第四話 天文科学館のお姉さんは、だいたい正しい
「せっかく天文がテーマになるかもしれないなら、一度、ちゃんとした施設を見ておいたほうがいい」
四月二十一日、金曜日の活動日に、かなめからそんな提案が出た。
そんなわけで翌日の午後一時頃、四人は明石の天文科学館の入口前に集まった。
「実は、わたしの八つ上の姉が、天文科学館の学芸員をしてる」
そう打ち明けたかなめの声は、いつもよりほんの少しだけ硬かった。
「え、お姉さんが!? 天文科学館の学芸員て、めっちゃかっこいいやん」
あかりが目を輝かせる。
「べつに、そんなたいしたことじゃない」
かなめはそう言ったきり、それ以上は説明しなかった。つむぎは、その口調の奥に何か言いたくないことがあるような気配を感じ取って、そっとノートにだけ「かなめ、姉、天文科学館の学芸員」とメモした。歩きながらメモを取るのは、いつの間にか癖になっている。
天文科学館は、山電人丸前駅から少し歩いた高台にあり、大きな時計塔がシンボルになっている建物だった。塔の上部には、日本標準時子午線を示す『J.S.T.M.』の文字が掲げられている。
「ここに来るの、小学校の校外学習以来かも」
時計塔を見上げながら、つむぎが言った。
「うちもや。あのころは、展示よりお弁当の時間の方が楽しみやったけど」
「あかりさんらしいですね。私も、資料ではよく見ますが、実際に来るのは久しぶりです」
こよみも、懐かしそうに建物を見上げる。
「かなめは、今もよく来るん?」
「先月も来た」
「お姉さんと一緒に?」
「ううん、一人で。姉さんは就職してから、家からそう遠くないアパートで一人暮らししてる」
「近いのに?」
「一度は親元を離れて暮らしたかったんだって。お互い忙しいから、会うのはたまに」
かなめだけは慣れた足取りで入口へ向かっていく。三人は少し遅れて、その後を追った。
受付を抜けて、展示ホールに入ると、若い女性が来館者に説明をしているところだった。落ち着いた声、身振り、そして子どもにもわかりやすい言葉選び。周りには小さな子どもたちが集まって、目を輝かせている。
「――この東経百三十五度の線が、日本標準時を決める基準として選ばれているんだよ。だから明石は、『時のまち』と呼ばれているの」
説明が一区切りついたところで、女性がこちらに気づいた。
「あら、かなめ」
「……姉さん」
やはりあの人が、かなめの姉だった。名前は星岡すばるだという。かなめとよく似た涼しげな目元をしているが、表情はずっと柔らかい。すらりとした立ち姿と穏やかな笑顔から、親しみやすい雰囲気が伝わってくる。子どもたちからも「すばるお姉さん」と呼ばれて親しまれているのが、少し見ているだけで伝わってきた。
「部活のお友達? わざわざ来てくれたの、嬉しいな」
「星時研究部の……」
あかりが自己紹介をしようとしたところで、すばるは軽く頷いた。
「うん、知ってる。かなめから、ちらっと聞いてたから」
「言ってないけど」
かなめが小さく突っ込むと、すばるはくすりと笑った。姉妹のやり取りを見ながら、つむぎはなんとなく、かなめの表情がいつもより硬いことに気づいていた。
すばるの案内で、四人はプラネタリウムに入った。
上映が始まると、ドーム状の天井いっぱいに、明石の夜空が投影される。
「今日は、星の『通り道』についてお話しします」
すばるの声が、ドーム全体に柔らかく響いた。
「みなさんが見ている星は、実は毎晩、同じ場所にじっとしているわけではありません。地球が自転しているせいで、多くの星は東から昇り、空を通って、西へ沈んでいくように見えます。これを、日周運動といいます」
映像の中で、星々がゆっくりと弧を描きながら空を渡っていく。つむぎは、思わず身を乗り出した。
「続いては、春の星座のお話です。まずは、東の空をご覧ください」
すばるの声に導かれるように、光の点が一つ、強く輝いた。
「うしかい座のアークトゥルスです。春の夜空で、最も明るく見える星の一つですね」
オレンジ色の光が、静かに瞬いている。
「そして、南の空には、おとめ座のスピカがあります」
今度は、青白く澄んだ光が示された。
「アークトゥルスとスピカ、そして、しし座のデネボラ。この三つの星を結ぶと、春の大三角になります」
星空がさらに流れ、春の大三角が浮かび上がった。
その後もさまざまな春の星座が紹介され、やがて満天の星がドームいっぱいに広がって、上映はクライマックスを迎えた。
「以上で上映はおしまいです。何か気になったことがあれば、質問してくださいね」
ドームの照明が少しずつ明るくなったところで、つむぎがおずおずと手を挙げた。
「星も、太陽みたいに、南を通る瞬間があるんですね」
つむぎが尋ねると、すばるが頷いた。
「そうなの。太陽や星が天の子午線を通過することを、南中といいます。多くの星は、そのころ南の空でいちばん高く見えるの。ただし、太陽の南中は一日一回、時間も季節によって少しずれるのに対して、恒星――遠くの星の南中は、毎日ほぼ四分ずつ早くなっていく」
「四分ずつ……?」
つむぎが聞き返した。
「地球が太陽の周りを公転しているから起きる、ちょっとしたずれなの。難しい言葉だと太陽時と恒星時の違い、っていうんだけど。では次は、あちらの眼鏡をかけた男の子」
すばるは子どもたちにも配慮するように、そこで話を切り上げた。つむぎはもっと聞きたいと思いながらも、ノートに「太陽時、恒星時、四分のずれ」と急いで書きつけた。
「星の位置を表す赤経は、何を基準に決めているんですか?」
眼鏡の男の子が質問をした。
「星の赤経は、春分点を基準に決められています。地球の経度がグリニッジを基準にしているのと、少し似ていますね」
すばるのその説明に、あかりが小さく手を挙げた。
「え、地球の経度と、星の赤経は別物なんですか?」
「いいところに気づいたね」
すばるが嬉しそうに言う。
「地球上の経度は、地表の東西の位置を表す座標。対して赤経は、天球上の星の位置を表すもので、春分点を基準に決められているの。似ているようで、違う仕組みなの」
すばるはその後も、子どもたちから寄せられるさまざまな質問に答えていった。なかには「宇宙人に会ったことはありますか?」という、子どもらしい質問もあったが、すばるは笑顔で受け答えしていた。
質問コーナーが終わり、かなめが小さくため息をついた。
「……相変わらず、説明うまいな、姉さん」
その声には、感心と、同じくらいの重さの何かが混じっていた。
プラネタリウムを出たところで、あかりが小声でつむぎに耳打ちした。
「なあ、かなめのお姉さん、優しいし説明うまいし、なんかもう、完璧超人って感じやな」
「そうですね……でも、それが、かなめさんにとっては、少し重荷になってるのかもしれません」
「重荷?」
「わたしたちが『すごい』って思うたびに、かなめさんは、心のどこかで、それを自分と比べてしまうんじゃないかな、って」
つむぎがそう言うと、あかりは意外そうな顔をした。
「つむぎ、そういうところ、よう見てるな」
「なんとなく、です。うまく言葉にできないんですけど……」
展示室を見て回りながら、あかりが望遠鏡の模型をつつき、こよみは古い星図のレプリカに見入っていた。つむぎは、南中と恒星時のパネルの前で足を止め、必死にノートへ書き写している。
「メモ、真剣にとってるね」
声をかけてきたのは、すばるだった。
「あ……はい。全部、面白くて」
「あなた、大久保さんだったかな。かなめが、話しやすい子が入ったって言ってたよ」
「言ってない」
かなめが少し離れたところから、ぼそりと反論する。すばるは軽く笑って、声を落とした。
「あの子、昔からね、星が好きなの。でも、わたしが同じ道を選んだから、『自分の好きも、姉の真似みたいに見られる』のが、ずっと嫌みたいで」
「……そうなんですか」
「正しい説明より、あなたが何を見たかの方が大事な時もあるわ。かなめには、いつかそう気づいてほしいなって思ってる」
その言葉は、まるでつむぎにではなく、少し離れたところにいるかなめに向けられているようにも聞こえた。
展示ホールの隅、小さな望遠鏡の実物模型の陰から、かさかさという音がした。見ると、いつの間について来ていたのか、チックがちょこんと座って、投影を見ていたらしいプラネタリウムのポスターを見上げている。
「動かない星、へん」
小さな声で、そう呟いた。
「え?」
こよみが振り返る。
「星、動いてた。あそこの、動かない絵の星、へん」
チックが前足で指したのは、ポスターに描かれた、静止した星座の絵だった。
「絵は、動かないのが普通ですよ、チックさん」
こよみがやんわり説明すると、チックは納得いかなそうに耳をぴこぴこ動かした。
そこへ、たまたま通りかかった受付の職員が、チックを見て「あら、可愛いマスコット」と声をかけてきた。
「これ、館内のグッズ……ではないですよね。どこで買ったんですか?」
四人は思わず顔を見合わせた。
「えっと……これは、うちの部活の……マスコットというか……生き物、というか……」
あかりが必死に言葉を探しているあいだ、チックは何も答えず、置物のようにぴたりと静止していた。おかげで、職員は「よくできてるわね」と満足げに立ち去っていった。息を潜めて置物のふりをするチックの器用さに、四人はしばらく、笑いをこらえるのに必死だった。
「あんた、意外と芝居うまいな……」
あかりが、涙目になりながら小声で突っ込む。
「静か、大事」
チックは、したり顔でそう言うと、また普通に動き始めた。
「本物、動く。絵、止まる……変」
その言葉に、こよみはなんとなく引っかかるものを感じたようだった。この生き物にとっては「時間が流れること」自体が当たり前すぎて、逆に「止まっているもの」の方が不自然に見えるのかもしれない。
(この子、本当にただのマスコットなのかな)
こよみの中で、そんな疑問が芽生え始めていた。
展示ホールを見終えて出口へ向かう途中、こよみが足を止めた。
出口近くには、明石や近隣地域の博物館、史跡などを紹介するパンフレットが並べられている。その一角に、時計塔の絵が描かれた細長い用紙が置かれていた。
「子午線のまちスタンプラリー、と書いてあります」
こよみが一枚手に取る。
天文科学館をはじめ、子午線付近の神社や資料館、飲食店などを巡り、スタンプを集める企画らしい。
「あ、それ、うちの店にもポスター貼ってあったわ」
あかりが、思い出したように言った。
「カフェ・メリディアンも入っているのですか?」
「入っとる。確か、子午線プリンを食べたら、スタンプ一個押してもらえるやつ」
「子午線ソーダ以外に、子午線プリンもあるのですね」
こよみが興味を示した。
「うん。プリンの上に、東経百三十五度の線を表した細長いチョコが載っとってな。標準時プリンと違って、いつでも注文できるで」
「では、今日行けば、二つ集められますね」
こよみが目を輝かせる。
「もう集める気満々」
かなめが言うと、こよみは当然のように頷いた。
「せっかく見つけたのですから」
四人は一枚ずつ用紙を取り、天文科学館のスタンプを押した。最初の空欄に、時計塔の形がくっきりと浮かび上がった。
帰り際、出口までかなめたちを見送りながら、すばるが最後にこう言った。
「かなめ、部活の友達には、ちゃんと自分の空を見せてあげなさい」
「……べつに、姉さんの言うとおりにするわけじゃないから」
そう言い返しながらも、かなめの足取りは、来たときより少しだけ軽く見えた。
天文科学館を出ると、午後の光は少し傾き始めていた。時計塔の白い壁が、やわらかな光を受けている。
「かなめのお姉さん、優しい人やったな」
あかりが言うと、かなめは前を見たまま、ぽつりと答えた。
「……うん。優しいし、説明も、うまい」
その声には、尊敬だけではない何かが滲んでいた。
つむぎは少し迷ってから、ノートの隅にそっと書き添えた。
星の南中、恒星時。それから――かなめと、姉のすばるさん。
☆
天文科学館を離れる前に、四人はすぐ近くにある柿本神社へ立ち寄った。
境内へ続く石段の前には、大きな石造りの日時計が置かれていた。中央に立つ金属の棒が午後の日差しを受け、文字盤の上へ細長い影を落としている。
「この日時計、見るの久しぶりです」
つむぎがスマートフォンの時刻と見比べると、示している時刻には少しずれがあった。
「壊れとるん?」
あかりが首をかしげる。
「壊れてない。日時計が示すのは、太陽の動きを基準にした時刻だから」
かなめは日時計の手前にある表へ目を向けた。
「これは均時差表。季節によって生じるずれを直すためのものだと思う」
「この前、プリンを食べながら聞いた話やな」
「そう。時計の十二時と、太陽の正午は、いつも同じとは限らない」
その隣で、こよみは神社の由緒書きを読んでいた。
「こちらには、柿本人麻呂が祀られているんです。昔の歌人を祀る神社の前に、太陽の影で時を測る道具がある。歴史と科学が、同じ場所に並んでいるみたいですね」
「明石では、そういうものが別々になってへんのかもな」
あかりが日時計と、その向こうに見える時計塔を交互に眺めた。
古い歌人を祀る神社。太陽の影を読む日時計。そして、日本標準時を示す時計塔。
つむぎはノートに、短く書き留めた。
歴史の時間と、太陽の時間が並ぶ場所。
☆
「あの、少しだけ待ってください」
柿本神社の鳥居を抜け、人丸前駅へ向かい始めたところで、こよみが足を止めた。肩掛け鞄から取り出したのは、空の水筒だった。
「あれ、汲むんか。こよみ、準備ええなあ」
あかりが感心したように笑う。
すぐそばには、「亀の水」と呼ばれる湧き水があった。明石の名水として知られ、今も水を汲みに訪れる人がいるという。
「こういう場所の歴史にも詳しいなんて、こよみさんらしいですね」
つむぎは微笑んだ。
「昔の人も、この場所で水を汲んでいたと思うと、少し身近に感じられるので」
こよみはそう答え、水筒に静かに水を注いだ。
☆
四人はそのあと、カフェ・メリディアンに立ち寄った。子午線プリンを食べ終えた帰り際、それぞれのスタンプラリー用紙を灯子さんに差し出し、店のスタンプを押してもらう。
天文科学館の時計塔に続いて、二つ目の欄に、プリンをかたどった印が加わった。
四人で巡った場所が、紙の上に一つずつ残されていった。




