第3話 手のひらの火
俺の手のひらの上で、火が燃えていた。
指先ほどの小さな火だ。
焚き火のように大きくはない。ガスバーナーのように勢いがあるわけでもない。マッチの先に灯る火を、ほんの少しだけ大きくしたくらいの炎。
それなのに、俺は目を離せなかった。
火というものは、普通、何かが燃えているから存在する。
木でも、紙でも、ガスでも、油でもいい。燃料があり、酸素があり、熱がある。そうして初めて火は生まれる。
だが、今の火には燃料がない。
俺の手のひらには何も乗っていない。
指先も、皮膚も、服の袖も燃えていない。
それなのに火はある。
淡く揺れながら、空気を照らしている。
「燈真」
澪奈の声が震えていた。
「それ、本当に大丈夫なの?」
「……分からない」
「分からないのに出してるの?」
「出そうと思ったら、出た」
「怖いこと言わないでよ」
それは俺も同感だった。
自分の体から、よく分からない火が出ている。
冷静に考えれば、怖い以外の何ものでもない。
俺は手を握った。
火が消える。
周囲が一気に暗くなった。
消えた。
つまり、少なくとも止めることはできる。
「消えた……」
澪奈がほっと息を吐いた。
俺は手のひらを顔の前に持ってきて、じっと見る。
火傷はない。
痛みもない。
焦げた匂いもしない。
ただ、胸の奥に妙な空白感があった。
体力を使った時とは違う。走った後の息苦しさでも、重い荷物を背負った後の筋肉の疲れでもない。
もっと曖昧なものだ。
自分の中にある見えない貯水槽から、コップ一杯分だけ水を抜かれたような感覚。
「燈真?」
「……減った」
「何が?」
「分からない。けど、何かが減った」
「なにそれ」
「俺が聞きたい」
俺は自分の胸に手を当てた。
心臓は普通に動いている。
息もできる。
意識もはっきりしている。
痛みもない。
だが、確かに何かを消費した感覚がある。
これが何なのか分からない以上、むやみに繰り返すのは危険だ。
火が出た。
便利だ。
そう単純に喜べる状況ではなかった。
「もう一回やるの?」
澪奈が不安そうに聞いてくる。
「やる」
「ええ……」
「今しか分からないことがある」
「今やらなくてもよくない?」
「寝て起きたら出せなくなる可能性もある。逆に、寝てる間に暴発する可能性もある。制御できるか確認しない方が怖い」
「それは……そうかもしれないけど」
澪奈は納得しきれない顔をしていた。
俺も、本音ではやりたくない。
未知の現象を、自分の体で試すのは危険すぎる。
だが、知らないまま放置する方がもっと危険だ。
火が出る。
それだけならまだいい。
もし感情で勝手に燃え上がるなら?
寝ぼけてテントを燃やしたら?
怒った拍子に澪奈を傷つけたら?
そう考えると、最低限、出す方法と消す方法、規模の限界は確認しておく必要があった。
「澪奈、少し離れてろ」
「どのくらい?」
「テントの外。水持って」
「水で消えるの?」
「普通の火なら消える」
「普通の火じゃなかったら?」
「その時は走れ」
「最悪」
「俺もそう思う」
澪奈は文句を言いながらも、ペットボトルを持って少し離れた。
俺はテントから離れ、水場に近い土の上へ移動する。
周囲に燃えやすいものがないことを確認する。
枯れ葉をどける。
乾いた枝も足で払う。
手元には水を置く。
それから、深く息を吸った。
さっきの感覚を思い出す。
火。
熱。
小さな炎。
体の奥にある何かを、指先へ移す。
そう意識した瞬間、また胸の奥が少しだけ減った。
同時に、手のひらの上に火が灯る。
「……出た」
澪奈が小さく呟いた。
俺は火を見つめたまま、少しだけ手を動かす。
火は手のひらから離れない。
風に揺れるように揺らめくが、俺の動きについてくる。
熱はある。
手のひらにほんのりとした温かさがある。
だが、痛みはない。
火傷もしない。
「燃料は俺か?」
「怖いこと言わないで」
「でも、何かが減ってる」
「寿命とかじゃないよね?」
「やめろ」
否定したかったが、否定できる材料はなかった。
もしこれが寿命や生命力を燃やしているのだとしたら、洒落にならない。
ただ、今のところ体調に大きな異変はない。
火を大きくしようと意識する。
炎が少しだけ膨らんだ。
マッチの火から、ろうそくの火くらいになる。
さらに大きくしようとすると、胸の奥の消費が増えた。
俺は慌てて意識を緩める。
火が小さくなる。
「……大きさは変えられる」
「それ、すごいの? 怖いの?」
「両方」
「でしょうね」
次に、俺は地面に置いた細い枝へ火を近づけた。
枝の先が焦げる。
やがて、小さく火が移った。
「普通に燃えるな」
「つまり本物の火?」
「少なくとも熱はある。物も燃やせる」
「じゃあ危ないじゃん」
「かなり危ない」
枝に移った火を水で消す。
じゅっと音がした。
普通の火と同じように消えた。
それを確認して、俺は手の火も消す。
周囲がまた暗くなる。
心臓が少しだけ速くなっていた。
怖い。
怖いが、同時に、頭の奥が熱くなる。
これは何だ。
電気が消えた世界で、なぜ俺の体から火が出る。
この現象は、電気の消失と関係しているのか。
それともまったく別の何かが、同じタイミングで起きたのか。
「燈真」
「なんだ」
「顔、怖い」
「火を出してるんだから怖いだろ」
「そうじゃなくて、なんか実験してる時の顔」
「実験してるからな」
「自分の体で?」
「それしか材料がない」
「嫌な研究者みたいなこと言わないで」
澪奈は眉を寄せていた。
心配しているのだろう。
それは分かる。
でも、俺は止まれなかった。
「澪奈」
「なに?」
「お前は何か変な感覚あるか?」
「変な感覚?」
「体の中に、見えないエネルギーみたいなものがある感覚」
澪奈は目を瞬かせた。
それから、自分の胸に手を当てる。
「……分かんない」
「何もない?」
「ない、と思う。いや、分かんない。そう言われるとある気もするけど、気のせいかも」
「そうか」
「燈真は分かるの?」
「ああ。さっきから、火を出すたびに何かが減ってる」
「それ大丈夫なの?」
「今はまだ」
「今は、って言い方やめてよ」
澪奈の声が少し強くなる。
俺は口を閉じた。
澪奈は普段、軽い。
怖がりで、ゲーセンに一人で行けないくせに、妙に図々しく俺を連れ回す。だけど、本当に嫌なことはちゃんと嫌だと言う。
今の澪奈は、明らかに嫌がっていた。
「燈真が何か調べたいのは分かるけどさ」
「ああ」
「でも、燈真が倒れたら終わりだからね?」
「……そうだな」
「私、山の水場の場所は覚えたけど、ここで一人になったら普通に詰むよ」
「そこまで情けなくはないだろ」
「情けないよ。火も起こせないし、テントも一人じゃ畳めないし、虫も無理だし」
「堂々と言うな」
「だから、燈真が自分を実験台にしすぎるのは困る」
澪奈はまっすぐ俺を見た。
「私のためにも困る」
その言い方は、ずるかった。
自分が心配だからやめろ、と言われたら、俺はたぶん困った顔をするだけだった。
だが、澪奈が困ると言われると、無視しづらい。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった。今日はこれ以上大きな実験はしない」
「小さい実験は?」
「必要最低限」
「それ、絶対やるやつじゃん」
「火の出し方と消し方だけ確認する」
「もうしたでしょ」
「あと、暴発しないか」
「それ確認ってどうやるの」
「寝る」
「実験雑じゃない?」
「寝てる間に燃えなければ、ひとまず合格だ」
「不合格だったら?」
「テントが燃える」
「やっぱり怖い!」
結局、その夜はテントの外に水を置き、燃えやすいものをできるだけ遠ざけてから寝ることにした。
寝ると言っても、すぐには眠れなかった。
テントの中は暗い。
電気の明かりはない。
ケミカルライトの淡い光だけが、布越しにぼんやりと広がっている。
澪奈は寝袋に入っていたが、目は開いていた。
「燈真、起きてる?」
「起きてる」
「だよね」
「眠れないのか?」
「眠れると思う?」
「思わない」
「じゃあ聞かないでよ」
「一応」
沈黙が落ちる。
外では虫が鳴いている。
遠くの街の音は聞こえない。
いや、聞こえないというより、街自体が音を失っているのだろう。
電気があった頃、夜はこんなに静かではなかった。
車の音。室外機。遠くの電車。どこかの家のテレビ。人の生活音。
そういうものが全部消えた夜は、山の中にいると逆に自然すぎて怖い。
「ねえ」
「なんだ」
「燈真のそれって、魔法なのかな」
「分からない」
「魔法だったらすごいね」
「すごいより先に危険だろ」
「そうだけど」
「それに、魔法って言うには変だ」
「なんで?」
「今日、世界から電気が消えた。スマホも車もライトも使えない。でも人間は生きてる」
「うん」
「人間の体も電気を使ってるはずだ。神経も脳も心臓も」
「そうなの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「専門家じゃないからな。でも、少なくとも電気信号は関係してる」
「じゃあ、電気が本当に全部消えたなら、人間も動けないってこと?」
「普通に考えれば」
澪奈が黙った。
暗闇の中で、息を呑む気配がする。
「でも、私たちは動いてる」
「ああ」
「つまり?」
「体の中の電気だけは残ってるのか、あるいは別の何かに置き換わってるのか」
「別の何かって?」
「分からない」
「またそれ」
「分からないものは分からない」
俺は自分の手を見た。
暗くてよく見えない。
だが、あの火の感覚は残っている。
体の奥にある見えない貯水槽。
それを消費して火を作る感覚。
「仮に、体の中の電気的なものが別のエネルギーに置き換わったとする」
「うん」
「それを外に出せたのが、さっきの火かもしれない」
「燈真だけ?」
「分からない。俺だけかもしれないし、澪奈にもできるかもしれない。世界中の人間にできるのかもしれない」
「みんな火を出せるようになったら危なくない?」
「危ないな」
「めちゃくちゃ危ないじゃん」
「だから、明日街を見に行く必要がある」
「明日もう行くの?」
「状況確認だけだ。水場を確保したから、次は情報が必要になる」
「……燈真って、本当に止まらないね」
「止まったら不安になる」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
それはたぶん、本音だった。
考えて、動いて、準備している間はまだいい。
何もせずに座っていると、余計なことを考える。
東京にいる両親。
京都にいる妹。
帰ってこられない理由。
連絡が取れない現実。
そして、昔のこと。
人の善意を信じられなくなったあの頃のこと。
止まると、全部が追いついてくる。
だから動く。
動いている間だけは、まだ呼吸ができる。
「……そっか」
澪奈はそれ以上、何も聞かなかった。
ありがたかった。
しばらくして、澪奈の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
眠ったらしい。
俺はしばらく目を開けていた。
手のひらから火が出る。
そんな馬鹿げた現象が、自分に起きた。
恐怖はある。
だが、それ以上に気になる。
仕組みを知りたい。
限界を知りたい。
他にもできることがあるのか知りたい。
そして、この力が何を意味するのか知りたい。
もし、これが本当に電気消失と同時に生まれた新しいエネルギーなら。
世界はただ壊れただけではない。
別のものに変わったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はいつの間にか眠っていた。
翌朝。
目を覚ました時、テントは燃えていなかった。
それだけで、少しだけ安心した。
「生きてる……」
隣で澪奈が寝袋から顔だけ出して呟く。
「おはよう」
「おはよう。テント燃えてない」
「合格だな」
「何の?」
「睡眠時暴発試験」
「そんな試験名つけないで」
澪奈は眠そうな目をこすりながら起き上がった。
外に出ると、山の朝は思ったより平和だった。
鳥が鳴いている。
風が木々を揺らしている。
湧き水は変わらず流れている。
街の方角には、薄い霞のようなものが見えた。
煙か、朝靄か。
まだ分からない。
「水汲んでくる」
「私も行く」
二人で水場へ向かう。
昨夜は暗くて分かりづらかったが、明るくなると周囲の地形がよく見えた。
湧き水は岩の間から流れ出し、細い溝を伝って下へ落ちている。水量は多くないが、二人分なら十分だ。
俺は浄水器を使い、容器に水を溜めた。
澪奈はその横で、ぼんやりと水を見ている。
「これがあるだけで、全然違うんだよね」
「ああ」
「川に人が集まってたもんね」
「今日にはもっと増えるだろうな」
「……あそこに戻りたくない」
「戻る必要はある。情報が必要だから」
「うう」
「でも拠点はここだ」
「それは助かる」
朝食は簡単に済ませることにした。
問題は火だ。
昨日はマッチを使った。
だが、今日は試すべきことがある。
「澪奈、少し離れてろ」
「また?」
「火をつけるだけだ」
「その火をつけるだけが怖いんだけど」
「昨日より小さくやる」
「信用していいの?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
澪奈はそう言いつつも、少し離れた位置に座った。
俺はガスバーナーを用意する。
ボンベをつなぎ、つまみを少し開ける。
普段ならライターか点火装置で火をつけるところだ。
俺は指先に小さな火を灯す。
昨日より、少しだけ簡単だった。
体の奥の何かが減る感覚も、昨日よりはっきり分かる。
無理に大きくしない。
ただ、マッチの火ほどでいい。
その火をバーナーへ近づける。
ガスに火が移った。
青い炎が安定する。
「……できた」
澪奈が目を丸くする。
「普通に便利だね」
「ああ」
「マッチいらないじゃん」
「便利すぎて怖いな」
「その感想、燈真っぽい」
俺は手の火を消した。
消すのも昨日より楽だった。
出す。
維持する。
消す。
少なくともこの三つは、意識すればできる。
朝食を作りながら、俺は何度も手の感覚を確かめた。
火を出すたびに、体内の何かが減る。
だが、食事をしたり休んだりすると、少しずつ戻っているようにも感じる。
完全な体力ではない。
でも無関係でもない。
空腹や疲労と連動している可能性はある。
「メモが欲しいな」
「スマホ使えないよ」
「紙のノートがある」
「準備良すぎ」
「キャンプで記録つけることもあるからな」
俺は荷物から小さな防水ノートと鉛筆を取り出した。
ボールペンは使えるか分からないが、鉛筆なら問題ない。
そこに書く。
電気消失一日目。
スマホ、車、照明、電池式ライト使用不能。
マッチ、ガスバーナーは使用可能。
手のひらから火を出せる現象を確認。
燃料不明。
使用時、体内の未知エネルギーを消費する感覚あり。
火は可燃物に燃え移る。
水で消火可能。
睡眠時の暴発なし。
俺が書いていると、澪奈が横から覗き込んできた。
「燈真、研究者みたい」
「必要だから記録してるだけだ」
「その未知エネルギーって名前ないの?」
「名前?」
「毎回『体の中の何か』って言うの面倒じゃない?」
「それはそうだが」
「魔力とか?」
「魔法っぽすぎる」
「じゃあ霊力?」
「怪しすぎる」
「気?」
「雑すぎる」
「注文多いな」
澪奈は少し考え込んだ。
それから、ふと思いついたように言う。
「神力」
「じんりき?」
「しんりょく。神様の力っぽいやつ」
「急に宗教感出たな」
「でも、世界中の電気が消えて、人間だけ謎エネルギーで動いてて、燈真の手から火が出るんでしょ? もう神様のせいにするしかなくない?」
「安易だな」
「仮の名前なんだからいいじゃん」
仮の名前。
たしかに、呼び名は必要だった。
魔力ではない。
電力でもない。
体力でもない。
何か分からない、生命体に宿るらしい未知のエネルギー。
神力。
雑だが、覚えやすい。
「……仮称としてはありか」
「でしょ」
俺はノートに書き足した。
未知エネルギー、仮称:神力。
「採用された」
「仮だ」
「はいはい」
澪奈は少し嬉しそうだった。
その様子を見て、俺はふと思った。
俺に神力があるなら、澪奈にもあるのか。
昨日の時点では分からないと言っていた。
だが、俺も火を出すまで自覚はなかった。体の奥の感覚も、使って初めて分かった。
なら、澪奈にも何かある可能性がある。
それどころか、世界中の人間に何かしらある可能性もある。
「澪奈」
「なに?」
「お前も試すか」
「何を?」
「神力」
澪奈は露骨に嫌そうな顔をした。
「やだ」
「即答か」
「だって怖いし。火出たらどうするの」
「水場の近くでやる」
「爆発したら?」
「離れる」
「雑」
「正直、何が出るか分からない」
「じゃあ余計嫌だよ!」
正論だった。
俺も無理にやらせるつもりはない。
だが、知らないままでいるのも危険だ。
「今すぐじゃなくていい。ただ、もし澪奈にも何かあるなら、知らないより知っていた方がいい」
「……それは分かるけど」
「火とは限らない。むしろ同じとは限らない」
「なんで?」
「俺だけが火を出せる理由が分からないからだ。全員同じなら、世界中で昨日の夜に火事が起きまくってるはずだ」
「それは怖い」
「でも今のところ、街全体が燃えてるようには見えない」
「じゃあ、人によって違うかもしれないってこと?」
「あるいは、使える人間と使えない人間がいるか」
澪奈は自分の手を見た。
「私、何が出るんだろ」
「分からない」
「水とか出たら便利じゃない?」
「かなり便利だな」
「じゃあ水がいい」
「希望制ではないと思うぞ」
「分かってるけど、火より安全そうじゃん」
「大量に出て溺れる可能性もある」
「なんでそういうこと言うの?」
「危険予測」
「嫌な予測」
澪奈は頬を膨らませた。
少しだけ空気が軽くなる。
それがありがたかった。
世界が壊れても、澪奈は澪奈のままだ。
怖がりで、文句を言って、俺に突っ込む。
その普通さが、今はかなり貴重だった。
朝食後、俺はもう一つ実験することにした。
火以外に何かできるのか。
ただし危険なものは避ける。
雷や爆発、強い熱は論外。
水も制御できなければ危険だ。
まずは、もっと安全そうなもの。
「風を試す」
「風?」
「火よりはマシだろ」
「突風で吹っ飛ばされたら?」
「小さくやる」
「その小さくが信用できないんだって」
澪奈を少し離れさせ、俺は手のひらを前に向けた。
火を出す時と同じように、体の奥の神力を意識する。
ただし、火ではない。
熱ではない。
空気を動かす。
扇風機のように。
息を吹くように。
手の前の空気を押す。
最初は何も起きなかった。
火よりもイメージが難しい。
火は視覚的に分かりやすい。だが、風は見えない。
俺は周囲の草を見た。
葉が揺れる。
空気が流れる。
その流れを、手のひらの前に作る。
胸の奥がわずかに減った。
次の瞬間、手元からふわりと風が生まれた。
足元の枯れ葉が少しだけ動く。
「……今、動いた?」
澪奈が目を丸くした。
「ああ」
もう一度やる。
今度は少し強めに。
手のひらから、扇風機の弱風くらいの風が吹いた。
近くの草が揺れる。
「風だ」
「燈真、火だけじゃないの?」
「らしいな」
「なにそれ。魔法使いじゃん」
「だから魔法と決めるのは早い」
「でも火と風だよ? もう属性じゃん」
「属性って言うな。思考停止する」
「面倒くさい研究者だなあ」
俺は風を止める。
火より消費は少ない気がした。
いや、火と違って熱を生み出していない分、少ないのかもしれない。
だが、空気を動かしている。
つまり、エネルギーは使っている。
「火と風……」
俺はノートに書き込む。
火:発生可能。熱、光、燃焼を伴う。
風:発生可能。空気を移動させている?
水:未検証。
電気:不明。
そこまで書いて、手が止まった。
電気。
失われたもの。
この世界から消えたもの。
俺の中の神力が、もし電気の代わりに体を動かしているのだとしたら。
そして俺が、その神力を外へ出せるのだとしたら。
火を作れる。
風を作れる。
なら、もしかして。
いや、今はまだ早い。
電気を試すのは危険すぎる。
感電、機器の破損、暴発。
そもそも、電気という現象が消えた世界で、それを再現できるかどうかも分からない。
だが、考えは頭から離れなかった。
「燈真?」
「……いや」
「また怖い顔してる」
「考えてただけだ」
「何を?」
「この力が、どこまでできるのか」
「無茶しないでよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん禁止って言った」
澪奈は呆れたように言った。
俺はノートを閉じた。
神力。
火。
風。
電気を失った世界で、人間の中に生まれたかもしれない新しい力。
この力が俺だけのものなのか、澪奈にもあるのか、他の人間にもあるのか。
それを知らなければならない。
水場と食料だけでは生き残れない。
情報が必要だ。
街の様子を見る必要がある。
そして、できれば、他に同じような現象が起きている人間を探す必要がある。
危険だ。
だが、避けては通れない。
「澪奈」
「なに?」
「今日は一度、街に下りる」
「やっぱり?」
「ああ。配布があるか、水道がどうなってるか、人がどう動いてるか確認する。それと」
「それと?」
「神力を使える人間が、他にいるかもしれない」
澪奈は不安そうに眉を寄せた。
「いたらどうするの?」
「情報を集める」
「危ない人だったら?」
「近づかない」
「燈真は近づきそう」
「必要ならな」
「ほら」
「必要な情報は取りに行く。でも、無理はしない」
澪奈は疑うような目で俺を見た。
信用されていない。
まあ、当然だ。
俺はたぶん、興味を持つと危険でも近づく。
それを自覚しているから、余計に慎重になる必要があった。
「じゃあ、約束」
「何を」
「一人で勝手に変な実験しない」
「……努力する」
「約束」
「分かった。約束する」
「あと、街で危なそうだったらすぐ戻る」
「ああ」
「あと、私を置いて勝手に行かない」
「それは状況による」
「燈真」
「……分かった」
澪奈はようやく少しだけ納得したようだった。
俺は荷物を整理する。
街に下りるなら、全部は持っていけない。
テントと大半の食料は隠す。最低限の水と食料、ナイフ、ロープ、救急用品だけ持つ。火は、使わない方がいい。人前で見せるには危険すぎる。
自分の手を見る。
昨日までただの手だった。
今は火を出せる。
風も起こせる。
それは便利で、危険で、何より意味が分からない。
だけど、少なくとも一つだけ分かっていることがある。
この世界は、昨日までとは違う。
電気を失っただけではない。
何か別のものが、始まっている。
俺はノートの最後に、もう一度だけその言葉を書いた。
神力。
仮の名前にすぎない。
けれど、その二文字は、これからの世界を説明する最初の手がかりになる気がした。




