第2話 山の水場
電気の消えた街は、夜になる前からもう夜みたいだった。
まだ空には夕焼けの名残がある。西の方は薄い橙色に染まっていて、雲の輪郭も見える。けれど、街そのものには明かりがなかった。
街灯はつかない。
家の窓にも光はない。
コンビニの看板も、スーパーの照明も、自販機のランプも、信号機の赤も青もない。
そのせいで、夕方の住宅街は奇妙なくらい沈んで見えた。
「……ほんとに真っ暗になるんだね」
隣を歩く澪奈が、ぽつりと言った。
背中には、俺が貸した小さめのリュックを背負っている。中には軽い食料と着替え、それからペットボトルの水を数本入れてある。
重すぎる荷物は持たせていない。
澪奈は運動が得意なタイプではない。こういう状況では、重い荷物を持たせて足を止めるより、軽くして動けるようにした方がいい。
重いものは俺が背負っていた。
テント。寝袋。水。調理道具。ガスバーナー。救急セット。保存食。
肩に食い込む重さはかなりある。
だけど、不思議と嫌ではなかった。
何を持つべきか、どこへ行くべきか、何を避けるべきか。
そういうことだけ考えていればいいのは、楽だった。
「夜になったらもっと暗いぞ」
「怖がらせに来てる?」
「事実確認だ」
「そういうところだよ、燈真」
「どういうところだよ」
「嘘でも『大丈夫』って言ってくれればいいのに」
「大丈夫かどうか分からないことに大丈夫とは言えない」
「……まあ、そういう方が燈真っぽいけど」
澪奈は小さく息を吐いた。
住宅街の道には、ちらほら人が出ていた。
家の前で近所の人と話している大人。懐中電灯がつかないと困っている老人。泣いている子供を抱きしめる母親。自転車を押しながら駅の方へ向かう男。
誰もが、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
無理もない。
俺だって分からない。
停電、なんて言葉では説明できない。
スマホもつかない。車も止まっている。バッテリーも電池も死んでいる。まるで、この世界から電気という現象そのものが抜き取られたみたいだった。
そんなことがあり得るのか。
分からない。
だが、あり得るかどうかを考えている余裕はない。
現に起きているなら、それに合わせて動くしかない。
「まず川の近くを通る」
「え? 山に行くんじゃないの?」
「行く。でもその前に確認する」
「何を?」
「人の流れ」
澪奈は不安そうに俺を見た。
「人の流れって?」
「みんながどこに集まるか分かれば、避ける場所も分かる」
「……なんか本当に災害みたい」
「災害だろ」
「いや、そうなんだけど。燈真が言うと現実味が増すから嫌」
俺たちは住宅街を抜け、少し広い道に出た。
普段なら車通りが多い道路だ。だが、今は動かなくなった車が何台も路肩に寄せられていた。真ん中で止まったままの車もある。運転手らしい人間がボンネットを開けて、意味もなく中を覗き込んでいた。
エンジンが壊れたわけではない。
たぶん、そういう問題ではない。
道路を横切る時、いつもの癖で信号を見た。
当然、消えている。
黒い信号機は、ただの飾りにしか見えなかった。
少し歩くと、川へ続く道が見えてきた。
そこで俺は足を止めた。
「……やっぱりな」
「え?」
澪奈も俺の視線を追って、すぐに言葉を失った。
川沿いに、人が集まっていた。
まだ水道が完全に止まったわけではない。それでも、すでに川へ来ている人間が何十人もいた。
バケツを持った人。空のペットボトルを袋いっぱいに入れた人。鍋を抱えた人。ポリタンクを引きずる人。自転車のカゴに容器を積んでいる人。
川の水は、普段なら誰も飲もうとは思わない程度には濁っている。
それでも、人は集まっていた。
「……飲むの? あれ」
「そのまま飲んだら腹を壊すだろうな」
「じゃあ、なんで」
「不安だからだろ。水がある場所に行きたくなる」
俺は川の近くへは行かなかった。
遠目に見るだけで十分だった。
すでに何人かが揉めている。順番がどうとか、容器を洗うなとか、子供を先にしろとか、そんな声が聞こえた。
水そのものよりも、人の方が危険になり始めている。
「澪奈、覚えとけ」
「なに?」
「水がある場所には人が集まる。人が集まる場所には、だいたい問題も集まる」
「……うん」
「だから、あそこは使わない」
「でも、山の水場も誰か来るかもしれないんでしょ?」
「可能性はある。でも、少なくともここよりは少ない」
「なんで燈真はその場所を知ってるの?」
「キャンプで使ったことがある」
「普通の高校生は、山の水場とか把握してないと思う」
「普通じゃなくて悪かったな」
「悪いとは言ってない。今は助かってるし」
澪奈はそう言って、川の方をもう一度見た。
その顔には不安があった。
けれど、さっきより少しだけ納得も見えた。
街に残ることの危険を、目で見て理解したのだろう。
「行くぞ。暗くなる」
「うん」
俺たちは川沿いから離れ、山へ向かう道へ入った。
山、と言っても、いきなり深い森に入るわけではない。
住宅地の外れから坂道が続き、畑や雑木林を抜け、その先に小さなキャンプ場跡と登山道がある。俺が普段使っている水場は、公式のキャンプ場からは少し外れた場所にあった。
地図に大きく載るような場所ではない。
沢と呼ぶには細すぎる。
けれど、地面の間から滲むように水が湧いていて、小さな流れになっている。
一人か二人が使うなら、十分な水量だ。
逆に言えば、大勢では使えない。
だからこそ、今は価値がある。
「ねえ、燈真」
「なんだ」
「山って、熊とか出ない?」
「この辺で熊はほぼない」
「ほぼ?」
「絶対とは言えない」
「そこで絶対って言ってよ」
「猪とか蛇の方が現実的だな」
「言わなくていい情報!」
「虫もいる」
「それは分かってる!」
澪奈の声が少し大きくなった。
不安をごまかしているのだろう。
俺はあえて軽く返しながら、周囲に気を配った。
日はどんどん落ちている。
本当なら、初めての相手を連れて夜の山道に入りたくはない。だが、街に残って明日の混乱を見るより、今のうちに水場へ行く方がいい。
最悪、途中で日が暮れたらその場でテントを張る。
そのための道具はある。
問題は、澪奈がそこまで歩けるかどうかだ。
「澪奈、足は?」
「まだ大丈夫」
「無理するなよ。痛くなったら言え」
「燈真って、こういう時だけ優しいよね」
「足をやられると移動できなくなるからな」
「そういう意味かー」
「他に何があるんだ」
「いや、別に」
澪奈は少しだけ笑った。
その笑い方は、ゲーセンにいた時より弱かった。
当然だ。
今朝までの世界は、もうない。
少なくとも、今日のところは戻ってこない。
山道に入る頃には、空はかなり暗くなっていた。
電気がない夜は、暗い。
街から離れるほど、それがはっきり分かる。普段なら遠くの住宅街や道路の灯りが空を薄く照らしている。だが今日は、それがない。
空だけが明るく、地面は黒い。
「ちょっと待って」
澪奈が立ち止まった。
「休憩か?」
「うん。ごめん、少しだけ」
「謝らなくていい」
俺は荷物を下ろした。
肩が一気に軽くなり、逆に痛みが出る。
澪奈は近くの石に座り、息を整えた。
「燈真、よくそんな荷物で歩けるね」
「慣れ」
「キャンプってすごいね」
「キャンプがすごいんじゃなくて、荷物持って歩く趣味が変なんだよ」
「自覚はあるんだ」
「ある」
俺は水を一本取り出して澪奈に渡した。
「少しずつ飲め。一気に飲むな」
「はいはい」
「本当に一気に飲むなよ」
「分かってるって」
澪奈はペットボトルに口をつけ、少しだけ水を飲んだ。
その水を見て、俺は残量を頭の中で数える。
今日持ち出した水。家に残してきた水。山の水場で補給できる想定量。
もし水場が使えなかったら。
もし誰かが先にいたら。
もし濁っていたら。
考えることは多い。
だけど、不思議とパニックにはならなかった。
やるべきことを分解すればいい。
水場を確認する。
使えるなら拠点化する。
使えないなら、さらに奥の沢へ移動する。
夜間移動が無理なら一泊。
その場合は火をどうするか。
今はガスバーナーがある。だが、ガスは有限だ。焚き火もできるが、煙は目立つ。今夜は暗いからまだしも、長期的には使い方を考える必要がある。
「燈真」
「ん?」
「ほんとに、これからどうなるんだろうね」
「分からない」
「またそれ」
「でも、分からないものは分からない」
俺は少し考えてから続けた。
「ただ、明日になればもっと分かる」
「何が?」
「どのくらいの範囲で起きてるのか。水道がどうなるか。配布とか避難所とか、行政が動けるのか。人がどう動くのか」
「行政って動けるの? 電気ないのに」
「分からない。だから見るしかない」
「見るって、街に戻るの?」
「必要ならな。でも今夜は寝床を作る」
「……寝られる気がしない」
「寝なくても横になるだけで違う」
「本当にキャンプの先生みたい」
「先生じゃない」
「じゃあ何?」
「付き添い係だろ」
澪奈は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「そうだった。私のゲーセン付き添い係」
「いつの間にか終末付き添い係になってるけどな」
「昇格?」
「最悪の昇格だな」
休憩を終えて、再び歩き出す。
足元が見えづらくなってきたので、俺はヘッドライトを取り出した。
当然、普通なら電池で動く。
だが、今は動かない可能性が高い。
一応スイッチを入れてみる。
つかない。
「やっぱり駄目か」
「ライトも?」
「電気だからな」
「そっか……」
澪奈の声が沈む。
俺はヘッドライトをしまい、代わりに小さなケミカルライトを取り出した。折り曲げて振ると、淡い光が生まれる。
「わ、ついた」
「化学反応だからな。電気じゃない」
「準備良すぎない?」
「たまたま持ってた」
「絶対たまたまじゃない」
淡い光を頼りに山道を進む。
ケミカルライトは明るくはないが、足元を見るには十分だった。光が弱い分、遠くから目立ちにくいのもいい。
しばらく進むと、空気が変わった。
街の匂いが薄れ、土と草の匂いが強くなる。
遠くで虫の声がした。
電気が消えても、虫は鳴く。
風は吹く。
木々は揺れる。
人間の文明だけが止まったみたいだった。
「……なんか、山は普通だね」
澪奈が言った。
「そうだな」
「街の方がおかしかった」
「人間の道具が多いからな。電気がないと全部止まる」
「じゃあ、山の方が強いのかな」
「強いというか、元々電気に頼ってないだけだろ」
「燈真も?」
「俺?」
「燈真も、元々あんまり人に頼ってなかったから、こういう時強いのかなって」
俺は返事に詰まった。
澪奈はたまに、何気ない顔で妙なところを刺してくる。
「……人に頼らないのと、頼れないのは違う」
「そっか」
「俺は後者だ」
言ってから、少し後悔した。
こんな話をするつもりはなかった。
だが澪奈は、それ以上聞かなかった。
ただ、
「じゃあ、今日はちょっと頼ってよ。私も荷物くらい持つから」
と言った。
「今のお前に重い荷物持たせたら足が死ぬ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「分かってるって」
「ほんとかなあ」
そんな会話をしながら、俺たちはようやく目的の場所に近づいた。
道から少し外れ、木々の間を抜ける。
傾斜の下に、細い水の音があった。
俺は足を止め、耳を澄ませる。
聞こえる。
水が流れる音。
小さいが、確かにある。
「澪奈」
「なに?」
「あった」
「水?」
「ああ」
木の根元を回り込むと、小さな湧き水が見えた。
岩の隙間から滲み出した水が、細い流れを作っている。月明かりもほとんどないので見づらいが、手を入れると冷たかった。
澪奈が隣にしゃがみ込む。
「これ……飲めるの?」
「そのままでもたぶん大丈夫だけど、濾過して煮沸する」
「たぶんなんだ」
「自然の水を過信するな」
「はい、先生」
「先生じゃない」
俺は水場の周囲を確認した。
足跡は少ない。
最近人が大勢来た形跡はない。ゴミもない。荒らされてもいない。
ひとまず使える。
胸の奥にあった緊張が、少しだけ緩んだ。
水がある。
それだけで、生存率がかなり変わる。
「ここを拠点にする」
「ここで寝るの?」
「少し上に平らな場所がある。そこにテントを張る」
「本当にテントなんだ」
「だからキャンプだって言っただろ」
俺は荷物を下ろし、テントを出した。
手順は体が覚えている。
グランドシートを敷き、ポールを組み、インナーテントを立て、フライシートを被せる。暗いせいで少し時間はかかったが、何度もやっている作業だ。
澪奈は最初こそ不安そうに見ていたが、途中から手伝い始めた。
「ここ持てばいい?」
「ああ。引っ張りすぎるな」
「これでいい?」
「いい。ペグ渡して」
「ペグってどれ?」
「その金属の杭」
「最初から杭って言ってよ」
「キャンプ用語だ」
「知らないよ」
文句を言いながらも、澪奈はちゃんと動いた。
やがて、二人分の小さなテントが立ち上がる。
その姿を見た澪奈は、少しだけ目を丸くした。
「……家だ」
「テントだ」
「でも、なんか安心する」
「ならよかった」
本当に、そう思った。
暗い山の中で、布一枚の空間でも、囲われた場所があるだけで安心感は違う。
次は水。
浄水器を使って湧き水を容器に移し、クッカーに入れる。
問題は火だった。
ガスバーナーはある。
ガスボンベもある。
ライターもある。
ただ、ライターの着火機構がどうなるか分からない。圧電式なら電気火花を使う。今の世界でそれが機能するのか。
俺は試しにライターを押した。
火はつかない。
「……駄目か」
「ライターも?」
「これは火花が電気だからな」
「じゃあ、どうするの?」
「マッチがある」
「あるんだ」
「ある」
俺は防水ケースからマッチを取り出した。
擦る。
小さな火が灯った。
その瞬間、澪奈がほっと息を吐いた。
「火だ」
「ああ」
火はつく。
電気ではなく、化学反応としての火は残っている。
それが分かっただけでも大きい。
俺はマッチの火を使ってバーナーに着火した。
青い火が静かに燃える。
クッカーを置き、水を沸かす。
山の暗闇の中で、小さな火だけが揺れていた。
澪奈はそれをじっと見つめていた。
「なんか、すごいね」
「何が?」
「火」
「火は普通だろ」
「普通じゃないよ。街だと全部消えてたのに、ここだと火がつくんだもん」
「電気と火は別だからな」
「そうだけどさ」
澪奈は膝を抱えた。
「さっきまで、何もかも終わったみたいだったけど。火があると、ちょっとだけ大丈夫な気がする」
「火は大事だからな」
「燈真、嬉しそう」
「火がついたら嬉しいだろ」
「キャンプの人だ」
「キャンプの人ってなんだ」
湯が沸くまでの間に、俺は保存食を出した。
アルファ米とインスタント味噌汁。少し贅沢して、缶詰も一つ開ける。
「温かいご飯食べられるの?」
「湯があればな」
「すご」
「保存食だけどな」
「今はめちゃくちゃごちそうでしょ」
それは否定できなかった。
電気が消えた初日の夜、山の中で温かい食事が取れる。
かなり恵まれている。
街では今頃、冷たい食料を奪い合っている人間もいるかもしれない。水を求めて川に集まっている人たちもいる。家族と連絡が取れず、駅や道路で立ち尽くしている人もいるだろう。
俺たちは、火の前に座っている。
その差を考えると、少しだけ胸が重くなった。
でも、だからといって街に戻って全員を助けられるわけではない。
俺にできるのは、まず自分と澪奈を生かすことだ。
「燈真」
「なんだ」
「ありがと」
「何が?」
「連れてきてくれて」
「一人で山に来るのが怖かっただけだろ」
「それもあるけど」
澪奈は湯気の上がるクッカーを見ながら、少し笑った。
「でも、たぶん一人で家にいたら、私ずっと泣いてたと思う」
「……そうか」
「うん。だから、ありがと」
俺は返事に困った。
礼を言われるのは苦手だ。
善意として受け取られると、どう返せばいいか分からない。
俺はただ、澪奈を一人にするのが嫌だっただけだ。
いや、違う。
それも少し違う。
この状況で一緒にいてもいいと思える相手が、澪奈しかいなかった。
だから連れてきた。
それだけだ。
「飯、できるぞ」
「照れてる?」
「できるぞ」
「はいはい」
アルファ米に湯を注ぎ、時間を待つ。
味噌汁を作る。
缶詰を開ける。
たったそれだけの作業なのに、澪奈はずっと感心していた。
「燈真って、ほんとにこういうの得意なんだね」
「キャンプだからな」
「今まで付き添い係とか言ってごめん」
「別に間違ってない」
「これからはキャンプ係って呼ぶ」
「やめろ」
温かい食事を食べると、体が少し戻った気がした。
澪奈も表情が柔らかくなる。
人間は単純だ。
温かいものを食べるだけで、少しだけ絶望から離れられる。
食後、俺は水をもう一度確認し、テントの位置を調整し、荷物をまとめた。
焚き火はしない。
煙が出るし、火の管理も面倒だ。今夜はバーナーだけでいい。
ただ、ガスは有限だ。
それが気になった。
ライターは使えない。
マッチはあるが、数に限りがある。
火打ち石も持っている。だが、毎回それに頼るのも手間だ。火起こしはできるが、簡単ではない。
電気が消えただけで、火をつけることすら面倒になる。
「……火か」
俺は自分の手を見た。
馬鹿なことを考えている自覚はあった。
だけど、今日起きたこと自体が馬鹿げている。
電気が世界から消えた。
スマホも、車も、ライトも死んだ。
なら、俺たちの体はなぜ動いている?
神経は電気信号で動いているはずだ。心臓だって電気的な刺激で動く。脳もそうだ。
なのに、俺たちは生きている。
考えられる。
歩ける。
それはつまり、体の中だけは何か別の仕組みに置き換わっているのかもしれない。
何を馬鹿な。
そう思う。
けれど、否定しきれない。
俺は手のひらを見つめたまま、火を想像した。
マッチの火。
バーナーの火。
焚き火の火。
熱。
光。
燃えるもの。
「燈真?」
澪奈が不審そうに声をかけてきた。
「何してるの?」
「いや……」
俺は手を閉じた。
「ちょっと、変なこと考えただけだ」
「変なこと?」
「火をつけるの、面倒だなって」
「それはそうだけど」
「もし、体の中にまだ何かエネルギーが残ってるなら、それで火を起こせないかと思って」
言ってから、自分でも馬鹿馬鹿しくなった。
澪奈もぽかんとしている。
「……燈真、疲れてる?」
「かもしれない」
「寝た方がいいよ」
「だな」
そのはずだった。
だが、俺はもう一度だけ手のひらを開いた。
火。
小さな火でいい。
マッチの先に灯る程度の火。
体の中の何かを、指先に集める。
そんな感覚を、無理やり想像する。
すると。
胸の奥から、何かが減った。
体力とは違う。
息が切れるわけでも、筋肉が疲れるわけでもない。
もっと変な感覚だった。
自分の中にある見えない水位が、ほんの少し下がるような。
「……え?」
澪奈の声が震えた。
俺の指先に、小さな火が灯っていた。
マッチもない。
ライターもない。
ガスもない。
何も燃やしていない。
それなのに、親指の先ほどの小さな火が、俺の手のひらの上で揺れていた。
「燈真」
澪奈が、ゆっくりと俺を見る。
「それ、なに?」
俺は答えられなかった。
自分の手の上で燃える火を、ただ見つめていた。
熱い。
けれど、火傷するほどではない。
あり得ない。
あり得ないはずなのに、火は確かにそこにあった。
「……分からない」
俺はようやく声を出した。
「でも」
暗い山の中。
電気を失った世界で。
俺の手のひらには、小さな火が灯っていた。
「たぶん、これが始まりだ」




