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第4話 ハサミの少女

山の水場を離れる前に、俺は荷物を三つに分けた。


 一つ目は、絶対に持っていくもの。


 水。最低限の食料。ナイフ。ロープ。救急セット。防水ノート。鉛筆。雨具。小さな布袋に入れたマッチ。


 二つ目は、拠点に残しておくもの。


 テント。寝袋。調理道具の大半。アルファ米や缶詰などの保存食。予備の水容器。ガスボンベ。


 三つ目は、隠すもの。


 使わないが奪われると困る道具類だ。


 誰かがこの水場を見つける可能性は低い。けれど、ゼロではない。俺たちが街に下りている間に、偶然誰かが来るかもしれない。


 だから、テントはそのままにはしなかった。


 完全撤収まではしないが、目立つ色のフライシートは外して畳み、木の陰に隠す。食料は一ヶ所にまとめず、二つに分けて別々の場所へ置いた。


 こういう時、物資を一ヶ所に置くのは危ない。


 見つかったら全部失う。


 分散しておけば、片方を失ってもまだ何とかなる。


「燈真、そこまでやる?」


 澪奈が少し呆れたように言った。


「やる」


「誰も来ないと思うけど」


「来なければそれでいい。来た時に困る」


「……なんか本当に終末サバイバルって感じ」


「実際そうだろ」


「まだ二日目なのに」


「二日目だからだ。みんな混乱してる。ルールも決まってない。たぶん、今が一番危ない」


 昨日は、誰も状況を理解していなかった。


 今日は違う。


 電気が戻らないことに気づく。水が足りないことに気づく。食料が傷み始めることに気づく。スマホが使えないこと、車が動かないこと、連絡が取れないことを、みんなが現実として受け入れ始める。


 その時、人がどう動くか。


 見ておく必要があった。


 そしてもう一つ。


 神力。


 俺の手から火が出た。風も起こせた。


 もしそれが俺だけではないのなら、街にも何かが起きているはずだ。


 昨日の夜、誰かが同じように能力を使った可能性がある。あるいは、まだ気づいていないだけで、体の中に同じようなエネルギーを抱えている人間がいるのかもしれない。


 それを確かめる必要がある。


「澪奈」


「なに?」


「街では、俺が火を出せることは言うな」


「分かってる」


「俺が何か変なことをしても、できるだけ驚くな」


「それは無理かも」


「努力しろ」


「燈真が人前で火とか出さなければいいでしょ」


「出さないつもりではいる」


「つもり禁止」


「出さない」


「よし」


 澪奈は満足そうに頷いた。


 その顔を見ると、少しだけいつもの日常に戻ったような気がした。


 だが、俺たちが山道を下り始めると、その錯覚はすぐに消えた。


 街へ近づくにつれて、人の気配が増えていく。


 電気のない朝は静かだったが、人間は静かではなかった。


 道路には歩く人が増えていた。自転車を押す者もいる。荷物を抱えた家族連れもいる。制服姿の高校生もいた。会社員らしいスーツ姿の大人もいたが、昨日までの通勤とはまるで違う。


 みんな、目的地を持っているようで、持っていない。


 どこかへ行けば何とかなると思って歩いている。


 そんな顔だった。


「人、多いね」


「ああ」


「昨日より多い」


「電車が動かないからな。駅に行っても意味がないと分かった人間が、水や食料を探し始めたんだろ」


「……水」


 澪奈の声が沈む。


 昨日、川沿いに集まっていた人たちの姿を思い出したのだろう。


 俺たちは、まず川へ近づいた。


 昨日より人が増えていた。


 川岸には、列のようなものができている。誰かが勝手に順番を作ったのかもしれない。だが、それが守られているかは怪しかった。


 大きなポリタンクを持った男が、川の近くで怒鳴っている。


 別の女が、子供を抱えながら何かを訴えている。


 川の水を汲んでいる人間もいれば、その場で濾そうとしている人間もいる。中には、煮沸もせずにペットボトルへ詰めている者もいた。


 危ない。


 そう思った。


 あの水をそのまま飲めば、体を壊す人間が出る。


 だが、知識がない人間は「水が透明なら飲める」と思うかもしれない。いや、透明ですらない水でも、喉が渇けば飲んでしまうかもしれない。


「燈真、あれ……大丈夫なの?」


「大丈夫じゃない」


「言わなくていいの?」


「言って聞くと思うか?」


「……分かんない」


「俺があそこで『その水は危ない』って言ったら、じゃあお前は安全な水を持っているのかって話になる」


「それは……」


「水場を知られるわけにはいかない」


 澪奈は唇を噛んだ。


 人を見捨てるようで、気分は悪い。


 俺だってそうだ。


 だが、俺たちは全員を助けられる立場ではない。


 安全な水場を持っていることが知られれば、俺たちの方が危険になる。山の水場は二人で使うには十分でも、大勢を支えられる量ではない。


 正義感で場所を明かせば、最後は誰も救えない。


「行くぞ」


「うん」


 俺たちは川から離れ、繁華街の方へ向かった。


 昨日、ゲーセンがあった場所。


 電気が消えた瞬間、世界が変わった場所。


 そこへ戻るのは気が進まなかったが、情報を集めるなら人が集まる場所を見るしかない。


 駅前に近づくと、昨日とは別の形で人が溢れていた。


 店はほとんど閉まっている。


 自動ドアが動かないため、入口を手で開けたままにしている店もあった。コンビニは棚がかなり空になっている。スーパーの前には人が並んでいたが、店員らしき人が外で何か説明している。


 そして、駅前の広場には配布所のようなものができていた。


 長机が並べられ、段ボール箱が積まれている。


 水のペットボトル。


 乾パン。


 栄養補助食品。


 おにぎりらしきものもあるが、数は少ない。


 自治体の職員なのか、町内会なのか、学校関係者なのか分からない人たちが、手書きの紙を掲げていた。


『水・食料配布 一人一回』


『列を作ってください』


『数に限りがあります』


 紙に書かれた文字が、やけに頼りなく見えた。


 印刷ではない。


 電気がないから印刷機も使えないのだろう。


「配布、やってるんだ」


 澪奈が少しほっとしたように言った。


「一応な」


「並ぶ?」


「並ぶ。貰えるものは貰う」


「山にある食料は?」


「ある。でも、外から貰えるなら減らさずに済む」


「なるほど」


「ただし、俺たちが二人で一緒に並ぶ必要はない。澪奈は列に並んでくれ。俺は周りを見る」


「一人で?」


「すぐ近くにいる。何かあったら呼べ」


「……分かった」


 澪奈は不安そうだったが、配布列の方へ向かった。


 俺は少し離れた場所から、広場全体を見渡す。


 人の種類が分かれている。


 家族連れ。高齢者。高校生くらいの若者。スーツ姿の大人。作業服の男たち。


 年配の人間は、配布列に並んでいるか、ベンチ周辺で固まっていることが多い。子供連れは不安そうに周囲を見ている。


 若者は、あちこち動いている。


 数人で固まっているグループもあれば、一人で周囲を観察している者もいる。スマホが使えないせいか、みんな妙に手持ち無沙汰だ。


 話し声が耳に入ってくる。


「学校、今日も休みだって」

「どうやって知ったんだよ」

「先生が直接来て言ってた」

「水、昼まで持つかな」

「避難所行く?」

「行っても人多いらしいぞ」

「昨日、変な力出したやついるってマジ?」

「火出したとか言ってた」

「嘘だろ」

「でも電気消えたんだぞ。もう何でもありじゃね?」


 俺はその言葉に反応しそうになり、意識して表情を消した。


 やはり、噂は出ている。


 火を出したやつ。


 それが本当か嘘かは分からない。


 俺以外にも同じことができる人間がいるのかもしれないし、ただの混乱した噂かもしれない。


 どちらにせよ、神力はもう街の中で囁かれ始めている。


 早い。


 あまりにも早い。


 だが、無理もない。


 世界から電気が消えるような出来事が起きたのだ。常識はもう信用できない。そんな中で、誰かが少しでも不思議な現象を見せれば、噂は一気に広がる。


「おにーさん」


 突然、横から声がした。


 反射的に一歩下がる。


 声を掛けてきたのは、高校生くらいの少女だった。


 小柄で、髪は肩より少し長い。服装はラフだが、妙に場慣れしている雰囲気がある。笑顔は軽い。だが、目はよく動いていた。


 周囲を見ている。


 俺を見ている。


 荷物も見ている。


「いくつ?」


「……初対面で年齢聞くか?」


「聞くよ。大事だし」


「何が大事なんだ」


「未成年かどうかとか? 若者かどうかとか?」


「高校生だ」


「じゃあ同じくらいだ。どこ住んでるの?」


 距離が近い。


 物理的にも、会話の踏み込み方も。


 俺は警戒を強めた。


「それを初対面に言うと思うか?」


「思わないけど聞くだけ聞く。街の方? 住宅地? 避難所? それとも、どこかの拠点?」


「キャンプしてる」


「キャンプ?」


 少女の目が少し光った。


「どこで?」


「水場」


「へえ」


「場所は言えない」


「だよねー」


 少女はあっさり笑った。


 引き際が軽い。


 だが、興味を失ったわけではない。むしろ今ので何かを確認したように見えた。


「キャンプってことは、若い人で集まってる感じ?」


「いや」


「一人?」


「二人」


「二人分かあ」


 少女は顎に手を当て、わざとらしく考え込む。


「実はさ、私、今ちょっと住むところ困ってるんだよね」


「避難所は?」


「人多すぎ。あと、色々面倒。親も今いないし」


「それで?」


「若者だけで住んでるなら、できればシェアハウスとかどうかなって」


「シェアハウス?」


「こういう時、一人より複数の方がよくない? 食料も水も、情報も、防犯も」


「それはそうだな」


「でしょ? だから混ぜてほしいなーって」


「悪いけど、道具が二人分しかない。三人は無理だ」


 少女は俺の顔をじっと見た。


 断られることは予想していたようだった。


 それでも、少しだけ残念そうに肩を落とす。


「二人分かあ……じゃあ仕方ないか」


「軽いな」


「無理に押しても嫌われるだけだし」


「もう十分怪しいけどな」


「あはは。警戒心強いね、おにーさん」


「この状況で警戒しない方がおかしい」


「それもそう」


 少女は楽しそうに笑った。


 そして、ポケットに手を入れる。


 俺はわずかに身構えた。


 少女はそれに気づいたのか、両手を少し上げるようにして見せる。


「大丈夫。武器じゃないよ。いや、武器にもなるかもしれないけど」


「余計怪しい」


「はい、これ。お近づきのしるし」


 少女が差し出したのは、ハサミだった。


 小さめの裁ちばさみのような形をしている。銀色の刃に、黒い持ち手。新品のように綺麗だった。


 俺は受け取らず、少女の手元を見た。


「なんでハサミ?」


「ハサミだから」


「答えになってない」


「便利でしょ? 布切れるし、袋開けられるし、髪も切れるし、最悪護身にもなるし」


「それはそうだが、今どこから出した」


「ポケット」


「その前は?」


 少女の笑顔が、少しだけ深くなった。


「やっぱり、おにーさん、そういうところ気にするんだ」


「どういう意味だ」


「普通なら『なんでハサミ?』で終わるのに、『どこから出した』まで聞くの、ちょっと変」


「この状況で、初対面の人間から突然ハサミを渡されたら気にするだろ」


「それもそうか」


 少女は自分の手にあるハサミを軽く開閉した。


 しゃきん、と小さな音が鳴る。


 その音は妙にはっきり聞こえた。


「これね、最近使えるようになったんだよ」


「使える?」


「超能力みたいなもの。ハサミを出せる」


 俺は、息を止めた。


 少女は俺の反応を見ていた。


 俺は表情を変えないようにした。


 だが、たぶん完全には隠せなかった。


「へえ」


 それだけ返す。


 少女はにやっと笑った。


「驚かないんだ」


「驚いてる」


「その顔で?」


「内心は」


「ふーん」


 少女はハサミを俺に差し出したまま続ける。


「しかもね、ハサミ同士で繋がってるっぽいんだよね。だから会話できる」


「……会話?」


「うん。なんでかは知らないけど、便利」


「ハサミで会話?」


「そう」


「どういう原理で?」


「知らない」


「無線か?」


「無線って今使えないんじゃないの?」


「だから聞いてる」


「知らないってば。出したハサミ同士が、なんか繋がってる。こっちで喋ると、向こうで聞こえる。向こうで喋ると、こっちで聞こえる。まだ実験中だけど」


 俺は少女の手の中のハサミを見た。


 物体を生み出す。


 しかも、同じ能力で生まれた物体同士が通信する。


 火や風とは、まったく違う。


 俺の神力は、エネルギーを外に出す感覚だった。


 火を生む。風を起こす。


 だが、この少女は物を出している。


 しかも、ただの物ではない。


 通信機能のようなものまで持っている。


 神力は、個人によって性質が違うのか。


 それとも、俺がまだ知らないだけで、俺にも物体生成ができるのか。


 分からない。


 分からないことが、一気に増えた。


「おにーさん?」


「……名前は?」


「私?」


「ああ」


「狭間千咲。千咲って呼んで」


「小鳥遊燈真」


「燈真くんね」


「呼び方は何でもいい」


「じゃあ、お兄さんで」


「名前を聞いた意味」


「雰囲気」


 千咲は軽く笑った。


 俺はようやくハサミを受け取った。


 手に持つと、普通のハサミにしか見えない。


 重さもある。冷たさもある。刃も本物だ。


 ただ、妙な違和感があった。


 うまく言えない。


 手の中にあるのに、どこか別の場所へ繋がっているような感覚。


 俺の神力が反応しているのかもしれない。


 あるいは、警戒心のせいでそう感じているだけかもしれない。


「それ、持ってていいよ」


「いいのか?」


「うん。お近づきのしるしだし。あと、気が向いたら話せるし」


「話す前提か」


「だって情報交換できた方が便利でしょ?」


「俺がそのハサミを捨てる可能性は?」


「あるね」


「分かってて渡すのか」


「捨てたら縁がなかったってことで」


 千咲はあっさり言った。


 執着していないように見える。


 だが、本当にそうかは分からない。


 この少女は、軽い。


 軽いが、何も考えていないわけではない。


 俺がキャンプしていること、水場にいること、二人で行動していることを、短い会話で聞き出した。断られても引いた。代わりにハサミを渡し、連絡手段を残した。


 距離の詰め方がうまい。


 それが少し、嫌だった。


 だが同時に、この少女は貴重な情報源になる。


 神力を持っている。


 自分の能力をある程度使っている。


 若者同士の動きにも詳しそうだ。


 警戒すべき相手。


 しかし、取引できる可能性のある相手。


 そう判断した。


「千咲」


「なに?」


「そのハサミのこと、他の人間にも言ってるのか?」


「人による」


「便利に使われるぞ」


「もう使われてるよ」


「……そうか」


「でも、こっちも使ってるからお互い様」


「強いな」


「弱いと食べられちゃうでしょ、今の街」


 軽い口調だった。


 けれど、その言葉だけは妙に現実的だった。


 今の街。


 昨日までと違う街。


 水と食料と情報と能力が価値を持つ街。


 弱ければ食べられる。


 千咲は、それをすでに理解している。


「燈真!」


 澪奈の声がした。


 振り返ると、配布列から戻ってきた澪奈が、水のペットボトルと小さな食料袋を抱えていた。


 その視線が、俺と千咲の間で止まる。


「……誰?」


「狭間千咲」


 千咲がひらひら手を振った。


「こんにちは。お兄さんの知り合い?」


「お兄さん?」


 澪奈が俺を見る。


「今知り合っただけだ」


「初対面?」


「ああ」


「初対面の女子と何してたの?」


「情報収集」


「怪しい言い方」


 澪奈は俺の手元に気づいた。


「それ、ハサミ?」


「ああ」


「なんで?」


「貰った」


「なんで初対面の女子からハサミ貰ってるの?」


「俺も聞いた」


 千咲は楽しそうに笑った。


「お近づきのしるしだよ。あと、会話できるから」


「ハサミで?」


「そう」


 澪奈は俺を見る。


 俺は頷いた。


「たぶん、神力だ」


 その言葉を口にした瞬間、千咲の目が細くなった。


「神力?」


「俺たちはそう呼んでる。仮称だ」


「へえ。いいね、それ。神力かあ」


 千咲は自分の手の中にもう一本ハサミを出した。


 いや、出した、というより。


 気づいた時には、そこにあった。


 ポケットから取り出したわけではない。


 袖から落としたわけでもない。


 手の中に、突然現れた。


 澪奈が息を呑む。


 俺は無意識に拳を握っていた。


 やはり、本物だ。


 千咲はハサミを軽く鳴らした。


「じゃあ、私も神力持ちってことだ」


「そうなる」


「燈真くんも?」


 俺は答えなかった。


 千咲はにやっと笑う。


「沈黙は肯定ってやつ?」


「好きに解釈しろ」


「じゃあ肯定ってことで」


「勝手にするな」


「でも、ハサミ見ても全然騒がなかったし。やっぱり何かあるんだよね?」


 まずい。


 やはり、反応が薄すぎた。


 普通ならもっと驚く。怯えるか、疑うか、騒ぐかする。


 俺は神力の存在を知っていたから、驚きを抑えすぎた。


 千咲はそれを見逃さなかった。


「燈真」


 澪奈が不安そうに俺を見る。


 俺は小さく首を振った。


 ここで火を出すわけにはいかない。


 能力を明かす必要もない。


 ただ、完全に関係を切るのも惜しい。


「今は話せない」


 俺は千咲に言った。


「でも、そのハサミが本当に会話できるなら、後で連絡する」


「お、前向き」


「情報交換ができるならな」


「できるよ。こっちも情報ほしいし」


「何の?」


「水場、食料、避難所、危ないグループ、神力持ちの噂。あと、できれば住む場所」


「最後が本音か」


「全部本音」


 千咲は悪びれなかった。


 その方が、まだ信用できる。


 善意だけを並べる相手より、欲しいものを隠さない相手の方が読みやすい。


「燈真くんたち、また街に来る?」


「必要があれば」


「じゃあ、その時でもいいし、ハサミで話してもいいよ」


「どうやって話す」


「ハサミに向かって喋ればいい」


「雑だな」


「仕組み分かんないもん」


「通信距離は?」


「まだ不明」


「音量は?」


「こっちで調整できるっぽい」


「盗み聞きは?」


「分かんない」


「危なすぎるだろ」


「だから実験中だってば」


 俺は頭が痛くなってきた。


 便利だ。


 だが、危険だ。


 こんなものを通信手段として使えば、どこで誰に聞かれるか分からない。そもそもハサミを通じた会話が、千咲だけに届く保証もない。


 けれど、この世界で通信手段が存在するというだけで価値がある。


 スマホも無線も使えない今、ハサミで会話できるという能力は異常だ。


 千咲自身がその価値をどこまで理解しているのかは分からないが、少なくとも利用はしている。


「そろそろ行く」


 俺は言った。


「えー、もう?」


「長くいると目立つ」


「確かに。二人とも服、きれいだしね」


 千咲の言葉に、俺は眉を動かした。


「服?」


「うん。昨日今日でみんな結構ぐちゃぐちゃなのに、お兄さんたち、わりと落ち着いてる。荷物もちゃんとしてるし。だから声かけた」


 そういうことか。


 俺たちは山の水場にいる。


 服はまだ汚れているが、川に集まる人たちや駅前で夜を明かした人たちに比べれば、かなりましなのだろう。


 澪奈は昨日までと同じように見える。


 それ自体が、今は異常なのかもしれない。


「……次から気をつける」


「え?」


 澪奈が首を傾げる。


「目立ってる」


「私たちが?」


「ああ」


 清潔でいること。


 落ち着いていること。


 荷物が整っていること。


 それは今の街では、余裕がある証拠に見える。


 余裕がある人間は、何かを持っていると思われる。


 水か、食料か、安全な拠点か、能力か。


 千咲のような人間がそれに気づくなら、他にも気づく者が出る。


「燈真くん、ほんと警戒心強いね」


「弱いと食べられるんだろ」


「あは。言ったね、私」


 千咲は笑った。


「じゃあ、またね。ハサミ、捨てないでよ?」


「保証はしない」


「ひど」


「信用してないからな」


「正直でよろしい」


 千咲はもう一度手を振り、人混みの中へ軽い足取りで消えていった。


 俺はその背中を見送る。


 澪奈が隣で小さく言った。


「……変な子だったね」


「ああ」


「でも、神力持ちなんだよね」


「たぶんな」


「燈真だけじゃなかった」


「ああ」


 その事実は重かった。


 俺だけが異常なのではない。


 世界のあちこちで、何かが始まっている。


 神力は個人によって違う。


 少なくとも、俺の火や風と、千咲のハサミは違う。


 なら、澪奈にも何かあるのかもしれない。


 街のどこかにも、別の力を持った人間がいるのかもしれない。


「戻るぞ」


「うん」


 俺たちは配布された水と食料を持ち、繁華街を離れた。


 帰り道、俺は何度も後ろを確認した。


 誰かにつけられている気配はない。


 だが、安心はできない。


 街の空気は昨日より悪くなっていた。


 焦りがある。


 不満がある。


 期待がある。


 そして、神力という噂が混じり始めている。


 これは危険だ。


 水や食料と同じように、能力も奪い合いの対象になる。


 山道に入ってしばらくして、澪奈が口を開いた。


「ねえ、燈真」


「なんだ」


「千咲ちゃん、私たちのことどう思ったかな」


「水場持ち。物資持ち。神力持ち候補」


「うわあ」


「たぶん、また接触してくる」


「どうするの?」


「情報は欲しい。だが、拠点の場所は絶対に教えない」


「ハサミは?」


 俺はポケットの中のハサミに触れた。


 普通の金属の感触がある。


 だが、ただのハサミではない。


 通信できるかもしれない神力の道具。


「使うかどうかは、慎重に決める」


「捨てないんだ」


「捨てるには惜しい」


「危ないのに?」


「危ないからこそ、調べる価値がある」


「燈真、そういうとこだよ」


「自覚はある」


 山の水場に戻る頃には、昼を少し過ぎていた。


 隠しておいた荷物は無事だった。


 テントも荒らされていない。


 それを確認して、ようやく少し息が抜けた。


 澪奈は配布された水を並べながら言う。


「今日の収穫、結構あったね」


「水と食料。街の状況。神力持ちの存在。ハサミ」


「最後だけ変」


「一番重要かもしれない」


「そうなの?」


「通信手段は貴重だ」


 俺はハサミを取り出し、地面に置いた。


 澪奈は少し離れて座る。


「今、話してみるの?」


「いや。まず観察する」


「観察って?」


「勝手に音が出るか。こちらの声が向こうに漏れているか。消えるかどうか。普通のハサミとして使えるか」


「実験する気満々だ」


「当然だろ」


 俺はノートを開き、千咲の情報を書き込んだ。


 狭間千咲。


 高校生くらい。


 神力:ハサミ生成?


 生成したハサミ同士が接続し、会話可能らしい。


 通信原理不明。


 物体生成型の可能性。


 本人は若者の住居、食料、水、情報を求めている。


 警戒心はあるが、距離の詰め方が軽い。


 交渉可能性あり。


 そこまで書いた時だった。


 地面に置いたハサミが、かすかに鳴った。


 しゃきん。


 澪奈が肩を跳ねさせる。


 俺はハサミを見た。


 触っていない。


 風で動いたわけでもない。


 ハサミの刃が、わずかに開いて閉じた。


 そして、そこから声がした。


『もしもーし。聞こえてる?』


 千咲の声だった。


 澪奈が俺を見る。


 俺はハサミを見下ろしたまま、息を止めた。


『燈真くーん? 捨ててないなら返事してー』


 電気のない世界で。


 スマホも無線も使えない世界で。


 地面に置いたハサミが、当たり前みたいに人の声を運んでいた。


 俺は小さく息を吐く。


 そして、ノートの余白に一行だけ書き足した。


 神力は、俺の想像よりずっと面倒くさい。

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