第19話 三日帰らなかったら
東京へ向かうと決めた翌朝、俺はまず自転車を確認した。
電気が消えても、自転車は動く。
当たり前のことだが、今の世界ではそれだけで十分すぎるほど価値がある。
車は使えない。
電車も動かない。
バスもない。
信号も消えている。
人間が移動する方法は、徒歩か、自転車か、あるいは荷車のようなものに戻りつつあった。
その中で、自転車はかなり強い。
燃料はいらない。
電気もいらない。
道路が完全に塞がれていなければ、徒歩よりずっと早く動ける。
もちろん欠点も多い。
荷物を積みすぎると遅くなる。
パンクすれば終わる。
奪われる可能性もある。
目立つ。
それでも、東京方面を偵察するなら、徒歩よりは自転車の方がいい。
俺は自宅から回収してきた自転車を、水場近くの木陰に隠していた。
正確には、家から山の近くまでは押してきた。
途中で乗ると目立つし、荷物を運ぶ必要もあったからだ。
今、その自転車を改めて確認する。
タイヤ。
チェーン。
ブレーキ。
ライト。
ライトは当然つかない。
ただし、俺なら電気を流せば動く可能性がある。
だが、使わない。
人前で自転車のライトが点けば、それだけで異常だ。
東京方面ではなおさらだ。
「空気、大丈夫そう?」
澪奈が横から覗き込んできた。
「今のところはな。パンク修理キットは持つ」
「修理できるの?」
「一応」
「一応なんだ」
「キャンプで自転車旅をしてたわけじゃないからな。知識はあるが、実践回数は少ない」
「不安になる言い方」
「嘘をついても仕方ない」
俺はタイヤを押して、感触を確かめた。
問題はなさそうだ。
チェーンにも少し油を差しておく。
家にあった自転車用の小さな油を持ってきて正解だった。
こういう細かい道具は、今後どんどん価値が上がる。
「本当に一人で行くの?」
澪奈が言った。
昨日から何度も聞かれている。
そして俺の答えも変わらない。
「ああ」
「私も行けるよ」
「行けるかどうかじゃない。危険を増やすかどうかだ」
「一人の方が危険じゃない?」
「場合による」
「またそれ」
澪奈は不満そうに眉を寄せた。
俺は自転車の荷台にロープを巻きながら答える。
「二人で行けば、荷物は持てる。見張りも交代できる。俺が倒れた時に対応できる。それは利点だ」
「でしょ」
「だが、目立つ。移動速度も落ちる。何かあった時、俺は澪奈を守ることを優先する。逃げる判断が遅れる」
「……」
「それに、澪奈の洗浄は知られたらまずい。東京方面で水や衛生が崩れているなら、なおさらだ」
「燈真の電気の方がもっとまずいじゃん」
「だから一人で行く」
「理屈になってるようで、なってない」
「なってる」
「なってない」
澪奈は俺の前に回り込む。
表情は真剣だった。
「燈真は、自分が危ないことをしてるのを分かってるふりして、あんまり分かってない」
「分かってる」
「分かってたら、一人で東京行くなんて言わない」
「家族がいる」
「それは分かるよ」
澪奈は少し声を落とした。
「私だって、自分の親が東京にいたら行きたいと思う。海外出張だからどうしようもないけど、連絡取れるなら取りたい。燈真が行きたいのは分かる」
「なら」
「でも、分かるのと、心配しないのは別」
澪奈はそう言って、俺の袖を掴んだ。
ゲーセンに行く時と同じ癖。
ただ、今はその手にいつもより力が入っている。
「泊まる場所、ちゃんと教えて」
「ああ」
「行く道も」
「ああ」
「三日帰ってこなかったら、私も行く」
「それは危険だと言っただろ」
「燈真が帰ってこない方が危険」
「……」
「千咲ちゃんに連絡して、情報を集めてから行く。無策で行かない。でも、三日帰ってこなかったら行く」
澪奈の声は揺れていなかった。
怖がってはいる。
たぶん、かなり怖いはずだ。
それでも引かない。
こういうところが、昔からよく分からない。
一人でゲーセンの奥に入れないくせに、俺を誘うためなら何度でも家に来た。
今も、東京方面なんて絶対に怖いはずなのに、俺が帰ってこなかったら行くと言う。
合理的ではない。
だが、澪奈らしい。
「分かった」
俺は言った。
「三日だ。三日帰らなかったら、千咲に連絡して状況を確認。その上で動け」
「うん」
「ただし、一人では東京方面に入るな。千咲たちに相談しろ。透子の索敵も使えるかもしれない」
「分かった」
「俺のルートは地図に書いて残す。泊まる候補も書く」
「うん」
「途中で予定を変える時は、可能ならハサミで連絡する」
「可能なら、じゃなくて、して」
「できる状況ならする」
「……それでいい」
澪奈はようやく袖を離した。
少しだけ不満そうだったが、これ以上言っても俺が引かないと分かっているのだろう。
俺は地図を広げた。
千咲たちから集めた情報を元に、封鎖されているらしい地点には印をつけてある。
大きな橋。
主要道路。
人が戻された場所。
腕章の連中がいた場所。
電気復旧作業という名目で通行制限がかかっている場所。
正面から向かえば止められる可能性が高い。
なら、回り道だ。
「このルートを使う」
俺は地図の端を指した。
「大通りを避けて、川沿いを回る。途中で廃業した倉庫街を通る。人通りは少ないはずだ」
「情報が少ない場所だよね」
「ああ」
「それって、危なくない?」
「危ない。だが、情報が多い場所は封鎖や人が多い。どちらも危ない」
「どっちにしても危ないじゃん」
「そうだ」
「東京行き、危ない要素しかない」
「知ってる」
澪奈は深いため息をついた。
俺は地図に赤鉛筆で予定ルートを書く。
第一候補。
第二候補。
戻る時の道。
泊まる候補地。
一つ目は、川沿いにある古い公共施設。
電気が消える前から使われていない場所で、雨風をしのげるかもしれない。
二つ目は、倉庫街の外れにある小さな事務所らしき建物。
安全かどうかは分からない。
だが、地図上では人の多い場所から少し離れている。
三つ目は、最悪の場合に野宿できそうな公園。
ただし、公園は水を求める人間が集まりやすいので、できれば避ける。
「一日目はここまで」
俺は地図に丸をつけた。
「そこで様子を見る。通れそうなら先へ進む。無理そうなら戻る」
「東京の中までは?」
「初日は入らない。まず封鎖の外側を見る。中に入るのは二日目以降」
「無理しない?」
「するつもりはない」
「燈真の“つもり”は信用しきれない」
「なら、地図に書いた範囲を超えたら危険と判断してくれ」
「うん」
澪奈は地図をじっと見つめた。
たぶん、必死に道を覚えようとしているのだろう。
彼女の神力は洗浄だ。
戦闘向きではない。
索敵もできない。
通信は千咲のハサミ頼り。
それでも、俺が帰らなければ来るつもりでいる。
だから俺は、帰らなければならない。
そう思った。
準備する荷物は、かなり絞った。
水。
携帯食。
地図。
ノート。
鉛筆。
ナイフ。
ロープ。
救急セット。
火打ち石。
マッチ。
ハサミ。
スマホ。
乾電池式ライト。
ケーブル。
予備の布。
小さな袋。
重すぎると自転車の機動力が落ちる。
かといって、軽すぎると一泊もできない。
水は特に悩んだ。
東京方面で水を補給できる保証はない。
だが、多く持ちすぎれば重くなる。
結局、最低限より少し多めにした。
足りなければ戻る。
それくらいでいい。
無理に進むための荷物ではなく、戻るための荷物を持つ。
その方が安全だ。
「スマホ、持っていくんだ」
澪奈が布に包まれたスマホを見て言った。
「ああ」
「使う?」
「人前では使わない。どうしても必要な時だけ」
「ライトも?」
「ああ」
「見つかったら?」
「逃げる」
「逃げられなかったら?」
「……状況次第だ」
「またそれ」
「それ以外に答えようがない」
澪奈は唇を噛んだ。
俺はスマホをさらに奥にしまう。
この小さな板は、今や危険物だ。
起動させれば希望になる。
同時に、俺の秘密を暴露する証拠にもなる。
電気が使えることは、絶対に知られてはいけない。
そのことを、今日の神力登録所で改めて思い知った。
火、水、医療、電気、防衛、通信、探索。
あの紙に書かれた分類の中で、俺は少なくとも火と電気に該当する。
風も入れるなら、もっと広い。
俺の神力は、分類できない。
エネルギー変換。
それが知られたら、どこまで利用されるか分からない。
「千咲に連絡する」
俺はハサミを取り出した。
東京へ行く前に、彼女には伝えておく必要がある。
危険を知らせる意味もあるが、俺が戻らなかった時に澪奈が連絡する相手でもある。
ハサミを地面に置き、声をかける。
「千咲」
少し待つ。
しゃきん、と小さな音がした。
『はいはーい。燈真くん?』
「今、大丈夫か」
『大丈夫。家の中。みんなもいるよ』
「声を落としてくれ」
『了解。で、どうしたの?』
「明日、東京方面へ向かう」
ハサミの向こうが静かになった。
数秒後、千咲の声が戻る。
『本気?』
「本気だ」
『危ないよ』
「知ってる」
『知ってる人はあんまり行かないと思うけど』
「家族がいる」
『……そっか』
千咲はそれ以上、止めなかった。
ただ、声の調子は真剣だった。
『ルートは?』
「正面は避ける。川沿いと倉庫街を回る。地図に候補は書いた」
『ハサミ、持ってく?』
「持っていく」
『じゃあ、繋がれば連絡して。距離がどこまでいけるか分からないけど』
「そのテストにもなるな」
『テスト扱いは嫌だけど、まあそうだね』
「俺が三日帰らなかったら、澪奈が千咲に連絡する。状況確認を頼む」
『分かった。澪奈ちゃん一人で突っ込ませないようにすればいい?』
「そうしてくれ」
『了解。透子にも見てもらう。遠すぎると無理だと思うけど』
「無理はさせるな」
『分かってる。莉子にも怒られるし』
ハサミの向こうで、誰かが「怒って当然でしょ」と言う声がした。
たぶん莉子だ。
千咲が少し笑う。
『みんな、燈真くんに気をつけてって』
「……そうか」
『透子はゼロデスで、だって』
「伝わった」
『詩乃は無理しないでくださいって。紗良は帰ってきたらギター聞いてって。莉子は、別に心配してるわけじゃないけど死ぬんじゃないわよ、だって』
「全部そのまま伝えるな」
『伝えた方がいいでしょ』
千咲の声は少しだけ明るかった。
だが、その下には不安がある。
それが分かるくらいには、俺も千咲に慣れてしまっていた。
『燈真くん』
「なんだ」
『帰ってきたら、連絡して』
「ああ」
『絶対』
「……分かった」
『それと、登録所の件。こっちは全員、登録しない方向でまとまった。外では神力の話もしない。ハサミもできるだけ隠す』
「それでいい」
『でも、配布が厳しくなったら分からない子も出ると思う。周りの若者とか』
「だろうな」
『能力があるなら協力しろって空気、強くなってる』
「こっちでも見た」
『燈真くんは絶対バレないでね』
「ああ」
『火のことも?』
「できれば隠す」
『できればじゃなくて』
「緊急時は使う」
『まあ、そうだよね』
千咲は少しだけ息を吐いた。
『じゃあ、明日。出る前にもう一回連絡して』
「できればな」
『して』
「分かった」
通信を切る。
ハサミをしまう。
澪奈がこちらを見ていた。
「みんな、心配してるね」
「そうらしい」
「燈真、好かれてるじゃん」
「便利だからだろ」
「それだけじゃないと思うけど」
「それだけで十分だ」
「ほんと、そういうところ」
澪奈は呆れたように笑った。
だが、その笑みはすぐに薄くなる。
「千咲ちゃんたちも、登録しない方がいいよね」
「ああ。だが、食料や水で釣られたら分からない」
「登録したら優先支援って、ずるいよね」
「効果的だ。ずるいが」
「困ってる人ほど登録する」
「そうだ」
「能力がある人ほど、逃げにくくなる」
「そうだな」
まさにそれが狙いなのだろう。
神力持ちを探す。
登録させる。
優先支援を与える。
代わりに協力を求める。
最初は善意の形を取る。
だが、やがて義務になる。
そして管理になる。
その流れが見えすぎる。
「燈真は、絶対登録しちゃ駄目」
「分かってる」
「私も」
「ああ」
「山の水場も」
「ああ」
「千咲ちゃんたちも、できれば」
「守れる範囲には限界がある」
俺がそう言うと、澪奈は少し黙った。
それから、静かに頷く。
「うん。分かってる」
澪奈は俺と同じものを見ている。
水場。
火。
洗浄。
電気。
神力登録。
東京封鎖。
千咲たちの拠点。
助けられるものと、助けられないもの。
その線引きが、少しずつ必要になっている。
俺は他人が嫌いだ。
そのはずだった。
だが、千咲たちを完全に他人として切り捨てることは、もうできない。
それでも、俺が優先するのは家族であり、澪奈であり、この水場だ。
そう決めなければ、動けなくなる。
午後は、実際に自転車へ荷物を積む練習をした。
荷台に水と食料を固定する。
リュックは背負う。
すぐ取り出すものは外ポケット。
スマホとライトは奥。
ハサミは布に包み、胸元に近いポケット。
ナイフは取り出しやすい位置だが、見えないようにする。
地図は防水袋に入れる。
ノートも同じ。
何度か積み直す。
重心がずれると自転車がふらつく。
これで長距離を走るのは想像以上に大変だ。
「徒歩の方がいいんじゃない?」
澪奈が言う。
「場所による。自転車は押して歩ける。乗れそうなところだけ乗る」
「盗まれないようにしないとね」
「ああ。鍵はあるが、完全には信用できない。見える場所に置かない」
「面倒だね」
「全部面倒だ」
「それでも行くんだよね」
「行く」
何度も同じ確認をしている。
それでも、澪奈は聞く。
俺も答える。
たぶん、その繰り返しが必要なのだろう。
夕方、俺は電気の追加実験を少しだけ行った。
澪奈の監視付きだ。
今日の目的は、ライトの点灯時間を少し伸ばすこと。
スマホは使わない。
約束した。
乾電池式ライトに神力を流す。
昨日より少し安定した。
五秒。
十秒。
十五秒。
白い光が、夕方の水場に浮かぶ。
それだけで、周囲の空気が変わる。
澪奈は静かに見ていた。
「やっぱり、すごい」
「すごいが、目立つ」
「夜に使ったら一発で分かるね」
「ああ。だから使えない」
「使えるのに使えない」
「そういうものが増えてきたな」
火もそうだ。
洗浄もそうだ。
ハサミもそうだ。
電気もそうだ。
便利な力ほど、隠さなければならない。
人に使えば感謝される。
同時に、求められる。
奪われる。
登録される。
管理される。
俺はライトを消した。
闇が戻る。
だが、もう闇の意味が少し変わっていた。
俺は、望めば光を作れる。
ただし、その光を誰にも見られてはいけない。
夜、俺たちは少しだけまともな食事を作った。
明日の出発前だからと、家から持ってきた缶詰をもう一つ開けた。
澪奈は「贅沢だ」と言いながらも、少し嬉しそうだった。
食後、地図をもう一度確認する。
明日の朝、出発。
最初の目的地は、川沿いの倉庫街手前。
そこで状況確認。
封鎖や危険が強そうなら戻る。
無理に東京内部へ入らない。
一日目は偵察。
二日目以降に進むか判断。
三日以内に戻る。
何度も確認した。
澪奈も、俺も。
「燈真」
「なんだ」
「行ってらっしゃいって言うの、明日の朝にする」
「今じゃないのか」
「今言ったら、なんか眠れなさそうだから」
「そうか」
「だから、今日は普通に寝る」
「普通に?」
「普通に。明日、普通じゃないことするんだから」
澪奈はそう言って、寝袋に入った。
俺も横になる。
だが、すぐには眠れない。
東京。
封鎖。
登録所。
電気復旧作業。
帰ってこない父と母。
京都の妹。
千咲たち。
澪奈。
俺の電気。
考えることは多い。
多すぎる。
それでも、明日は来る。
そして俺は行く。
夜の水場は静かだった。
千咲たちの家のような声はない。
リビングの音も、ギターも、莉子の鍵確認も、透子の見張りもない。
ただ、澪奈の寝息と、水の流れる音がある。
ここが帰る場所だ。
俺はそれを忘れないように、目を閉じた。
明日、東京方面へ向かう。
戻ってくるために。
帰ってこない理由を知るために。
そして、電気を生み出せるという秘密を隠したまま、封鎖された世界の内側を見るために。




