第九話 部室の壁時計は、一分だけ遅れている
中間テストが終わった翌日、つむぎが部室に一番乗りで着いたのは単なる偶然だった。
鍵を借りて扉を開け、電気をつける。誰もいない部屋には、天球儀と古い地図と、埃っぽい静けさだけがあった。チックはいつものように、天球儀の支柱にもたれて眠っている。西に傾き始めた光が、床の埃をきらきらと浮かび上がらせていて、静かな部屋なのに、なんだか少し賑やかに見えた。
なんとなく時間を確認しようと、つむぎは壁にかかった古い壁時計を見上げた。
――あれ。
スマートフォンの時刻表示と、見比べる。学校のチャイムに合わせて動いているはずの部室の壁時計は、スマホの時刻より一分だけ遅れていた。
「故障、かな」
独り言のようにそう呟いて、その日はそれ以上気にせず、部活の準備を進めた。棚のノートを整理しながら、ふと視線を上げると、天球儀の中でチックの耳が、寝ているくせに、ぴこ、と一度だけ揺れた気がした。見間違いだろうか。
けれど、翌日の水曜日も、部室の壁時計はやはり遅れていた。水曜と木曜は活動日ではなかったが、時計のことが気になったつむぎは、放課後、一人で部室へ向かった。
「昨日より、ずれが大きくなってる……?」
つむぎは、なんとなく引っかかりを覚え、その日から、昨日の分もさかのぼって、壁時計のずれをノートの隅に記録し始めた。
五月二十三日 一分ちょうど遅れ。
五月二十四日 一分十五秒遅れ。
五月二十五日 五十秒遅れ。
五月二十六日 一分四十秒遅れ。
一定のペースで遅れていくわけではない。日によって縮まったり、また広がったりしている。まるで時計自体が、何か気まぐれな呼吸をしているみたいだった。
「これ、見てもらえますか」
四日分のデータがたまった金曜日、つむぎは部室で三人にノートを見せた。
「ほんまや、日によって全然違うやん」
あかりが目を丸くする。
「電池式の時計だから、まずは電池の消耗を疑った方がいいと思うけど……」
かなめが、時計を見上げながら言った。
「電池なら昨日、秋月先生にお願いして、新しいものに替えてもらいました。でも、今日もずれています」
「それなら、電池だけが原因とは考えにくい。この不規則な変動の仕方も、少し変だと思う。普通の時計の誤差なら、もう少し一定の傾向があるはずだから」
「じゃあ、単純に、この時計がサボってるだけとか」
あかりが真顔で言う。
「時計にサボる意志、ないと思うけど……」
かなめが呆れたように答えると、あかりは肩をすくめた。
「うちの学校のチャイム係の先生も、たまに時間、適当なときあるし。何が起きてもおかしくないと思って」
「その基準、時計に適用していいのか、疑問なんですけど……」
つむぎが思わず突っ込む。
部室の隅で丸くなっていたチックが、そのとき、もぞりと身動きした。
「時計、変?」
「うん、変なの」
つむぎが頷く。
「毎日、ずれ方が違うみたいで」
チックは、眠たそうな目を細めて、壁時計をじっと見上げた。
「時の、ほつれ」
四人が顔を見合わせる。
「時のほつれ、って?」
つむぎが尋ねると、チックは大きなあくびをした。
「時計、少し、よれてる……小さい、ほつれ」
「よれてる、ってどういうこと? もっと詳しく教えて」
かなめが身を乗り出すと、チックは目をぱちぱちとさせながら、なんとも要領を得ない答えを返した。
「小さいの、少しずつ、ある……ねむい」
「あ、寝る流れやこれ」
あかりが苦笑いした通り、チックはそのまま、また丸くなって寝息を立て始めてしまった。
「肝心なところで、いつもこう……」
つむぎは少し困った顔をした。
「なあ、これ、寝落ちのタイミング、絶対わざとやろ」
あかりが疑いの目でチックを見る。
「わざと、って証拠はないですけど……でも、確かに、都合のいいところでばかり寝ますね」
こよみが苦笑いしながら言う。
「今度、肝心なこと聞くときは、先にお菓子あげてから聞こう」
かなめが、意外と本気の口調で提案した。
「それ、賄賂やん」
あかりが笑う。
「賄賂じゃなくて、情報提供への正当な対価」
「かなめ、そういうとこ、理屈っぽいなあ」
あかりの茶々に、かなめは少し不服そうに眼鏡を押し上げたが、それ以上言い返さなかった。
「でも、『時のほつれ』っていう言葉が出てきたのは、初めてじゃない?」
こよみが冷静に指摘する。
「言われてみれば……以前、こよみさんが古地図を頼りに案内してくれた場所で、光の残像みたいなものを見ましたよね。あのときも、チックさんは何か言いかけていたような気がします」
つむぎのその言葉に、ほかの三人はしばらく黙り込んだ。チックという存在自体が、ただの不思議な小動物というだけではなく、この「時のほつれ」というものと、何か深く関わっているらしいことが、少しずつはっきりしてきていた。
「これ、部活の記録として調べてみる価値、あるんじゃない?」
かなめが言うと、こよみも頷いた。
「そういえば以前、秋月先生が『昔の星時研究部の記録が、部屋のどこかに残っているはず』とおっしゃっていたのを思い出しました」
「あ、確か、そんなこと言うてたな」
あかりが手を打った。
「先輩たちが残した、古いノートとか」
四人は、部室の棚を改めて調べてみることにした。天球儀や地図の後ろ、埃をかぶった段ボール箱の中に、古びたノートの束が見つかった。
「これ……」
つむぎが手に取ったノートの表紙には、色褪せた文字で「星時研究部 活動記録」と書かれていた。年度を見ると、今から数年前のものらしい。
ページをめくると、天体観測の記録や、地質調査のメモ、そして――時計のずれに関する記述が、何ページにもわたって続いていた。
「明石の自然の時間と、標準時を比べる」
その一文が、ノートの最初のページに大きく書かれている。
「これ、まさに、うちらが今調べてることと似てません?」
あかりが興奮気味に言う。
「うん」
つむぎは、ページをめくる手を止められなかった。
「太陽の南中の時刻の記録、恒星の観測記録、それから――部室の時計のずれの記録も、書いてある」
「昔の先輩たちも、この時計のずれに気づいていたってこと?」
かなめの声が、いつもより真剣だった。
ノートには几帳面な字で、日付ごとの時計のずれと、天候、気温などが細かく記録されていた。けれどページをめくっていくと、記述はある日を境に、急に途切れていた。
最後のページには、こう書かれている。
「七月第三週。ずれ、最大。今日、観測できず。続きは――」
そこで文章は、不自然に途切れていた。それ以降のページは、真っ白のままだった。
「これ……途中で終わってる」
こよみが冷静に呟いた。
「発表、できなかったのかな」
あかりが心配そうに言う。
「もしかしたら……」
つむぎは、ノートの最後のページをしばらくじっと見つめた。
「この先輩たちも、わたしたちと同じように、廃部の危機の中で、何かを調べようとしていたのかもしれません」
「それが、途中で終わってしまった、ということですね」
こよみの言葉に、部屋の空気が少し重くなった。
「でも」
かなめが、ノートを閉じながら言った。
「なんで途中で終わったのか、その理由がわからない。単に忙しくなっただけかもしれないし、それとも……」
「夏休みに入ったからちゃう? ……あ、でも、それやったら、二学期に観測を再開しとるはずやな」
あかりは自分で言って、少し表情を曇らせた。
それ以上は、誰も口にしなかった。
けれど四人の頭の中には、同じ疑問が浮かんでいるようだった。もしかしたら、この時計のずれ――「時のほつれ」というものが、その先輩たちの観測にも、何か影響を与えていたのではないか、と。
「チックは、この先輩たちのことも知ってるんでしょうか?」
つむぎが、眠り続けるチックを見ながら呟いた。
「今聞いても、また寝ちゃいそうですけど」
こよみがそう言って苦笑する。実際、チックは何を聞いても答えず、規則正しい寝息を立てるばかりだった。
「ちょっと待って、今度こそ賄賂作戦、試してみる」
あかりが、鞄からこっそり持ってきていたクッキーの欠片を取り出し、チックの鼻先にそっと近づけた。とたん、閉じていた目が、ぱちりと開く。
「これ、くれる?」
「情報と引き換えなら」
「情報、ない……でも、クッキー、ほしい」
「交渉、成立してへんやん!」
あかりが思わず声を上げると、チックはさっさとクッキーだけを咥えて、また丸くなってしまった。まんまと出し抜かれた形になったあかりが、がっくりと肩を落とす様子に、こよみとかなめが思わず噴き出した。
「賄賂作戦、見事に失敗しましたね」
こよみが笑いを堪えながら言う。
「うち、なんかもう、この生き物に対して、勝てる気せえへんわ……」
その情けない顔に、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
その日の活動記録として、つむぎはノートに、今日見つけたことをまとめた。
部室の壁時計の不規則なずれ。
「時のほつれ」という、チックの言葉。
数年前の先輩たちの、未完成の観測記録。
「これ、私たちの発表のテーマに、もしかしたら関係してくるかもしれませんね」
こよみの言葉に、あかりが頷いた。
「うん。単なる不思議現象で終わらせんと、ちゃんと調べたら、なんかわかるかもしれん」
「そうだね」
かなめも、真剣な表情で頷いた。
「ちゃんと記録を続けて、データを集めよう。感覚だけじゃなくて」
つむぎは古いノートの最後のページを、そっと閉じた。
チックはクッキーの欠片を頬につけたまま、気持ちよさそうに眠っている。
窓の外から差し込む夕方の光が、部室の壁時計をぼんやりと照らしていた。その針は相変わらず、正確な時刻より少しだけ遅れて、静かに時を刻み続けていた。




