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第20話 封鎖された道

朝になった。


 いつもと同じ水の音がしていた。


 山の水場を流れる細い水流。木々の間を抜ける風。鳥の声。土の匂い。


 世界から電気が消えても、この場所だけはあまり変わっていないように見える。


 だが、それは錯覚だ。


 俺たちがここにいる理由そのものが、もう普通ではない。


 街では水を求める人が増え、配布所には行列ができ、神力持ちを登録する受付までできている。


 東京方面は封鎖されているという噂がある。


 父と母は帰ってこない。


 そして俺は、今日そこへ向かう。


 俺はリュックの中身を最後にもう一度確認した。


 水。


 携帯食。


 地図。


 ノート。


 鉛筆。


 ナイフ。


 ロープ。


 救急セット。


 火打ち石。


 マッチ。


 布に包んだハサミ。


 スマホ。


 乾電池式ライト。


 ケーブル。


 スマホとライトはリュックの奥だ。


 絶対に見られてはいけない。


 俺が電気を生み出せることは、今のところ澪奈しか知らない。


 千咲にも言っていない。


 この情報は、火より危険だ。


 洗浄より危険だ。


 ハサミ通信より危険だ。


 電気を失った世界で、電気を生み出せる。


 その事実は、俺自身の価値を異常なほど跳ね上げる。


 価値があるということは、奪われる理由になるということだ。


 だから隠す。


 使うとしても、誰にも見られない場所で、最後の手段として。


「本当に行くんだね」


 澪奈が言った。


 昨日の夜から何度も確認したことだった。


 それでも、出発の朝になると、言葉の重さが変わる。


「ああ」


「今日の予定、もう一回言って」


「まず街を抜けて、東京方面へ向かう。大きな道は封鎖されている可能性が高いから、正面からは入らない。最初は様子を見るだけだ」


「一日目は東京の中には入らない」


「基本はな。状況次第で手前まで行く」


「状況次第禁止」


「……無理はしない」


「うん」


 澪奈は地図を広げた。


 昨日、何度も確認した線が引かれている。


 第一候補の道。


 第二候補の道。


 戻る道。


 泊まる候補。


 三日以内に帰る。


 それを何度も確認した。


「三日帰ってこなかったら、私は千咲ちゃんに連絡する」


「ああ」


「その後、情報を集めてから動く」


「一人で東京方面には入るな」


「燈真も、無茶して奥に入りすぎない」


「分かってる」


「燈真の分かってるは、半分くらい信用する」


「半分か」


「半分でも高い方」


「そうか」


 澪奈は少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消える。


 彼女は俺の袖を掴んだ。


 いつもの癖。


 ゲーセンの奥へ行く時も、街を歩く時も、怖い時はこうして袖を掴む。


 今は、俺を引き止めるためではなく、最後に確かめるような手だった。


「燈真」


「なんだ」


「ちゃんと帰ってきて」


「ああ」


「情報が取れなくても、無理なら帰ってきて」


「ああ」


「ご両親のこと、心配なのは分かる。でも、燈真が帰ってこないのは嫌だから」


 胸の奥が少し痛んだ。


 父と母。


 東京。


 帰ってこない理由。


 それを知るために行く。


 だが、俺には帰る場所もある。


 ここだ。


 澪奈がいる、この水場だ。


 それを忘れたら駄目だ。


「帰る」


 俺は言った。


「約束する」


 澪奈はじっと俺を見た。


 そして、ようやく袖を離す。


「行ってらっしゃい」


 その言葉を聞いて、俺は少しだけ息を止めた。


 普通の言葉だ。


 家から出る時に、家族が言うような言葉。


 けれど、今の世界では重い。


 行って、帰ってくる。


 その当たり前が、もう当たり前ではないからだ。


「ああ」


 俺は自転車を押した。


「行ってくる」


 山の水場を離れる。


 背中に澪奈の視線を感じた。


 振り返らなかった。


 振り返ると、足が鈍りそうだった。


 自転車を押しながら、山道を下る。


 荷物を積んだ自転車は重い。


 だが、乗れる場所では徒歩よりずっと速いはずだ。


 まずは街を抜ける。


 人が多い場所では乗らない。


 目立つし、荷物ごと狙われる可能性がある。


 住宅地に入る前に、俺はハサミを取り出した。


 布を少しだけ開く。


「千咲」


 数秒後、しゃきん、と音がした。


『燈真くん? 今?』


「出る」


『そっか』


 千咲の声は、いつもより静かだった。


 たぶん、向こうの家の中なのだろう。遠くで誰かの小さな声も聞こえる。


『気をつけて。こっちでも東京方面の情報が入ったら記録しておく』


「ああ。澪奈が連絡したら対応を頼む」


『分かってる。澪奈ちゃん一人で突っ走らせないようにする』


「頼む」


『燈真くんも突っ走らないでね』


「努力する」


『そこは約束でしょ』


「……約束する」


『よろしい』


 少しだけ千咲の声が明るくなった。


 その後、別の声が入る。


『ゼロデス』


 透子だ。


「そっちもな」


『了解』


 次に、紗良の声。


『帰ってきたらギター聞いてよー』


「音量は控えめにしろ」


『そこ!?』


 莉子の声も聞こえた。


『死ぬんじゃないわよ。別に心配してるわけじゃないけど』


「その前置きはもういい」


『うるさいわね』


 最後に、詩乃の控えめな声。


『どうか、ご無事で』


「ああ」


 短く答える。


 ハサミ越しの声が途切れる前に、千咲が言った。


『燈真くん』


「なんだ」


『帰ってきたら連絡して』


「ああ」


『絶対』


「分かった」


 通信を切る。


 ハサミを布に包み直す。


 千咲たちの声が消えると、急に周囲が静かになった。


 山道を下る音だけがする。


 俺は一度深く息を吐いた。


 帰る場所が二つあるような気がした。


 澪奈のいる水場。


 千咲たちの家。


 だが、優先順位を間違えるな。


 俺が守るべき最初の場所は、水場だ。


 そして、確認すべきは家族だ。


 他人を助けるためではない。


 家族のために、東京へ行く。


 住宅地に入ると、人の気配が一気に増えた。


 朝だというのに、道を歩く人が多い。


 水を入れる容器を持った人。


 配布所へ向かうらしい家族。


 リュックを背負った若者。


 自転車を押す老人。


 以前ならそれぞれの目的地へ向かっていたはずの人たちが、今は同じような不安を抱えて歩いている。


 俺は自転車を押しながら、なるべく目立たないように進んだ。


 服は少し汚してある。


 髪も整えすぎていない。


 だが、荷物を積んだ自転車はどうしても目立つ。


 視線を感じる。


 あいつは何を持っているのか。


 どこへ行くのか。


 水か。


 食料か。


 そういう視線。


 俺は立ち止まらなかった。


 配布所の近くは避ける。


 神力登録所も避ける。


 今日は情報収集ではなく、東京方面の確認が目的だ。


 余計なことに関わらない。


 そう決めていた。


 しかし、広場の近くを通った時、どうしても目に入った。


 昨日よりも登録所の列が伸びている。


 神力協力者受付。


 手書きの紙はそのままだ。


 火、水、医療、電気、防衛、通信、探索。


 その文字を見るだけで、背筋が冷える。


 列に並んでいるのは、大人だけではない。


 高校生くらいの子もいる。


 親に連れられた小学生くらいの子もいる。


 能力を持っているのか、持っているかもしれないと思っているのか。


 それとも、優先支援を求めているだけなのか。


 分からない。


 だが、列は確かに伸びていた。


 水と食料が足りなくなれば、登録する人間はさらに増える。


 そして登録者が増えれば、登録していない神力持ちは怪しまれるようになる。


 能力があるのに協力しないのか。


 そんな空気が、いずれ生まれる。


 そうなる前に、東京の実態を知る必要がある。


 俺は視線を逸らし、先へ進んだ。


 街を抜けると、道は少し広くなった。


 ここから先は、自転車に乗れる。


 俺は周囲を確認し、サドルにまたがった。


 荷物が重い。


 ハンドルが少しふらつく。


 だが、進める。


 ペダルを踏む。


 風が顔に当たる。


 電気が消えてから、初めてまともに速度を出して移動している気がした。


 車の音はない。


 エンジン音もない。


 ただ、自転車のチェーンとタイヤの音だけがする。


 道路には放置された車がある。


 電気が消えた瞬間に止まったのか、端に寄せられずに車道の真ん中で止まっているものもあった。


 窓が割られた車もある。


 中から荷物を漁られたのだろう。


 最初に見た時より、荒れている。


 人間はもう、放置されたものを資源として見始めている。


 それが悪いとは言い切れない。


 この状況では、使えるものを使うしかない。


 ただ、秩序が薄れているのは確かだった。


 東京方面へ向かう大きな道に近づくにつれて、人の流れが増えた。


 行く人。


 戻ってくる人。


 立ち止まって話す人。


 不自然だった。


 東京へ向かう道なのに、東京から来る人が少ない。


 戻ってくるのは、東京へ行こうとして諦めた人たちらしい。


 俺は自転車を降り、押して歩く。


 前方に人だかりが見えた。


 封鎖。


 そう直感した。


 近づくと、道の先にバリケードのようなものが置かれていた。


 車止め。


 金属柵。


 倒した標識。


 放置車両。


 それらを組み合わせて、道を塞いでいる。


 その前には、腕章をつけた人間たちがいた。


 白地に青い線。


 登録所の連中と同じ系統だ。


 さらに、警備員のような服装の男もいる。


 警察か自衛隊かは分からない。


 少なくとも、統一された正式な組織というより、いくつかの人員が寄せ集められているように見えた。


「通れません! 東京方面への移動は制限されています!」


 男の一人が大きな声で言っている。


「復旧作業中です! 危険区域への立ち入りはできません! 避難所の指示に従ってください!」


 周囲から不満の声が上がっている。


「家族がいるんだ!」


「会社に戻らなきゃいけない!」


「東京から妻が帰ってこないんだよ!」


「いつ通れるんだ!」


 封鎖側は同じことを繰り返している。


 危険。


 復旧作業。


 通行制限。


 避難誘導。


 それらしい言葉ばかりだ。


 だが、具体的な説明はない。


 俺は人混みの端で様子を見た。


 正面突破は無理だ。


 ここで食い下がれば、名前や住所を聞かれるかもしれない。


 神力登録所と同じ腕章がいる以上、余計な接触は避けるべきだ。


 しかし、聞けることは聞いておきたい。


 俺は少し離れた場所にいる中年の男に声をかけた。


 男は疲れた顔で、空のリュックを背負っている。


「すみません」


「なんだ」


「ここ、いつから封鎖されてるんですか?」


「昨日もだ。いや、一昨日からかもしれん。俺は昨日来て戻された」


「東京方面へ行きたいんですか」


「娘がいる。向こうの寮にいた。連絡が取れない」


「通れない?」


「無理だ。復旧作業だの危険区域だの言われるだけ。こっちは家族を探しに行きたいだけなのに」


 男はバリケードを睨んだ。


「なんでどの道も封鎖されてるんですか?」


 俺は聞いた。


 男は苦々しい顔をした。


「詳しくは知らん。聞いた話だと、東京を優先的に復興させる気らしい」


「東京を?」


「ああ。人を東京に留めて、そこだけ先に立て直す。可能なら人を東京に集める。神力持ちもだ。まあ、眉唾だがな」


「人を集める……」


「電気が戻れば東京から復旧できるとか、神力を集めれば何とかなるとか、色々言われてる。だが、こっちに説明はない。通す気もない」


「東京から出てくる人は?」


「ほとんど見ない。来ても管理された避難者とか、作業員みたいなのばかりだ」


「作業員?」


「腕章つけた連中に連れられてる。詳しく聞こうとすると嫌な顔される」


 男は俺を見た。


「お前、若いな。行くのはやめとけ。正面は無理だし、回り道はもっと危ない」


「回り道した人がいるんですか?」


「いる。戻ってきたやつもいる。戻ってこないやつもいる」


「戻ってきた人は何て?」


「死体が多いって言ってた」


 その言葉に、胃の奥が冷えた。


「死体?」


「ああ。封鎖を避けた道の方がひどいらしい。事故車、倒れた人間、襲われた跡。東京に近づくほどおかしくなるってよ」


「……」


「悪いことは言わん。家族がいるなら気持ちは分かる。でも、行ったところで会えるとは限らん」


 男の声は重かった。


 自分にも言い聞かせているようだった。


 俺は礼を言い、その場を離れた。


 正面の道は封鎖。


 東京優先復興の噂。


 人を東京に留める。


 神力持ちを集める。


 回り道には死体が多い。


 戻ってこない人間がいる。


 情報は悪化するばかりだ。


 それでも、俺は戻らなかった。


 少し離れた場所で地図を開く。


 正面は駄目だ。


 予想通り。


 なら、第二候補。


 川沿いを回り、倉庫街の外れへ抜ける道。


 封鎖が薄い可能性がある。


 その代わり、人通りも少なく、情報も少ない。


 危険は増える。


 俺はハサミを取り出すか迷った。


 澪奈に連絡するべきか。


 千咲に報告するべきか。


 だが、まだ午前だ。


 正面が封鎖されていたという情報だけなら、想定内。


 ここで戻るという選択肢もある。


 だが、そうすれば何も分からない。


 東京の外側を見ただけで終わる。


 父と母がなぜ帰ってこないのか、何も分からない。


 俺は地図をしまった。


 自転車にまたがる。


 正面の封鎖から離れ、脇道へ入る。


 道幅は狭くなり、人の数も減る。


 しばらく進むと、街の音が遠ざかっていった。


 代わりに、放置された車と、倒れた自転車と、誰かが捨てた荷物が目立つようになった。


 空気が変わる。


 人が管理している場所から、管理されていない場所へ入る感覚。


 俺は速度を落とした。


 ここから先は、乗れるから乗るのではない。


 すぐ止まれる速度で進む。


 周囲を見る。


 耳を澄ませる。


 逃げ道を確認する。


 川沿いの道へ出ると、風が少し強くなった。


 水の匂いがする。


 その匂いに混じって、別の臭いがあった。


 生ゴミのような。


 腐った何かのような。


 俺は思わず顔をしかめた。


 少し先に、車が斜めに止まっていた。


 フロント部分が潰れている。


 ドアは開いている。


 周囲に荷物が散らばっている。


 その近くに、布のようなものが見えた。


 いや、違う。


 布をかけられた人影だった。


 俺は自転車を止めた。


 心臓が嫌な音を立てる。


 遠目でも分かる。


 動いていない。


 誰かが布をかけたのか、それとも服が乱れてそう見えるだけなのか。


 確認しに行くべきか。


 やめるべきか。


 俺は動けなかった。


 東京へ近づくほど死体が多い。


 さっきの男の言葉が頭をよぎる。


 まだ東京に入ってすらいない。


 それなのに、もうこれだ。


「……くそ」


 声が漏れた。


 引き返すなら今だ。


 正面封鎖を確認した。


 死体らしきものも見た。


 十分に危険だと分かった。


 澪奈にそう言って帰ることもできる。


 だが、帰れなかった。


 父と母がこの先にいるかもしれない。


 帰れない理由が、この先にあるかもしれない。


 俺は自転車を押しながら、その場を通り過ぎた。


 布の下は見なかった。


 見たら、足が止まる気がした。


 道はさらに人気がなくなった。


 建物の窓が割れている。


 コンビニだった場所はシャッターが半分壊され、中は荒らされていた。


 自販機は当然動かないが、前面がこじ開けられている。


 道路の端に、靴が片方だけ落ちていた。


 その先に、黒い染み。


 血かもしれない。


 そう思って、見ないふりをした。


 東京の外縁。


 封鎖の裏側。


 そこは、俺が想像していたよりずっと壊れていた。


 街の配布所で見た混乱とは違う。


 千咲たちの家の不便さとも違う。


 ここでは、生活が崩れているのではなく、人が壊れていた。


 俺は自転車を止め、ハサミを取り出した。


 澪奈に連絡するべきだ。


 いや、今連絡すれば、戻れと言われる。


 千咲にも言われるかもしれない。


 それでも、現在地と状況は伝えるべきだ。


 俺はハサミに向かって小さく声をかけた。


「千咲」


 反応はない。


「千咲、聞こえるか」


 数秒待つ。


 しゃきん、という音はしなかった。


 距離か。


 障害物か。


 あるいは、千咲が繋げられない状態なのか。


 通信圏外。


 その事実が、思ったより不安を呼んだ。


「……ここから先は、連絡できない可能性あり」


 俺はノートに書いた。


 千咲のハサミ通信は万能ではない。


 分かっていた。


 だが、実際に繋がらないと、急に世界から切り離されたような感覚になる。


 俺はハサミをしまった。


 そして、スマホの入ったリュックの奥を意識する。


 電気はある。


 俺なら一瞬だけでも起動できる。


 だが、普通の通信は使えない。


 電波も基地局も死んでいるはずだ。


 だから今、スマホを起動しても誰にも連絡はできない。


 できるのは、地図を見るか、記録を見ることくらい。


 いや、それだけでも十分だ。


 だが、人前では使えない。


 今はまだ使わない。


 俺は自転車にまたがった。


 さらに進む。


 しばらくすると、前方の道が塞がっていた。


 正式な封鎖ではない。


 事故車と瓦礫と、倒れた電柱のようなものが道を塞いでいる。


 自転車なら脇を通れるかもしれない。


 俺は自転車を降り、慎重に押した。


 その時だった。


 何かが空気を切った。


 直後、俺のすぐ横の車体に、硬いものがぶつかった。


 がん、と金属音が鳴る。


 俺は反射的に身を伏せた。


 攻撃。


 どこから。


 見えない。


 次の瞬間、別の何かが飛んできて、足元のアスファルトを弾いた。


「っ!」


 俺は自転車を盾にするように倒し、その陰に身を隠した。


 心臓が跳ねる。


 攻撃されている。


 人か。


 神力か。


 石か。


 弾か。


 分からない。


「待て!」


 俺は叫んだ。


 声が震えないように意識する。


「情報を聞きたくて来た! 話が聞きたい!」


 返事はない。


 風の音だけ。


 壊れた車の向こう。


 建物の影。


 どこかに誰かがいる。


 俺は指先に神力を集めそうになり、必死に抑えた。


 火を出すな。


 電気は論外。


 ここで能力を見せたら終わる。


 俺はただの移動者として振る舞う。


 情報を求めて来た人間。


 危険な神力持ちではない。


「敵じゃない!」


 俺は続けた。


「東京で何が起きてるのか知りたいだけだ! 家族が帰ってこない!」


 数秒。


 何もない。


 そして、足音がした。


 一人ではない。


 複数。


 壊れた車の陰から、武器を持った人間が現れた。


 棒。


 工具。


 弓のようなもの。


 そして、その後ろから、一人の少女が歩いてきた。


 赤い髪。


 異様に鮮やかな赤。


 この壊れた景色の中で、そこだけ現実から浮いて見える。


 少女は俺を見下ろすように立った。


 年齢は俺と同じくらいか、少し下にも見える。


 だが、周囲の人間が明らかに彼女の指示を待っている。


 この封鎖を指揮しているのは、この少女だ。


 そう直感した。


 少女は静かに言った。


「どこから来た」


 声は低くない。


 だが、妙な圧があった。


 俺はすぐには答えなかった。


 情報を渡すべきか迷った。


 すると、少女はほんの少し目を細める。


「答えたら殺さないでおいてやる」


 周囲の人間が、武器を握り直した。


 冗談ではない。


 この少女の一言で、俺は殺される可能性がある。


 俺は喉の奥が乾くのを感じながら、口を開いた。


「千葉県から」


 少女は首を傾げた。


「チバというのは、どこのエリアだ?」


 俺は一瞬、意味が分からなかった。


 千葉を知らない?


 日本人なら、普通は知っている。


 少なくとも東京周辺にいるなら、知らない方がおかしい。


 だが、この少女は本気で聞いている。


 俺は慎重にリュックへ手を伸ばした。


 周囲の人間が身構える。


「地図だ」


 俺はゆっくり言った。


「武器じゃない。この国の地図がある」


 少女が顎で示す。


「出せ」


 俺は紙地図を取り出し、地面に広げた。


 東京湾の東側を指す。


「ここだ。千葉県。俺はここから来た」


 少女は地図を覗き込んだ。


 赤い髪が揺れる。


 彼女の指が、東京と千葉の位置をなぞった。


「外縁東部……いや、その外か」


「外縁?」


「お前には関係ない」


 少女は地図から視線を上げた。


 俺を見る。


 その目は、人間を見ているというより、地図上の点を見ているようだった。


「なぜ来た」


「家族が東京から帰ってこない。封鎖されている理由を知りたい。東京で何が起きているのか、情報が欲しい」


「情報」


 少女は少しだけ笑った。


 笑ったのに、まったく柔らかくならない。


「情報は価値だ。価値のない者には渡さない」


「なら、取引したい」


 咄嗟に言った。


 自分でも驚くくらい、口が動いていた。


 少女の目がわずかに変わる。


「取引?」


「俺は地図を持っている。東京の外側の情報も少し持っている。あなたが必要とするなら、渡せるものがある」


 本当に取引材料になるかは分からない。


 だが、黙って殺されるよりはましだ。


 少女は俺をしばらく見ていた。


 周囲の人間は動かない。


 全員が、この少女の判断を待っている。


 やがて少女は、服の内側から小さなものを取り出した。


 俺の足元へ投げる。


 金属音。


 ライターだった。


「褒美だ。取れ」


 俺は一瞬、理解できなかった。


「……ライター?」


「その道具は、能力の元となるエネルギーを消費して炎を生み出せる」


 少女は当然のように言った。


「火種を持たぬ者には価値がある」


 俺はライターを見下ろした。


 神力を消費して火を出すライター。


 終末世界では、確かに価値がある。


 火を出せない人間なら、喉から手が出るほど欲しがるかもしれない。


 だが。


 俺は内心で叫んだ。


 いらねえ。


 いらねえーーー。


 かぶってんだよ。


 俺、火を出せるんだよ。


 漫画のラスボスみたいな雰囲気で出てきて、命握ってますみたいな顔して、褒美がよりによって神力ライターかよ。


 いらない。


 便利だけど、いらない。


 しかし、そんなことを顔に出せる状況ではない。


 俺はライターを拾い、頭を下げた。


「……ありがたく受け取る」


 少女は満足そうでも、不満そうでもなかった。


 ただ、俺を見ている。


「地図を持つ者。外から来た者。お前はまだ使えるかもしれない」


「あなたは」


 俺は慎重に聞いた。


「何者ですか」


 周囲の空気が変わった。


 誰かが息を呑む。


 聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。


 少女は少しだけ笑った。


「今は知らなくていい」


 それだけ言うと、背を向けた。


「通すな。だが、殺すな」


 周囲の人間が一斉に動いた。


 俺は自転車を起こし、後退する。


 まだ心臓が速い。


 助かったのか。


 見逃されたのか。


 それとも、何かに登録されたのか。


 分からない。


 ただ一つ分かった。


 東京周辺は、もう完全におかしい。


 赤髪の少女。


 千葉を知らない地理認識。


 外縁東部という言葉。


 神力で火を出すライター。


 封鎖を指揮する少女。


 俺は自転車を押しながら、その場を離れた。


 しばらく進んで、人気のない場所まで来たところで、ようやく息を吐く。


「……くっそ」


 声が漏れた。


「千葉に帰りてえ……」


 心の底からそう思った。


 山の水場に戻りたい。


 澪奈に文句を言われながら、粉末スープでも飲みたい。


 千咲のハサミ越しのうるさい声でも、今なら安心できる。


 だが、まだ帰れない。


 俺は手の中のライターを見た。


 神力ライター。


 いらない。


 いらないが、捨てるわけにはいかない。


 このライターは、赤髪少女と東京周辺の異常を示す証拠だ。


 それに、人前で火を使う時の言い訳にはなるかもしれない。


 俺の能力ではなく、このライターの効果だと言える。


 能力隠蔽には使える。


 そう考えれば、完全に不要ではない。


 俺はライターをポケットにしまった。


 そして地図を開く。


 今日の目的は、東京内部に入ることではない。


 封鎖の実態を確認すること。


 それは十分すぎるほど確認した。


 正面の封鎖。


 回り道の死体。


 赤髪少女の支配区域。


 これ以上進むのは危険すぎる。


 戻るべきだ。


 そう判断した。


 だが、完全に戻る前に、一つだけ確認したい。


 安全な場所で、あのライターを試す。


 どういう仕組みなのか。


 どのくらい神力を消費するのか。


 中身は減るのか。


 それを知らずに持ち歩くのは危険だ。


 俺は壊れた倉庫の影に自転車を隠し、周囲を確認した。


 人はいない。


 音もない。


 俺はライターを手に取った。


 普通のライターに見える。


 だが、裏面に小さな模様がある。


 QRコードのようなもの。


 その時はまだ、俺はその意味に気づいていなかった。


 ただ、神力を少し流す。


 ライターの先端に、小さな火が灯った。


 確かに火だ。


 俺の神力が少し減る。


 だが、ガスが減っている感覚はない。


 中身を消費しているわけではない。


 神力を火に変換している。


 道具を介して。


「便利だな」


 俺は呟いた。


 便利だ。


 だが、やっぱりいらない。


 俺は自分でできる。


 とはいえ、カモフラージュには使える。


 そう思った瞬間、俺は裏面のQRコードをもう一度見た。


 電気が消えた世界で、QRコード。


 携帯が使えない世界で、これに何の意味がある。


 いや。


 俺なら。


 俺の神力なら、スマホを一瞬だけ起動できる。


 これを読み取れば、何か分かるかもしれない。


 東京側の説明。


 アイテムの情報。


 所有者登録。


 何か。


 試す価値はある。


 だが、今ここでやるべきではない。


 スマホを起動するには電気を使う。


 人に見られたら終わる。


 それに、QRコードの先が何か分からない。


 危険な可能性もある。


 俺はライターをしまった。


「帰ってからだ」


 そう呟く。


 今は戻る。


 澪奈に連絡する。


 千咲にも伝える。


 東京周辺には、赤髪の少女がいる。


 神力道具がある。


 封鎖は本物だ。


 そして、正面から行くのは無理だ。


 俺は自転車を引き出し、来た道を戻り始めた。


 空はまだ明るい。


 だが、俺にはもう、東京方面の空が少し赤黒く見えていた。


 あの赤髪の少女のせいかもしれない。


 あるいは、見てしまった死体のせいかもしれない。


 どちらにしても、俺は知ってしまった。


 東京の外側は、生活が不便になっただけの場所ではない。


 人が死に、道が塞がれ、子供のような少女が人を殺すかどうかを決めている場所だ。


 そして、その奥に父と母がいる。


 俺はペダルを踏みながら、歯を食いしばった。


 帰る。


 今日は帰る。


 だが、これで終わりではない。


 東京で何が起きているのか。


 父と母はなぜ帰ってこないのか。


 赤髪の少女は何者なのか。


 あのライターのQRコードは何なのか。


 確認しなければならないことが、また増えた。


 最悪だ。


 本当に、最悪だ。


 それでも俺は、もう一度ここへ来ることになるのだと思った。

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