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第16話 空の家

翌朝、俺はいつもより遅く目を覚ました。


 山の水場に戻ってきた安心感があったのかもしれない。


 千咲たちの家にいた間は、寝ていてもどこか気を張っていた。女子五人の家という状況もそうだが、それ以上に、あの家には守るべきものが多すぎた。


 窓の鍵。


 水の残量。


 食料の管理。


 火の始末。


 見張り。


 神力の暴発。


 外部からの接触。


 千咲の外出。


 透子の索敵疲労。


 詩乃の自己評価。


 紗良の未発動。


 莉子の結界の消耗。


 考えることが多すぎた。


 ここには、それがない。


 水の音がある。


 木々の音がある。


 澪奈がいる。


 もちろん安全ではない。山の水場だって誰かに見つかれば終わりだし、食料にも限りがある。街の状況は悪化している。東京の件もある。


 それでも、ここは俺が最初に選んだ場所だった。


 テントの中で目を開けると、外から小さな物音が聞こえた。


 澪奈だろう。


 寝袋から出てテントを開けると、澪奈が水場の近くでコップを洗っていた。


「起きた?」


「ああ」


「珍しく遅かったね」


「疲れてたらしい」


「でしょうね」


 澪奈は呆れたように言った。


「一週間も女子五人の家で火起こし先生と防犯先生と神力先生やってたんでしょ。そりゃ疲れるよ」


「先生じゃない」


「全部先生っぽいじゃん」


「ただの外部協力者だ」


「外部協力者って言い方、燈真らしいけど可愛げないね」


「可愛げは必要ない」


「そういうところだよ」


 澪奈は小さく笑った。


 そのやり取りだけで、少しだけ体の力が抜ける。


 千咲たちの家は悪い場所ではなかった。


 むしろ、最初に思っていたよりずっと居心地は悪くなかった。


 だが、やはりここで澪奈と話している方が楽だった。


 理由を説明する必要がない。


 澪奈は俺の過去を深く聞かない。


 俺が言いたくないことを無理に聞き出そうとしない。


 そのくせ、こちらが隠そうとしている感情には妙に気づく。


 面倒だが、ありがたい。


「今日は家を見に行くんだよね?」


 澪奈が言った。


「ああ。もう一度確認する」


「私も行く」


「分かってる」


「え、止めないの?」


「昨日、一緒に考えると言っただろ」


「……言った」


「なら一緒に行く」


 澪奈は少しだけ嬉しそうにした。


 だが、すぐに真面目な顔に戻る。


「ご両親、帰ってるといいね」


「そうだな」


 そう答えたが、期待は薄かった。


 澪奈は昨日、俺の家を見に行っている。


 鍵は閉まったまま。


 帰ってきた形跡はなかった。


 そこから一日で変わっている可能性は低い。


 それでも、自分の目で確認しなければならない。


 朝食は簡単に済ませた。


 アルファ米を少しと、粉末スープ。


 火は神力でつけた。


 指先に小さな火を灯し、バーナーへ移す。


 何度もやっている作業だ。


 だが、千咲たちの家で散々火を求められた後だと、自分にとって当たり前になりつつあるこの作業が、どれだけ異常なのか改めて分かる。


「燈真の火、やっぱり便利だね」


 澪奈が湯気の立つスープを見ながら言った。


「ああ」


「千咲ちゃんたち、そりゃ帰らないでって言うよ」


「言われた」


「やっぱり」


「透子には、風呂に入れなくなるから帰らないでと言われた」


「理由が切実」


「莉子にも、まともな食事が取れなくなると言われた」


「それも切実」


「千咲には、火と情報と神力の先生扱いされた」


「だから先生じゃん」


「違う」


 澪奈は少し笑った。


 それから、スープの入ったカップを両手で包む。


「でも、分かるよ。火があるって大きいもん」


「ああ」


「私たち、かなり恵まれてるんだね」


 澪奈の言葉に、俺は黙った。


 山の水場。


 キャンプ道具。


 保存食。


 俺の火と風。


 澪奈の洗浄。


 千咲のハサミ通信。


 比較対象が増えたことで、自分たちの位置が見えてきた。


 俺たちは、かなり恵まれている。


 街で配布列に並ぶ人たちよりも。


 川の水を汲む人たちよりも。


 火がなくて湯を作れなかった千咲たちよりも。


 少なくとも生活面では、恵まれている。


 そのことが、安心であると同時に危険でもあった。


「だからこそ、隠す必要がある」


「うん」


「清潔すぎると目立つ。火を見せると目立つ。洗浄も、水場も、全部だ」


「分かってる」


 澪奈は自分の服を見下ろした。


 昨日のうちに少し汚してある。


 だが、やはり街の人間と比べると綺麗に見えるだろう。


 澪奈の洗浄能力は便利すぎる。


 汚れた服を綺麗にできる。


 水をある程度浄化できる。


 体も清潔に保てる。


 だが、清潔であること自体が今は目立つ。


 この矛盾はずっとついて回る。


 食事を終えた後、俺たちは家へ向かった。


 山の水場から住宅地までは、もう何度も通った道だ。


 それでも、前と同じではない。


 人の気配が増えている。


 水を求める人が増えたのか、遠くの道を歩く人影がちらほら見えた。大きなポリタンクを持った人もいる。子供を連れた親もいる。自転車を押している老人もいた。


 電気が消える前なら、平日の午前にこんな人の流れはなかった。


 みんな何かを探している。


 水。


 食料。


 情報。


 家族。


 安全な場所。


 俺たちも同じだ。


 住宅街に入ると、空気がさらに重くなった。


 玄関先で近所の人同士が話している。


 庭で水を汲んでいる人。


 車のトランクを開け、使えない荷物を漁っている人。


 遠くで怒鳴り声も聞こえた。


 昨日より悪くなっている。


 はっきりそう感じた。


「燈真」


 澪奈が小さく言う。


「見られてる?」


「ああ」


 すれ違う人間の視線が、以前より鋭い。


 俺たちの荷物。


 服。


 靴。


 顔色。


 水筒。


 そういうものを見ている。


 こちらに余裕があるかどうかを判断しようとしている。


 千咲の言っていた通りだ。


 生活が安定している人間は、何かを持っていると思われる。


 俺は澪奈に目配せし、歩く速度を少しだけ落とした。


 焦っているようにも、余裕があるようにも見えない速度。


 難しい。


 普通に歩くことすら、今の街では調整が必要だった。


 やがて、自宅が見えてきた。


 見慣れた家。


 昨日まで、いや、電気が消える前までは普通の帰る場所だった。


 今は少し違って見える。


 窓に明かりはない。


 庭は少し荒れている。


 郵便受けには紙が溜まっていた。


 誰も帰ってきていない。


 それは門の前に立った瞬間に分かった。


「……」


 俺は鍵を取り出した。


 玄関の鍵は閉まっている。


 開ける。


 扉を開いた瞬間、家の中の空気が流れてきた。


 暗い。


 静か。


 人の気配がない。


「お邪魔します」


 澪奈が小さく言った。


「誰もいないけどな」


「一応」


 靴を脱いで中へ入る。


 リビングへ向かう。


 冷蔵庫は当然死んでいる。


 中身はもう確認するまでもないが、一応見る。


 駄目だった。


 臭いがきつい。


 俺はすぐに閉めた。


「冷蔵庫、どうする?」


 澪奈が顔をしかめながら聞く。


「今日は触らない。処理するなら準備がいる」


「そっか」


「残っている常温食料を確認する」


 棚を開ける。


 缶詰。


 乾麺。


 米。


 調味料。


 インスタント食品。


 少し残っている。


 この家にも、まだ使えるものはある。


 ただし、山の水場へ全部運ぶのは難しい。何度かに分ける必要がある。


 俺はノートに書き込んだ。


 自宅備蓄。


 米、残量中。


 乾麺、数袋。


 缶詰、六個。


 インスタント食品、少量。


 調味料、あり。


 水道、確認必要。


 蛇口をひねる。


 水は、細く出た。


 完全には止まっていない。


 だが、勢いはかなり弱い。


「まだ出るね」


「ああ。だが信用できない。容器に入れておく」


 空のペットボトルや鍋に水を入れる。


 澪奈も手伝った。


 水が出るうちに溜めておく。


 それはもう反射に近い。


 この家に長くいるつもりはないが、戻ってきた時に水があるかどうかは大きい。


 俺は両親の部屋へ向かった。


 扉を開ける。


 人はいない。


 当たり前だ。


 それでも、見る。


 ベッド。


 机。


 クローゼット。


 父の書類。


 母の服。


 出張用の鞄はない。


 つまり、東京に出た時のままなのだろう。


 予定通りなら、もう帰ってきているはずだった。


 でも帰っていない。


 机の上には、父のメモが一枚残っていた。


 電気が消える前の日付。


 仕事の予定らしきもの。


 東京。


 会議。


 復旧計画。


 その文字を見て、俺の指が止まった。


「復旧計画……?」


 澪奈が後ろから覗き込む。


「電気消える前の仕事?」


「たぶん。普通の仕事のメモかもしれない」


「でも、復旧って」


「偶然かもしれない」


 そう言いながら、俺はその紙をノートに挟んだ。


 偶然。


 そう思いたい。


 だが、父が東京で復旧計画に関わっていた可能性があるなら、帰ってこない理由が少し変わる。


 東京を優先的に復興させる。


 神力持ちを探している。


 電気関係の力を探している。


 父がそこに関わっている可能性。


 考えたくないが、考えなければならない。


「燈真、大丈夫?」


「大丈夫だ」


「顔、大丈夫じゃないけど」


「考えてるだけだ」


「それ、大丈夫じゃない時の燈真の言い方」


 澪奈はそう言って、俺の袖を軽く掴んだ。


 その手の感触で、少しだけ意識が戻る。


「……悪い」


「謝らなくていいよ」


「父さんが、東京側の何かに関わっているかもしれない」


「うん」


「もしそうなら、帰ってこないのは帰れないからじゃなく、帰らないからかもしれない」


 口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 帰れない。


 それならまだいい。


 いや、よくはない。


 危険な状況にいるということだから。


 でも、帰らないのなら。


 自分の意思で家族より仕事を選んでいるのなら。


 俺はたぶん、許せない。


「まだ分からないよ」


 澪奈が言った。


「メモだけだし。電気が消える前の普通の予定かもしれない」


「ああ」


「だから、確認しに行くんでしょ」


「そうだな」


 確認する。


 それしかない。


 父と母が無事か。


 東京で何が起きているのか。


 なぜ帰ってこないのか。


 帰れないのか。


 帰らないのか。


 俺はメモをしまい、両親の部屋を出た。


 次に自分の部屋へ向かう。


 部屋は、出た時のままだった。


 キャンプ道具を持ち出したせいで、棚が少し空いている。


 机の上には、読みかけの本。


 充電できないスマホの予備ケーブル。


 古いモバイルバッテリー。


 乾電池式の小型ライト。


 電気がない今では、ほとんどが役に立たない。


 だが、俺は乾電池式のライトを手に取った。


 乾電池。


 電気。


 火と風。


 エネルギー変換。


 俺の神力は、火だけではない。


 風も起こせる。


 なら、電気は?


 何度も考えたことだ。


 だが、まだ本格的には試していない。


「燈真?」


 澪奈が不安そうに俺を見る。


「何か思いついた顔してる」


「……電気を試すべきかもしれない」


「電気?」


「ああ。火は熱。風は空気の運動。どちらもエネルギーだ。俺の神力がエネルギーを別の形に変換するものなら、電気も出せる可能性がある」


 澪奈の表情が変わった。


「それ、危なくない?」


「危ない」


「じゃあ今はやめよう」


「……」


「燈真」


「分かってる」


「本当に?」


「ここではやらない。準備してからだ」


 澪奈はじっと俺を見る。


 疑われている。


 当然だ。


 俺は興味を持つと危険な実験をしたがる。


 自覚はある。


「東京へ行く前に、確認する必要はある」


「なんで?」


「東京で電気関係の神力を探しているという噂がある。もし俺が電気を出せるなら、知られたら終わりだ。逆に、使えれば東京偵察の手段にもなる」


「スマホとか?」


「ああ。充電できる可能性がある。ライトも、ラジオも、もしかしたら使える」


「でも危ない」


「だから準備する」


 澪奈はしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐く。


「分かった。でも一人でやらないで」


「分かった」


「ちゃんと私がいる時にやって」


「危険かもしれないぞ」


「一人で危険なことされる方が嫌」


「……分かった」


 俺は乾電池式ライトと、予備のケーブル類をいくつかリュックに入れた。


 スマホの充電器。


 古い乾電池。


 小型ライト。


 電気の実験に使えそうなもの。


 電子レンジや大型家電は危険すぎる。


 最初に試すなら、低電力のものからだ。


 部屋を出る前に、机の引き出しを開ける。


 妹から昔もらった小さなキーホルダーが入っていた。


 京都の学校に行く前に、適当に渡されたものだ。


 兄妹仲が特別良いわけではない。


 むしろ、妹は俺よりずっと頭がよく、俺を少し馬鹿にしているところがあった。


 それでも、連絡が取れないのは気になる。


 京都。


 中高一貫校。


 電気が消えた世界で、あいつはどうしているのか。


 俺より頭がいいから何とかしている。


 そう思いたい。


 だが、何とかしている保証はない。


 俺はキーホルダーもポケットに入れた。


「妹さんの?」


 澪奈が聞いた。


「ああ」


「心配?」


「俺より頭がいいからな。多分大丈夫だと思う」


「それ、心配してる人の言い方」


「……連絡くらいは取りたい」


「うん」


 家の確認を終えた頃には、昼を過ぎていた。


 持ち出せる食料と道具をまとめる。


 一度に全部は無理だ。


 今日は必要な分だけ。


 残りは次に来た時に運ぶ。


 外へ出る前に、俺はもう一度リビングを見た。


 誰もいない家。


 父も母もいない。


 テレビはつかない。


 冷蔵庫は死んでいる。


 時計も止まっている。


 昨日までの生活の形だけが残っている。


 それが妙に腹立たしかった。


 家はここにある。


 帰る場所はある。


 なのに、帰ってくる人間がいない。


「行こう」


 俺は言った。


 澪奈が頷く。


 玄関の鍵を閉める。


 その音が、やけに大きく聞こえた。


 帰り道、俺たちはあまり話さなかった。


 荷物が少し増えている。


 食料、ケーブル、乾電池式ライト、メモ、いくつかの道具。


 人に見られないように、リュックの中へ隠してある。


 住宅街では、相変わらず人の視線を感じた。


 水や食料を持っていると知られれば面倒になる。


 俺たちは遠回りしながら、山へ戻った。


 水場に着く頃には、少し疲れていた。


 荷物を下ろし、澪奈が水を汲む。


 俺はテントの近くに座り、父のメモをもう一度見た。


 復旧計画。


 東京。


 会議。


 その文字が頭から離れない。


 父は何をしている。


 なぜ帰ってこない。


 東京は何を復旧させようとしている。


 電気が失われた世界で、復旧とは何を意味する。


「燈真」


 澪奈が水を持って戻ってきた。


「今日はもう休もう」


「まだ」


「休もう」


 強い口調だった。


 俺は顔を上げる。


 澪奈は真剣な顔をしていた。


「電気の実験も、東京のルートも、明日。今日は家を見に行ったし、荷物も運んだし、色々分かった。これ以上考えると、燈真ずっと止まらなくなる」


「……」


「休むのも準備でしょ?」


 それは、俺が千咲たちに何度も言ったような言葉だった。


 使いすぎるな。


 疲れたら休め。


 神力も体も、無限ではない。


 それを今、澪奈に言われている。


「分かった」


 俺はメモを閉じた。


「今日は休む」


「よし」


 澪奈は満足そうに頷いた。


 その日の夕食は、家から持ってきた缶詰を一つ使った。


 少しだけ贅沢だった。


 澪奈が洗浄能力で食器を綺麗にし、俺が火をつける。


 温かい食事。


 綺麗な食器。


 水場の音。


 この環境がどれだけ貴重か、千咲たちの家を見た今ならよく分かる。


 食後、俺はノートに今日の情報を書いた。


 自宅確認。


 両親不在。


 父のメモ、復旧計画、東京、会議。


 妹、京都。連絡手段なし。


 自宅備蓄あり。後日回収。


 水道、細く出る。不安定。


 電気実験用道具回収。乾電池式ライト、ケーブル、古い乾電池。


 東京偵察前に電気生成の可否確認が必要。


 そこまで書いて、手を止めた。


 最後に、一行だけ追加する。


 帰れないのか、帰らないのかを確認する。


 その文字を見て、胸の奥が重くなった。


 父に会ったら、俺は何を言うのだろう。


 早く帰ってきてよ。


 そう言うのか。


 この状況で仕事なんてしてるのかと怒るのか。


 それとも、何も言えなくなるのか。


 分からない。


 ただ一つだけ分かっている。


 このまま待っていることはできない。


 翌日から、東京へ向かう準備を始める。


 そのために、まずは電気を試す。


 火と風の先にあるもの。


 失われたはずの電気。


 もしそれが本当に生み出せるなら。


 俺は、今まで以上に危険な存在になる。


 水場の音が静かに響いていた。


 夜の山は暗い。


 だが、俺の頭の中には、まだ見たことのない小さな光がちらついていた。


 スマホの画面。


 ライトの光。


 電気。


 失われた文明の欠片。


 俺はそれを取り戻せるのかもしれない。


 そう考えると、怖さと同時に、どうしようもないほどの期待が胸の奥に灯った。

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