第37話 その声
襲撃から、一週間が過ぎていた。
学園は、表向きは落ち着いていた。だが、傷は、まだ残っていた。怪我を負った者。仲間が傷つくのを見て、心を病んだ者。あの正体不明の生物の群れは、生徒たちの体だけでなく、心にも、爪痕を残していた。
特に、新人たちは、ひどかった。夢世界の訓練で、アリシアに何十回と殺された恐怖。その上に、現実の襲撃。眠れない者、震えが止まらない者が、何人もいた。
「今日は、ケアの日らしいぞ」
同じ新人が、俺に教えてくれた。
「ケア?」
「歌で、心を癒してくれる人がいるんだって。特殊生徒会が、抱えてる神力者の一人らしい。歌を聞くと、精神状態が、すごく楽になるって」
歌で、心を癒す神力。そんな能力があるのか、と思った。だが、この世界では、神力に常識はない。重さを無視する者がいて、夢を共有する者がいるなら、歌で心を癒す者がいても、おかしくはなかった。
「お前も、行った方がいいぞ。襲撃で、戦ったんだろ」
「……ああ。考えとく」
俺は、あまり乗り気では、なかった。心を癒す、と言われても、俺の心の傷は、歌でどうにかなるものじゃない。だが――行かない理由も、特に、なかった。
◇
ケアは、学園の講堂で行われていた。
中に入ると、すでに、何人もの生徒が、椅子に座っていた。新人も、古株も。みな、疲れた顔をして、これから始まる何かを、待っていた。
俺は、後ろの方の席に座った。目立たない場所。いつもの、隅。
舞台の上には、まだ、誰もいなかった。電気がないから、照明もマイクもない。ただ、自然光が、高い窓から差し込んでいるだけだった。
しばらくして、一人の少女が、舞台に出てきた。
小柄で、線の細い少女だった。長い髪を、後ろで緩く束ねている。緊張しているのか、少し、うつむき加減だった。だが、舞台の中央に立つと、ゆっくりと、顔を上げた。
「えっと……鳴海さんの紹介で、来ました。桜井です」
小さな、声だった。
「歌います。みなさんの、心が、少しでも、楽になったら、嬉しいです」
それだけ言うと、彼女は、目を閉じた。
そして、歌い始めた。
◇
最初の一音で、俺は、固まった。
その声を、知っていた。
忘れるはずが、なかった。何度も、聞いた声。一人の部屋で、暗い画面の前で、ずっと聞いていた声。
MIRAI。
俺が、追っていた、配信者の声だった。
間違いない。あの、独特の、少し掠れた、それでいて澄んだ声。歌い方の癖。ビブラートのかかり方。全部、覚えていた。あの頃、何百回と、聞いた。だから、顔は知らなくても、声だけは、体に刻まれていた。
舞台の上で歌っているのは、MIRAIだった。
俺は、息をするのも忘れて、その歌声を、聞いていた。
電気が消えて、配信が見られなくなって。もう二度と、聞けないと思っていた声が。今、目の前で、響いている。生身の人間の声として。
胸の奥が、激しく、揺れた。
◇
歌が、講堂に満ちていく。
不思議な、歌だった。聞いているうちに、強張っていた体が、ほどけていく。襲撃の恐怖も、神影に疑われる緊張も、覚悟の決まらない迷いも――その全部が、一時的に、遠のいていく。
これが、彼女の神力か。歌を聞いた者の、精神状態を、万全に保つ。
なるほど、と思った。だが、俺にとっては、神力以上のものだった。神力の効果を、差し引いても、この歌声は――俺を、救ってきた声だった。
周りを見ると、生徒たちの表情が、変わっていた。震えていた者が、落ち着きを取り戻している。うつむいていた者が、顔を上げている。誰かが、静かに、涙を流していた。
歌は、人を、癒していた。彼女が、配信時代から、ずっとやってきたこと。歌で、誰かの心を、支えること。それを、彼女は、電気の消えた世界でも、続けていた。
そして、その「誰か」の中に、かつて、俺もいた。
◇
歌が、終わった。
講堂が、静かになる。それから、まばらに、拍手が起きた。生徒たちの顔は、明らかに、和らいでいた。
桜井未玖――いや、MIRAIは、舞台の上で、少し照れたように、頭を下げた。
「ありがとう……ございます。また、いつでも、来てください」
そう言って、彼女は、舞台を降りようとした。
俺は、立てなかった。椅子に座ったまま、彼女の姿を、見ていた。
話しかけるべきか。「あなたの配信を、見ていました」と。あの頃、あなたの歌に、支えられていた、と。
だが、口が、動かなかった。
俺は、人を信じない。距離を詰めることを、恐れる。心を開いて、裏切られるのが、怖い。それは、相手がMIRAIでも、変わらなかった。いや――相手がMIRAIだからこそ、怖かったのかもしれない。
あの声は、俺にとって、画面の向こうの、理想だった。一方通行で、傷つけられない、安全な存在。だから、支えになれた。
でも、今、彼女は、生身の人間として、目の前にいる。話しかければ、関係が、双方向になる。理想が、現実になる。そうなったら――俺は、また、傷つくかもしれない。あるいは、失望するかもしれない。あの頃の救いが、壊れるかもしれない。
それが、怖かった。
◇
結局、俺は、声をかけられなかった。
他の生徒たちが、彼女に近づいて、お礼を言っている。「すごく楽になりました」「ありがとうございました」と。彼女は、その一人一人に、丁寧に応えていた。小さく、はにかみながら。
俺は、その様子を、遠くから見ているだけだった。
その時、彼女が、ふと、顔を上げた。講堂を、見渡すように。誰かを、探すように。
一瞬、彼女の視線が、こちらを向いた気がした。
俺は、とっさに、目を逸らした。
気のせいだろう、と思った。彼女が、俺を知っているはずがない。俺は、ただの、画面の向こうの、大勢のリスナーの一人だ。名前も、顔も、向こうは知らない。一方通行の関係だったのだから。
なのに――彼女の視線には、何か、探るような色があった気がして。俺は、なぜか、落ち着かなかった。
俺は、立ち上がり、講堂を出た。彼女に、背を向けて。
◇
外に出ると、アリシアが、待っていた。
「あ、燈真さん! ケア、行ってたんですね!」
「……ああ」
「どうでした? 桜井さんの歌。すごいでしょう!」
俺は、少し、間を置いてから、答えた。
「……ああ。すごかった」
それは、本当だった。すごかった。神力としても、歌としても。そして、俺にとっては、それ以上のものだった。
「桜井さんね、最近、学園に来たんですよ」
アリシアが、説明してくれた。
「鳴海さんの紹介で。あ、鳴海さんっていうのは、別の子なんですけど。なんか、二人、知り合いみたいで」
鳴海。その名前に、俺は、特に反応しなかった。聞き覚えのない名前だった。
「桜井さん、歌手を目指してるんですって。こんな時代になっても。すごいですよね、夢を諦めないの」
歌手を目指している。こんな、電気の消えた世界で。配信も、できないのに。
俺は、その言葉に、胸を突かれた。
あの頃、彼女は、無名の配信者だった。それでも、歌っていた。そして今も、世界が壊れても、歌い続けている。歌手になる夢を、捨てずに。
何が、彼女を、そこまで、突き動かすのか。
◇
「鳴海さんが言ってましたよ」
アリシアが、続けた。
「桜井さん、不人気だった頃から、ずっと応援してくれてた、たった一人のリスナーがいて。その人に、恥じない自分でいたいから、歌い続けてるんだって」
俺の、心臓が、跳ねた。
不人気だった頃から、応援してくれた、たった一人のリスナー。
それは――いつだったか、配信のコメント欄で、俺が、ずっと送っていた言葉のことだろうか。
あの頃、彼女の配信は、いつも、視聴者が少なかった。コメントも、まばらだった。その中で、俺は、毎回、応援のコメントを送っていた。彼女の歌が、好きだったから。彼女の歌に、救われていたから。せめて、その気持ちを、伝えたくて。
まさか。
まさか、彼女が、印象に残っているリスナーというのが――俺の、ことなのか。
いや。そんなはずは。考えすぎだ。彼女の配信を見ていたリスナーなんて、俺以外にも、いただろう。応援コメントを送っていた人間も、俺だけじゃなかったはずだ。
そう思おうとした。だが、胸の奥の動揺は、収まらなかった。
「燈真さん? また、ぼーっとしてますよ」
「……いや」
俺は、首を振った。
「なんでもない」
なんでもない、はずがなかった。俺が、心の支えにしていた配信者が、目の前に現れた。そして、その配信者が、たった一人のリスナーに恥じないために、歌い続けている、という。
俺は、彼女を、追っていた。一方通行だと、思っていた。
でも、もしかしたら――その繋がりは、一方通行じゃ、なかったのかもしれない。
◇
その夜、俺は、寮の部屋で、なかなか眠れなかった。
桜井未玖。MIRAI。あの声が、頭の中で、繰り返し、響いていた。
俺は、彼女に、何も言えなかった。話しかけることも、できなかった。
人を信じない、と決めた俺が。距離を詰めることを、恐れる俺が。心の支えにしていた相手を前にして、ただ、逃げるように、講堂を出た。
情けない、と思った。だが、どうすればいいのか、分からなかった。
そして、もう一つ、引っかかることがあった。
講堂で、彼女が、誰かを探すように、講堂を見渡していたこと。一瞬、こちらを向いた、あの視線。
なぜ、彼女は、何かを探していたのか。学園に来たばかりの彼女が、誰を。
考えても、答えは出なかった。俺は、ただの、リスナーの一人だ。向こうが、俺を探す理由なんて、あるはずがない。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、その夜、俺は、知らなかった。
彼女が――桜井未玖が、本当に、誰かを探していたことを。そして、その探している相手が、他でもない、俺だということを。
彼女が、なぜ、この学園に来たのか。
その本当の理由を、俺は、まだ、知らなかった。
ただ、心の支えだった声が、現実に現れた。その事実だけが、俺の胸の中で、揺れ続けていた。
理想の他人と、現実の他人。その境目で、俺は、立ち尽くしていた。




