第五話 古地図は、町が昔書いた日記です
次の活動日、部室に入ると、いつもと違う匂いがした。古い紙特有の少し埃っぽくて、けれどどこか懐かしい匂い。
「今日は、これを持ってきました」
こよみが大事そうに広げたのは、何枚もの古地図だった。色褪せた和紙に、細い筆致で町並みが描かれている。広げるたびに、かさり、と乾いた音がして、まるで古い本のページをめくるときのような、独特の緊張感があった。
「これ、本物?」
あかりが目を丸くする。
「レプリカです。郷土資料館で分けていただきました。でも、もとになった地図は、江戸時代から明治時代にかけてのものです」
「こよみ、こういうの、休日にわざわざ資料館まで行って集めてくるん?」
「はい。土曜日は、だいたい資料館か図書館にいます」
「青春、資料館で使うんや……」
あかりが、なんとも言えない顔で呟くと、こよみは不思議そうに首をかしげた。
「青春、ですか? 私にとっては、これもじゅうぶん楽しい時間なんですけど」
その屈託のなさに、あかりは毒気を抜かれたように笑ってしまった。
机いっぱいに広げられた地図を見て、つむぎは思わず身を乗り出した。今の明石駅周辺の地図と見比べると、道の形も海岸線も、微妙に違っている。
「海岸線……こんなに違うんですね」
「はい」
こよみは、指先で古地図の海岸線をゆっくりとなぞった。
「今、埋め立てられている場所の多くは、昔は本当に海でした。明石港の周辺は、特に変化が大きいところです」
「地図って見てて楽しい?」
あかりが、素朴な疑問を口にする。
「うち正直、今の地図とスマホのナビあればじゅうぶんやと思っとったけど」
こよみは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「地図は、町が昔書いた日記みたいなものです。道の形、川の流れ、町名――全部、その土地に暮らした人たちが、どういう場所に住み、どう移動し、何を大事にしていたかを教えてくれます」
「日記、かあ……」
「たとえば」
こよみは、地図の一角を指した。
「この『魚の棚』という地名。今の商店街の名前でもありますけど、昔から魚を扱う店が並んでいた場所だからこの名前がついたと言われています。地名は、その土地の記憶そのものなんです」
「じゃあ、うちの店の名前、カフェ・メリディアンは、何の記憶なんやろ」
「それは、あかりさんのひいおじいさまが子午線にちなんでつけた名前なので、また少し違う種類の記憶ですね。町が自然に積み重ねてきた記憶と、誰かが意図してつけた記憶と」
「なるほど、うちの店は意図系か」
その分類のされ方に、あかりは妙に納得した様子で頷いていた。
かなめが、腕を組んで地図を覗き込んだ。
「天文だと、星の位置は数式で正確に計算できる。でも、町の記憶って、数式にならないものだよね」
「そうですね」
こよみは頷いた。
「でも、数式にならないからといって、いい加減なものではありません。地図や、古い記録、石碑――それらを丁寧に読み解けば、ある程度は再現できます。研究の仕方が、少し違うだけです」
「じゃあ、こよみも、いつか新しい地図を作ったりするん?」
あかりに尋ねられると、こよみは少し困ったように目を伏せた。
「読むことは好きです。でも、自分で新しい記録を残すのは、少し怖いんです」
「怖い?」
「自分の読み方が間違っていたら、その間違いまで後の人に残ってしまいますから。だから、誰かが残したものを、できるだけ正しく読み取る方が、私には向いていると思っていました」
古い記録について話すときには迷いのないこよみが、初めて見せたためらいだった。
つむぎは二枚の地図を見比べながら、ノートに図を描き写していた。今の明石城周辺の地図と、江戸時代の城下町の地図。道の太さや町割りの形が、微妙に、けれど確かに違う。写しながら、鉛筆の先が思うように動かず何度も線を引き直す。地図というのは、簡単そうに見えて、いざ写そうとすると驚くほど難しいものだった。
「実際に歩いて、見比べてみませんか」
こよみの提案で、四人は部室を出て、明石城周辺へ向かうことになった。
旧校舎を出た四人は、JR明石駅の方へしばらく歩いた。駅の北側へ回り、明石公園に入ると、まもなく明石城跡が見えてくる。
天守閣は現存していないが、櫓と石垣が当時の姿をとどめていた。夕方前の日差しが、石垣の表面をやわらかく照らしていた。
「明石城は、江戸時代の初め、小笠原忠真という大名が築いた城です」
こよみが、まるで自分の記憶のように説明する。
「明石の町割りも、このお城を中心に整備されました。碁盤の目のような区画は、当時の名残です」
「なんか、こういう説明されると、いつも見てる景色が違って見えるな」
あかりが、石垣を見上げながら呟いた。
「この道、まっすぐに見えて、たぶん昔は曲がっていました」
こよみが指差した先には、確かに緩やかに折れ曲がった小道があった。
「城下町の道は、わざと見通しを悪くするために、直角に曲げたり、あえて狭くしたりすることがよくあります。敵の侵入を防ぐための工夫です」
「防御のためのデザイン、ってこと?」
かなめが興味深そうに聞く。
「はい。今は単なる不便な道に見えても、当時はちゃんと意味があったんです」
「不便な道、うちの学校の渡り廊下にも通じるものあるな」
あかりがぼそりと言う。
「あれは、防御目的じゃなくて、単に老朽化してるだけだと思いますけど……」
つむぎが思わず突っ込んだ。
「いや、案外、旧校舎への侵入を防ぐ意図が隠れてるかもしれんで」
「それはさすがに、こじつけが過ぎます」
こよみが、珍しく苦笑した。
四人は明石公園を出ると、駅の南側へ回り、明石銀座通りを歩いた。現在の通りには、新しい店や建物が並んでいる。けれど古地図と見比べると、道の向きや交差点の位置には、城下町だったころの形が残っていた。
「昔の建物が、そのまま並んでいるわけではないんですね」
つむぎが、地図と通りを交互に見ながら言った。
「はい。でも、町並みが変わっても、道の位置や町名には昔の記憶が残ります」
こよみが答えたとき、あかりが道端に立つ低い石柱を指差した。
「あれ、何やろ?」
近づいてみると、丸みを帯びた石の表面に、『明石市道路元標』という文字が刻まれていた。
「道路元標です」
こよみは、そばの説明板へ目を向けた。
「大正時代、道路の起点や終点を示す基準として、各市町村に置かれたものです。ここは昔の西国街道と、明石駅から南へ延びる道が交わる場所だったんです」
「江戸時代からある道と、駅から来る道が、ここで交わっとったんやな」
あかりの言葉に、こよみが頷く。
「この石も、何度か場所を移されたあと、元の位置の近くへ戻されたそうです」
つむぎは石柱の前にしゃがみ、刻まれた文字をノートに写した。
「道だけじゃなくて、この石が動いたことも、町の歴史なんですね」
「はい。昔の姿がそのまま残っていなくても、変わってきた過程そのものが、記録になるんです」
その時、四人の足元で、小さな鳴き声がした。
「あ、チック、いつの間についてきたん!?」
あかりが驚いた声を上げる。白い体が、いつの間にか石柱の陰にちょこんと座っていた。
「あんた、部室から、こんな遠くまで、どうやって……」
「歩いた」
「え、その短い足で?」
「がんばった」
チックの、あまりにも簡潔で誇らしげな返答に、四人は思わず吹き出した。想像すると、あの丸い体が、必死にとことこと道を歩いてくる姿は、なんともいえない可愛らしさと滑稽さがある。
「石、古い……におい、する」
チックはそう言うと、石碑にすり寄るように体をこすりつけた。そして、そのままくたりと横になり、目を閉じてしまう。
「あ、寝ちゃいました」
「ここで寝るん?」
あかりが呆れたように言った瞬間だった。
視界の端が、ふっと揺らいだ気がした。最初は、日差しの加減かと思った。けれど、石碑の周りの空気が、まるで水面に映る景色のように、わずかに歪んで見える。
「――あれ?」
つむぎが声を上げたときには、すでにその現象は起きていた。石畳の道の上に、うっすらと、着物姿の人々や、荷を積んだ牛車のような影が、重なるように浮かび上がっている。今の景色と、昔の景色が二重写しになったような光景だった。
「これ……」
こよみが、息を呑んだ。
「今のと、昔の景色が、同時に見えてるみたいです……」
かなめも、眼鏡の奥で目を見開いている。
「これは……何かの光の錯覚? それとも……」
その現象は、数秒ほど続いたあと、すっと消えていった。石畳には、いつも通りの今の明石の道が広がっているだけだった。
「今の、なんやったん?……」
あかりの声が、少し震えている。四人は顔を見合わせた。誰も、はっきりとした説明ができない。
チックは何事もなかったかのように、石柱の陰ですやすやと眠り続けている。
「チックさん、今の、あなたが関係しているんですか?」
こよみがそっと問いかけた。けれど返事はなく、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
「本格的なタイムスリップ、ってわけじゃなさそうだけど……」
かなめが、慎重に言葉を選んだ。
「光の残像みたいなもの、なのかな」
「わかりません」
こよみは、正直にそう言った。
「でも、少なくとも、この石碑の周りには、何か普通じゃないものが残っているのかもしれません」
つむぎは震える手でノートを開き、今見た光景をできる限り正確に書き留めようとした。
「時間、が……」
書きながら、つむぎは呟いた。
「町にも、積み重なった時間がある、っていうこと、なんですかね」
「そうかもしれません」
こよみが、ゆっくりと頷いた。
「町にも、星や地層とは違う長さの時間が、積み重なっているんですね」
あかりが腕をさすりながら、少し複雑な顔をした。
「うちの店の床の線も、ある意味、町の時間の一部なんかな……」
「そうかもしれませんね。カフェ・メリディアンの床の線も、いつか、こういう記憶の一部になるのかもしれません」
こよみはそう言って微笑む。
四人はしばらく黙ったまま、先ほどまで昔の景色が浮かんでいた石柱の周りを見つめていた。
やがてチックが目を覚まし、大きなあくびをした。
「よく寝た……ここ、時間、濃い」
「濃い、ってどういう意味?」
かなめが尋ねる。
「濃いは、濃い」
「その説明、もう何回目かわからんけど、一度もわかったことない」
あかりが半笑いで突っ込む。
「わたしの語彙、足りてる。あんたの理解、足りてない」
「あんたに理解力の話されるとは思わんかったわ!」
あかりが思わず声を上げると、こよみとかなめも、こらえきれずに笑ってしまった。
チックは短い前足で伸びをすると、あかりの肩によじ登ろうとした。
「もう、勝手なんやから」
あかりは苦笑しながらも、チックを抱き上げてやった。
帰り道、こよみは古地図を丁寧に巻き直しながら、ぽつりと言った。
「今日見たものは、たぶん、研究発表にそのまま使うことはできません。説明のしようがないので」
「でも、町に、時間が積み重なっているっていうことは、確かに感じました。それは、発表に入れられると思います」
つむぎは主張した。
「そうですね。私が好きなことが、みんなの役に立つかもしれないと思うと、なんだか嬉しいです」
こよみは、初めて少し晴れやかな顔をした。
「ほな、せっかくここまで来たんやし、魚の棚も寄ってみようや」
あかりの一言で、四人は魚の棚商店街へ向かった。
夕方五時を過ぎた商店街には、まだ買い物客の声が行き交っていた。一方で、品物を片づけ始めている店もあり、昼間の賑わいが少しずつ夕暮れへ溶けていくようだった。
「このタコのアート、いつ見ても迫力ありますね」
つむぎが足を止めた。壁から巨大なタコが飛び出して見える、トリックアートだった。
「ほんまに飛び出してきたら、おもろいやろな」
あかりが笑いながらスマホでその写真を撮った直後、近くの鮮魚店から、何かがぬるりと通路へ這い出してきた。
生きたタコだった。
「……本当に出てきた」
かなめの表情が、わずかにひきつる。
「元気ですね」
こよみはしゃがみ込み、逃げようとするタコを興味深そうに眺めていた。
「こよみ、平気なん?」
「はい。かわいいと思います」
「その感想が出るんや……」
やがて店の人がタコを抱えて店先へ戻ると、四人は商店街の中をさらに進んだ。
今度は、店先で焼き上げられた巨大なせんべいを見て、つむぎが目を丸くする。タコを丸ごと押し焼きにした、明石ぺったん焼きだ。
「これ、テレビでもたまに紹介されてますよね」
「このせんべい見ると、ついつい買ってしまいたくなるわ」
あかりはそう言って笑うと、本当に一枚買った。
「せっかくやし、みんなで分けよう」
紙袋を開き、巨大なせんべいを四つに割る。
「ほら、みんな。熱いうちに食べ」
あかりに促され、つむぎが最初に口へ運んだ。サクッと小気味よい音が響く。
「思った以上においしいですね。タコのうまみが、しっかり出てます」
「香ばしい。タコの味も、ちゃんと残ってる」
かなめはせんべいの断面を観察してから、小さく一口かじった。
「中学生の頃は、学校帰りに誰かと買い食いをすることなんて、ありませんでしたから。こういったことができるのも、高校生活の醍醐味ですね」
こよみも、もらった一片を大切そうに味わっている。
「そんな大げさなもんでもないけどな。せやけど、おいしいやろ?」
あかりは自分の分を豪快に頬張り、嬉しそうに声を弾ませた。
魚の棚商店街を出るころには、店じまいを始める店も増えていた。アーケードの外へ出ると、建物の間から差し込む夕方の光が、通りの一部を細長く照らしている。
四人は明石駅の方へ歩き始めた。あかりの腕の中では、チックがもう、次の眠りに向かってうとうとし始めている。
こよみは一度だけ振り返り、歩いてきた商店街を眺めた。その表情には、歩き始めたときにはなかった明るさが浮かんでいた。
その日の帰り道、仮入部中だった四人は、そろって星時研究部へ入部届を出すことを決めた。
東経百三十五度の線が通るこの町で、古い時間をたどった一日が、ゆっくりと暮れていこうとしていた。




