する。


 水を綺麗にできるかもしれない。


 服を洗える。


 体も洗える。


 共同体にとっては、喉から手が出るほど欲しい能力だろう。


 千咲が善意であっても、周囲がどう反応するか分からない。


「全部は言わない」


「じゃあ少しだけ?」


「服を少し綺麗にできる、くらいなら言ってもいいかもしれない。水の浄化は伏せる」


「水の方が大事だから?」


「ああ」


「でも、千咲ちゃんたちも水に困ってるんだよね」


「困ってるだろうな」


「じゃあ、隠すのちょっと悪くない?」


「悪い」


 俺は即答した。


 澪奈が少し驚いた顔をする。


「悪いとは思う。でも、言えない」


「……うん」


「俺たちはまだ千咲を信用してない。千咲の周囲の人間はもっと知らない。水を綺麗にできると知られたら、澪奈が狙われる可能性がある」


「狙われるって」


「能力を使わせるために連れていかれる、ということもあり得る」


 澪奈の顔色が変わった。


 言い方が直接的すぎたかもしれない。


 だが、曖昧にしていいことではない。


 今の世界では、人間そのものが資源になり始めている。


 火を出せる人間。


 水を綺麗にできる人間。


 通信できる人間。


 それらは道具ではない。


 だが、道具のように扱おうとする人間は必ず出る。


「だから、隠す」


「分かった」


 澪奈は自分の手をぎゅっと握った。


「私、街で余計なこと言わないようにする」


「ああ」


「あと、服も少し汚す」


「嫌じゃなかったのか?」


「嫌だけど、狙われる方がもっと嫌」


「賢明だ」


「燈真に褒められた」


「褒めたわけじゃない」


「今のは褒めてた」


 少しだけ空気が戻る。


 俺は実験に使ったコップや布を片付けた。


 泥水を透明にした水は、飲まずに捨てる。


 もったいない気もしたが、検証不足の水を飲む方が危険だ。


 その後、俺たちは街へ下りる準備をした。


 澪奈は自分の袖口に少し土をつけた。


「……すごく嫌」


「我慢しろ」


「せっかく能力で綺麗にできるのに」


「帰ったら洗えばいい」


「それはそれで便利だけどさ」


 俺もズボンの裾と靴に少し土をつける。


 髪も手で乱した。


 清潔すぎないように。


 落ち着きすぎて見えないように。


 昨日までなら馬鹿みたいな行為だ。


 だが、今は必要だった。


「燈真」


「なんだ」


「私たち、変なことしてるね」


「ああ」


「汚く見せる努力って、初めてした」


「俺もだ」


「こんな世界、嫌だな」


「そうだな」


 俺は素直に頷いた。


 この世界は嫌だ。


 電気が消えた。


 水道は不安定。


 人は水と食料に集まり、清潔でいることすら危険になる。


 神力という便利なものが生まれたのに、それは同時に人間を資源に変える。


 嫌な世界だ。


 けれど、生きるしかない。


「行くぞ」


「うん」


 俺は布に包んだハサミを持った。


 千咲との待ち合わせ場所は、繁華街近くの古い児童館の裏手。


 人が少ないと言っていたが、完全に安全とは限らない。


 千咲が一人で来る保証もない。


 罠の可能性もある。


 だが、行く価値はある。


 神力持ちがどう扱われ始めているのか。


 若者たちがどう動いているのか。


 東京方面の情報はあるのか。


 それを知る必要がある。


 山道を下りながら、澪奈がふと口を開いた。


「ねえ、燈真」


「なんだ」


「私の能力、洗濯に使えるんだよね」


「ああ」


「じゃあ、もしお風呂入れなくても、体きれいにできるかな」


「可能性はある」


「……それ、すごくない?」


「かなりすごい」


「やっぱり私、当たり?」


「当たりだ」


 澪奈は少しだけ嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、俺は思った。


 火を出せること。


 水を洗えること。


 ハサミで話せること。


 どれも便利だ。


 だが、それ以上に危険だ。


 この世界では、便利なものほど奪われる。


 なら、俺たちは神力を使いながら、神力を隠さなければならない。


 なんとも面倒な話だった。


 だが、やるしかない。


 俺はポケットの中のハサミを軽く握った。


 冷たい金属の感触がある。


 この先に、千咲がいる。


 その向こうには、俺たちの知らない神力持ちの世界が広がっているのかもしれない。


 そして、俺たちは今日、その入口に立つことになる。

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