第十六話 カフェの床の線は、まっすぐじゃない
夏至まであと数日となった、ある日の放課後。あかりが部室に駆け込んできて、開口一番にこう言った。
「うちの店の床の線、ちょっとヤバいことになったかもしれん」
「ヤバいこと?」
つむぎが顔を上げる。
「さっきお母さんから連絡があってな。今日、子午線を巡る地域散策マップを作ってる観光協会の人が来て、掲載する場所を今の地図で確認したら、うちの店の床のライン、東経百三十五度から少しずれてるって言われたんやって」
あかりの声には、いつもの明るさが薄れて、どこか心細さが滲んでいた。息を切らして駆け込んできたせいか、肩がまだ小さく上下している。
「ずれてる、って、どれくらいですか?」
こよみが尋ねる。
「メートル単位、って言われた……」
その言葉に、部室が一瞬静まり返った。壁の柱時計の秒針の音だけが、いやに大きく響く。
「メートル単位……」
かなめが呟く。
「それは、確かに、無視できない差だと思う」
「うちの店の看板メニューやし、たまに遠くから、あのライン目当てで来てくれる人もおるのに……あれが、実は正確じゃないって知られたら、なんか、お店の意味がなくなる気がして」
あかりは、いつになく沈んだ顔をしていた。
部屋の隅で丸くなっていたチックが、そのとき、寝ぼけた声で言った。
「線、ずれてる? ……何ミリ?」
「メートルやって言うたやん」
「メートル……大きい。想像、できない」
「あんたに想像できるかどうかの話、してへんし」
あかりが、思わず突っ込みながらも、その拍子に少しだけ肩の力が抜けたようだった。緊張した空気の中に挟まる、いつも通りのやり取りが、なんだかありがたかった。
「詳しく、話を聞いてみませんか」
こよみの提案で、四人はその日のうちに、カフェ・メリディアンへ向かうことにした。
店に着くと、灯子さんが少し困ったような、けれど落ち着いた表情で迎えてくれた。
「あら、みんな。あかりから聞いた?」
「うん、うちの店の線のこと」
「そうなの。観光協会の方が現在の地図と照らし合わせたところ、うちの床のラインは、東経百三十五度から数メートルほど西にずれているみたい」
「数メートル……」
あかりが、力なく繰り返す。
「この線を引いたころは、ここが東経百三十五度やと、本当に信じられとったんよ」
灯子さんは、床の真鍮の線を見下ろした。
「ひいおじいちゃんの代に、当時の地図でここを子午線が通るとされていたから、それを店の床にも残したらしいわ。うちの店だけやなくて、この辺りには、同じ位置をもとにした子午線の印がいくつかあったみたい」
「では、ひいおじいさまが、間違った場所に線を引いたわけではないんですね」
こよみが言った。
「うん。そのころは、ここが正しい場所やったの」
かなめが床の線を見つめながら、穏やかに口を開いた。
「子午線の位置は、測り方や基準によって違って示されることがある。昔の人が正しいと考えた場所と、現在の地図で示される場所が違うからといって、この線が最初から偽物だったことにはならない」
「でも、この店に来てくれた人は、ここが今も正確な子午線やと思って、写真を撮ってるんちゃうん? ずれてるって知ったら、がっかりされへんかな」
「それなら、今の正確な位置も一緒に伝えればいいと思います」
こよみが、床のラインをそっと指でなぞった。
「この線が引かれた理由や、当時はここが正しいと信じられていたことも含めて説明するんです。この線は、あかりさんのご家族と、町の人たちが大切にしてきた時間のしるしですから」
「時間のしるし……」
「はい。位置が変わっても、この線が積み重ねてきた時間まで、間違いになるわけではありません」
あかりは、じっと床のラインを見つめていた。
「そっか。うちの線、偽物やったわけやないんやな。昔の人が信じた子午線が、今もここに残っとるんや」
灯子さんが、穏やかに頷いた。
「この線があったから、店に来た人が時間のことを話したり、あかりが星時研究部に入ったりした。正確な位置を示すことだけが、この線の役目やなかったのかもしれへんね」
あかりはしばらく考えたあと、顔を上げた。
「うち、決めた。校内発表会で、店の線が今の子午線とはずれてることも、隠さんと話す。それと一緒に、ひいおじいちゃんのころから、この線が残してきた時間のことも伝えたい」
あかりの声には、これまでとは違う、しっかりとした芯のようなものが感じられた。
「観光用の線と、学術的な線の違い。それから、正確さだけでは測れない、大事な時間があるってこと。うちの店の話、その両方をちゃんと伝えられたら、面白い発表になりそうな気がする」
「いいと思う。むしろ、その視点は、わたしたちの発表全体にとっても、大事なテーマになる気がする」
かなめの言葉に、あかりは少し照れくさそうに笑った。
「そう考えると、うちの店の線も、ちゃんと胸を張って発表できる気がしてきたわ」
そのとき、カウンターの奥から、灯子さんが小さなガラス皿を運んできた。中には、いつもの標準時プリンが四つ並んでいる。
「もう十二時はとっくに過ぎてるけど、今日は特別。みんなの元気が出るように」
「え、いいん?」
「もちろん。この店の名物、正確さだけじゃなくて、みんなを笑顔にする力もあるんだから」
あかりは、少し目を潤ませながら、プリンを一口食べた。
「うん。やっぱり、うちの店の味や」
その様子を、床の隅でちょこんと座っていたチックが、じっと見上げていた。
「プリン、正午じゃない……でも、うまい」
「正午じゃなくても、おいしいものは、おいしいんよ」
あかりが笑いながら言うと、チックは満足そうに耳を動かした。
「これ、非正規の時間に食べる、非正規プリン、ってことなんかな」
こよみが、少し楽しそうに言った。
「その呼び方、なんかかっこよく聞こえるからやめて」
あかりが苦笑する。
「うちの看板メニューが、なんか裏メニューみたいになってもうた」
「裏メニュー、それはそれで需要あるかもしれません」
かなめが、意外にも乗り気な様子で言う。
「かなめまで、そっち行くん?」
「非公式の楽しみ方、というのも、悪くないと思う」
「うち、混乱してきた……今、うちの店、正規と非正規、どっちを大事にしたらええん?」
あかりが両手で頭を抱える仕草をすると、こよみが優しく言った。
「両方でいいと思います。正確な時刻に出す、看板のプリンも。そして、こうやって、みんなの元気が出るときに出す、特別なプリンも」
「そっか……うん、そうかもな」
あかりは、こよみの言葉に少しほっとしたように頷いた。
そのとき、灯子さんが四人のそばへやって来た。
「あかり。正しい東経百三十五度の線が、どこを通っていたかなんだけど……」
灯子さんは、どこか楽しそうに微笑んだ。
「店の隣。住宅スペースだったの」
「えっ、そうなん?」
「うん。しかも、あかりの部屋の真ん中あたりよ」
「ほんまに?」
あかりは、なんとも言えない顔になった。
「床の線はずれとったのに、うちは毎晩、東経百三十五度の上で寝とったんや……」
「観光スポットとして、あかりさんの部屋を掲載するわけにはいきませんね」
つむぎが突っ込む。
「当たり前や。見学も立ち入りも禁止やで」
三人が帰るとき、あかりは店の床のラインをもう一度、じっと見つめた。
「なあ、こよみ」
「はい」
「この線、『家族が大切にしてきた時間のしるし』って言うてくれたやろ。あれ、すごく嬉しかった」
「本当に、そう思ったので」
「正しい東経百三十五度は、うちの部屋を通っとる。でも、この線は、この店の家族がずっと大事にしてきた線なんやな」
あかりは、床のラインを軽く指でなぞった。
「ほな、どっちも大事にするわ」
真鍮の線は、店の照明を受けて、穏やかな光を放っていた。
あかりは三人を見送るために店の扉を開け、それから一度だけ、住宅スペースの方を振り返った。
その壁の向こうには、地図にだけ見えるもう一本の線が、あかりの部屋をまっすぐ通っていた。




