第二十二話 校内研究発表会と、止まった時計
校内研究発表会の朝は、雲ひとつない、よく晴れた日だった。
「今日、天気いいな」
あかりが、校門をくぐりながら、空を見上げて言った。
「観測の神様が、味方してくれてるのかもしれません」
こよみが微笑む。
「そういう非科学的なこと言うの、こよみだけだよ」
かなめが、苦笑しながらもどこか緊張した面持ちで言った。
「非科学的やなくて、験担ぎです」
「験担ぎも、科学的根拠はないと思う」
「かなめ、朝からそんな細かいこと言わんでも……」
あかりが呆れたように言うと、こよみは、意外と真剣な顔で言い返した。
「験担ぎには、験担ぎなりの、統計的な安心感というものがあります」
「その理論も、大概怪しい」
朝からのいつも通りのやり取りに、つむぎは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
体育館には各部活動のブースが並び、生徒や先生たちが行き交っていた。
体育館のあちこちでは、数台の大型扇風機が低い音を立てて回り、マイクを試す声や椅子を動かす音が、高い天井へ響いていた。正面のステージには、スクリーンがすでに下ろされている。
星時研究部の発表は、口頭発表形式だった。
「緊張、してきました」
つむぎは手元の原稿を何度も読み返していた。文字は何度も見返したはずなのに、目で追うたびに、また新しく緊張が積み重なっていくような気がした。
「大丈夫よ」
声をかけてきたのは、秋月先生だった。
「あなたたちは、この一学期、本当によく頑張った。あとは、いつも通り、自分たちの言葉で話すだけ」
「先生……」
「私も、すばるさんも、見てるから」
秋月先生の隣には、仕事の合間を縫って駆けつけてくれたすばるの姿もあった。
「かなめ、リラックスして」
「うん……」
部室から持ってきたリュックの中では、チックが、いつになく大人しくしていた。今日は発表の様子を見せるために、こっそり連れてきていた。
「チック、大丈夫?」
つむぎが小さな声でリュックの中を覗き込むと、チックは耳をぴこぴこと動かしながら答えた。
「静か、してる……でも、感じる。大きいの、近づいてる」
「わたしたちの発表、あと少しで始まるから」
「うん……頑張って」
あかりが、こっそりリュックの隙間から、クッキーの欠片を差し入れた。
「験担ぎ……今、ちょっと食べときや」
「あかりさん、リュックの中で音立てたら、目立つと思います」
こよみが小声で注意する。
「バレへんバレへん、みんな緊張して、他人のリュックなんか見てへんて」
その根拠のない自信に、こよみは苦笑しつつも、それ以上は止めなかった。
やがて、司会の生徒が星時研究部の名前を呼んだ。
「次は、星時研究部の発表です」
四人は、それぞれ資料を手に、ステージに上がった。
ステージ脇の机には、この一学期に集めた記録が並んでいた。かなめの星空と気象の観測表、こよみが用意した新旧二枚の明石の地図、あかりが撮影したカフェ・メリディアンの床の線、そして、つむぎが毎日書き続けた観測ノート。どれも、四人が自分の目で見て、言葉や数字として残してきたものだった。
客席には、ほかの部活動の生徒、それに先生たちが座っている。決して大人数ではないけれど、四人にとっては、じゅうぶんに緊張する場だった。
「星時研究部です。よろしくお願いします」
四人が声を揃えて頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起きた。
「発表テーマは、『東経百三十五度の町で、わたしたちは何を見ているのか』です」
つむぎが、落ち着いた声で導入を話し始めた。
「明石では、時間まで少しだけ特別に見えます。この町には、日本標準時の基準となる、東経百三十五度の線が通っています。わたしたち四人は、この一学期、この町で、様々な『時間』を観測してきました」
序盤は、順調に進んでいった。かなめが、星と太陽の時間について、練習してきた通りに、わかりやすく説明していく。
「星を見るのは、実は、過去を見るのと同じなんです」
かなめの説明に、客席からも興味深そうな反応が返ってくる。以前のような、専門用語ばかりの硬い説明ではなく、実際の体験を交えた、伝わる言葉になっていた。
続いて、こよみが古地図と町の歴史について発表した。
「地図は、町が昔書いた日記みたいなものです」
その言葉に、客席の一部から感心したようなざわめきが起こる。
順調に進む発表に、四人は、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じていた。
しかし、あかりのパートに差し掛かったところで、それは起こった。
「うちの実家は、カフェ・メリディアンという――」
あかりが話し始めた、そのときだった。
体育館の壁にかかっていた大きな丸時計の秒針が、ぴたりと止まった。
それまで一定に響いていた扇風機の音まで、一瞬だけ遠のいた気がした。スクリーンの白い光が不規則に明滅し、体育館を満たしていた夏の熱気が、薄い膜を一枚隔てたように感じられる。
最初は、誰も気づかなかった。けれどその直後、ステージ脇に設置されていたプロジェクターのスライドに、奇妙なノイズが走った。
「あれ……?」
つむぎが、スクリーンを見て、思わず声を漏らした。
準備していたスライドの上に、うっすらと、別の文字が重なるように浮かび上がっていた。手書きの、古びた文字だった。
「わたしたちは、明石の町が持つ、自然の時間と、人間が決めた標準時の違いに――」
それは間違いなく、こよみが図書室で見つけた柏木先輩の文章だった。
「これ……」
こよみが、息を呑んだ。
客席にも、ざわめきが広がっていく。何人かの生徒が、不安そうに周りを見回している。
「時計、止まってるぞ」
誰かが、そう言う声が聞こえた。
体育館全体の空気が、わずかに歪んで見えた。まるで、あの日、明石城の石碑の前で見た現象と、同じような感覚。今と昔が、二重写しになるような不思議な光景だった。
スライドには、途切れ途切れに柏木先輩たちの未完成の発表原稿の文字が、浮かんでは消えていく。
「標準時だけでは、測れない――」
その言葉が、大きく浮かび上がった瞬間、リュックの中からチックが這い出した。客席から見えないよう、ステージ脇の机の陰へ身を隠す。
「大きいの、来た」
四人にだけ届くほどの小さな声には、いつもの寝ぼけた調子とはまったく違う、はっきりとした緊迫感があった。
チックは机の陰で、スライドに浮かぶ文字へ向かって一歩踏み出した。けれど、その小さな体は、見えない力に押し戻されるように揺れた。
「チック!」
あかりが声を上げる。
「食べられない……まだ、大きすぎる」
チックは踏みとどまりながら、苦しそうに耳を伏せた。
「このままじゃ、前と同じ。発表、途中で止まる」
その言葉を聞いた瞬間、つむぎは以前、チックが話していたことを思い出した。
誰にも見られていない時間から、ほつれは生まれる。けれど、見て、記録された時間は、よれにくい。
「記録です」
つむぎは、ステージ脇の机を振り返った。
「わたしたちが記録してきた時間を、もう一度、ここで見せるんです」
あかりが動揺しながらも、原稿を握りしめたまま立ち尽くしていた。かなめも、こよみも、突然の出来事に言葉を失っている。
客席の視線が、ステージに集まる。何が起きているのか、誰も理解できていない様子だった。
このままでは、発表が、そして――もしかしたら、柏木先輩たちのときと、同じように、何かが起こってしまうかもしれない。
最初に動いたのは、かなめだった。
机の上から、夜間観測の記録を取り上げる。そこには、雲量、湿度、わずかに星が見えた時刻、そして「撮影できず」という結果まで、細かく記されていた。
「この日は、ほとんど星が見えませんでした」
かなめはマイクに向かって言った。
「でも、見えなかったことも、わたしたちは記録しました。星が見えなかった夜も、なかったことにはならないから」
その言葉とともに、スライドのノイズがわずかに弱まった。かなめの観測表だけが歪んだ画面の中に、はっきりとした輪郭を取り戻していく。
「小さくなった」
チックが呟いた。
「記録、ほつれを押さえてる」
続いて、こよみが新旧二枚の地図を広げた。
「この町の道や海岸線は、長い時間の中で変わってきました。でも、昔の人が地図に残してくれたから、私たちは、その変化を知ることができます」
こよみは、スクリーンに浮かぶ柏木先輩たちの文字を見つめた。
「私はこれまで、古い記録は、できるだけそのまま守るものだと思っていました。自分が間違った続きを書いてしまうのが、怖かったんです」
その声はかすかに震えていたが、こよみは地図から目を逸らさなかった。
「でも、記録は、閉じたまま守るだけのものではありません。誰かが読み、今の自分が見つけたことを、その先へ重ねていく。そうやって、時間は続いていくんだと思います」
こよみは、現在の明石の地図を古地図の隣に並べた。
「だから、これは柏木先輩たちの答えではありません。先輩たちの記録を読んだ、今の私たちの答えです」
スライドに浮かんでいた古い文字の揺れが、少しずつ収まっていった。途切れていた文章が、今度は消えずに画面へ留まっている。
あかりも、床の真鍮の線を写した写真を手に取った。
「うちの店の線は、正確な東経百三十五度からは、少しずれてます。でも、ひいおじいちゃんがこの線を引いたことも、うちの家族が店を続けてきたことも、ちゃんと残ってる時間です」
あかりは一度息を吸い、止まっていた発表を自分の言葉で続けた。
「正確な数字だけが、時間の全部やない。そういうことを、うちは、この部活で知りました」
スライドに浮かんでいた古い文字が、淡い光を帯びた。今のあかりの言葉と、過去の先輩たちの言葉が、重なるように並んでいる。
最後に、つむぎは自分の観測ノートを開いた。
星、地層、古地図、喫茶店、影の長さ、部室の壁時計のずれ。四人で見つけたものが、日付とともに一ページずつ残されている。
つむぎは新しい行に、今起きていることを書き加えた。
校内研究発表会。
体育館の時計、停止。
それでも、四人で発表を続けている。
「今、この瞬間も、記録します」
つむぎは、ノートから顔を上げた。
「時計が止まっても、わたしたちがここにいた時間まで、なくなるわけじゃありません」
その言葉を口にした瞬間、体育館を覆っていた歪みが、一本の細い光の糸のように縮んだ。かなめ、こよみ、あかり、つむぎ。四人が記録してきた時間が、ばらばらになりかけた現在を、つなぎ止めているようだった。
「今なら、食べられる」
チックが机の陰から、縮んだ光へ前足を伸ばした。
「みんなが見て、記録した……大きいほつれ、小さくなった」
チックの体が淡く光る。細い光の糸が、ゆっくりとチックの中へ吸い込まれていった。
「食べる」
最後の光が消えると、スライドには柏木先輩たちの文字が一行だけ残った。
標準時だけでは、測れない時間がある。
「ちゃんと、伝わった」
チックがそう呟く。残された一行は、消えるのではなく、四人の発表資料の上へ溶け込むように重なった。
そして、止まっていた体育館の時計の秒針が、ふたたび静かに動き出した。
扇風機の低い音も戻り、体育館の空気が元通りになる。客席のざわめきも次第に落ち着いていった。
ステージの上で、四人はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「今の……」
あかりが、震える声で言った。
「大丈夫、みたい」
こよみが周りを見渡しながら冷静に答えた。
かなめは、つむぎの方を見て小さく頷いた。
「続けよう」
「うん」
あかりは、止まっていた発表を自分の言葉で再開した。その声は、異変が起きる前よりも力強かった。
こうして四人は、発表を最後まで続けていった。
最後に、つむぎが締めくくりの言葉を口にした。
「わたしたちは、東経百三十五度の町で、たくさんの時間を見てきました。星の時間、地層の時間、町の時間、暮らしの時間、そして、まだ解き明かせていない、時計のずれの時間。全部、違うスケールで流れているけれど、この明石という町の中で、確かにひとつにつながっています」
つむぎは一度、深呼吸をした。
「時計で測れる時間と、測れないけど残る時間がある。わたしたちは、これからも、その両方を、大切に見つめていきたいと思います」
発表が終わると、体育館には大きな拍手が起こった。
ステージを降りると、秋月先生とすばるが真っ先に駆け寄ってきた。
「すごかったわ、みんな」
秋月先生が、少し興奮した様子で言った。
「特に、大久保さんの、あの最後の言葉」
すばるが、優しく微笑んだ。
「原稿にはなかった言葉よね」
「はい……とっさに、出てきました」
つむぎは、まだ少し震える手で自分のノートを抱きしめた。
「かなめ」
すばるが妹に向かって言った。
「あなたの説明、本当にわかりやすくなってた。姉として、誇らしいわ」
「……ありがとう、姉さん」
かなめの声は、以前のような硬さがなく、素直な喜びに満ちていた。
ステージの脇では、チックが少し疲れた様子で丸くなっていた。
「チック、大丈夫?」
つむぎがそっと抱き上げると、チックは小さく頷いた。
「大丈夫……みんなの記録で、小さくなった。だから、食べられた」
「柏木先輩たちの、未完成の発表……」
こよみが、穏やかな声で問いかけた。
「今日、私たちが、代わりに完成させることができたんでしょうか」
「たぶん」
チックが、小さな声で答えた。
「あの子たちの言葉、みんなの記録と、つながった……だから、もう、ほつれじゃない」
その言葉に、四人はそれぞれ、胸の奥に確かな達成感とわずかな切なさを感じていた。
少しの沈黙のあと、あかりがふと、真顔でチックに尋ねた。
「なあ、チック。さっきの、めちゃくちゃかっこよかったけど……体、光ってたやん。あれ、どういう仕組みなん?」
「仕組み、企業秘密」
「今、企業秘密とか言った?!」
「言った……かっこいい響き、好き」
「あんた、今更キャラ作りすんの、やめてくれる?」
その気の抜けたやり取りに、こよみとかなめが、思わず声を上げて笑った。
過去の先輩たちが、伝えられなかった続き。それを、今の自分たちが、代わりに紡ぐことができた。
東経百三十五度の町で、時計は今日も正確に時を刻み続けている。けれどそこには、時計だけでは測れない、確かな時間の重なりが積み重なっていた。




