第15話 それでも帰る
翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
まだ外は薄暗い。
電気のない世界では、夜と朝の境目がやけにはっきりしている。照明がないから、日が沈めば本当に暗くなり、日が昇ればそれだけで世界が戻ってくる。
窓の外には、淡い青色の空が広がっていた。
今日、俺は帰る。
千咲たちの家に来て、一週間。
最初に決めた期限だ。
昨日の夜、澪奈には帰ると伝えた。千咲たちにも伝えた。荷物もまとめた。やるべきことも、最低限は残した。
なら、迷う理由はない。
ないはずだった。
「……」
俺は寝袋から起き上がり、和室の中を見回した。
この部屋で寝るのも最後だ。
最初の日は、女子五人の家で寝ることにかなり警戒していた。扉は少し開け、荷物はすぐ持てる位置に置き、ナイフとロープの場所も確認していた。
今も警戒はしている。
だが、初日ほどの緊張はない。
それがよくない。
慣れてしまっている。
千咲たちの声がする家に。
紗良のギターが聞こえる夜に。
透子が二階で見張りをしている気配に。
莉子が毎晩窓の鍵を確認する音に。
詩乃が水と食料の管理表を丁寧に書く姿に。
千咲がハサミを鳴らしながら「情報屋千咲ちゃんに任せなさい」と胸を張る姿に。
慣れ始めている。
だから、今日帰るのは正しい。
これ以上ここにいれば、離れづらくなる。
俺は荷物をまとめ直した。
リュックの中身を確認する。
ノート。
鉛筆。
水筒。
残った保存食。
ロープ。
ナイフ。
救急セット。
火打ち石。
マッチ。
そして、千咲から渡されたハサミ。
ハサミは布に包んである。
この家と山の水場を繋ぐ、唯一の通信手段だ。
便利だ。
便利すぎる。
だから怖い。
けれど、今は必要だった。
荷物を背負って和室を出ると、廊下にはすでに人の気配があった。
台所から水の音がする。
リビングへ向かうと、詩乃が管理表を見ながら鍋に水を移していた。
「おはようございます、小鳥遊さん」
「ああ。早いな」
「今日、帰られるので……最後に確認しておこうと思いまして」
「最後と言うな。不吉だ」
「あ、すみません」
「謝るな」
いつものやり取りだ。
詩乃は少しだけ笑った。
最初の頃より、謝る回数は減っている。
それでもまだ多い。
ただ、声は少しだけしっかりしていた。
台所の壁には、詩乃の字で書かれた水と食料の管理表が貼ってある。
水。
飲用。
調理用。
洗浄用。
備蓄。
食料。
米。
乾麺。
缶詰。
レトルト。
配布品。
毎日、何をどれだけ使ったかが書かれている。
昨日より少し整っている。
俺がいなくなっても、これが続けばかなり違う。
「管理表、続けろよ」
「はい」
「足りないものが出たら、千咲と相談して取りに行く。無理はするな。危ないと思ったら諦めろ」
「はい」
「水の植物化は、毎日やるな。水を消費する。食用かどうか分からない植物は絶対に食べるな」
「分かっています」
詩乃は真面目に頷いた。
それから、小さく言う。
「小鳥遊さん」
「なんだ」
「この家を、ちゃんと守ります」
俺は少し黙った。
詩乃の顔には、まだ不安がある。
だが、最初のようにただ怯えているだけではない。
自分にできることを見つけた人間の顔だった。
「一人で守ろうとするな」
「え?」
「この家は五人で回す。詩乃一人が背負うな」
「……はい」
「それでいい」
詩乃はもう一度頷いた。
リビングには、透子がソファに座っていた。
眠そうな目で、窓の外を見ている。
「おはよう、燈真」
「ああ。見張りか?」
「朝の索敵は軽く済ませた。道路に人は少ない。西の空は少し曇ってる」
「神力を使いすぎるなと言っただろ」
「軽く。本当に軽く」
「ならいい」
「今日、帰るんだね」
「ああ」
透子は膝の上に置いたノートを見た。
そこには、彼女が書いた見張り記録がある。
時間は正確には書けないので、朝、昼、夕、夜という大雑把な区切りだ。
人通り。
水を持つ人。
怪しい人。
天気。
遠視使用。
疲労感。
透子の字は少し丸い。
だが、内容は意外ときちんとしている。
「透子は、見つけるのが仕事だ」
「うん」
「戦うな。追うな。気になっても一人で外に出るな」
「索敵担当は生存優先」
「そうだ」
「二デス禁止」
「一デスも禁止だ」
「了解。ゼロデス」
透子は小さく頷いた。
それから、少しだけ俺を見る。
「燈真」
「なんだ」
「帰んないでほしいとはまだ思ってる」
「そうか」
「でも、澪奈が待ってるなら仕方ない」
「ああ」
「家族もいるし」
「ああ」
「じゃあ、たまにハサミで話して」
「必要ならな」
「必要じゃなくても」
「……状況次第だ」
「出た」
透子は少し笑った。
「燈真の状況次第」
「便利な言葉だからな」
「便利すぎる」
そう言いながらも、透子はそれ以上引き止めなかった。
次にリビングへ入ってきたのは紗良だった。
ギターケースを片手に抱えている。
「おはよ、燈真くん」
「おはよう。朝からギターか」
「見送り演奏しようかなって」
「いらない」
「ひど」
「音で目立つだろ」
「小さく弾くよ」
「ならいい」
「いいんだ」
「小さい音ならな」
紗良は笑って、椅子に腰かけた。
この数日で、紗良はギターを弾く時間を決めるようになった。
夜に少しだけ。
外に漏れないように。
皆が食事や片付けを終えた後に。
最初は単なる趣味だと思っていた。
だが、今は少し違う。
ギターの音があると、家の空気が少し落ち着く。
不安を完全に消せるわけではない。
だが、沈黙の中で考え込むよりはずっといい。
紗良の神力はまだ分からない。
気合いを入れても、神力が消費される感覚すらない。
だが、紗良にはすでに役割がある。
「紗良」
「なに?」
「お前の能力はまだ分からない。焦るな」
「うん」
「歌や演奏、聞き手、感情。条件はいくらでも考えられる。無理に出そうとするな」
「分かってる」
「それと、ギターは続けろ」
紗良が少し目を丸くした。
「燈真くんからそれ言われると思わなかった」
「音は重要だ。夜を越える助けになる」
「それ、褒めてる?」
「必要性を認めてる」
「それを褒めてるって言うんだよ」
「好きに解釈しろ」
紗良は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、少しだけ胸が重くなる。
俺がいなくても、この家には音が残る。
それは悪くない。
その後、莉子がリビングへ入ってきた。
腕を組み、不満そうな顔をしている。
「……おはよう」
「おはよう」
「本当に帰るのね」
「ああ」
「もう一日くらいいてもいいんじゃないの」
「よくない」
「即答」
「長引かせると帰りづらくなる」
「……分かってるわよ」
莉子はそっぽを向いた。
だが、今日の彼女にはいつもの鋭さが少し足りない。
怒っているというより、寂しさを怒りに変換しようとしているように見える。
「莉子」
「なによ」
「戸締まりは任せる」
「言われなくてもやるわよ」
「結界は無理に使うな。使う時は逃げる時間を稼ぐためだ。防ぐためじゃなく、逃がすため」
「分かってる」
「火の管理も慎重に。火事になったら全部終わる」
「分かってるってば」
「水は詩乃、見張りは透子、外部交渉は千咲。莉子はそれらが崩れた時に止める役だ」
「止める役?」
「ああ。この家で一番危険に敏感なのは莉子だ。嫌な予感がしたら止めろ」
莉子は少し驚いた顔をした。
それから、目を逸らす。
「……責任重大じゃない」
「重大だ」
「軽く言わないでよ」
「軽くない」
「ならいいけど」
莉子は小さく息を吐いた。
「認めるわけじゃないけど」
「まだ言うのか」
「最後まで言うわよ。認めるわけじゃないけど、助かった」
「そうか」
「風呂も、ご飯も、防犯も。あと……色々」
「色々?」
「色々よ」
莉子は顔を少し赤くして、またそっぽを向いた。
「だから、たまには様子見に来なさいよ」
「状況次第だ」
「またそれ」
「便利だからな」
「むかつく」
そう言いながらも、莉子の口元は少し緩んでいた。
最後に起きてきたのは千咲だった。
寝癖が跳ねている。
いつもの軽さを装っているが、表情は少し硬かった。
「おはよー。燈真くん、朝から人気者じゃん」
「お前が最後なだけだ」
「寝坊したわけじゃないよ」
「したんだろ」
「ちょっとだけ」
千咲は笑ってごまかし、俺の荷物を見た。
「本当にまとまってる」
「ああ」
「本当に帰るんだ」
「ああ」
「そっか」
千咲はそれだけ言って、少し黙った。
いつものように「延長しない?」とは言わない。
昨日散々言ったからだろう。
あるいは、もう諦めたのか。
「朝ご飯、食べてから行くよね?」
「軽く食べる」
「じゃあ、今日は私たちで作る。燈真くんは見てるだけ」
「できるのか?」
「できる。たぶん」
「たぶんか」
「そこは見守ってよ」
千咲はそう言って、全員に声をかけた。
朝食は、五人が作った。
火起こしは莉子と紗良。
水と食料の分量は詩乃。
見張りは透子。
全体を動かすのは千咲。
俺は口を出さないように、少し離れて見ていた。
もちろん、危険があれば止めるつもりだった。
だが、思ったより順調だった。
莉子が火打ち石で火種を作り、紗良がそれを育てる。
千咲が鍋を用意し、詩乃が分量を確認する。
透子は二階と庭を行き来しながら、外の様子を見ている。
何度か手間取った。
火が消えかけた。
水の量を間違えかけた。
鍋を置く位置が悪く、千咲が慌てた。
それでも、五人で修正した。
俺が手を出す前に、自分たちで何とかした。
やがて、簡単な粥とスープができた。
味は薄い。
米も少ない。
温かいだけの、質素な朝食。
だが、五人は妙に誇らしげだった。
「どう?」
千咲が聞く。
俺は一口食べた。
「薄い」
「第一声それ!?」
「でも、食える」
「それ褒めてる?」
「火加減は悪くない。水の量は少し多いが、節約食としてはありだ。次は塩を少し調整しろ」
「講評が真面目」
紗良が笑った。
詩乃はほっとしたように胸を押さえた。
莉子は「まあ、当然ね」と言い、透子は「自力調理達成」と呟いた。
その光景を見て、俺は少しだけ安心した。
これなら、俺がいなくても今日明日で崩れることはない。
もちろん問題は残っている。
水。
食料。
防犯。
神力の扱い。
東京方面の不穏な情報。
腕章の連中。
配布所の混乱。
この家に迫る危険は消えていない。
だが、最初に比べれば、彼女たちはずっとマシになった。
朝食後、最後の確認をする。
「水は?」
詩乃が答える。
「飲用がこちら、調理用がこちら、洗浄用がこちらです。今日の補給は夕方、千咲さんと透子さんが様子を見てから判断します」
「よし。無理に取りに行くな」
「はい」
「見張りは?」
透子が答える。
「朝、昼、夕方、夜。神力は違和感があった時だけ。使ったら記録」
「よし」
「火は?」
莉子が答える。
「室内で無理に使わない。庭で使う。水を置く。煙を出しすぎない。消火確認」
「よし」
「外部情報は?」
千咲が答える。
「一人で動かない。家の場所は隠す。神力の内容は言わない。危なそうなら逃げる。ハサミで連絡」
「よし」
「生活記録と音は?」
紗良がギターケースを軽く叩く。
「食事、火起こし、見張り、気づいたことを書く。夜は小さい音で、外に聞こえないように弾く。紗良ちゃんのライブは予約制」
「最後はいらない」
「いるよ」
五人が少し笑った。
笑えるならいい。
少なくとも今は。
俺はリュックを背負った。
その瞬間、五人の顔が少し変わった。
いよいよ帰る。
それが空気で分かる。
「じゃあ、行く」
俺が言うと、千咲が立ち上がった。
「玄関まで送る」
「いらない」
「送る」
「……好きにしろ」
五人全員が玄関までついてきた。
大げさだ。
そう思ったが、言っても無駄だろう。
玄関で靴を履く。
外は明るい。
朝の住宅地は、電気が消える前と似ているようで、やはり違う。
車の音はない。
遠くで人の声がする。
どこかで金属を叩く音がする。
街は静かだが、完全に止まってはいない。
「これ」
俺はリュックから、小さな包みを取り出した。
千咲が目を瞬かせる。
「なに?」
「置き土産」
「え?」
包みの中には、ライターとガスボンベが一本ずつ入っている。
正確には、ライターは使えないものではなく、火打ち石式の古いライターだ。電気火花に頼らない。ガスボンベは俺が持ってきたものの中から一本だけ残すことにした。
かなり貴重だ。
俺の拠点でも余裕があるわけではない。
だが、この家に一つも残さないのはまずい。
「これで耐え忍んでくれ」
俺が言うと、千咲は包みを見つめたまま固まった。
「いいの?」
「一本だけだ。大事に使え。これがあれば、どうしても火が必要な時に使える。ただし、毎回使うな。緊急用だ」
「でも、燈真くんの方も必要なんじゃ」
「必要だ。だから一本だけだ」
千咲は包みを両手で持った。
その表情は、いつもの軽い笑顔ではなかった。
「ありがとう」
「礼はいい。使い方を間違えるなよ」
「うん」
「莉子、火の管理はお前が見ろ」
「分かった」
「詩乃、ガスの残量も記録しろ」
「はい」
「透子、これを使う時は外を見る。煙や人影に注意」
「了解」
「紗良、調子に乗って火を大きくするな」
「私だけ信用低くない?」
「実績だ」
「ひどい」
少し笑いが起きる。
だが、すぐに静かになった。
千咲が言う。
「燈真くん」
「なんだ」
「本当に、また連絡していい?」
「ハサミがあるだろ」
「用事なくても?」
「用事を作れ」
「それ、連絡していいって意味?」
「必要ならな」
「また状況次第?」
「そうだ」
千咲は苦笑した。
「じゃあ、状況作る」
「面倒事は持ってくるな」
「それは無理かも」
「無理なのか」
「この世界だし」
それは否定できなかった。
玄関を出る。
五人も外へ出てくる。
見送りはいらないと言ったのに、結局庭までついてきた。
門の前で、俺は振り返る。
「ここから先は来るな。目立つ」
「分かった」
千咲が頷いた。
透子が小さく手を上げる。
「ゼロデスで帰って」
「そっちもな」
詩乃が深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「頭を下げすぎるな。管理表を続けろ」
「はい」
紗良がギターケースを軽く叩く。
「今度来た時、新曲聞かせるから」
「音量は控えめに」
「そこ?」
莉子は腕を組んだまま、視線を逸らしていた。
「……たまには来なさいよ」
「状況次第だ」
「ほんとむかつく」
「元気そうで何よりだ」
「うるさい」
最後に、千咲が少しだけ前へ出た。
「燈真くん」
「なんだ」
「帰る場所、間違えないでね」
その言葉に、俺は一瞬だけ止まった。
「どういう意味だ」
「澪奈ちゃんが待ってるところに、ちゃんと帰りなって意味」
「……分かってる」
「ならいい」
千咲は笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます、ではないだろ」
「じゃあ、またね」
「ああ」
俺は背を向けて歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ると、面倒になりそうだったからだ。
門を出て、住宅地の道を進む。
朝の空気は冷たい。
背中のリュックがいつもより重く感じる。
実際の重さは、来た時より少し軽い。
ガスボンベを一本置いてきたし、保存食も少し減っている。
なのに、重い。
たぶん、荷物以外のものを背負っているからだ。
千咲たちの顔。
この家で作ったルール。
火を待つ声。
湯に喜んだ表情。
ギターの音。
見張りの記録。
管理表。
置いてきたライターとガスボンベ。
全部が、頭の中に残っている。
俺は他人が嫌いだ。
今でもそうだ。
人間は面倒だし、信用できない。
善意のふりをして踏み込んでくるし、距離感も間違える。
だけど、千咲たちはもう完全な他人ではなくなっていた。
それが一番面倒だった。
山道に近づくにつれて、人の気配は減っていく。
街から離れ、住宅地を抜け、坂道を上る。
途中で一度だけ休憩した。
水を飲み、地図を確認する。
東京方面の情報が書き込まれた紙が、ノートに挟んである。
封鎖されているらしい道。
人が戻された場所。
危険だという噂の地点。
情報の空白地帯。
千咲たちが集めてくれたものだ。
これを使って、俺は東京方面へ向かうことになる。
親の安否を確認するために。
帰ってこない理由を知るために。
その時、俺は何を見るのだろう。
そんなことを考えながら、山の水場へ向かった。
昼を少し過ぎた頃、水場が見えてきた。
細い流れの音。
木々の匂い。
湿った土。
隠していたテントの位置。
そして。
「燈真!」
澪奈が立っていた。
俺を見るなり、駆け寄ってくる。
いつものように袖を掴むかと思ったが、途中で少し迷ったように手を止めた。
それから、結局いつものように俺の袖を掴んだ。
「帰ってきた」
「ああ」
「本当に帰ってきた」
「約束しただろ」
「燈真の約束、たまに信用できないから」
「ひどいな」
「事実でしょ」
「否定はしない」
澪奈はしばらく俺の袖を掴んだままだった。
その手に力が入っている。
不安だったのだろう。
俺が思っていた以上に。
「怪我は?」
「ない」
「神力使いすぎてない?」
「大丈夫だ」
「女子五人に囲まれて浮かれてない?」
「だから浮かれる要素がどこにある」
「一応確認」
「心配の方向がおかしい」
澪奈は少し笑った。
その笑顔を見て、ようやく帰ってきたのだと実感した。
ここが、俺の拠点だ。
千咲たちの家ではない。
東京でもない。
山の水場。
澪奈がいる場所。
俺が最初に選んだ、今のところの帰る場所。
「ただいま」
俺がそう言うと、澪奈は少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「おかえり」
その言葉は、思ったより胸に響いた。
荷物を下ろし、水場の状態を確認する。
テントは無事。
食料も荒らされていない。
水場に人が来た形跡も、少なくとも大きくはない。
澪奈はちゃんと守っていたらしい。
「こっちは問題なかったか?」
「大きな問題はないよ。でも、街の方は少し変」
「変?」
「配布所の人が増えてる。水の列も長くなってる。あと、神力持ちの噂がかなり広がってるみたい」
「こっちも同じだ」
「千咲ちゃんたちの方でも?」
「ああ。神力持ちを登録しようとしてる連中がいるらしい」
澪奈の顔が曇る。
「登録……」
「名前、能力、住んでる場所。そういうものを聞いているらしい」
「それ、まずくない?」
「かなり」
「燈真のことは絶対知られたら駄目だね」
「ああ。澪奈もだ」
「うん」
俺たちは水場のそばに座った。
久しぶりに、二人だけの空気だった。
千咲たちの家は賑やかだった。
五人の声が常にあった。
ここは静かだ。
水の音と、風の音だけがある。
少し寂しい。
そう思ってしまい、自分で嫌になる。
「燈真」
「なんだ」
「両親、帰ってないよ」
澪奈の言葉で、俺の意識が一気に切り替わった。
「家を見に行ったのか」
「うん。昨日、少しだけ。燈真の家の周りも見た。鍵は閉まったまま。人が帰った感じはなかった」
「そうか」
予想はしていた。
それでも、実際に聞くと重い。
一週間経っても、父と母は帰っていない。
東京から千葉なら、簡単ではないにしても、普通なら何かしら動きがあってもいいはずだ。
それがない。
やはり、東京で何かが起きている。
澪奈は続ける。
「うちの親は海外出張だから、そもそも期待できないけどさ」
「ああ」
「でも、燈真の親は東京なんだよね」
「ああ」
「東京から地方に来た人、ほとんど見ない。東京方面の道も封鎖されてる噂がある。神力持ちを探してる人もいる」
「……」
「もしかして、東京で何か起きてる?」
澪奈の声は静かだった。
けれど、その問いは重かった。
俺は千咲たちとまとめた地図を取り出し、澪奈に見せる。
封鎖の噂。
人が戻された地点。
危険区域。
情報の空白。
澪奈はそれを見て、息を呑んだ。
「こんなに?」
「正確かは分からない。噂も多い。でも、何かが起きているのは間違いないと思う」
「燈真、行くんだよね」
「ああ」
「止めても?」
「行く」
澪奈はしばらく黙った。
そして、小さく息を吐く。
「分かってた」
「悪い」
「謝らなくていいよ。私も、親が東京にいたら行きたいと思うし」
「そうか」
「でも、一人で行くのは反対」
「澪奈を連れていくのも危険だ」
「分かってる。でも、何も知らないまま待つのも嫌」
「……」
「だから、ちゃんと決めよう。行く日、道、泊まる場所、戻る期限。三日帰ってこなかったら私も行く。これは変えない」
澪奈はまっすぐ俺を見た。
ゲーセンの奥に一人で行くのを怖がっていた少女とは思えない顔だった。
いや、怖がりだからこそなのかもしれない。
怖いものを怖いと認めた上で、それでも引かない。
澪奈はそういうやつだった。
「分かった」
俺は頷いた。
「一緒に考える」
澪奈の表情が少し緩んだ。
「うん。一緒に考える」
その言葉を聞いて、俺は千咲たちの家を出る前に澪奈が言ったことを思い出した。
帰ってきたら、一緒に考えよう。
そう言っていた。
俺は帰ってきた。
なら、次は考える番だ。
東京へ行くために。
親を探すために。
そして、たぶん、この世界で俺たちがどう生きるのかを決めるために。
水場の上を、風が通り抜けた。
電気のない世界で、山の水は変わらず流れている。
だが、俺たちの周囲はもう変わっていた。
千咲たちの家も。
街も。
東京も。
そして俺自身も。
俺は火を出せる。
風を起こせる。
もしかすると、もっと別のこともできる。
神力持ちは資源として見られ始めている。
東京では、電気関係の力を探しているという噂もある。
父と母は帰ってこない。
妹とも連絡が取れない。
やるべきことは増えていく。
俺は救世主じゃない。
他人を救うために動くつもりもない。
けれど、見てしまったものはもう消えない。
千咲たちの家。
火を待つ顔。
帰らないでと言った透子。
認めるわけじゃないと言いながら引き止めた莉子。
管理表を抱えた詩乃。
ギターを弾く紗良。
ハサミを握る千咲。
そして、ここで待っていた澪奈。
俺の帰る場所は、ここだ。
だからこそ、ここを守るためにも、東京で何が起きているのか知らなければならない。
「澪奈」
「なに?」
「今日は休む」
「うん」
「明日、東京方面のルートを決める」
「うん」
「その前に、家ももう一度確認する」
「一緒に行く」
「ああ」
澪奈は少し驚いた顔をした。
「一緒に、でいいの?」
「一緒に考えるんだろ」
そう言うと、澪奈は少し笑った。
「うん」
俺たちは水場のそばに座ったまま、しばらく何も言わなかった。
久しぶりの静けさだった。
けれど、その静けさはもう、ただの安心ではない。
次の不安の前の、短い休息だった。
俺はリュックを横に置き、目を閉じた。
明日から、また動く。
でも今日だけは、帰ってきたことを少しだけ実感してもいい。
そう思った。




