第六話 須磨の海は、まだ夏を待っている
五月の連休を目前にした放課後、あかりが部室の机に一枚のパンフレットを広げた。
「なあ、せっかくの連休やし、今度は研究とかやなくて、普通に遊びに行かへん?」
「普通に?」
つむぎが聞き返すと、あかりはパンフレットの表紙を指で叩いた。青い海を背景に、大きなシャチが水面から跳び上がっている。
「スマシー行こうや、スマシー! 四人で行ったら、絶対楽しいって」
「水族館なら、生き物の観察もできますね」
かなめがパンフレットを手に取る。
「かなめ、それ、もう研究する気やん。今回は部活動やなくて、遊びに行くの」
「見たものを観察するのは、遊びでも同じでしょう」
「その言い方、秋月先生に似てきたで」
あかりが笑う。その隣で、こよみもパンフレットを覗き込んだ。
「須磨は、歴史や文学に関係する場所も多いんですよ」
「こよみも研究する気やん!」
「遊びに行った先に歴史があるだけです」
「うち、まともに遊べる友達、つむぎんしかおらんの?」
「わたしも、たぶん、気になったことはノートに書くと思いますけど……」
「全滅や!」
あかりが机に突っ伏すと、三人で笑った。
部活がない日に、部活の人たちと会う。
中学時代のつむぎには、ほとんどなかったことだ。待ち合わせの時間を書き留めながら、これは観測予定ではなく、友達と遊びに行く約束なのだと、少し遅れて実感した。
☆
連休に入ったある朝、四人は電車に乗って須磨へ向かった。
車窓の向こうに海が見え始めると、あかりが真っ先に窓へ顔を向けた。
「海や!」
「明石からも、毎日のように見えてるでしょう」
かなめが冷静に言う。
「電車の中から見える海は、また別やねん」
「その違いに、科学的な根拠はあるんですか?」
こよみが真面目に尋ねた。
「気分的な根拠ならある」
「それは根拠と呼べるのかな……」
かなめが首をかしげる。
そんなやり取りをしているうちに、神戸須磨シーワールド――通称「スマシー」へ到着した。
連休中ということもあって、館内は家族連れなどでにぎわっていた。大きな水槽の中を、色も形も違う魚たちが行き交っている。銀色の群れが一斉に向きを変えるたび、水の中に光の帯が生まれた。
「きれい……」
つむぎは思わず足を止めた。
「魚の群れって、どうしてぶつからないんでしょう」
「周囲の魚の動きを見ながら、間隔や方向を調整しているからだと思う」
かなめが解説パネルを確かめながら答える。
「かなめ、さっきから全部のパネル読んどるやろ」
「せっかく書いてあるんだから、読まないともったいない」
「あっちに、丸くてかわいい魚おるで」
「せめて名前を確認してから、丸い魚と呼んであげてください」
こよみがそう言いながらも、口元を緩めている。
つむぎはノートを出そうとして、一度手を止めた。今日は研究のために来たわけではない。それでも、三人が同じ水槽を見て、それぞれ違うものに気づいていることが面白かった。
やがて四人は、シャチのパフォーマンスを見るため、オルカスタディアムへ向かった。
「せっかくやから、前の方に座ろう!」
あかりが、空いている前方の席を指差す。
「そこ、水がかかると思う」
かなめが注意した。
「ちょっとくらいなら平気やって」
「かなりかかるかもしれませんよ」
こよみも客席の表示を確認する。
「こういうのは、前で見た方が迫力あるねん!」
結局、あかりに押し切られる形で、四人は前方の席に並んで座った。
パフォーマンスが始まり、大きなシャチが水面から姿を現すと、客席から歓声が上がった。黒と白の巨体が水を切って進み、高く跳び上がる。空中で弧を描いた体が水面へ戻ると、スタジアム全体に大きな水音が響いた。
「すごい……!」
つむぎも、ノートのことを忘れて見入っていた。
次の瞬間、シャチの尾びれが水面を強く叩いた。
白い水しぶきが、壁のようになって客席へ迫ってくる。
「ちょ、待って、思ったより多――」
あかりの声は、降り注いだ水に途中でかき消された。
四人は揃って頭から水をかぶった。ほんの数秒前まで整っていた髪も、手にしていたパンフレットも、すっかり濡れている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「だから、濡れるって言った」
「かなめ、知っとったなら、もっと強く止めてや!」
「三回は止めた」
「三回とも聞こえないふりをしたのは、あかりさんですよ」
「こよみまで冷静に追い打ちせんといて!」
あかりの前髪から、水滴が一つ落ちた。
その姿がおかしくて、つむぎは吹き出した。こよみも笑い、最後にはかなめまで声を上げる。周りにも同じように濡れた人が大勢いるのに、なぜだか自分たちだけが、とてもおかしな失敗をしたように思えた。
「でも、前の席でよかったやろ?」
あかりが笑いながら尋ねる。
「濡れたことを除けば」
つむぎが言った。
「そこはもう、思い出の一部ってことで」
あかりは自分の濡れた前髪を拭くより先に、鞄から小さなタオルを取り出し、かなめに差し出した。
「ほら、眼鏡。前、見えにくいやろ」
「……ありがとう」
かなめが受け取るのを確認してから、あかりはようやく自分の髪を絞り始めた。
パフォーマンスが終わったあと、四人はスーベニアショップへ立ち寄った。
あかりは小さなシャチのぬいぐるみを手に取り、かなめは海の生き物について書かれた解説冊子を選んだ。こよみが見つけたのは、須磨の海岸を描いたポストカードだった。
「誰かに送るん?」
あかりに聞かれ、こよみは首を振った。
「自分で持っておきます。今の景色も、何十年か後には、昔の須磨を伝える記録になるかもしれませんから」
「やっぱり、こよみは遊びに来ても、考えることが歴史やなあ」
「好きなので、仕方ありません」
つむぎは、四匹の小さなシャチが並んだシールを選んだ。観測ノートの表紙に貼れば、今日のことを思い出せる気がした。
「そのぬいぐるみ、チックに見せたら、対抗意識を燃やしそうですね」
「大きさでは完全に負けてるけどな」
「食欲なら、チックさんが勝つと思います」
「それ、勝ってうれしいやつなん?」
買い物を終えて外へ出ると、午後の日差しが海を明るく照らしていた。
四人は、そのまま須磨海岸まで歩いた。まだ海開き前の砂浜には、夏ほどのにぎわいはない。波の音だけが、一定の間隔で繰り返されていた。
「須磨って、一ノ谷の戦いで有名な場所ですよね」
つむぎが尋ねると、こよみは嬉しそうに頷いた。
「はい。ただ、合戦が行われた範囲や、義経の逆落としが本当はどこだったのかには、いくつか説があります」
「こよみにも、わからんことあるんや」
「昔のことですから。わからないまま残っていることも、歴史の面白さだと思います」
こよみは海の向こうへ目を向けた。
「『源氏物語』でも、光源氏は須磨で暮らしたあと、明石へ移るんです。須磨と明石は、物語の中でもつながっています」
「今日、うちらが電車で来た道とは、だいぶ違いそうやな」
「当然です」
「光源氏も電車使えたら、楽やったのにな」
「物語が、ずいぶん短くなりそうですね」
つむぎが言うと、四人はまた笑った。
あかりは波打ち際まで走っていき、寄せてきた波から逃げるように戻ってきた。
「まだ水、冷たいなあ」
「海開き前ですから」
「夏になったら、もっとにぎやかになるんやろな」
あかりは砂浜と、その向こうに広がる海を見渡した。それから何かを思いついたように、三人を振り返る。
「なあ、夏休みになったら、今度はみんなで海に来ようや」
「また須磨へ?」
「須磨でもええし、明石の海でもええやん。泳いでもええし、浜辺でかき氷食べるだけでもええし」
「結局、食べ物なんだ」
「夏の海とかき氷は、セットやろ」
「その理屈には、少し賛成です」
こよみが微笑み、かなめも小さく頷いた。
「そのころには、夏の星座も見やすくなってる。夜までいられるなら、観測もできるかもしれない」
「かなめ、やっぱり最後は部活動になるんやな」
「遊びと観測は両立できる」
つむぎは鞄からノートを取り出した。
今日見た魚や、シャチの大きさではなく、ページの隅に短く一行だけ書く。
夏休み、四人で海。
観測記録ではない予定をノートに書くのは、初めてだった。
顔を上げると、三人はまだ、夏の海で何をするか話している。あかりはかき氷、かなめは星の観測、こよみは近くの史跡巡り。やりたいことは、相変わらず少しずつ違っていた。
けれど、その全部を四人でできたらいいと、つむぎは思った。
五月の須磨の海は、まだ夏を待っている。
波打ち際に並んだ四人の影も、夏にもう一度ここへ来る約束を待っているかのように見えた。




