第23話 封印箱
翌朝、俺は昨日と同じ岩陰に座っていた。
澪奈は正面。
手には水筒と布。
昨日と同じ位置取りだった。
「世界地図、送るだけだよね?」
「送るだけだ」
「それで取引は終わり?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「相手が悪魔の王だからな」
澪奈は不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。
俺はスマホを取り出した。
黒い画面。
指先に、細い電気を流す。
昨日より、感覚は掴めている。
火でも風でもない、糸のような電気。
弱く、一定に。
数秒で画面が震え、白いロゴが浮かんだ。
起動。
昨日よりは安定している。
慣れというのは、こういう異常な行為にも働くらしい。
俺は黒いチャット画面を開いた。
背景は黒く、文字は赤い。
相変わらず悪趣味だ。
保存していた世界地図の画像を添付する。
学校の資料に入っていた、解像度の低いやつ。
送信。
一瞬、画面が固まる。
『受領』
赤い文字が浮かんだ。
俺は息を吐いた。
これで、約束した分は送った。
日本地図、関東、東京周辺、千葉、そして世界地図。
封鎖情報も拠点情報も省いた、ただの地理だけ。
「終わった?」
「終わったはずだ」
そう言った直後だった。
画面が、勝手に動いた。
「……また勝手に動いた」
「燈真、それやめてほしいんだけど」
「俺もそう思う」
チャット画面に、新しい文字列が流れる。
『取引は果たされた』
『褒美を封ずる』
来た。
俺は身構えた。
『指定の地に箱を置く。場所はこれだ』
画面が切り替わる。
昨日、俺が送った関東の地図が表示された。
俺の地図だ。
俺が撮影して送ったものを、向こうがそのまま使っている。
その上に、赤い点が一つ打たれていた。
俺は地図を見て、息を呑んだ。
知っている場所だった。
街の外れ。
山へ向かう途中にある、潰れたホームセンターの跡地。
以前、まだ世界が普通だった頃、キャンプ道具を買いに行ったことがある。
今は誰も寄りつかない。
大きすぎて荷物にならない物しか残っていない場所。
悪魔の王は、俺が送った地図を見て、そこを指定した。
自分では千葉の地理を知らないくせに、俺が渡した地図の上でなら、正確に場所を打てる。
背筋が、少し冷えた。
俺の地図が、こうやって使われる。
情報を渡すというのは、こういうことだ。
『そこに箱を封ずる。お前が所有権を持つなら、コードで開く』
「分かりました」
『偽れば分かる。逃げれば不履行だ』
「逃げません」
『よい』
通信が切れた。
画面に、黒いチャットだけが残る。
俺は電気を止めた。
スマホが暗くなる。
少しだけ、頭が重い。
「燈真」
「ああ」
「今の、場所教えてくれた?」
「ホームセンターの跡だ。山の途中の」
「あそこ」
澪奈も知っている。
一緒に何度か前を通っている。
「箱を置くって、どうやって?」
「分からない。だが、悪魔の王のアイテムだ。普通の置き方じゃないだろうな」
「取りに行くの?」
「行く」
澪奈は少し黙った。
それから、当然のように言った。
「私も行く」
「だめだ」
「なんで」
「あそこは、悪魔の王が指定した場所だ」
俺は地図を畳みながら言った。
「箱を置くってことは、向こうの何かが、あの場所に関わるってことだ。罠かもしれない。見張られてるかもしれない。少なくとも、安全な場所じゃない」
「だから一緒に行くんでしょ」
「だから一人で行く」
澪奈が眉を寄せる。
俺は言葉を選んだ。
昨日、ずっと考えていたことだった。
「澪奈。悪魔の王のネットワークは、人に紐づくらしい。俺はもう繋がってる。だが、お前は繋がってない」
「うん」
「あの場所に二人で行けば、向こうに、俺が一人じゃないと知られるかもしれない。仲間がいると」
「……それ、まずいの?」
「まずい」
俺は頷いた。
「悪魔の王は、俺を一人の取引相手だと思ってる。たぶん、孤立した個人だと。だから今は、ただの地図屋として扱われてる。だが、拠点があって仲間がいると知られたら、扱いが変わる。価値が上がるか、危険が増えるか、どっちにしろ面倒だ」
「燈真の価値が上がるのは、よくないんだよね」
「よくない」
澪奈は理解が早い。
価値が上がるということは、奪う理由が増えるということだ。
囲い込む理由が増えるということだ。
昨日、東京の外縁で見た光景が、それを教えていた。
「だから、お前は来ない方がいい。少なくとも、あの場所には」
澪奈は唇を噛んだ。
怒っているのではない。
考えている顔だった。
「……分かった。でも、条件」
「なんだ」
「途中までは一緒に行く。ホームセンターの手前で待つ。見える範囲には入らないけど、何かあったらすぐ動ける距離にいる」
「澪奈」
「これは譲らない」
声が強かった。
昨日、東京から帰ってきた俺を見た時の、あの顔を思い出す。
俺は、折れた。
「分かった。手前で待て。姿は見せるな」
「うん」
「三十分待って俺が戻らなかったら、お前は拠点に帰れ。助けに来るな」
「それは無理」
「澪奈」
「それは、無理」
二回言われた。
俺はため息をついた。
昨日、俺が澪奈にしたことの、ちょうど裏返しだった。
◇
ホームセンターの跡地は、記憶よりも荒れていた。
駐車場のアスファルトは割れ、雑草が伸びている。
大きなガラスは割れ、看板は半分落ちていた。
澪奈は、手前の崩れたブロック塀の陰で止まった。
「ここで待つ」
「ああ」
「無理だと思ったら、すぐ戻って」
「分かってる」
俺は一人で、跡地に足を踏み入れた。
誰もいない。
風の音だけがする。
俺はポケットのライターを握った。
昨日、悪魔の王はこう言った。
指定の地に箱を封ずる、と。
箱はどこにある。
俺は店内を見渡した。
空の棚。
散らばった商品の残骸。
誰かが持ち去った後の、骨だけになった店。
その、一番奥。
レジがあったあたりの床に。
黒い箱が、一つ。
置いてあった。
いや、置いてあったという言い方は正しくない。
昨日まで、あんな箱はなかった。
誰かが運び込んだ形跡もない。
埃の積もった床の上に、その箱の周りだけ、不自然に埃がなかった。
まるで、空間にそこだけ、後から差し込まれたように。
俺は近づいた。
手のひらほどの、黒い金属の箱。
ライターと同じ材質に見えた。
表面に、見慣れない刻印。
そして、QRコード。
俺は周囲をもう一度確認した。
誰もいない。
罠らしきものも見えない。
だが、油断はできない。
俺はスマホを起動した。
細い電気。
QRコードを読み込む。
画面に、赤い文字。
『所有権の確認』
『地図取引の履行者と一致』
『封印を解除する』
箱の刻印が、一瞬だけ赤く光った。
かちり、と小さな音。
蓋が、わずかに浮いた。
俺は息を整えてから、蓋を開けた。
◇
中には、三つ。
金属の水筒。
黒い、拳銃のようなもの。
そして、円筒形の電池。
昨日、悪魔の王が言った通りだった。
水を保つ器。
力を弾にする筒。
雷を蓄える器。
俺は、まず箱ごと布で包んだ。
ここで調べるのは危険だ。
持ち帰る。
俺は跡地を出て、澪奈のところへ戻った。
澪奈は、俺を見て立ち上がった。
「あった?」
「あった」
「中身は?」
「言った通りだ。水筒、銃、電池」
澪奈の顔が、わずかに引きつった。
「銃、本当にあったんだ」
「あった」
「……帰ってから調べる?」
「ああ。岩陰で」
俺たちは、来た道を戻った。
◇
拠点近くの岩陰。
昨日、スマホの実験をした場所だ。
俺は布を開いた。
三つのアイテムが、並ぶ。
澪奈は、少し離れて座っている。
危険物を見る目だった。
「どれから?」
「水筒からだ」
一番、無害そうに見えた。
俺は水筒を手に取った。
普通の金属水筒に見える。
ただ、底に刻印とQRコード。
俺は蓋を開け、持ってきた水場の水を、半分ほど入れた。
「神力を流すんだと思う」
俺はそう言って、水筒に神力を流した。
ほんの少し。
火でも風でも電気でもない、ただ流す感覚。
水筒が、一瞬だけ、刻印を光らせた。
それだけだった。
何も起きない。
「……何も起きないけど」
「待て」
俺は水筒の水を、地面に少し捨てた。
半分あった水が、減る。
はずだった。
俺は中を覗いた。
水は、半分のままだった。
「え」
澪奈が、横から覗き込む。
「減ってない」
「減ってない」
俺はもう一度、水を捨てた。
地面が濡れる。
確かに、水筒から水は出た。
なのに、中身は半分のまま。
減らない。
俺は何度か繰り返した。
水を捨てる。
減らない。
また捨てる。
減らない。
「無限……?」
澪奈の声が、少し掠れていた。
俺は、水筒に流していた神力を、止めてみた。
そして、また水を捨てる。
今度は、減った。
半分が、少し減った。
「神力を流してる間だけだ」
俺は理解し始めた。
「神力を流してる間は、中の水が減らない。腐りもしないんだろう。神力が切れれば、ただの水筒に戻る」
「じゃあ、神力を流し続ければ」
「無限に水が出る」
俺は、自分で言って、ぞっとした。
水。
水道が死んで、川に人が殺到して、東京の外縁では水が足りなくて人が死んでいる、この世界で。
無限の水。
「でも、神力を消費するんだよね」
澪奈が冷静に言った。
「火と違うよね。火は、一回つければ燃料がある限り勝手に燃える。でもこれは、流し続けないと止まる」
「ああ」
澪奈は、いつもそこに気づく。
「電気と風と同じだ」
俺は頷いた。
「流し続けないといけない。維持に神力を食われる。俺がこれを動かし続ける限り、その分、他のことに神力を回せなくなる」
「便利だけど、ただじゃないんだ」
「ああ」
それでも、便利すぎた。
水場から離れた場所でも、水を確保できる。
移動中でも、いざという時でも。
一本の水筒が、無限の水源になる。
悪魔の王は、こんなものを、地図三枚の褒美に出した。
地図三枚で。
「次は」
澪奈の声で、俺は我に返った。
「電池だ」
◇
円筒形の電池。
見た目は、ただの大きめの乾電池に近い。
だが、刻印とQRコードがある時点で、普通ではない。
俺は電池を手に取った。
少し、重い。
「これは、たぶん、電気を入れるんだと思う」
「燈真の電気?」
「ああ」
俺は、電池の端子に指先を近づけた。
細い電気を流す。
スマホに流す時より、少しだけ太く。
電池が、わずかに熱を持った。
刻印が、ゆっくりと、赤く光り始める。
光は、少しずつ強くなっていく。
「充電されてる」
俺はそう感じた。
だが、遅い。
流し込んでも、流し込んでも、光が満ちる気配がない。
俺はしばらく流し続けた。
一分。
二分。
刻印の光が、ようやく半分くらいになった。
「遅い」
「燈真、顔色」
「分かってる」
俺は一度、電気を止めた。
息を吐く。
電気そのものより、細かい制御で神経が削れる。
昨日と同じだ。
「充電は、かなり遅いな」
「でも、半分入った?」
「入ったと思う」
俺は電池をしばらく眺めた。
それから、試しに、スマホに繋いでみた。
ケーブルを電池に。
反対側をスマホに。
俺の電気ではなく、電池の電気で起動するか。
スマホが、震えた。
白いロゴ。
起動する。
「……動いた」
澪奈が、息を呑む。
俺が電気を流していないのに、スマホが動いている。
電池から、電気が供給されている。
俺は、しばらく画面を見ていた。
半分しか充電していないのに、スマホは普通に動き続けた。
一分。
二分。
切れない。
「容量、おかしい」
俺は呟いた。
「半分でこれか」
「すごいの?」
「すごいなんてものじゃない」
俺は、頭の中で計算した。
いや、計算するまでもない。
半分の充電で、スマホがこれだけ持つ。
満充電なら、どれだけ持つか分からない。
普通の乾電池ではない。
とんでもない容量だ。
そして、何より。
これは、俺の電気を、溜められる。
俺がいなくても、この電池がある限り、電気が使える。
俺は、その意味を、ゆっくりと飲み込んだ。
今まで、俺の電気は、俺の体からしか出なかった。
俺がそこにいなければ、電気はない。
俺が東京へ行けば、拠点の電気は止まる。
俺が拠点にいれば、東京へ電気は持っていけない。
俺の体一つが、唯一の電源だった。
だが、この電池があれば。
俺は、電気を、持ち運べる。
溜めて、置いていける。
俺がいない場所でも、電気を残せる。
「燈真?」
澪奈が、俺の顔を覗き込む。
「なんか、すごい顔してる」
「……いや」
俺は、口を閉じた。
まだ、言葉にしたくなかった。
この電池が何を変えるのか。
それを口にするには、まだ早い気がした。
ただ、一つだけ、引っかかっていた。
なぜ、悪魔の王は、これを俺に渡した。
雷を蓄える器。
電気を溜める電池。
電気が、世界から消えた、この世界で。
電気を溜める器に、意味があるのは。
電気を、出せる人間だけだ。
俺は、悪魔の王に、神力で火を出せるとは言った。
短時間なら端末を動かせる、とも言った。
だが、電気を生み出せるとは、言っていない。
濁したはずだ。
なのに、悪魔の王は、電気を溜める器を、褒美に選んだ。
偶然か。
それとも。
俺は、背筋に冷たいものを感じた。
「澪奈」
「うん?」
「……いや、なんでもない」
今は、言わない。
まだ、確証がない。
ただの、嫌な予感だ。
だが、その予感は、簡単には消えなかった。
◇
最後は、銃だった。
俺は、それを手に取るのを、少しためらった。
黒い、金属の塊。
拳銃の形をしている。
だが、弾倉に、弾はない。
空だった。
「それ、どうやって使うの」
澪奈の声が、固い。
「たぶん、神力で弾を作るんだろう」
俺は、銃口を地面に向けたまま、神力を流してみた。
ほんの少し。
かちり、と、内部で音がした。
俺は弾倉を確認した。
弾が、一発。
入っていた。
さっきまで、空だったのに。
「……弾が、できた」
澪奈が、後ずさった。
「神力で、弾を作る銃」
俺は、それ以上、撃たなかった。
撃てば、音が出る。
ここは、拠点の近くだ。
それに。
撃ちたくなかった。
水筒は、生活を助ける。
電池は、電気を残す。
どちらも、暮らしのための道具だった。
だが、銃は違う。
これは、人を撃つための道具だ。
神力さえあれば、いくらでも弾を作れる。
弾切れがない銃。
それが、どれだけ恐ろしいか。
俺は、弾を抜く方法を探した。
弾倉から、一発を抜く。
空に戻す。
そして、銃を、布で何重にも包んだ。
「使わないの?」
「使わない」
「でも、もらったんだよね」
「もらった。だが、使う日が来ないことを祈る」
澪奈は、何も言わなかった。
ただ、布に包まれた銃を、じっと見ていた。
俺は、その銃を、荷物の一番奥にしまった。
手の届きにくい場所に。
いつか使うかもしれない。
だが、それは、今ではない。
そう思いたかった。
◇
その日の夕方、俺はノートを開いた。
記録を書く。
水を保つ器。
神力を流す間、中の液体が減らず、腐らない。維持に神力を消費。事実上、無限の水源。
雷を蓄える器。
俺の電気を充電可能。容量は異常に大きい。充電速度は遅い。電気を溜めて持ち運べる。
力を弾にする筒。
神力で弾を補給する銃。弾切れがない。使用は最終手段。
書きながら、俺は何度も手を止めた。
どれも、便利すぎる。
そして、どれも、危険すぎる。
この三つの存在が知られたら、間違いなく面倒なことになる。
無限の水。
持ち運べる電気。
弾切れのない銃。
どれも、この世界で、誰もが喉から手が出るほど欲しいものだ。
配布所の列に並ぶ人々。
水を求める人々。
東京の外縁で、武器を持った人間たち。
彼らが、これを知ったら。
俺は、ノートを閉じた。
澪奈が、静かに言う。
「千咲ちゃんには?」
「言わない」
「やっぱり」
「水筒も、電池も、銃も、伏せる。存在ごと、伏せる」
「うん」
千咲は、悪人ではない。
だが、必要なものは欲しがる。
無限の水。
拠点にとって、喉から手が出るほど欲しいはずだ。
だが、これを共有するということは、悪魔の王のネットワークに、千咲たちを引き込むということだ。
アイテムを使うには、ネットワークへの接続権がいる。
人に紐づくか、アイテムに紐づけるか。
どちらにしろ、悪魔の王に、痕跡が残る。
仲間の存在が、少しずつ漏れる。
俺は、それをしたくなかった。
守るために、危険に晒す。
その選択を、まだ、する気にはなれなかった。
「燈真」
「なんだ」
「これ、全部、便利だよね」
「ああ」
「便利すぎて、怖いよね」
「ああ」
澪奈は、膝を抱えた。
「世界、どんどん変になってく」
「同感だ」
俺は、空を見上げた。
電気の消えた街は、今日も暗くなっていく。
ポケットには、ライター。
荷物の奥には、水筒、電池、銃。
俺は、悪魔の王のネットワークに繋がり、その商品を三つ、手に入れた。
便利なものを。
危険なものを。
そして、一つの、嫌な予感を。
なぜ、悪魔の王は、電気を溜める器を、俺に渡したのか。
その答えを、俺は、まだ知らない。
知りたくないような気も、していた。
だが、たぶん。
いつか、知ることになる。
そんな予感だけが、夜の冷たさと一緒に、背中に残っていた。




