第24話 命令
それから数日、悪魔の王からの連絡はなかった。
俺はその間、三つのアイテムを少しずつ調べた。
水筒は、水場の水を入れ、神力を流して維持する練習をした。
電池は、時間を見つけて充電した。
遅い。
満タンには程遠い。
それでも、少しずつ溜まっていく。
銃は、一度も触らなかった。
荷物の奥に、布に包んだまま。
その存在を、なるべく意識しないようにしていた。
悪魔の王のネットワークは、繋がったままだった。
チャット画面を開けば、いつでもあの黒と赤のUIが表示される。
だが、向こうからの新しい連絡はない。
地図取引は終わった。
褒美も受け取った。
これで、しばらくは関わらずに済むかもしれない。
そう思っていた。
甘かった。
◇
その日の午後だった。
澪奈は、洗濯物を持って、水場の方へ行っていた。
神力で汚れは落とせるが、すすぎには水がいる。
しばらくは戻らない。
俺は一人で、岩陰に座り、電池の充電をしていた。
遅い充電を、ただ続ける時間。
その時だった。
ポケットの中で、ライターが、わずかに震えた。
俺は、手を止めた。
周囲を確認する。
澪奈の姿はない。
水の音が、遠くで聞こえるだけだ。
俺はスマホを起動し、チャット画面を開いた。
赤い文字が、流れている。
『話がある』
『応じよ』
短い。
だが、断れる雰囲気ではなかった。
俺は、ライターのQRコードを読み込んだ。
昨日と同じ、自動発信。
数秒で、繋がる。
『来たか』
あの声だった。
赤髪の少女。
悪魔の王。
「何の用だ」
『用件は一つ。お前に依頼がある』
「依頼」
『そうだ』
俺は、警戒した。
地図取引は、こちらから持ちかけたものだった。
だが、今度は向こうからの依頼。
意味が違う。
『聞くか』
「内容による」
『賢明だ。だが、聞くだけは聞け。聞いてから決めればいい』
俺は、少し迷った。
だが、情報を拒む理由はない。
聞いて、断ることはできる。
「聞く」
俺は答えた。
◇
『東京で、ある動きがある』
悪魔の王は、淡々と話し始めた。
『学び舎を建て直している。神力を持つ若者を、優先的に集めている』
「学校か」
『そうだ。そこに、神力持ちを集める。そして、その者たちを使い、東京だけを立て直す』
「東京だけ」
『人を東京に集め、東京だけを復興させる。外を捨て、内だけを保つ。そういう計画だ』
俺は、息を呑んだ。
封鎖の理由。
道を塞ぎ、人を東京に留める動き。
あの噂が、悪魔の王の口から、計画として語られた。
「お前は、その計画の側じゃないのか」
『違う』
即答だった。
『私は、その計画とは相容れぬ。あの者たちは、私を組み込もうとした。私は拒んだ。それだけだ』
拒んだ。
悪魔の王は、東京の計画に組み込まれることを、拒否した。
だから今、東京の外縁にいる。
計画の外で、独自に動いている。
「それで、依頼は」
『その学び舎に、一人、厄介な者がいる』
悪魔の王の声が、わずかに低くなった。
『神月華。その者を、消せ』
俺の指が、止まった。
消せ。
暗殺。
はっきりと、そう言った。
「……人を、殺せと」
『そうだ』
「断る」
俺は、即座に言った。
考えるまでもなかった。
人を殺す。
そんなことをしている場合ではない。
俺には、やるべきことがある。
家族を、探さなければならない。
東京の中に、両親がいる。
そして、都外の中学にいるはずの、妹。
それを差し置いて、見ず知らずの人間を殺す理由など、ない。
「俺には、家族がいる。東京で、帰ってこない。そっちが先だ。人を殺している暇はない」
言ってから、少し後悔した。
家族のことを、悪魔の王に言うべきではなかったかもしれない。
だが、もう言ってしまった。
悪魔の王は、少しの間、黙った。
それから、静かに言った。
『その依頼を受けるなら』
『お前の家族を、全員、助けてやる』
俺は、動けなくなった。
「……何だと」
『東京の中にいる、お前の家族。すべて、私が助けてやる』
「お前に、そんなことが」
『できる。私は、東京の内側にも、手の届く者がいる。お前一人が探し回るより、確実だ』
心臓が、嫌な音を立てた。
『さらに言えば』
悪魔の王は、続けた。
『依頼の成否は、問わぬ』
「成否を、問わない」
『そうだ。お前が神月華を消せようと、消せまいと、家族は助ける。成功すれば、別に報酬も出す。だが、失敗しても、家族は助けてやる』
俺は、言葉を失った。
おかしい。
依頼として、おかしい。
成功してほしいなら、成功報酬だけでいい。
失敗してもいいなら、家族という餌を出す必要がない。
なのに、悪魔の王は、両方を出した。
失敗しても助ける、と。
断る理由を、消しにきている。
「……なぜ、そこまでする」
『お前に、やらせたいからだ』
「答えになっていない」
『今は、それでいい』
はぐらかされた。
悪魔の王の真の狙いは、別にある。
そう直感した。
だが、それを問い詰める材料が、今の俺にはない。
◇
「その、神月華ってのは、何者だ」
俺は、話を進めた。
受けるかどうかは、まだ決めていない。
だが、情報は必要だった。
『神力持ちだ。学び舎にいる』
「能力は」
『指定した対象に、マイナスという概念を、付与する』
「マイナス」
『そうだ。対象は、三つまで。それを超えては付与できぬ』
俺は、頭の中で、その能力を組み立てようとした。
マイナスの概念を付与する。
対象は三つ。
「具体的には」
『一つ。己の神力の消費量に、マイナスを付与する。使うほどに、神力が溜まる。尽きぬ力だ』
尽きない神力。
俺の電気が、維持で削れていくのとは、正反対だ。
『二つ。膜を踏み越え、己に届く攻撃に、マイナスを付与する。攻撃は、反転して返る』
「反射か」
『そうだ。撃てば、撃った者に返る。斬れば、斬った者が斬られる』
最悪だった。
攻撃が、反射される。
しかも、神力は尽きない。
「……それで、三つ目は」
『常に変える。状況に応じて、最も有効なものを選ぶ。それが、最も厄介だ』
俺は、理解した。
常時、二つの枠が埋まっている。
尽きない神力と、攻撃の反射。
そして、残り一つを、その場その場で、最適なものに変える。
臨機応変の、一枠。
これが、一番怖い。
どんな手で攻めても、その手に対して、マイナスを付与される。
毒を盛れば、毒にマイナス。
火を放てば、火にマイナス。
その都度、無効化される。
「それは……ほぼ、無敵じゃないか」
『そう見える。だが、穴がある』
「穴」
『枠は、三つしかない。二つは常に埋まっている。動かせるのは、一つだけだ』
俺は、その意味を、ゆっくりと飲み込んだ。
臨機応変の一枠。
それは、強い。
だが、一枠しかない。
つまり、同時に二つ以上の脅威を与えれば、対応しきれない。
あるいは、その一枠を、別のものに使わせてしまえば。
別の手が、通る。
『分かってきたな』
「……ああ」
『その一枠を、毒で塞ぐ』
悪魔の王は、計画を語り始めた。
『味方として近づけ。警戒させるな。反転の膜は、攻撃と認識したものにしか働かぬ。味方の顔をしていれば、膜は張られぬ』
「味方の、ふりをしろと」
『そうだ。信を得て、飲食に毒を仕込む。神月華は、毒を脅威と認識し、三つ目の枠を、毒の無効化に使うだろう。継続する毒であれば、なお良い。枠は、長く塞がれる』
俺は、黙って聞いていた。
『そして、三つの枠が、すべて塞がった時』
『反射できぬ手段で、消す』
「反射できない手段」
『ある。だが、連発はできぬ。一度きりだ。だからこそ、相手を弱らせ、間を置かずに使う必要がある』
「その手段は、何だ」
『今は言えぬ』
「……」
『受けるなら、私が用意してもいい。お前が知るのは、その時だ』
俺は、口を閉じた。
計画は、筋が通っていた。
恐ろしいほど、筋が通っていた。
味方として近づき、信頼させ、毒で防御の枠を塞ぎ、反射できない手段でとどめを刺す。
完璧な、暗殺計画だった。
そして、その完璧さが、俺を、ぞっとさせた。
◇
「一つ、聞いていいか」
「なぜ、お前は、自分でやらない」
俺は、ずっと引っかかっていたことを、口にした。
これだけの計画を立てられるなら。
これだけの力を持っているなら。
悪魔の王自身が、やればいい。
なぜ、わざわざ、家族という大きすぎる餌を払ってまで、俺に依頼するのか。
『理由は、いくつかある』
悪魔の王は、隠さなかった。
『一つ。神月華の反射は、強い攻撃ほど、強く返る。私が直接手を下せば、私自身が、無事では済まぬ』
「お前でも、か」
『私だからこそ、だ。強い者の攻撃ほど、強く反る。お前のような、弱い者の方が、かえって都合がいい場合もある』
遠回しに、弱いと言われた。
だが、反論する気にはなれなかった。
事実だからだ。
『二つ。私は、その学び舎に、近づけぬ』
「なぜ」
『神月華のそばに、一人、女がいる』
悪魔の王の声が、初めて、わずかに警戒の色を帯びた。
『その女は、見ただけで、相手の名と、種を、見抜く。何者であるかを、知る力だ』
名前と、種族を、見抜く。
俺は、その意味を、考えた。
そして、気づいた。
悪魔の王にとって、それは。
『私が近づけば、見抜かれる。私が、何であるかを』
「お前が、何であるか」
『それは、知られてはならぬ』
悪魔の王は、それ以上、語らなかった。
だが、確信した。
悪魔の王には、隠している正体がある。
名前と種族を見抜く力に、近づけない。
それほどの、秘密がある。
あの、千葉を知らない異常さ。
年齢で測れない何か。
悪魔の王が、ただの赤髪の少女ではないことは、最初から分かっていた。
だが、その正体は、見抜かれてはならないほど、危険なものらしい。
『分かったか。私は、近づけぬ。だが、お前なら、近づける。ただの神力持ちの若者として、学び舎に紛れ込める』
「……」
『人手が足りていてな』
悪魔の王は、淡々と言った。
『ちょうどいい。手を組め』
「待て」
『これは、命令だ』
俺は、言葉を失った。
依頼ではなく、命令。
悪魔の王は、もう、俺が断らないと、決めつけていた。
◇
通話が、続いている。
俺は、考えていた。
断るべきだ。
頭では、そう分かっていた。
人を殺す。
味方のふりをして、信頼させ、裏切って、殺す。
そんなこと、できるはずがない。
できるはずが。
だが。
俺の頭の片隅で、別の声がした。
家族を、助けてやる。
全員。
成功しても、失敗しても。
両親。
そして、妹。
妹は、都外の中学にいるはずだった。
東京の中ではない。
だから、安全だと思っていた。
思おうとしていた。
だが。
東京の外縁で見た、あの光景。
道を間違えれば殺される。
布をかけられた人影。
武器を持った人間たち。
あれが、東京の外側だ。
なら、東京の内側は。
妹のいる場所は、本当に、安全なのか。
無事だと、誰が保証した。
俺は、何も知らない。
妹が今どうしているのか、生きているのかすら、知らない。
ただ、無事だと思いたいだけだ。
まともでいたいから。
普通でいたいから。
妹は無事だと、思い込んでいるだけだ。
胸の奥が、冷たくなった。
『どうする』
悪魔の王が、問う。
俺は、目を閉じた。
水の音が、遠くで聞こえる。
澪奈は、まだ戻らない。
誰も、いない。
俺は、自分が、何を選ぼうとしているのか、分かっていた。
分かっていて、止まれなかった。
「……受ける」
声に出した瞬間、それは、決定になった。
『よい判断だ』
悪魔の王の声に、感情はなかった。
喜びも、満足も、何もない。
ただ、駒が一つ、揃った。
それだけの声だった。
『詳細は、追って送る。まず、学び舎に入れ。神月華に近づけ。焦るな』
「分かった」
『家族のことは、案ずるな。お前が動き始めた時点で、私も動く』
「……ああ」
通話が、切れた。
俺は、しばらく、動けなかった。
受けてしまった。
暗殺を。
人を殺す依頼を。
◇
しばらくして、澪奈が戻ってきた。
洗濯物を抱えて、水場の方から。
「ただいま。すすぎ終わった」
「ああ」
「燈真、充電は?」
「……少し進んだ」
俺は、スマホもライターも、もう布で包んでいた。
通話のことは、言わなかった。
悪魔の王から、依頼が来たことも。
その依頼を、受けたことも。
言えなかった。
言えば、澪奈は止めるかもしれない。
止めないかもしれない。
どちらにしても、言えなかった。
人を殺す依頼を受けた、とは。
澪奈は、俺の顔を、少し見た。
「なんか、疲れてる?」
「……充電で、神経使った」
「ほどほどにね」
「ああ」
澪奈は、それ以上は聞かなかった。
いつものように、洗濯物を広げ始める。
俺は、その背中を見ていた。
嘘をついた。
初めてではない。
悪魔の王のことも、最初は伏せた。
だが、今回は、違った。
今までは、危険な情報を、守るために伏せていた。
今回は、自分のやることを、隠した。
人を殺すという、自分の選択を。
澪奈に。
味方のふりをして人に近づく前に、俺は、本物の味方に、嘘をついていた。
その事実が、胸の奥に、重く残った。
◇
その夜、俺は、なかなか眠れなかった。
受けてしまった依頼のことを、考えていた。
味方のふりをして、近づく。
信頼させて、裏切る。
毒を、盛る。
最後に、殺す。
その計画を、頭の中で、何度もなぞった。
そして、気づいてしまった。
それは。
俺が、中学の時に、されたことと、同じだった。
最初は、味方のふりをして、距離を詰めてきた。
信頼させて。
そして、最後に、裏切った。
理由もなく。
ただ、面白いから。
俺を、追い詰めた。
あの時、俺は、人を信じられなくなった。
善意というものを、信じられなくなった。
優しくしてくる人間ほど、怖くなった。
俺を、壊したもの。
それを、今、俺がやろうとしている。
味方のふりをして、人に近づき、裏切って、殺す。
家族のために。
俺は、自分が一番、よく分かっていた。
それが、悪だということを。
誰よりも、よく分かっていた。
俺は、それを、されたのだから。
どれだけ人を壊すか、知っているのだから。
なのに、やろうとしている。
寝袋の中で、俺は、天井を見上げた。
あの時。
俺が、壊された時。
誰も、止めてくれなかった。
加害者を止める人間も。
俺を助ける人間も。
いなかった。
助けを求めても、届かなかった。
世界は、ただ、俺が壊れるのを、見ていた。
だから。
俺が、加害者になっても。
きっと、誰も、止めない。
そう思った。
誰も、止めない世界だ。
俺は、それを、知っている。
だが。
その時、俺は、自分でも分からなくなった。
俺は。
誰かに、止めてほしいのだろうか。
それとも、止めないでほしいのだろうか。
止めてほしいなら、まだ、俺は、引き返せる人間なのかもしれない。
止めないでほしいなら、俺は、もう、進むしかないと、決めているのかもしれない。
分からなかった。
どちらが、本当の自分なのか、分からなかった。
隣で、澪奈の、小さな寝息がする。
何も知らない、澪奈。
俺が嘘をついたことも、知らない。
俺が、人を殺そうとしていることも、知らない。
あの時には、いなかった人間。
俺が壊された時には、いなかった人間。
今は、隣にいる。
俺が、何をしようとしているかも知らないまま、隣で眠っている。
その寝息を聞きながら、俺は、目を閉じた。
答えは、出なかった。
ただ、明日から、俺は、人を殺すために、学校へ行く。
それだけが、決まっていた。




