第13話 帰る場所
千咲たちの家に来てから、五日目の朝。
俺は庭で、紗良と莉子に火起こしの復習をさせていた。
「違う。そこで焦るな。火花が飛んでも、すぐ大きな火になるわけじゃない」
「分かってるって。火花を育てるんでしょ?」
紗良が火打ち石を握りながら言う。
「そうだ。最初は火をつけるというより、火種を作る。火種ができたら、いきなり太い枝を置くな。細いものから順番に」
「火にも段階があるんだね」
「ある。雑に扱うと消えるか、燃え広がる」
「人間関係みたい」
「急に詩的なことを言うな」
紗良は笑いながら、削った麻紐に火花を落とそうとしていた。
最初の頃よりはだいぶ手つきがよくなっている。
ギターをやっているからか、指先の感覚は悪くない。失敗しても投げ出さないところもいい。
問題は、成功するとすぐ調子に乗ることだ。
「お、ついた!」
「そこで顔を近づけるな」
「うわ、危な」
「危ないから言ってる」
火種が小さく赤くなる。
俺はすぐに細い木くずを渡した。
「乗せるんじゃなくて、包むように。空気は残せ」
「はいはい、先生」
「先生じゃない」
「キャンプの先生」
「違う」
紗良が小さな火を育てている横で、莉子は腕を組んで見ていた。
「莉子もやるぞ」
「昨日やったじゃない」
「昨日できたから今日もできるとは限らない」
「ほんと、嫌なこと言うわね」
「本当のことだ」
莉子は不満そうに火打ち石を受け取った。
けれど、練習そのものは拒まない。
最初に会った頃のような刺々しさは、だいぶ薄れていた。口調は相変わらずだが、こちらの指示には従う。防犯や火の管理に関しては、むしろかなり真面目だった。
結界の能力があると分かってから、莉子は少し変わった。
自分の警戒心が、ただの臆病ではなく、拠点を守る力に繋がっている。
そう分かったからかもしれない。
「……ねえ、燈真」
「なんだ」
「私の結界って、本当に使えると思う?」
「使える」
「でも、一瞬で疲れるじゃない」
「だから常用はできない。緊急時に時間を稼ぐためのものだ」
「時間を稼ぐ?」
「ああ。敵を倒すためじゃなく、逃げるため。扉を押さえる。窓から入られないようにする。誰かが逃げるまで数秒止める。そういう使い方なら十分価値がある」
莉子は少し黙った。
それから、小さく頷く。
「守るためってことね」
「そうだ」
「なら、練習する」
「今日はやらない。昨日使ってまだ疲れが残ってるだろ」
「平気よ」
「平気そうに見えない」
「……ちょっとだけ」
「だから今日は火起こしだけだ」
「分かったわよ」
莉子は渋々頷き、火打ち石を構えた。
その様子を見ながら、俺はこの数日の変化を考えていた。
千咲たちの家は、明らかに変わった。
最初に来た時は、ただ五人が不安を抱えながら家に固まっているだけだった。
火がない。
水が不安。
食事が満足に作れない。
風呂に入れない。
夜が怖い。
神力はあるが、使い方も危険性も分からない。
今は違う。
千咲はハサミ通信と外部交渉を担当し、情報を集める時も一人で突っ走らなくなった。
透子は二階の見張り場所を自分で整え、遠視を使う時間を記録するようになった。
詩乃は水と食料の管理表を作り、毎朝残量を確認している。
紗良はギターだけでなく、生活記録や火起こし補助を担当している。
莉子は窓と玄関の確認を習慣にし、結界を緊急用として意識するようになった。
まだ危うい。
だが、最初よりはずっと拠点らしくなっている。
「ついたわよ」
莉子が言った。
見ると、火種が小さく赤くなっていた。
「よし。そこから育てろ」
「分かってる」
「焦るな」
「分かってるってば」
莉子は慎重に木くずを寄せる。
火が少しずつ大きくなる。
紗良が横で拍手した。
「おー、莉子上手くなった」
「別に、普通よ」
「普通じゃないって。私、最初全然できなかったし」
「あなたが雑なだけじゃない?」
「ひど」
「事実でしょ」
「燈真くんの真似しないでよ」
そのやり取りに、少しだけ笑いそうになる。
俺は表情を変えないように、火の管理へ意識を戻した。
笑っている場合ではない。
一週間の期限まで、あと二日しかない。
俺は帰る。
そう決めている。
この家は少し安定してきた。
だからこそ、俺が残り続ける理由はない。
いや、残ればもっと改善できる。
それは分かっている。
水の運用。
食料の節約。
近隣との関係。
神力の訓練。
防犯。
逃走経路。
やることはいくらでもある。
だが、ここに居続ければ居続けるほど、帰る理由が曖昧になる。
澪奈が待っている。
親の安否も分からない。
妹とも連絡が取れない。
俺は、この家の管理者になるために来たわけではない。
そう自分に言い聞かせていた。
昼前、千咲と透子が情報収集から戻ってきた。
今回は二人とも顔が硬かった。
「何かあったか」
俺が聞くと、千咲は水を飲んでから頷いた。
「配布所、揉めてた」
「水か?」
「水と食料。あと、神力持ちの話」
透子が淡々と補足する。
「腕章の人たちが、神力を使える人は登録してくださいって言ってた」
「登録?」
「名前、年齢、できること、住んでる場所。そういうの聞いてたっぽい」
俺の眉が動いた。
住んでいる場所まで。
それはもう、単なる協力要請ではない。
管理だ。
「任意か?」
千咲は首を傾げた。
「一応は任意。でも、避難所にいる人たちは断りにくそうだった」
「食料や水の配布と繋げてるのか」
「そこまでは分からない。でも、登録した人は優先して何かもらえるかもって噂が出てた」
「最悪だな」
思わず言う。
千咲も苦い顔をした。
「うん。便利な力を持ってるなら協力しろって空気、強くなってる」
「この家のことは?」
「言ってない。絶対言ってない」
「誰かにつけられた気配は?」
「透子が見てた。たぶん大丈夫」
透子が頷く。
「途中で一回、後ろを気にしてる人はいた。でも同じ道を曲がらなかった。尾行ではないと思う」
「神力はどのくらい使った」
「軽く二回。少し目が重い」
「今日はもう使うな」
「了解」
透子は素直に頷き、ソファに座った。
千咲はリビングの床に座り込み、ハサミを手の中で回す。
「あと、東京方面の話も増えてた」
俺はノートを開いた。
「聞かせろ」
「やっぱり道が封鎖されてるって。全部じゃないけど、大きい道はかなり止められてるみたい。橋の方も怪しい。東京から出ようとした人が戻されたって話もある」
「誰が止めてる」
「人によって言うことが違う。警察っぽい人、自衛隊っぽい人、民間警備みたいな人、よく分かんない腕章の集団。場所によって違うっぽい」
「統一されてないのか」
「たぶんね。あと、東京の中は場所によって全然違うって噂もある。配布がある場所と、完全に荒れてる場所と、近づいちゃいけない場所」
「近づいちゃいけない場所?」
「死体が多いとか、変な集団がいるとか、神力持ちを連れていかれるとか。どれが本当かは分かんない」
リビングが静かになる。
紗良がギターケースを抱えたまま言った。
「東京って、そんなになってるの?」
「噂だよ」
千咲はそう言ったが、声は軽くなかった。
「でも、東京から帰ってきた人が少なすぎるのは本当。千葉側にいる人たちも、東京の家族と連絡取れないって話ばっかり」
父と母。
東京。
帰ってこない大人たち。
俺は鉛筆を握る手に力が入っていることに気づいた。
詩乃が小さく言う。
「私の両親も、遠出したままです。東京ではありませんが……帰ってこられない理由があるのでしょうか」
「あるかもしれない」
俺は言った。
「少なくとも、移動は想像以上に難しくなっている」
「歩けば帰れる、というものではないのですね」
「今はな」
電気が消えただけなら、歩けばいい。
最初はそう思っていた。
だが、実際は違う。
信号が止まり、車が止まり、道路が塞がれ、人が水と食料を求めて動く。治安が悪化し、配布所に人が集まり、神力持ちの噂が広がる。
その中で長距離を移動するのは、ただ歩くだけでは済まない。
そして東京周辺では、封鎖の噂まである。
父と母が帰ってこない理由が、少しずつ現実味を持っていく。
同時に、怒りも形を持ち始めていた。
帰れないのか。
帰らないのか。
そこが分からない。
もし帰れないなら、助けに行きたい。
もし帰らないなら、問いただしたい。
この状況で、家族より仕事なのかと。
「燈真くん」
千咲が俺を見る。
「東京、行くんだよね?」
「一週間が終わったら、一度帰る。その後、状況を見て東京方面へ行く」
「一人で?」
「そのつもりだ」
「危ないよ」
「分かってる」
「分かってない人の返事だ」
千咲にまで言われるとは思わなかった。
俺は小さく息を吐く。
「澪奈にも言われた」
「じゃあ二人分」
「分かってる。だから準備して行く。無策で突っ込むわけじゃない」
莉子が腕を組んで言う。
「でも、封鎖されてるなら通れないでしょ」
「正面からはな。回り道を探す」
「余計危ないじゃない」
「そうだな」
「そうだな、じゃないわよ」
莉子は苛立ったように言った。
「一週間で帰るって言ってるのに、帰ったら今度は東京? あんた、ずっと危ない方に行ってない?」
「必要だからだ」
「必要って言えば何でも済むと思ってるでしょ」
「済むとは思ってない」
「じゃあ、少しは自分のことも考えなさいよ」
その言葉に、俺は少し黙った。
莉子は自分で言ってから、気まずそうに目を逸らした。
「……別に、心配してるわけじゃないから」
「今の流れでそれは無理があるだろ」
「うるさい」
紗良が小さく笑った。
「莉子、素直じゃないね」
「紗良!」
「はいはい」
千咲が少しだけ笑い、それから真面目な顔に戻る。
「燈真くん。東京方面の情報、もうちょっと集める。だから一人で行く前に、せめてそれ見てからにして」
「ああ。そうする」
「あと、地図ある?」
「ある」
「じゃあ、封鎖されてるって噂の場所、書き込んでおくよ。正確じゃないけど、ないよりマシでしょ」
「助かる」
千咲は得意げに胸を張った。
「情報屋千咲ちゃんに任せなさい」
「調子に乗るな」
「こういう時くらい乗らせてよ」
そう言って笑う千咲は、最初に会った時と同じように軽く見えた。
だが、この数日で分かった。
千咲の軽さは、たぶん武器だ。
不安な時ほど笑う。
怖い時ほど動く。
誰かが黙り込む前に、声をかける。
それでこの家の空気を保っている。
紗良の音楽とは違う形で、千咲もまた拠点の精神を支えているのだと思う。
午後は、東京方面の噂を地図に書き込む作業に使った。
千咲が聞いてきた話。
透子が遠視で見た人の流れ。
配布所で耳にした噂。
どれも不確かだ。
それでも、地図に落とし込むと見えてくるものがあった。
大きな道路ほど封鎖の噂が多い。
橋や川を越えるルートに情報が集中している。
東京湾側は混乱しているらしい。
内陸側も無事ではないが、情報が少ない。
噂の空白地帯がある。
それは本当に何もないのか、情報を持って帰ってきた人間がいないのか。
判断はできない。
「ここ、回り道に使えそうじゃない?」
千咲が地図の一点を指した。
「道としては使えるかもしれない。ただ、情報が少なすぎる」
「つまり危ない?」
「分からない。だが、大きな道を避けるなら候補にはなる」
「燈真くん、ほんとに行くんだね」
「行く」
「怖くないの?」
「怖い」
「顔に出ないね」
「出したら危険が減るのか?」
「減らないけどさ」
千咲は少しだけ口を尖らせた。
「でも、怖いって言う燈真くんはちょっと珍しい」
「怖くないわけないだろ。死体があるとか、封鎖されてるとか、神力持ちを探してるとか、危ない話しかない」
「じゃあなんで行くの」
「家族がいる」
俺は短く答えた。
千咲は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
夜。
俺はいつものようにハサミで澪奈へ連絡を入れた。
『燈真?』
「ああ。今日は東京方面の噂を地図にまとめた」
『やっぱり行く準備してるんだ』
「準備だけだ」
『準備したら行くでしょ』
「否定はしない」
ハサミの向こうで、澪奈がため息をついた。
『危ないよ』
「ああ」
『でも、止めても行くんでしょ』
「たぶん」
『たぶん禁止』
「行く」
『正直でよろしい』
澪奈の声は呆れていた。
けれど、怒ってはいなかった。
『一週間終わったら、まず帰ってきて』
「分かってる」
『それから一緒に考える』
「ああ」
『勝手に東京行ったら怒るから』
「分かった」
『本当に?』
「本当に」
少し沈黙があった。
その後、澪奈がぽつりと言う。
『燈真、そっちに慣れてきてない?』
「……どういう意味だ」
『千咲ちゃんたちの家。役割とか決めて、色々やってるんでしょ。燈真、必要とされたら放っておけないところあるから』
「俺はそんな善人じゃない」
『善人じゃなくても、放っておけないことはあるでしょ』
返事に詰まった。
澪奈は続ける。
『でも、帰ってきてね』
「ああ」
『燈真の帰る場所、こっちだから』
その言葉は、思ったより深く刺さった。
帰る場所。
山の水場。
澪奈がいる場所。
千咲たちの家ではない。
東京でもない。
俺が最初に守ろうとした場所。
「分かってる」
俺はそう答えた。
今度は、はっきりと。
通信を切った後、俺はしばらくハサミを見ていた。
翌日には、ここを出る準備を始めなければならない。
一週間。
約束の期限。
千咲たちが何と言おうと、帰る。
そう決めている。
だが、リビングの方から聞こえる声に耳を澄ますと、その決意は少しだけ揺れた。
透子が見張りの記録を読み上げている。
詩乃が水の残量を確認している。
紗良が小さな音でギターを鳴らしている。
莉子が窓の鍵を確認しながら文句を言っている。
千咲がそれらを茶化しながら、全体を回している。
この家は、もう最初に来た時のような不安なだけの場所ではない。
少しずつ、拠点になっている。
俺が手を入れた。
俺が役割を決めた。
俺が火を灯した。
その事実が、俺を引き止めようとする。
けれど。
俺は救世主じゃない。
他人のために生きるつもりはない。
家族を優先する。
澪奈のところへ帰る。
そして、東京へ向かう。
俺はノートを開き、最後の確認項目を書き足した。
置き土産。
火起こし道具。
水管理表。
防犯配置。
東京方面の地図写し。
そして、一番下に大きく書く。
明後日、帰る。
その文字を見て、俺は鉛筆を置いた。
明後日。
俺はこの家を出る。
そのはずだった。




