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第24話 命令

それから数日、悪魔の王からの連絡はなかった。


 俺はその間、三つのアイテムを少しずつ調べた。


 水筒は、水場の水を入れ、神力を流して維持する練習をした。


 電池は、時間を見つけて充電した。


 遅い。


 満タンには程遠い。


 それでも、少しずつ溜まっていく。


 銃は、一度も触らなかった。


 荷物の奥に、布に包んだまま。


 その存在を、なるべく意識しないようにしていた。


 悪魔の王のネットワークは、繋がったままだった。


 チャット画面を開けば、いつでもあの黒と赤のUIが表示される。


 だが、向こうからの新しい連絡はない。


 地図取引は終わった。


 褒美も受け取った。


 これで、しばらくは関わらずに済むかもしれない。


 そう思っていた。


 甘かった。



 その日の午後だった。


 澪奈は、洗濯物を持って、水場の方へ行っていた。


 神力で汚れは落とせるが、すすぎには水がいる。


 しばらくは戻らない。


 俺は一人で、岩陰に座り、電池の充電をしていた。


 遅い充電を、ただ続ける時間。


 その時だった。


 ポケットの中で、ライターが、わずかに震えた。


 俺は、手を止めた。


 周囲を確認する。


 澪奈の姿はない。


 水の音が、遠くで聞こえるだけだ。


 俺はスマホを起動し、チャット画面を開いた。


 赤い文字が、流れている。


『話がある』


『応じよ』


 短い。


 だが、断れる雰囲気ではなかった。


 俺は、ライターのQRコードを読み込んだ。


 昨日と同じ、自動発信。


 数秒で、繋がる。


『来たか』


 あの声だった。


 赤髪の少女。


 悪魔の王。


「何の用だ」


『用件は一つ。お前に依頼がある』


「依頼」


『そうだ』


 俺は、警戒した。


 地図取引は、こちらから持ちかけたものだった。


 だが、今度は向こうからの依頼。


 意味が違う。


『聞くか』


「内容による」


『賢明だ。だが、聞くだけは聞け。聞いてから決めればいい』


 俺は、少し迷った。


 だが、情報を拒む理由はない。


 聞いて、断ることはできる。


「聞く」


 俺は答えた。



『東京で、ある動きがある』


 悪魔の王は、淡々と話し始めた。


『学び舎を建て直している。神力を持つ若者を、優先的に集めている』


「学校か」


『そうだ。そこに、神力持ちを集める。そして、その者たちを使い、東京だけを立て直す』


「東京だけ」


『人を東京に集め、東京だけを復興させる。外を捨て、内だけを保つ。そういう計画だ』


 俺は、息を呑んだ。


 封鎖の理由。


 道を塞ぎ、人を東京に留める動き。


 あの噂が、悪魔の王の口から、計画として語られた。


「お前は、その計画の側じゃないのか」


『違う』


 即答だった。


『私は、その計画とは相容れぬ。あの者たちは、私を組み込もうとした。私は拒んだ。それだけだ』


 拒んだ。


 悪魔の王は、東京の計画に組み込まれることを、拒否した。


 だから今、東京の外縁にいる。


 計画の外で、独自に動いている。


「それで、依頼は」


『その学び舎に、一人、厄介な者がいる』


 悪魔の王の声が、わずかに低くなった。


『神月華。その者を、消せ』


 俺の指が、止まった。


 消せ。


 暗殺。


 はっきりと、そう言った。


「……人を、殺せと」


『そうだ』


「断る」


 俺は、即座に言った。


 考えるまでもなかった。


 人を殺す。


 そんなことをしている場合ではない。


 俺には、やるべきことがある。


 家族を、探さなければならない。


 東京の中に、両親がいる。


 そして、都外の中学にいるはずの、妹。


 それを差し置いて、見ず知らずの人間を殺す理由など、ない。


「俺には、家族がいる。東京で、帰ってこない。そっちが先だ。人を殺している暇はない」


 言ってから、少し後悔した。


 家族のことを、悪魔の王に言うべきではなかったかもしれない。


 だが、もう言ってしまった。


 悪魔の王は、少しの間、黙った。


 それから、静かに言った。


『その依頼を受けるなら』


『お前の家族を、全員、助けてやる』


 俺は、動けなくなった。


「……何だと」


『東京の中にいる、お前の家族。すべて、私が助けてやる』


「お前に、そんなことが」


『できる。私は、東京の内側にも、手の届く者がいる。お前一人が探し回るより、確実だ』


 心臓が、嫌な音を立てた。


『さらに言えば』


 悪魔の王は、続けた。


『依頼の成否は、問わぬ』


「成否を、問わない」


『そうだ。お前が神月華を消せようと、消せまいと、家族は助ける。成功すれば、別に報酬も出す。だが、失敗しても、家族は助けてやる』


 俺は、言葉を失った。


 おかしい。


 依頼として、おかしい。


 成功してほしいなら、成功報酬だけでいい。


 失敗してもいいなら、家族という餌を出す必要がない。


 なのに、悪魔の王は、両方を出した。


 失敗しても助ける、と。


 断る理由を、消しにきている。


「……なぜ、そこまでする」


『お前に、やらせたいからだ』


「答えになっていない」


『今は、それでいい』


 はぐらかされた。


 悪魔の王の真の狙いは、別にある。


 そう直感した。


 だが、それを問い詰める材料が、今の俺にはない。



「その、神月華ってのは、何者だ」


 俺は、話を進めた。


 受けるかどうかは、まだ決めていない。


 だが、情報は必要だった。


『神力持ちだ。学び舎にいる』


「能力は」


『指定した対象に、マイナスという概念を、付与する』


「マイナス」


『そうだ。対象は、三つまで。それを超えては付与できぬ』


 俺は、頭の中で、その能力を組み立てようとした。


 マイナスの概念を付与する。


 対象は三つ。


「具体的には」


『一つ。己の神力の消費量に、マイナスを付与する。使うほどに、神力が溜まる。尽きぬ力だ』


 尽きない神力。


 俺の電気が、維持で削れていくのとは、正反対だ。


『二つ。膜を踏み越え、己に届く攻撃に、マイナスを付与する。攻撃は、反転して返る』


「反射か」


『そうだ。撃てば、撃った者に返る。斬れば、斬った者が斬られる』


 最悪だった。


 攻撃が、反射される。


 しかも、神力は尽きない。


「……それで、三つ目は」


『常に変える。状況に応じて、最も有効なものを選ぶ。それが、最も厄介だ』


 俺は、理解した。


 常時、二つの枠が埋まっている。


 尽きない神力と、攻撃の反射。


 そして、残り一つを、その場その場で、最適なものに変える。


 臨機応変の、一枠。


 これが、一番怖い。


 どんな手で攻めても、その手に対して、マイナスを付与される。


 毒を盛れば、毒にマイナス。


 火を放てば、火にマイナス。


 その都度、無効化される。


「それは……ほぼ、無敵じゃないか」


『そう見える。だが、穴がある』


「穴」


『枠は、三つしかない。二つは常に埋まっている。動かせるのは、一つだけだ』


 俺は、その意味を、ゆっくりと飲み込んだ。


 臨機応変の一枠。


 それは、強い。


 だが、一枠しかない。


 つまり、同時に二つ以上の脅威を与えれば、対応しきれない。


 あるいは、その一枠を、別のものに使わせてしまえば。


 別の手が、通る。


『分かってきたな』


「……ああ」


『その一枠を、毒で塞ぐ』


 悪魔の王は、計画を語り始めた。


『味方として近づけ。警戒させるな。反転の膜は、攻撃と認識したものにしか働かぬ。味方の顔をしていれば、膜は張られぬ』


「味方の、ふりをしろと」


『そうだ。信を得て、飲食に毒を仕込む。神月華は、毒を脅威と認識し、三つ目の枠を、毒の無効化に使うだろう。継続する毒であれば、なお良い。枠は、長く塞がれる』


 俺は、黙って聞いていた。


『そして、三つの枠が、すべて塞がった時』


『反射できぬ手段で、消す』


「反射できない手段」


『ある。だが、連発はできぬ。一度きりだ。だからこそ、相手を弱らせ、間を置かずに使う必要がある』


「その手段は、何だ」


『今は言えぬ』


「……」


『受けるなら、私が用意してもいい。お前が知るのは、その時だ』


 俺は、口を閉じた。


 計画は、筋が通っていた。


 恐ろしいほど、筋が通っていた。


 味方として近づき、信頼させ、毒で防御の枠を塞ぎ、反射できない手段でとどめを刺す。


 完璧な、暗殺計画だった。


 そして、その完璧さが、俺を、ぞっとさせた。



「一つ、聞いていいか」


「なぜ、お前は、自分でやらない」


 俺は、ずっと引っかかっていたことを、口にした。


 これだけの計画を立てられるなら。


 これだけの力を持っているなら。


 悪魔の王自身が、やればいい。


 なぜ、わざわざ、家族という大きすぎる餌を払ってまで、俺に依頼するのか。


『理由は、いくつかある』


 悪魔の王は、隠さなかった。


『一つ。神月華の反射は、強い攻撃ほど、強く返る。私が直接手を下せば、私自身が、無事では済まぬ』


「お前でも、か」


『私だからこそ、だ。強い者の攻撃ほど、強く反る。お前のような、弱い者の方が、かえって都合がいい場合もある』


 遠回しに、弱いと言われた。


 だが、反論する気にはなれなかった。


 事実だからだ。


『二つ。私は、その学び舎に、近づけぬ』


「なぜ」


『神月華のそばに、一人、女がいる』


 悪魔の王の声が、初めて、わずかに警戒の色を帯びた。


『その女は、見ただけで、相手の名と、種を、見抜く。何者であるかを、知る力だ』


 名前と、種族を、見抜く。


 俺は、その意味を、考えた。


 そして、気づいた。


 悪魔の王にとって、それは。


『私が近づけば、見抜かれる。私が、何であるかを』


「お前が、何であるか」


『それは、知られてはならぬ』


 悪魔の王は、それ以上、語らなかった。


 だが、確信した。


 悪魔の王には、隠している正体がある。


 名前と種族を見抜く力に、近づけない。


 それほどの、秘密がある。


 あの、千葉を知らない異常さ。


 年齢で測れない何か。


 悪魔の王が、ただの赤髪の少女ではないことは、最初から分かっていた。


 だが、その正体は、見抜かれてはならないほど、危険なものらしい。


『分かったか。私は、近づけぬ。だが、お前なら、近づける。ただの神力持ちの若者として、学び舎に紛れ込める』


「……」


『人手が足りていてな』


 悪魔の王は、淡々と言った。


『ちょうどいい。手を組め』


「待て」


『これは、命令だ』


 俺は、言葉を失った。


 依頼ではなく、命令。


 悪魔の王は、もう、俺が断らないと、決めつけていた。



 通話が、続いている。


 俺は、考えていた。


 断るべきだ。


 頭では、そう分かっていた。


 人を殺す。


 味方のふりをして、信頼させ、裏切って、殺す。


 そんなこと、できるはずがない。


 できるはずが。


 だが。


 俺の頭の片隅で、別の声がした。


 家族を、助けてやる。


 全員。


 成功しても、失敗しても。


 両親。


 そして、妹。


 妹は、都外の中学にいるはずだった。


 東京の中ではない。


 だから、安全だと思っていた。


 思おうとしていた。


 だが。


 東京の外縁で見た、あの光景。


 道を間違えれば殺される。


 布をかけられた人影。


 武器を持った人間たち。


 あれが、東京の外側だ。


 なら、東京の内側は。


 妹のいる場所は、本当に、安全なのか。


 無事だと、誰が保証した。


 俺は、何も知らない。


 妹が今どうしているのか、生きているのかすら、知らない。


 ただ、無事だと思いたいだけだ。


 まともでいたいから。


 普通でいたいから。


 妹は無事だと、思い込んでいるだけだ。


 胸の奥が、冷たくなった。


『どうする』


 悪魔の王が、問う。


 俺は、目を閉じた。


 水の音が、遠くで聞こえる。


 澪奈は、まだ戻らない。


 誰も、いない。


 俺は、自分が、何を選ぼうとしているのか、分かっていた。


 分かっていて、止まれなかった。


「……受ける」


 声に出した瞬間、それは、決定になった。


『よい判断だ』


 悪魔の王の声に、感情はなかった。


 喜びも、満足も、何もない。


 ただ、駒が一つ、揃った。


 それだけの声だった。


『詳細は、追って送る。まず、学び舎に入れ。神月華に近づけ。焦るな』


「分かった」


『家族のことは、案ずるな。お前が動き始めた時点で、私も動く』


「……ああ」


 通話が、切れた。


 俺は、しばらく、動けなかった。


 受けてしまった。


 暗殺を。


 人を殺す依頼を。



 しばらくして、澪奈が戻ってきた。


 洗濯物を抱えて、水場の方から。


「ただいま。すすぎ終わった」


「ああ」


「燈真、充電は?」


「……少し進んだ」


 俺は、スマホもライターも、もう布で包んでいた。


 通話のことは、言わなかった。


 悪魔の王から、依頼が来たことも。


 その依頼を、受けたことも。


 言えなかった。


 言えば、澪奈は止めるかもしれない。


 止めないかもしれない。


 どちらにしても、言えなかった。


 人を殺す依頼を受けた、とは。


 澪奈は、俺の顔を、少し見た。


「なんか、疲れてる?」


「……充電で、神経使った」


「ほどほどにね」


「ああ」


 澪奈は、それ以上は聞かなかった。


 いつものように、洗濯物を広げ始める。


 俺は、その背中を見ていた。


 嘘をついた。


 初めてではない。


 悪魔の王のことも、最初は伏せた。


 だが、今回は、違った。


 今までは、危険な情報を、守るために伏せていた。


 今回は、自分のやることを、隠した。


 人を殺すという、自分の選択を。


 澪奈に。


 味方のふりをして人に近づく前に、俺は、本物の味方に、嘘をついていた。


 その事実が、胸の奥に、重く残った。



 その夜、俺は、なかなか眠れなかった。


 受けてしまった依頼のことを、考えていた。


 味方のふりをして、近づく。


 信頼させて、裏切る。


 毒を、盛る。


 最後に、殺す。


 その計画を、頭の中で、何度もなぞった。


 そして、気づいてしまった。


 それは。


 俺が、中学の時に、されたことと、同じだった。


 最初は、味方のふりをして、距離を詰めてきた。


 信頼させて。


 そして、最後に、裏切った。


 理由もなく。


 ただ、面白いから。


 俺を、追い詰めた。


 あの時、俺は、人を信じられなくなった。


 善意というものを、信じられなくなった。


 優しくしてくる人間ほど、怖くなった。


 俺を、壊したもの。


 それを、今、俺がやろうとしている。


 味方のふりをして、人に近づき、裏切って、殺す。


 家族のために。


 俺は、自分が一番、よく分かっていた。


 それが、悪だということを。


 誰よりも、よく分かっていた。


 俺は、それを、されたのだから。


 どれだけ人を壊すか、知っているのだから。


 なのに、やろうとしている。


 寝袋の中で、俺は、天井を見上げた。


 あの時。


 俺が、壊された時。


 誰も、止めてくれなかった。


 加害者を止める人間も。


 俺を助ける人間も。


 いなかった。


 助けを求めても、届かなかった。


 世界は、ただ、俺が壊れるのを、見ていた。


 だから。


 俺が、加害者になっても。


 きっと、誰も、止めない。


 そう思った。


 誰も、止めない世界だ。


 俺は、それを、知っている。


 だが。


 その時、俺は、自分でも分からなくなった。


 俺は。


 誰かに、止めてほしいのだろうか。


 それとも、止めないでほしいのだろうか。


 止めてほしいなら、まだ、俺は、引き返せる人間なのかもしれない。


 止めないでほしいなら、俺は、もう、進むしかないと、決めているのかもしれない。


 分からなかった。


 どちらが、本当の自分なのか、分からなかった。


 隣で、澪奈の、小さな寝息がする。


 何も知らない、澪奈。


 俺が嘘をついたことも、知らない。


 俺が、人を殺そうとしていることも、知らない。


 あの時には、いなかった人間。


 俺が壊された時には、いなかった人間。


 今は、隣にいる。


 俺が、何をしようとしているかも知らないまま、隣で眠っている。


 その寝息を聞きながら、俺は、目を閉じた。


 答えは、出なかった。


 ただ、明日から、俺は、人を殺すために、学校へ行く。


 それだけが、決まっていた。

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