第十九話 一分を食べるけもの
夏至から数日後。
期末考査前のため、その日も部室を使えるのは一時間だけだった。ところが、活動を始める前に時計を確認したつむぎは、そのずれが、これまでとは比べものにならないほど大きくなっていることに気づいた。
「今日、二分近く遅れてます」
つむぎが記録用のノートと時計を見比べながら、緊張した声で言った。
「二分……」
あかりが思わず壁時計を見上げる。
「昨日までは、せいぜい一分半くらいやったのに」
「急に、進行が早くなってる」
かなめがこれまでの記録をめくりながら、眉を寄せた。
「何か、変化があったのかもしれない」
その日、四人が部室で活動していると、奇妙なことが起こった。
「あれ……」
こよみが、ふと壁の時計を見上げて、首をかしげた。
「私たち、ここに来てから、まだ五分くらいしか経っていないと思うんですけど」
「そうですね」
つむぎが頷く。
「わたしも、そう思います」
「でも、時計だと、もう三十分近く経ってることになってます」
それまで遅れていたはずの壁時計が、今は逆に、四人を置き去りにするように異様な速さで針を進めている。
窓から差し込む光は、いつの間にか机の端から床の中央まで移っていた。けれど誰にも、それだけの時間を過ごした実感がない。
四人は顔を見合わせた。誰も時間の感覚がずれていることに、それまで気づいていなかった。
「逆に」
あかりが、少し不安げに言った。
「さっき、うちが宿題のノート広げてたの、体感やったら一分くらいやったんやけど、実際は五分くらい経ってたっぽい」
「感覚と、実際の時間が、ずれてる……」
かなめが、慎重に言葉を選びながら言った。
「部室の中だけ、時間の流れ方が、おかしくなってるってこと?」
「これ、うちの宿題が進まへんのも、時のほつれのせいって説、ないやろか」
あかりが、半分本気で疑いの目を虚空に向けた。
「時間の進み方が体感より速く感じたなら、むしろ宿題は進んでるはずでは……」
こよみが、冷静に指摘する。
「あ、ほんまや。それやったら、時のほつれ、大歓迎やわ」
「歓迎する話ではないと思いますけど……」
つむぎが、思わず苦笑した。
そのとき、天球儀の支柱にもたれていたチックが、ゆっくりと目を開けた。いつもの寝ぼけた様子とはどこか違う、はっきりとした眼差しだった。
かち、かち、と響く壁時計の音が、いつもより近く聞こえた。
「そろそろ、話す時」
その一言に、四人は息を呑んだ。部屋の空気が、一瞬にして張り詰めるのを感じる。さっきまでのくだらないやり取りが、まるで嘘のようだった。
「チック、何か知ってるの?」
つむぎが尋ねる。
チックは、天球儀からのそりと降りると、四人の前に座り直した。丸い体と、時計の針のように動く耳。いつもと変わらない姿だが、その様子には、これまでにない真剣さが漂っていた。
「わたし、時のほつれを、食べる」
「うん、それは、前にも聞いた」
あかりが頷く。
「時のほつれ、小さいずれ……一分、二分。時計が、ずれる分。人が、感じる違和感の分」
チックは、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「東経百三十五度の近く、時々、そういうほつれが、生まれる。理由は、わからない。でも、たぶん、この町が、時間の基準になってるから」
「時間の基準になってるから、ほつれが生まれる、ってどういうことですか?」
こよみが尋ねる。
「うまく、説明できない……でも、たぶん、こういうこと」
チックは前足で床に、小さな円を描くようにした。
「この町を通る線が、日本の時間を決める基準に選ばれた。みんなが、この線を基準にした同じ時刻で暮らしてる……たくさんの人の時間が、この線に、重なってる」
「たくさんの人の時間が、集まりすぎて、よれる……」
つむぎは、その言葉を、慎重にノートに書き留めた。
「わたしは、そのよれた部分――時のほつれを、食べて、直す係」
「係、ってことは……誰かに、そう決められたの?」
かなめが尋ねる。
「わからない……ずっと昔から、そうしてる。理由、忘れた。でも、たぶん、大事なこと」
チックは、少し寂しそうな表情を見せた。
「食べられるのは、小さいほつれだけ。時計が少しずれるくらいの、小さい時間……人の大切な時間や、土地に積もった時間は、食べられない」
「それ、前に、海辺で言ってたことですよね」
こよみが思い出したように言う。
「石が持ってる、何万年分もの時間は、食べられないって」
「そう。あれは、大きすぎる……食べたら、たぶん、わたしが、壊れる」
その言葉に、四人の間に緊張が走った。
「じゃあ、部室の壁時計のずれが大きくなってるのは……」
つむぎが、慎重に尋ねる。
「今、大きな時のほつれが、生まれてきてる、ってこと?」
「たぶん、そう」
チックは耳をぴこぴこと動かしながら、少し困ったような様子を見せた。
「大きいの、まだ大きすぎる。食べられない……今も、少しずつ、育ってる」
「育ってる、って……」
あかりが、心配そうな声を上げる。
「もし、放っておいたら、どうなるの?」
かなめが尋ねる。
「わからない……でも、たぶん、良くないこと」
部屋の中に、緊張が広がった。
「柏木先輩たちのときも」
こよみが、はっとしたように言った。
「同じように、大きな時のほつれが、育っていたんじゃないでしょうか」
チックは、その言葉に、小さく頷いた。
「柏木、遠藤、高瀬……あの子たちの、最後の日。大きいほつれ、あった。わたし、食べようとした……でも、大きすぎた」
「それで、どうなったんですか?」
つむぎが慎重に尋ねる。
チックは少しの間、黙り込んだ。
「うまく、いかなかった……あの子たちの、発表の日。時計、止まった。会場、混乱した」
「時計が、止まった……」
四人は、顔を見合わせた。これから自分たちが迎える校内発表会の日が、頭をよぎる。
「その後、あの子たちは……」
あかりが、恐る恐る尋ねる。
「発表、途中で終わった……あの子たち、卒業して、いなくなった。それから二年間、新しい部員は誰も残らなかった。わたし、一人になった」
その言葉には、これまでチックから感じたことのない、深い寂しさが滲んでいた。
「うちらがここに来るまで、ずっと、一人やったん……」
あかりの声が、少し震えていた。
「柏木先輩たちのときと同じことが、わたしたちの発表の日にも起こる可能性があるってことですね」
かなめが、真剣な表情で言った。
「わからない……でも、たぶん、可能性、ある」
「じゃあ、どうしたらいいの? わたしたちに、何かできることは?」
つむぎが身を乗り出して尋ねた。
チックはしばらく考え込むように、耳を動かした。
「大きいほつれ、一人じゃ、食べられない……でも、みんなが、ちゃんと時間を記録してたら、少し、違うかもしれない」
「記録してたら、違う、って?」
「時のほつれ、たぶん、誰も見てない時間から、生まれる……でも、ちゃんと見てる時間、記録されてる時間は、たぶん、よれにくい」
その説明は、いつものように断片的で、完全に理解できるものではなかった。けれど、つむぎの中にはひとつの考えが浮かんでいた。
「もしかしたら」
つむぎは、ゆっくりと言葉にした。
「わたしたちが今まで続けてきた観測――部室の時計の記録、影の観測、星の記録、地層の観察――全部が、この町の時間を、ちゃんと『見る』ということだったんじゃないでしょうか」
「見る、ことで、支える……ってことですか」
こよみが続けた。
「たぶん、そう」
チックが小さく頷いた。
「柏木たちのとき、記録、途中で止まった……今回、みんな、ちゃんと続けてる。それ、たぶん、大事」
かなめは、これまでの観測ノートをそっと開いた。天文の記録、影の長さのグラフ、気象観測のメモ。どれも、地道に積み重ねてきたものだった。
「じゃあ、わたしたちが今まで続けてきた観測は、どれも無駄じゃなかった、ってことですね」
「無駄じゃない……たぶん、大事」
チックは、そう繰り返した。
「発表の日まで、ちゃんと、記録、続けて」
「うん」
つむぎが、力強く頷いた。
「わたしたち、絶対、最後まで続けます」
あかりが少し涙ぐみながら、チックの体をそっと抱き上げた。
「チック、今までずっと、一人で大変やったんやな」
「大変じゃない……でも、寂しかった、かもしれない」
チックは素直にそう言った。その言葉には、いつもの偉そうな口調とは違う正直な響きがあった。
「これからは、一人じゃないよ。うちら、四人おるし」
あかりが優しくそう言った。
「四人と、秋月先生と、すばるさんがいます。それに、トックも」
こよみが微笑む。
チックは、天球儀の下に置かれたカモノハシのぬいぐるみへ目を向けた。
「トック、しゃべらない……でも、いないより、いい」
少しの間、黙ってトックを見つめたあと、チックは小さく、けれどはっきりとした声で言った。
「ありがとう」
その一言に、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
しばらくの静けさのあと、あかりが涙を拭いながらも、ふと真顔になって言った。
「なあ、チック。今の、めっちゃええ話やったけど、一個だけ聞いていい?」
「なに」
「あんた、さっき『わたし、時のほつれを、食べる』とか、かっこよく言うてたけど、普段はうちのお店の失敗プリンとか、シフォンケーキのかけらとか、そういうのばっかり食べてるやん」
「……別の話」
「別の話て」
「時のほつれ、仕事。プリン、楽しみ」
「仕事とプライベート、ちゃんと分けてるんや」
その妙にきっちりした線引きに、こよみとかなめも、こらえきれずに小さく吹き出した。
「もう、なんか、感動して損した気分やわ」
「感動、無駄じゃない……でも、プリンも、大事」
「あんたの中の優先順位、いっつも謎やねん」
あかりが呆れたように言いながらも、その声にはさっきまでの緊張が、すっかりほぐれているのがわかった。
かなめが改めてノートを開きながら言った。
「じゃあ、発表の日まで、みんなでしっかり準備、進めましょう。大きな時のほつれが、どんなふうに現れるのか、まだわからない。でも、わたしたちにできることを、ちゃんとやっていこう」
「うん」
三人の声が重なった。
部室の壁時計は、相変わらず少しずつずれ続けている。けれど、その針の動きを見つめる四人の目には、これまでにない確かな決意が宿っていた。




