第八話 雨の日のシフォンケーキは、少しむずかしい
五月の連休が終わると、学校は中間テスト前の期間に入った。
部活動は原則休止となり、星時研究部の部室にも、しばらく鍵がかけられることになった。
「二週間も部活なしって、長すぎひん?」
あかりは教科書と問題集を抱えたまま、不満そうに言った。
「テスト前なんだから、仕方ないでしょう」
かなめはそう言いながら、すでに教科ごとの勉強予定を細かく組んでいた。
「古い資料を読むのと、教科書を覚えるのは、少し違いますね」
こよみも古文や地理、歴史以外の教科には多少苦戦しているらしい。
つむぎは三人と廊下ですれ違うたびに言葉を交わしたけれど、放課後にあの部室へ集まらないだけで、二週間がいつもより長く感じられた。
☆
そして週明けの月曜日、中間テスト最終日の放課後。
「終わったー!」
部室の扉を開けるなり、あかりは机に突っ伏した。
「いろんな意味で終わってないといいですね」
こよみが言うと、あかりは顔を上げないまま、片手だけを振った。
「今は結果のこと、考えさせんといて……」
「とりあえず、今日から活動再開ね」
秋月先生が窓を開けると、湿り気を帯びた風が部室へ流れ込んできた。
「あ、そうや。今日はこれ、持ってきたんやった」
あかりが鞄から取り出したのは、小さな茶葉の袋だった。
「テストお疲れさん用。うちの店で使っとる茶葉を、お母さんに分けてもろたんよ」
窓際に置かれていたティーポットを使って、あかりが五人分の紅茶を淹れる。湯気とともに広がる香りを吸い込むと、テストのあいだ張り詰めていた気持ちが、ようやくほどけていくようだった。
五月も下旬。ここ数日は、梅雨のはしりを思わせる雨の日が続いていた。
今日も朝から重たい雲が空を覆い、部室のホワイトボードに書かれていた「夜間簡易観測」の予定には、秋月先生の手で無情にも二重線が引かれた。
「かなめ的には、無念な感じ?」
部室の窓から外を見ながら、あかりが聞く。かなめは腕を組んだまま、微妙な表情をしていた。
「無念というか……天気だから仕方ない。ただ記録できないのは、少しもったいない気がする」
「じゃあ今日はうちの店で作業しようや。雨の日くらい喫茶店で過ごすのも部活っぽいし」
あかりの提案で、四人はカフェ・メリディアンへ向かうことになった。傘を並べて歩く道の途中、水たまりに映る空の色が、いつもより濃い灰色をしている。傘に当たる雨粒の音が四人分、微妙に違う高さで重なって、それだけでも耳が忙しかった。
「雨のとき、こういう水たまりの色も観察対象になるんでしょうか?」
こよみが、ふと足を止めてそう言った。
「水たまりの色は、たぶん空の色を反射してるだけだと思うけど……」
かなめが答えながらも、少し考え込む。
「でも光の反射や散乱を考えると、天気ごとの色の違いを記録するのは、それはそれで意味があるかもしれない」
「じゃあそれも書いとこ」
つむぎは、傘の柄を片手に抱えたまま、器用にノートへ「雨の日の水たまりの色、光の反射」とメモした。歩きながらでもメモを取る癖は、いつの間にか身についていた。
「つむぎ、そのノート、そろそろ字、雨でにじんでへん?」
あかりが心配そうに覗き込むと、つむぎは慌ててノートを傘の下に引っ込めた。
「あ……大丈夫です、たぶん」
「たぶん、って」
二人のやり取りに、こよみが小さく笑う。雨の中でも、こういうやり取りだけは、いつもと変わらない調子だった。
カフェ・メリディアンに着くと、ちょうど灯子さんが仕込みの最中だった。
「あら、いらっしゃい。今日は静かね、外」
「お母さん、うちシフォンケーキ作ってみたいんやけど、いい?」
「シフォン? 材料はあるけど……今日は湿気が多いから、うまくいくかしらね」
灯子さんの言葉に、あかりは首をかしげた。
「湿気って関係あるん?」
「あるわよ。焼き菓子は、特に」
あかりは早速、厨房の隅を借りて、星形の型を使ったシフォンケーキ作りに取りかかった。今日のテーマは、部の新メニュー候補――星をモチーフにした「星形シフォンケーキ」だ。
「メレンゲ、ちゃんと角が立つまで泡立てて……」
卵白を泡立てる手つきは、さすがに慣れている。しかし、いつもならつやつやとした角が立つはずのメレンゲが、今日はどこかゆるく、しなだれるようになってしまう。
「あれ……なんか、いつもよりふわっとせえへん」
あかりが首をひねる横で、かなめが泡立て器の中を覗き込んだ。
「湿度が高いと、メレンゲが安定しにくくなる。空気中の水分を、泡が余計に含んでしまうから」
「え、そうなん?」
「卵白の泡って、簡単に言うと、タンパク質の膜が空気を包み込んでる状態。でも周りの湿度が高いと、その膜が水分を吸って、少し弱くなる。だからいつもよりへたりやすくなる」
「へえ……」
あかりは感心しながらも、少し不服そうな顔をした。
「理屈はわかったけど、じゃあどうしたらええん」
「砂糖を入れるタイミングを早めるとか、卵白をよく冷やしておくとか……いくつか工夫の余地はあると思う」
かなめの助言を受けて、あかりは冷蔵庫から冷えた卵白を取り出し、砂糖を少し早めに加えて再挑戦した。今度は、心なしかしっかりとした艶が出てきたように見える。
「よし、これならいけそう!」
生地をオーブンに入れ、あかりはほっと一息ついた。待っているあいだ、こよみが厨房の隅にある小さな黒板を指差した。
「あかりさん、あそこに書いてある、今日のおすすめって、何の意味があるんですか」
「あ、あれ、うちの店の日替わりメニューの案。今、悩んでるん。誰か、アイデアちょうだい」
「では、雨の日にちなんで、傘の形のクッキーとか、どうでしょう」
「それ、こよみさんっぽい発想ですね」
つむぎが笑う。
「傘のクッキーて、うちの技術で焼けるかなあ……」
あかりが真剣に検討し始めたところで、オーブンのタイマーが鳴った。
取り出したシフォンケーキは、想像していたよりもふくらみが低く、少し詰まったような焼き上がりになっていた。
「あー……やっぱりあかんかった」
あかりが、しょんぼりと肩を落とす。
「湿度のせいだけとは限らない。オーブンの温度とか、生地を混ぜるときの気泡の潰れ方とか、原因はいろいろ考えられる」
かなめが、断面をじっと観察しながら言った。
「でも今日みたいな高湿度の日に、いつもと同じレシピでやると、うまくいかないことが多いのは事実だと思う」
「湿度って、そんなに影響するもんなんや……」
あかりは、切り分けたシフォンケーキを一口食べて、微妙な顔をした。しっとりしすぎているというか、軽さが足りない。
「これ、失敗作としては、何点くらいなん?」
「点数化する意味、あります?」
こよみが不思議そうに聞く。
「あるやろ、記録するなら。うち的には、味は六十点、見た目は四十点。星形やのに、ちょっと星座が崩れた感じになってもうた」
「星座が崩れた星形シフォン、それはそれで、宇宙の神秘っぽくて、いい気もします」
「フォローになってへんよ、それ」
あかりが半笑いで突っ込むと、こよみは大真面目な顔で「褒めてるんですけど」と首をかしげた。
そこへ、ちょうど灯子さんが顔を出した。
「あら、今日は難しかったみたいね」
「うん……なんか、うまくふくらまへんかった」
「梅雨どきは、パンもお菓子も、うちでもよく失敗するのよ。お店でも湿度計とにらめっこの季節ね」
灯子さんが厨房の壁を指差すと、そこには小さな温湿度計がかけられていた。
「気圧や気温、湿度が変わると、ドーナツを揚げるときの油の温度管理にも気を配らないといけないし、パンの発酵の進み方も変わる。喫茶店の仕事って、意外と気象と関係が深いのよ」
「気圧まで……」
あかりが目を丸くしていると、ちょうど部室からの帰り道に立ち寄っていた秋月先生が、店の扉を開けて入ってきた。
「あら、みんな集まってるのね。ちょうどいいところに」
「先生、なんでここに」
「磯辺さんのお母さんとは、地域の会合で知り合いなの。今日はたまたま寄っただけよ」
秋月先生はテーブルの上の失敗作のシフォンケーキを見て、興味深そうに目を細めた。
「あら、今日は科学実験してたのね」
「失敗しただけです……」
あかりが、しょんぼりと言う。
「失敗も立派なデータよ」
秋月先生は、あっさりとそう言った。
「気圧、湿度、気泡の状態――それぞれの条件と、焼き上がりの関係を記録しておけば、それは立派な観察記録になる」
「え、こんな失敗も?」
「もちろん」
秋月先生は、窓の外の雨を見ながら続けた。
「雨の日にできないことばかりを数えるより、雨の日にしかできないことを見つけるほうが、研究としては面白いわ」
その言葉に、かなめがはっとしたような顔をした。
「雨の日にしか、できないこと……」
「たとえば、湿度と気圧の変化を記録する。雲の種類を観察する。今日みたいに、お菓子作りと気象条件の関係を調べる。雨の日にも、やれることはたくさんあるはずよ」
つむぎはノートのページをめくり、新しい見出しをつけた。
「簡易気象観測、はじめます」
その文字を見て、あかりが少し元気を取り戻したように顔を上げた。
「じゃあ、うちの店の湿度計、部活のデータにも使ってええよ。毎日記録つけたら?」
「いいんですか?」
「もちろん。うちの店も、ある意味、観測地点みたいなもんやし」
かなめが、頷きながらノートに簡単な観測項目をまとめ始めた。
「気温、湿度、気圧――学校にある百葉箱のデータも合わせれば、それなりの記録になると思う」
「毎日続けるの、大変そうですけど」
こよみが言う。
「大変なことこそ、ちゃんと続けると、価値が出るものよ」
秋月先生が笑いながら、コーヒーを一口飲んだ。
「先生、うちのコーヒー、どうですか?」
あかりが尋ねる。
「酸味が控えめで、好きよ」
「今度、豆の焙煎の温度と、味の変化も、実験してみようかな」
「あかり、それ、科学部要素、ちゃんと生きてきてる」
かなめが感心したように言った。
「うちも、たまには理屈っぽいこと考えるんやで」
「その理屈っぽいこと考えたときの顔、いつもよりちょっと得意げですね」
こよみが指摘すると、あかりは慌てて表情を引き締めた。
「して、してへん!」
その慌てぶりに、四人でまた小さく笑い合った。
そのあと、あかりは失敗したシフォンケーキの切れ端を、こっそりチックに分けてあげていた。チックはひとくち食べると、なぜか首をかしげる。
「これ、しっとり……悪くない」
「え、失敗作やのに?」
「湿った日の菓子。湿った日の味。悪くない」
その言葉に、あかりは思わず笑ってしまった。
「そうか。失敗も、今日の天気の味なんかもな」
「もう一個、ちょうだい」
「調子ええなあ、もう」
あかりは苦笑しながら、もう一切れ分けてあげた。チックは満足げに目を細め、みるみるうちに皿の上を空にしていく。
「あんた、失敗作専門の評論家にでもなれそうやな」
「専門家……たぶん、なれる」
その自信満々な返事に、こよみとかなめも、思わず声を上げて笑った。
窓の外では、雨がしとしと降り続いている。カフェ・メリディアンの床の真鍮のラインが、雨音の中でいつもより少し寂しげに光っていた。ガラス窓には店内の暖かい灯りが滲むように映り込み、外の灰色の景色との対比がなんだか絵のように見えた。
けれど四人の中には、新しい観測項目がひとつ増えていた。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日も――記録する意味のある一日として、少しずつ積み重なっていくことになる。




