第47話 屋上
結界使いとの戦いから、しばらく経った頃。俺はある考えに、囚われていた。
人を殺したことのない奴が、いきなりできるのか。
会長に近づく算段は、ついていた。戦力として認められ、特殊生徒会の中での立場も、固まってきた。毒を盛る機会も作れる。だが――肝心の俺自身が、殺しきれるのか。
夢のNPC、謎の生物、結界使いの手下。倒してきた。だが、それらは人ではなかった。データだったり、化け物だったり。罪悪感の湧きようがない相手ばかりだった。
だが会長は違う。無言で人を助け、傷ついた者を守ってきた、生身の人間だ。そんな相手を、味方の顔をして近づき、明確な殺意で殺す。それができるのか。やってみなければ分からない、では済まされなかった。いざその時、手が止まれば、すべてが台無しになる。下手をすれば、こちらが返り討ちにあう。
覚悟は、まだ半分のままだった。この学園で過ごすほど、アリシアや未玖や城井と関わるほど、その半分は、固まるどころか、揺らいでいくばかりだった。
俺は悪魔の王に、連絡を取った。
『どうした』
「薬が欲しい」
俺は言った。
「人を殺せるような薬だ」
悪魔の王は、しばらく沈黙してから言った。
『つまり、殺す勇気がないと?』
「違う」
俺は即座に否定した。
「一時的に殺せるような薬が、欲しいんだ」
勇気がない、と認めたくはなかった。だが実際には、薬がなければ殺せない。罪悪感が、躊躇が、俺の手を止める。だから――その感情を、一時的に麻痺させたかった。淡々と実行できる状態に、なりたかった。
『……分かった』
悪魔の王は言った。
『効果時間は一時間だ。その間、お前の躊躇は消える。淡々とこなせるだろう』
◇
後日、薬はアイテムに紛れて届いた。小さな錠剤だった。
そして、その日が来た。
昼食の時間。俺はスイーツとドリンクを持って、屋上で会長と会う約束を取りつけていた。最近、戦力として認められ、会長とも少しずつ言葉を交わすようになっていた。だから、二人きりで会うことも、不自然ではなかった。
屋上へ向かう前、俺はあの薬を飲んだ。
しばらくすると、体の奥がすっと冷たくなる感覚があった。何かが麻痺していく。罪悪感。躊躇。会長を殺すことへの抵抗。それらが薄れて、遠のいていく。頭の中が、奇妙に静かになった。
不思議な感覚だった。普段なら、会長を殺すと考えるだけで、胸の奥がざわつく。あの無言の少女を、味方のふりをして裏切る。その重さが、いつも俺を押しつぶしそうにしていた。だが今は、何も感じない。会長を殺すことが、ただの手順の一つになっていた。スイーツを渡し、ドリンクを飲ませ、毒で弱らせ、短剣で刺す。その、淡々とした作業の連なり。そこに感情はなかった。
これで、殺せる。
そう思えることが、薬の効果だった。そして、それを恐ろしいとも思わない自分がいた。麻痺とは、そういうものだった。
俺はドリンクの一つに、毒を仕込んだ。悪魔の王が用意した毒。会長の解毒の神力を、使わせるためのもの。そして懐には、もう一つ。神力を一日一度だけ無効化する短剣を、忍ばせていた。
毒で会長の神力の枠を、埋めさせる。そして、神力が手薄になった隙に、神力無効化の短剣で刺す。反射も、無効化されれば刺さる。それが、悪魔の王の立てた計画だった。
俺は屋上への階段を上った。感情の麻痺した、奇妙に凪いだ心で。
◇
屋上に、会長はすでにいた。
白い制服。長い黒髪。いつもの無表情。柵にもたれて、空を見ていた。電気の消えた、東京の空を。
「待たせたか」
俺が声をかけると、会長はこちらを向いた。
「いえ」
短い返事。相変わらず、口数は少ない。
俺は持ってきたスイーツとドリンクを差し出した。毒入りのドリンクを、会長の方へ。
「これ……私に?」
会長が、わずかに首を傾げた。
「はい」
俺は答えた。麻痺した心で、淡々と。
「会長とは正面から、正式に挨拶したことがなかったと思いましたから。改めて、と思って」
それは口実だった。会長を油断させ、毒入りのドリンクを飲ませるための。麻痺した頭は、その嘘をすらすらと紡いだ。罪悪感はなかった。ただ、計画をこなすだけ。
会長はドリンクを受け取った。そして、俺をじっと見た。
「……なんで」
会長が言った。
「なんで、悲しそうな顔をしてるの?」
俺はその言葉に、一瞬戸惑った。
悲しそうな顔。薬で感情を麻痺させているはずなのに。会長には、俺が悲しそうに見えたのか。麻痺の奥で消しきれなかった何かが、顔に滲んでいたのか。
「……気にしないでください」
俺は言った。
「嫌な奴のことを、思い出しただけです」
嫌な奴。中学のあいつ。味方のふりをして、俺を裏切り、潰したあいつ。今、俺がやろうとしていることは、あいつと同じだった。味方のふりをして、信頼させ、裏切る。麻痺した心の、奥の底の方で、それがちくりと痛んだ気がした。だが薬が、それをすぐに覆い隠した。
会長はそれ以上、聞かなかった。そして、ドリンクに口をつけようと――。
◇
その時だった。
学園の放送が、流れ始めた。
『――本日のゲストは緊急で、MIRAIさん! あの有名配信者です!』
朗らかなアナウンス。襲撃や戦いのあとの、心のケアのための定期的な歌の放送。今日も、その時間だった。たまたま、この瞬間に。
そして――歌が、聞こえ始めた。
その声を、俺は知っていた。
会長がドリンクを飲んだ。毒が回る。一瞬、会長の体がぐらりと傾いだ。顔色が変わる。混乱したように、目を見開く。
今だ。
麻痺した頭が命じた。神力が毒の対処に向いている、今。俺は懐の短剣に手をかけた。神力無効化の短剣。これで刺せば、反射も無効化される。会長を、殺せる。
俺は短剣を抜いた。会長に向かって、踏み込もうと――。
だが。
歌が、俺の耳に届いた。
◇
その瞬間、何かが変わった。
歌の神力。聞いた者の精神状態を万全に保つ力。それが、放送越しの歌でも、俺に届いた。
薬で麻痺させていた感情が、歌に押し流されるように、元に戻っていく。罪悪感。躊躇。会長を殺すことへの抵抗。麻痺の奥に押し込めていたすべてが――一気に、戻ってきた。
そして、それと同時に。
記憶が蘇った。
暗い部屋。一人で見ていた配信。不人気だった、MIRAIの歌枠。視聴者もコメントも、まばらだったあの頃。その中で、俺はコメントを送っていた。
『応援してます! 絶対に配信、最後まで見届けますから、続けてください! 楽しみにしてます!』
そうコメントした時、画面の中のMIRAIが――嬉しそうに笑った。
俺は、それを覚えていた。人を信じられなくなって、一人だったあの時期。俺が、誰かを喜ばせられた、数少ない瞬間。一方通行のはずの関係で、確かに心が通った、あの瞬間。
俺は――「最後まで見届ける」と、約束したんだ。あの人に。
なのに。
俺は今、何をしようとしている。
あの人が、歌っている。今、まさに。学園の誰かのために。傷ついた心を、癒すために。そして、その同じ歌が――俺を止めようとしている。あの人は知らない。自分の歌が今、何を止めているのかを。ただ、いつものように、誰かのために歌っているだけ。なのに、その声はまっすぐに、俺の麻痺した心を貫いて、薬の作った偽りの静けさを、打ち砕いていく。
◇
短剣を握る手が、震えた。
止まった。踏み込めない。会長に向かって伸ばした手が、宙で固まる。あと一歩。あと一歩、踏み込んで、突き出せば、終わるはずだった。なのに、その一歩が、どうしても、出なかった。体が、言うことを聞かない。いや、違う。心が、拒んでいた。
殺せない。
薬は、もう効いていなかった。歌が、それを打ち消した。俺は元の自分に戻っていた。罪悪感のある、躊躇のある、人を殺せない、本来の自分に。
歌が、流れ続けている。MIRAIの声が。あの、約束した相手の声が。
その声を聞きながら――俺に、人が殺せるはずがなかった。
会長が立て直した。毒でぐらついた体を、神力で解毒し、持ち直す。そして顔を上げ――俺の手の中の短剣を見た。抜き身の短剣を。会長に向けられた、それを。
会長の目が、見開かれた。
「まさか」
会長が言った。
「あなたが、敵だったなんて」
俺は何も言えなかった。短剣を握ったまま。だが、それを振り下ろすことが、できないまま。
殺すために、ここに来た。薬まで使った。なのに、たった一つの歌で。あの人との、約束の記憶で。俺は、刺せなくなった。
会長が身構えた。毒の影響が、まだ残っているのか、その動きはわずかに鈍かった。だが、その目には明確な警戒があった。暗殺者を見る目。
俺は立ち尽くしていた。短剣を握りしめたまま。振り下ろせず、かといって引くこともできず。
歌だけが、屋上に響いていた。
俺を止めた、その歌が。あの人の声が。
◇
止めて、ほしかったのか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
ずっと、分からなかった。止めてほしいのか。止めないでほしいのか。誰も止めてくれなかった、あの時から。
そして今、止められた。あの人の歌に。約束した相手の声に。
俺は心のどこかで――安堵していた。刺せなかったことに。人を殺さずに、済んだことに。
だが同時に、絶望もしていた。これで、すべて終わる。暗殺は失敗した。会長に、正体がバレた。家族を取り戻す道は、断たれた。そして俺は――味方のふりをして、近づいて、裏切ろうとした、最低の人間として、ここに立っている。
会長は、俺を見ていた。何かを見極めようとするように。すぐには動かなかった。襲いかかってもこなかった。ただ、警戒の目で、俺と短剣を見ている。
「……どうして」
会長が、低い声で言った。
「どうして刺さなかったの。今、刺せばよかったのに」
俺は答えられなかった。
どうして刺さなかったのか。歌のせいだ。約束の記憶のせいだ。だが、それをどう説明すればいい。麻痺していた感情が戻ってきて、刺せなくなった、なんて。
「……分かりません」
俺はようやく、それだけ言った。
「自分でも、分からないんです」
それは嘘ではなかった。本当に、分からなかった。なぜ自分が、ここまで来て刺せなかったのか。家族のためだと、決めていたのに。覚悟を半分、固めていたのに。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
あの歌が聞こえた瞬間。俺はもう、人殺しにはなれなかった。
歌は、まだ続いている。屋上の空に。電気の消えた、東京の空に。
俺を闇から引き戻した、その歌が――どこまでも優しく、響いていた。




