第十八話 古いノートの最後の観測者
あの日見つけた古い活動ノートは、それ以来、部室の机の引き出しに大切にしまわれていた。
六月下旬、学校は期末考査前の部活動停止期間に入っていた。ただし星時研究部は、一学期末の校内研究発表会を控えている。秋月先生が学校へ申請し、発表準備に限って、一日一時間だけ部室を使うことを認めてもらっていた。
「あの続き、調べてみたいんです」
ある日の放課後、こよみが古いノートを手に取りながら、穏やかにそう言った。
「続きって?」
あかりが尋ねる。
「未完成のまま終わっていた、先輩たちの観測。誰が、どんな思いで、この記録を残したのか。もう少し詳しく知りたいと思って」
こよみは、ノートの表紙をそっと開いた。何度も見返してきたページだが、今日はこれまでとは違う目的で見ている。
「この字、丁寧ですけど、何人かの筆跡が混ざっているみたいです」
「え、そうなん?」
「はい。日付によって、字の癖が微妙に違います。おそらく複数の部員が、交代でノートをつけていたんだと思います」
こよみはページの端や、余白に書かれた小さなメモにも注目していた。
「ここ、名前が書いてあります」
指差した先には、かすれた文字で「三年 柏木」と書かれていた。
「柏木さん、っていう先輩がいたんですね」
つむぎが覗き込む。
「他のページにも、名前らしきものが……『三年 遠藤』、それから『三年 高瀬』」
三つの名前が、それぞれ違うページの端に、小さく記されていた。
「この人たちが、当時の星時研究部の部員だったんでしょうか」
かなめが尋ねる。
「そうだと思います。三人とも、同じ学年だったんですね」
こよみは郷土資料館に通い詰めていた経験を活かし、学校の古い文集や、卒業アルバムが保管されている図書室の一角を、秋月先生の許可を得て調べてみることにした。
図書室の奥には、普段ほとんど開けられない資料棚があった。背表紙の色褪せた文集や分厚い卒業アルバムが、年度順に隙間なく並んでいる。こよみが一冊を引き抜くと、乾いた紙の匂いとともに、細かな埃が午後の光へ舞い上がった。
「こういう調べ物、得意なので」
資料棚の前に立つと、こよみは鞄から白い手袋を取り出した。
「それ、持参したん?」
あかりが突っ込む。
「古い資料を扱う予定でしたので」
「自分がここまで調べること、最初から分かっとったんやな」
「自分の行動ですから、予測は難しくありません」
「そういう問題なんかな……」
こよみは、いつもよりどこか生き生きとした様子で、古い書類の山に取り組んでいった。
「こよみ、目、めっちゃ輝いてるやん」
あかりが、そんなこよみを見て思わず声をかけた。
「そうですか? 古い資料に触れられるのが、単純に楽しくて」
「その感覚、うちにはよくわからんけど、こよみが楽しそうやから、それでいいと思う」
あかりの気軽な相槌に、こよみは嬉しそうに頷いた。
数日後、こよみは三人の前に、古い文集のコピーを広げた。
「見つけました。これ、当時の星時研究部の活動報告が載っている文集です」
ページには、簡単な活動記録と、部員たちの感想文のようなものが載っていた。
「柏木先輩は、当時の部長さんだったみたいです。文章の中に、こんな一文があります」
こよみが指した部分を、つむぎが声に出して読んだ。
「『私たちは、明石の町が持つ、自然の時間と、人間が決めた標準時の違いに興味を持ち、一学期を通して観測を続けてきました。しかし、最後の観測の日、予期しない出来事が起こり、発表を完成させることができませんでした』」
「予期しない出来事……」
あかりが、緊張した面持ちで繰り返す。
「これ、もしかして」
かなめが、ノートの最後のページを思い出しながら言った。
「あの、途中で途切れていた記録と、関係あるんじゃない?」
「たぶん、そうだと思います」
こよみが頷いた。
「文集には、それ以上詳しいことは書かれていませんでした。でも、この一文からは、何か特別な出来事があって、発表が途中で終わってしまったことが伝わってきます」
つむぎは当時の記録と、今の自分たちが体験してきたことを、頭の中で重ね合わせてみた。部室の壁時計の不規則なずれ。夏至の観測での、説明のつかない誤差。そして、チックが口にする「時のほつれ」。
「もしかしたら」
つむぎは、慎重に言葉を選びながら言った。
「柏木先輩たちも、わたしたちと同じように、『時のほつれ』のようなものに、観測を邪魔されたのかもしれません」
「それは、じゅうぶんあり得ると思う」
かなめが頷いた。
こよみは、文集の別のページをそっと指し示した。
「柏木先輩の文章の最後に、こう書かれています。『標準時だけでは、測れない一分がある。それが何なのか、私たちは、最後まで解き明かすことができませんでした。もし、いつかこの部活を引き継ぐ人がいたら、続きを見てほしいと思います』」
その言葉を読んで、部室の空気がわずかに変わった。
「続きを見てほしい……」
つむぎはその一文を、何度も心の中で繰り返した。
「これ、わたしたちに向けて書かれた言葉、みたいですね」
「時期的には、私たちとは何年も離れていると思いますが。柏木先輩たちが残したかった思いは、間違いなく、今の私たちに届いています」
こよみは、古いノートを両手で大切に持ち直した。
「私にとって、古い記録っていうのは、ただの資料じゃないんです。誰かが、確かにその時代を生きて、何かを感じて、それを書き残した――その声そのものだと思っています」
その言葉には、いつものおっとりとした口調とは違う熱がこもっていた。
「地図を見るときも、古い石碑を見るときも、同じ気持ちなんです。過去の人たちが残したものには、その人たちの時間が、確かに刻まれている。それを読み解くことは、過去の声に耳を傾けることだと思っています」
「こよみさんらしい考え方ですね」
つむぎが微笑みながら言った。
「柏木先輩たちが残せなかった続きを、私たちが見つけられたら……なんだか、とても意味のあることだと思うんです」
そう言いながらも、こよみの声には、わずかな迷いが残っていた。
「でも、少しだけ怖くもあります。私たちが、柏木先輩たちの考えていたことを、勝手に決めてしまうことにならないでしょうか」
「同じ答えを見つけなくてもいいんじゃないでしょうか」
つむぎは自分の観測ノートを開いた。
「先輩たちが見たことと、わたしたちが見たことは違います。だから、先輩たちの答えを決めるんじゃなくて、そのあとにわたしたちが見つけたことを、続けて書けばいいんだと思います」
「続きを、同じ答えにしなくてもいい……」
こよみはその言葉を確かめるように繰り返した。けれど、まだ完全には納得しきれていないようだった。
「じゃあ、これからの観測は、柏木先輩たちの続きを見つける、っていう気持ちも込めてやってみようや」
あかりが、いつもの明るさを取り戻しながら言った。
「うん」
かなめも、真剣な表情で頷いた。
「これまで集めてきたデータと、この古いノートの記録を、ちゃんと照らし合わせてみよう。何か、共通点が見つかるかもしれない」
その日、四人は、古いノートに書かれていた観測日と、今の自分たちが記録してきた「時のほつれ」らしき異常値の日付を、丁寧に照らし合わせてみることにした。
「あ、これ……」
つむぎが、あるページで手を止めた。
「柏木先輩たちの最後の記録、当時の校内研究発表会の日に書かれています。それって……」
「私たちの校内発表会の日程に近い時期、ってことですよね」
こよみが、はっとしたように言った。
「わたしたちの発表会も、七月の第三週。時期的には、近いと言えば近い」
かなめが、慎重に頷いた。
「もしかして」
あかりが、少し不安そうな声で言った。
「うちらの発表の日にも、同じような、何かが起こるんちゃうやろか」
その言葉に、部屋がしんと静まり返った。誰も、はっきりとした答えを持っていない。けれど、古いノートに残された「予期しない出来事」という言葉が、急に現実味を帯びて感じられた。
部屋の隅で丸くなっていたチックが、そのとき、もぞりと目を覚ました。
「柏木、知ってる」
その一言に、四人は弾かれたように振り返った。
「え、チック、柏木先輩のこと、覚えてるの?」
つむぎが尋ねた。
「昔の子……仲良かった」
「仲良かった、ってことは」
つむぎが今度は慎重に尋ねた。
「柏木先輩たちの発表が完成しなかったこと、チックも見てたの?」
チックは、少し寂しそうな表情――のようなものを浮かべて、小さく頷いた。
「見てた……助けられなかった」
「助けられなかった、って?」
けれど、チックはそこで、また目を伏せてしまった。それ以上、多くを語ろうとはしなかった。
「チックさんにとっても、辛い記憶なのかもしれません」
こよみがそう言った。
「無理に聞き出すのは、やめておきましょう」
つむぎもそれに頷いた。部屋の空気は、しばらく静かなままだった。
その沈黙を破ったのは、あかりだった。
「なあ、チック。柏木先輩、どんな人やったん? 少しだけでも、教えてくれへん?」
チックは、しばらく黙っていたが、ぽつぽつと語り始めた。
「柏木、よく笑う……でも、時々、難しい顔してた。発表前、いつも」
「発表前に、緊張してたってことなんかな」
「たぶん……あと、甘いもの、好きだった。プリンみたいなの」
「え、それ、うちの店の話と、なんか似てません?」
あかりが、目を丸くする。
「似てる……時々、思い出す。柏木の、笑った顔」
その言葉を聞いて、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
「柏木先輩、うちらと、気が合いそうな人やったんかもな」
あかりがそう言って小さく笑うと、チックも、心なしか嬉しそうに耳を動かした。
「わたしたちの発表、絶対に、ちゃんと完成させましょう」
つむぎがはっきりとした声で言った。
「柏木先輩たちの分まで、っていうと大げさかもしれませんが……でも、あのノートの続きを、わたしたちなりに、見つけたいと思います」
「うん」
あかりが力強く頷いた。
「うちらの発表、ただの学校行事じゃなくて、なんか、もっと大事な意味を持ってる気がしてきた」
「そうだね」
かなめも同意した。
こよみは、古いノートをそっと胸に抱きしめた。
「柏木先輩、遠藤先輩、高瀬先輩……あなたたちが残してくれた記録、大切に受け継ぎます」
窓の外では、夕暮れの光が部室の古い天球儀を穏やかに照らしていた。チックはいつの間にか、また目を閉じて丸くなっている。けれど、その耳はいつもより少しだけ忙しなく動いているように見えた。
過去の声と、今の自分たちの声が、少しずつ重なり合っていく。この部室で、時間を超えたバトンが確かに手渡されようとしていた。




