第三話 カフェ・メリディアンの正午プリン
その日の帰り際。
「あの、あかりさん。家がカフェ・メリディアンという喫茶店なんですよね? どんなお店なのか、少し興味があります」
つむぎはあかりに話しかけた。
「ほな、明日土曜やし、来てみる?」
「はい」
「かなめもこよみもいっしょに来てや。店の名前で検索したら、マップに出てくるから。たぶん迷わへんと思うで」
あかりがそう言うと、二人とも頷いた。
☆
そんなわけで翌日の午前十一時半、つむぎ、かなめ、こよみの三人は、あかりの実家――カフェ・メリディアンを訪れた。
海の匂いがうっすらと届く路地の角に、その店はあった。木製の看板には、白い文字で「Café Méridien」と書かれ、その下に小さく「東経135度線上の喫茶店」と添えられている。看板の端は少し塗装が剥げていて、何年も潮風にさらされてきたことを物語っていた。
「うちの店、こんな感じ」
あかりが扉を押すと、からんと軽やかなベルの音が鳴った。店内はレトロな雰囲気で統一されていて、木の椅子とアンティークな柱時計が、どこか懐かしい空気を作っている。コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが、店の奥からゆっくりと漂ってきて、それだけで、なんだか肩の力が抜けていくような気がした。
そして、床。
入り口からカウンターまで、まっすぐに一本の真鍮のラインが埋め込まれていた。ラインの脇には小さなプレートがあり「東経135°00′00″」と刻まれている。踏んではいけないもののような気がして、つむぎは思わず、線をまたぐようにして歩いた。
「これが……」
こよみが、しゃがみこんでラインをそっと撫でた。まるで文化財に触れるような、丁寧な手つきだった。
「そう、これ」
あかりが少し得意げに、けれどどこか照れくさそうに言う。
「近所では、床に子午線がある店って、ちょっとだけ知られとるんよ。たまに遠方からも、子午線めぐりしとる人が来て、写真撮っていくこともある」
「わたし、同じ明石に住んでるのに、このお店知りませんでした」
つむぎが言うと、かなめとこよみも頷いた。
「まあ、明石いうても広いし、うちの店、そんな大々的に宣伝しとるわけやないからね。知らん人の方が多いと思う」
「本当に、正確な位置を測って引いてあるんですか?」
こよみが床の線を見つめたまま尋ねた。
「さあ……店は大正時代に、うちの先祖が始めたらしいんよ。カフェ・メリディアンって名前も、そのころから。床の線は、あとになって、ひいおじいちゃんが店を改装したときに入れたんやって。正確に測ったかまでは、うちもよう知らん」
かなめが眼鏡の奥で目を細めた。
「厳密に言うと、それはあとで確認したほうがいいかもしれない」
「え、なんで?」
「日本標準時子午線は東経百三十五度の経線のことだけど、実際の測量上の位置と、観光地に引かれているラインが、ミリ単位、あるいはメートル単位でずれていることは、わりとよくある話だから」
「ミリ単位はともかく、メートル単位はショックなんやけど……うちの親戚、変わった場所で喫茶店やる人、多いんよ。おじいちゃんらの店は、瀬戸内の夕日が正面に見える場所にあって、叔父さん夫婦の店なんか、店の真ん中に県境が通っとるんやで」
「店の中に県境があるんですか?」
「うん。席を移るだけで、別の県に行けるらしい」
「喫茶店を開く場所からして、個性的な一族なんですね」
こよみが感心したように言った。
さらに続けて、あかりにこんな質問もした。
「明石が市になったのは大正八年十一月一日ですけど、カフェ・メリディアンの創業はそれより前ですか?」
「さあ、大正何年かまでは、はっきりとは知らんなぁ」
あかりが少し困っていると、店の奥から穏やかな声がした。
「あら、あかりのお友達? いらっしゃい」
髪を後ろでひとつにまとめたエプロン姿の女性が、カウンターの奥から顔を出す。あかりの母、名前は、磯辺灯子さんだという。目元がどことなくあかりに似ていて、けれど纏う空気は、もう少し落ち着いた大人のものだった。
「お母さん、部活の子ぉら。星時研究部」
「星時研究部……ああ、あの、旧地学部の」
灯子さんは懐かしそうに目を細めた。
「久しぶりに聞いた名前ね。座って、座って。何か出すから」
四人はカウンター前の丸テーブルに座った。壁のメニューには、見慣れない名前がいくつか並んでいる。
「子午線ソーダ」
「標準時プリン(正午限定)」
「これ、なんですか?」
つむぎがメニューを指差すと、あかりが胸を張った。
「うちの店の看板メニュー! 青いソーダに星形の氷が入っとって、専用のグラスには東経百三十五度を表す金色の線が、まっすぐ一本引かれとるんや。いつでも頼めるで。でも標準時プリンは――」
そこで、店の柱時計が、こつん、と音を立てた。
「あ、ちょうど十二時や」
あかりがそう言うのを待っていたかのように、灯子さんが厨房から、小さなガラス容器に入ったプリンを四つ運んできた。表面にはつやのあるカラメルソースがかかり、十二時を指す小さな時計形のチョコレートが飾られている。
「これ、正午から数量限定で出すんよ。十二時にいちばんいい状態になるように、冷やす時間を逆算して仕込んでるの。早すぎても遅すぎても、食感が少し変わってまうから」
「へえ……」
つむぎが、プリンをひとすくいしたところで、かなめが口を開いた。
「その十二時は、時計が示す十二時? それとも、太陽が南中する正午?」
「え?」
あかりが、目を丸くする。
「十二時は十二時ちゃうの?」
「えっと……それって、時計の十二時と、太陽の正午が違うってこと?」
つむぎがスプーンを止め、かなめを見る。
「違う」
かなめが、待っていたかのようにきっぱりと言った。
「時計の十二時っていうのは、日本標準時、東経百三十五度を基準に決められた、社会的な時刻。でも、太陽が真南に来る瞬間、南中っていうんだけど、それは場所によって、そして季節によって、少しずつずれる」
「え、なんで場所によってずれるん? うちの店、その東経百三十五度の上にあるんちゃうん?」
「明石には、東経百三十五度の経線が通っているので、理屈の上ではそんなにはずれないはず。でも、それでも完全には一致しない」
かなめは指を一本立てた。
「均時差、っていう考え方がある。地球の公転軌道が完全な円じゃなくて楕円だったり、地軸が傾いていたりするせいで、太陽の動き方が一年を通して均一じゃないの。だから、時計が示す正午と、実際の太陽の南中の時刻は、季節によって最大十数分ずれることがある」
「十数分!?」
あかりが素っ頓狂な声を上げた。
「うちのプリン、十二時ぴったりで固まるように仕込んでるのに、太陽的にはそこまで正午きっちりやないってこと?」
「そういうこと」
かなめは、少しだけ楽しそうに――というより、誰かに説明できることが嬉しいような顔で頷いた。
時計の時間は、社会が決めた約束。太陽の時間は、自然が決めた現象。このふたつは、似ているようで、実はぴったり重ならない。
つむぎはスプーンを止めたまま、その話をノートに書き取っていた。時計の十二時と太陽の正午。当たり前だと思っていたものが、当たり前じゃなかったという事実。ページの上で、鉛筆の芯が少し丸くなっているのに気づいて、そういえば今日はよく書いたなと、場違いなことをぼんやり思う。
「なんか……毎朝、遅刻しそうで焦ってる一分と、太陽が南中する瞬間は、時計の十二時とは少し違うんですね」
つむぎは思わず呟いた。
「そうなる、理屈の上では」
「不思議です。同じ『十二時』って言葉を使ってるのに、指してるものが違うなんて」
こよみが、興味深そうに手帳を取り出した。
「昔の人は、太陽の動きを基準にして生活していたと聞きます。時計の時間で暮らすようになったのは、案外最近のことなんですよね」
「日本で標準時が導入されたのは、明治時代」
かなめが補足する。
「それまでは、各地で太陽の動きに合わせた地方時間を使っていた。鉄道が発達して、全国で時刻を統一する必要が出てきたから、東経百三十五度を基準にした標準時が決められた」
「それで、明石が『標準時の町』なんですね」
「うん。日本のちょうど真ん中を通る経線が、たまたま明石を通っていたから」
あかりは自分のプリンを一口食べて、少し複雑な顔をした。
「うち、これまで、近所の人が来る普通の喫茶店やと思っとった。床の線もプリンも、ちょっと変わった名物くらいにしか考えてへんかったわ」
「あかりさんのお店、面白い場所だと思います。時計の時間と、太陽の時間の、ちょうど境目にいるみたいで」
こよみはそう言って微笑む。
「境目、かあ……」
あかりはテーブルの上のガラス容器を、少しだけ大事そうに見つめた。ずっと当たり前だと思っていた家の店が、急に、違う意味を持ち始めたような顔をしていた。
そのとき、足元で小さな音がした。見ると、いつの間にかチックが店の中に入り込んでいて、あかりの椅子の脚にちょこんと座っている。
「あれ、チック、いつの間に」
「プリンの匂い、追いかけてきた、たぶん」
あかりが苦笑しながら、自分のプリンを少し取り分けて、皿を床に置いてやった。チックは短い前足でスプーンを――というより体ごとプリンに突っ込むようにして食べ始める。
みるみるうちに、寝ぼけたような目に光が戻り、耳の動きが速くなった。
「うまい。標準的にうまい」
「標準的て」
あかりが噴き出す。
カウンターの奥から、灯子さんがその様子を見て思わず声を上げた。
「あら、その子、前も似たような生き物が、裏口からお菓子狙って入ってきたことあったけど……」
「え、お母さん、前にも似たようなことあったん?」
「あったわよ。あのときは白い塊が転がってきて、シフォンケーキの端っこかじって、そのまま煙みたいに消えたの。あれ、あなたたちの部活のマスコットだったのね」
あかりが思わずチックの顔を覗き込んだ。
「あんた、うちの店、前にも来とったん?」
「来た……美味しいもの、におい、覚えてる」
「記憶力、そこだけしっかりしてるやん」
「食べ物のことになると、途端に言葉がはっきりしますね」
こよみが感心したような、それでいて少し呆れたような顔で言った。
「正午、正しい。プリン、正しい……ふたつ、たぶん似てる」
チックの言葉に、かなめが眉を寄せた。
「似てる、ってどういう意味?」
けれどチックは満足そうに丸くなり、それ以上は答えなかった。
「肝心なとこで寝る、この流れ、もう何回目や」
あかりが、諦めたようにため息をついた。
つむぎはその様子をノートに書き留めながら、なんとなく思った。時計の正午と、太陽の正午。正しいと思っていたものが、実はふたつあること。それを教えてくれたのは、この小さな喫茶店の、たった一皿のプリンだった。
「なあ」
あかりが、少し照れくさそうに、けれどはっきりした声で言った。
「うちの店のこと、部活のテーマに入れてもええかな。ただの観光スポットやなくて、ちゃんと時間のこと考えてる店やって、うちも初めて知ったし」
「もちろん」
こよみが即答し、かなめも小さく頷いた。つむぎはノートに「カフェ・メリディアン、標準時と太陽時」と書き加えながら、心の中で少しだけ嬉しくなっていた。
灯子さんが四人のやり取りを見て、ふふ、と小さく笑った。
「あかり、部活楽しそうね」
「うん……なんか、思ったより楽しいかも」
あかりが素直にそう答えると、灯子さんは満足そうに厨房へ戻っていった。
四人それぞれの中に、ばらばらだった好きなものが、少しずつ、同じ方向を向き始めている気がした。窓の外を、バイクに乗った郵便配達員が通り過ぎ、店の軒先の風鈴が遅れて小さく鳴った。
柱時計の針は、何事もなかったように次の一分を刻んでいく。
窓から差し込む午後の光が、床の真鍮のラインをかすかに照らしていた。
チックは、プリンの皿の横で丸くなったまま、満足げな寝息を立て続けている。標準時も太陽時も、この生き物にとっては、結局のところ「美味しいものが出てくる時間」に集約されるのかもしれない。そんなことを考えながら、つむぎはノートを閉じた。




