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第37話 その声

襲撃から、一週間が過ぎていた。


学園は、表向きは落ち着いていた。だが、傷は、まだ残っていた。怪我を負った者。仲間が傷つくのを見て、心を病んだ者。あの正体不明の生物の群れは、生徒たちの体だけでなく、心にも、爪痕を残していた。


特に、新人たちは、ひどかった。夢世界の訓練で、アリシアに何十回と殺された恐怖。その上に、現実の襲撃。眠れない者、震えが止まらない者が、何人もいた。


「今日は、ケアの日らしいぞ」


同じ新人が、俺に教えてくれた。


「ケア?」


「歌で、心を癒してくれる人がいるんだって。特殊生徒会が、抱えてる神力者の一人らしい。歌を聞くと、精神状態が、すごく楽になるって」


歌で、心を癒す神力。そんな能力があるのか、と思った。だが、この世界では、神力に常識はない。重さを無視する者がいて、夢を共有する者がいるなら、歌で心を癒す者がいても、おかしくはなかった。


「お前も、行った方がいいぞ。襲撃で、戦ったんだろ」


「……ああ。考えとく」


俺は、あまり乗り気では、なかった。心を癒す、と言われても、俺の心の傷は、歌でどうにかなるものじゃない。だが――行かない理由も、特に、なかった。



ケアは、学園の講堂で行われていた。


中に入ると、すでに、何人もの生徒が、椅子に座っていた。新人も、古株も。みな、疲れた顔をして、これから始まる何かを、待っていた。


俺は、後ろの方の席に座った。目立たない場所。いつもの、隅。


舞台の上には、まだ、誰もいなかった。電気がないから、照明もマイクもない。ただ、自然光が、高い窓から差し込んでいるだけだった。


しばらくして、一人の少女が、舞台に出てきた。


小柄で、線の細い少女だった。長い髪を、後ろで緩く束ねている。緊張しているのか、少し、うつむき加減だった。だが、舞台の中央に立つと、ゆっくりと、顔を上げた。


「えっと……鳴海さんの紹介で、来ました。桜井です」


小さな、声だった。


「歌います。みなさんの、心が、少しでも、楽になったら、嬉しいです」


それだけ言うと、彼女は、目を閉じた。


そして、歌い始めた。



最初の一音で、俺は、固まった。


その声を、知っていた。


忘れるはずが、なかった。何度も、聞いた声。一人の部屋で、暗い画面の前で、ずっと聞いていた声。


MIRAI。


俺が、追っていた、配信者の声だった。


間違いない。あの、独特の、少し掠れた、それでいて澄んだ声。歌い方の癖。ビブラートのかかり方。全部、覚えていた。あの頃、何百回と、聞いた。だから、顔は知らなくても、声だけは、体に刻まれていた。


舞台の上で歌っているのは、MIRAIだった。


俺は、息をするのも忘れて、その歌声を、聞いていた。


電気が消えて、配信が見られなくなって。もう二度と、聞けないと思っていた声が。今、目の前で、響いている。生身の人間の声として。


胸の奥が、激しく、揺れた。



歌が、講堂に満ちていく。


不思議な、歌だった。聞いているうちに、強張っていた体が、ほどけていく。襲撃の恐怖も、神影に疑われる緊張も、覚悟の決まらない迷いも――その全部が、一時的に、遠のいていく。


これが、彼女の神力か。歌を聞いた者の、精神状態を、万全に保つ。


なるほど、と思った。だが、俺にとっては、神力以上のものだった。神力の効果を、差し引いても、この歌声は――俺を、救ってきた声だった。


周りを見ると、生徒たちの表情が、変わっていた。震えていた者が、落ち着きを取り戻している。うつむいていた者が、顔を上げている。誰かが、静かに、涙を流していた。


歌は、人を、癒していた。彼女が、配信時代から、ずっとやってきたこと。歌で、誰かの心を、支えること。それを、彼女は、電気の消えた世界でも、続けていた。


そして、その「誰か」の中に、かつて、俺もいた。



歌が、終わった。


講堂が、静かになる。それから、まばらに、拍手が起きた。生徒たちの顔は、明らかに、和らいでいた。


桜井未玖――いや、MIRAIは、舞台の上で、少し照れたように、頭を下げた。


「ありがとう……ございます。また、いつでも、来てください」


そう言って、彼女は、舞台を降りようとした。


俺は、立てなかった。椅子に座ったまま、彼女の姿を、見ていた。


話しかけるべきか。「あなたの配信を、見ていました」と。あの頃、あなたの歌に、支えられていた、と。


だが、口が、動かなかった。


俺は、人を信じない。距離を詰めることを、恐れる。心を開いて、裏切られるのが、怖い。それは、相手がMIRAIでも、変わらなかった。いや――相手がMIRAIだからこそ、怖かったのかもしれない。


あの声は、俺にとって、画面の向こうの、理想だった。一方通行で、傷つけられない、安全な存在。だから、支えになれた。


でも、今、彼女は、生身の人間として、目の前にいる。話しかければ、関係が、双方向になる。理想が、現実になる。そうなったら――俺は、また、傷つくかもしれない。あるいは、失望するかもしれない。あの頃の救いが、壊れるかもしれない。


それが、怖かった。



結局、俺は、声をかけられなかった。


他の生徒たちが、彼女に近づいて、お礼を言っている。「すごく楽になりました」「ありがとうございました」と。彼女は、その一人一人に、丁寧に応えていた。小さく、はにかみながら。


俺は、その様子を、遠くから見ているだけだった。


その時、彼女が、ふと、顔を上げた。講堂を、見渡すように。誰かを、探すように。


一瞬、彼女の視線が、こちらを向いた気がした。


俺は、とっさに、目を逸らした。


気のせいだろう、と思った。彼女が、俺を知っているはずがない。俺は、ただの、画面の向こうの、大勢のリスナーの一人だ。名前も、顔も、向こうは知らない。一方通行の関係だったのだから。


なのに――彼女の視線には、何か、探るような色があった気がして。俺は、なぜか、落ち着かなかった。


俺は、立ち上がり、講堂を出た。彼女に、背を向けて。



外に出ると、アリシアが、待っていた。


「あ、燈真さん! ケア、行ってたんですね!」


「……ああ」


「どうでした? 桜井さんの歌。すごいでしょう!」


俺は、少し、間を置いてから、答えた。


「……ああ。すごかった」


それは、本当だった。すごかった。神力としても、歌としても。そして、俺にとっては、それ以上のものだった。


「桜井さんね、最近、学園に来たんですよ」


アリシアが、説明してくれた。


「鳴海さんの紹介で。あ、鳴海さんっていうのは、別の子なんですけど。なんか、二人、知り合いみたいで」


鳴海。その名前に、俺は、特に反応しなかった。聞き覚えのない名前だった。


「桜井さん、歌手を目指してるんですって。こんな時代になっても。すごいですよね、夢を諦めないの」


歌手を目指している。こんな、電気の消えた世界で。配信も、できないのに。


俺は、その言葉に、胸を突かれた。


あの頃、彼女は、無名の配信者だった。それでも、歌っていた。そして今も、世界が壊れても、歌い続けている。歌手になる夢を、捨てずに。


何が、彼女を、そこまで、突き動かすのか。



「鳴海さんが言ってましたよ」


アリシアが、続けた。


「桜井さん、不人気だった頃から、ずっと応援してくれてた、たった一人のリスナーがいて。その人に、恥じない自分でいたいから、歌い続けてるんだって」


俺の、心臓が、跳ねた。


不人気だった頃から、応援してくれた、たった一人のリスナー。


それは――いつだったか、配信のコメント欄で、俺が、ずっと送っていた言葉のことだろうか。


あの頃、彼女の配信は、いつも、視聴者が少なかった。コメントも、まばらだった。その中で、俺は、毎回、応援のコメントを送っていた。彼女の歌が、好きだったから。彼女の歌に、救われていたから。せめて、その気持ちを、伝えたくて。


まさか。


まさか、彼女が、印象に残っているリスナーというのが――俺の、ことなのか。


いや。そんなはずは。考えすぎだ。彼女の配信を見ていたリスナーなんて、俺以外にも、いただろう。応援コメントを送っていた人間も、俺だけじゃなかったはずだ。


そう思おうとした。だが、胸の奥の動揺は、収まらなかった。


「燈真さん? また、ぼーっとしてますよ」


「……いや」


俺は、首を振った。


「なんでもない」


なんでもない、はずがなかった。俺が、心の支えにしていた配信者が、目の前に現れた。そして、その配信者が、たった一人のリスナーに恥じないために、歌い続けている、という。


俺は、彼女を、追っていた。一方通行だと、思っていた。


でも、もしかしたら――その繋がりは、一方通行じゃ、なかったのかもしれない。



その夜、俺は、寮の部屋で、なかなか眠れなかった。


桜井未玖。MIRAI。あの声が、頭の中で、繰り返し、響いていた。


俺は、彼女に、何も言えなかった。話しかけることも、できなかった。


人を信じない、と決めた俺が。距離を詰めることを、恐れる俺が。心の支えにしていた相手を前にして、ただ、逃げるように、講堂を出た。


情けない、と思った。だが、どうすればいいのか、分からなかった。


そして、もう一つ、引っかかることがあった。


講堂で、彼女が、誰かを探すように、講堂を見渡していたこと。一瞬、こちらを向いた、あの視線。


なぜ、彼女は、何かを探していたのか。学園に来たばかりの彼女が、誰を。


考えても、答えは出なかった。俺は、ただの、リスナーの一人だ。向こうが、俺を探す理由なんて、あるはずがない。


そう、自分に言い聞かせた。


だが、その夜、俺は、知らなかった。


彼女が――桜井未玖が、本当に、誰かを探していたことを。そして、その探している相手が、他でもない、俺だということを。


彼女が、なぜ、この学園に来たのか。


その本当の理由を、俺は、まだ、知らなかった。


ただ、心の支えだった声が、現実に現れた。その事実だけが、俺の胸の中で、揺れ続けていた。


理想の他人と、現実の他人。その境目で、俺は、立ち尽くしていた。

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