第十五話 星を見るには、夜を待たないといけない
夏至を翌週に控えたその週末、四人はすばるの協力を得て、夜間の観測会を行うことになった。場所は学校の屋上――普段は立ち入りが制限されている場所だが、秋月先生が事前に許可を取り付けてくれていた。
「今日は、校内発表会で使う星の写真と、観測記録を残すのが目標」
かなめが望遠鏡の準備をしながら言った。天文科学館から借りてきた小型の反射望遠鏡が、屋上の中央に据えられている。夕方の校舎はすでに静まり返り、他の部活の物音も遠く聞こえるだけで、屋上には四人と秋月先生、それに観測機材だけの、少し特別な空気が漂っていた。
「うちの店から、温かい飲み物、持ってきたよ」
あかりが、水筒に入れたホットレモネードを配りながら言った。
「星を見るときは、体が冷えるからって、お母さんが」
「気が利きますね」
こよみが、ありがたく受け取った。
「うち、実はもう一個、隠し玉持ってきてん」
あかりが得意げに鞄から取り出したのは、小さなクッキーの袋だった。
「星の形にしてみた。プラネタリウムっぽいかなって」
「かわいいですね」
こよみが微笑む。
「これ、味は普通のプレーンやから、期待しすぎんといてな」
「期待値、下げてくるの珍しいですね」
つむぎが思わず笑う。
「失敗の予防線、大事やねん」
そのとき、クッキーの袋を入れていた鞄が、内側からもぞりと動いた。
「星形、確認する」
鞄の隙間から、チックが顔を出す。
「あんたまで隠し玉やったん?」
「星、見る。クッキーも見る」
「目的、たぶん後半のほうやろ」
あかりが言うと、チックは聞こえなかったふりをして、クッキーの袋を見つめた。
そんなやり取りをしながら準備を進める中で、望遠鏡の三脚を調整していたかなめだけが、少し表情を硬くしていた。
空を見上げると、厚い雲が西の空からゆっくりと広がってきている。
「今日、天気、微妙かも」
あかりが心配そうに呟いた。
「予報でも、雲が多いって出てた」
かなめがスマートフォンの天気アプリを確認しながら、少し硬い声で言った。
しばらくして、天文科学館から到着したすばるが、望遠鏡の調整を手伝いながら、空を見上げた。
「うーん、確かに、今夜は雲が厚くなりそうね」
「せっかく準備したのに……」
かなめが、悔しそうに唇を噛んだ。
「発表に使う写真、絶対撮らないといけないのに」
その言葉には、いつになく焦りが滲んでいた。
「かなめ」
すばるが優しく声をかけた。
「観測結果が完璧じゃなくても、それはそれで、意味のある記録になるものよ」
「でも……」
かなめは望遠鏡の脇に立ったまま、なかなか納得できない様子だった。
「わたしが天文担当だから、ちゃんとした観測結果を出さないと、発表にならない。天気のせいでした、なんて言い訳、通用しない気がして」
その様子を見ていた秋月先生が口を開いた。
「星岡さん。雲量や月齢、それに観測できなかったという事実そのものも、立派な観測データよ」
「でも、写真が撮れなかったら……」
「写真がなくても、記録は残せる。今日の雲の量、風向き、湿度、そして観測を試みた事実。それらを丁寧に記録することも、天文観測の一部よ」
その言葉に、つむぎはふと、自分のノートを開いた。
「わたし、今日の空の様子、書いてみます」
つむぎは屋上から見える雲の様子を、丁寧に言葉にしていった。
「西の空から、灰色の雲が広がってきている。星は雲の隙間から、時折かすかに見える程度」
「そういえば」
こよみが、ふと思いついたように言った。
「昔の人たちも、こういう『見えない夜』を、何度も経験してきたはずですよね。日時記や古い記録の中に、『曇りのため観測できず』という記述が、よく残されています」
「本当に?」
つむぎが尋ねる。
「はい。天文観測は、晴れの日ばかりではありません。むしろ、記録が続かなかった日の方が多いくらいです。それでも、当時の人たちは、根気強く記録を続けていました」
その話を聞きながら、かなめは少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。
「見えなかった日も、記録を続けることに、意味がある……」
「うん」
すばるが優しく頷いた。
「星は逃げないよ。見えない夜は、待つ練習をしているだけ」
その言葉に、かなめははっとしたような表情を浮かべた。
「待つ練習……」
「観測って、待つことの連続なの。晴れを待つ。星が昇るのを待つ。月が沈むのを待つ。今日みたいに、雲が晴れるのを待つ夜も、その中の一つ」
すばるの言葉は、いつものように穏やかで、けれど確かな重みを持っていた。
その横で、あかりがこっそりつむぎに耳打ちした。
「なあ、すばるさんの言葉、いちいち名言っぽいな」
「そうですね……天文科学館で、毎日たくさんの人に説明してるからでしょうか」
「うちも、なんかいい感じの言葉、言えるようになりたいわ」
「あかりさんの言葉も、独特の説得力がありますよ。『失敗も今日の天気の味』とか」
「あれ、そんな深い意味で言うたわけやないんやけどな……」
あかりが照れくさそうに頬をかくと、つむぎは小さく笑った。
つむぎは、その様子を見ながら、ノートに新しい見出しを書き加えた。
「見えなかった星の記録」
「これ、タイトルにしてもいいかもしれません」
つむぎが、みんなに見せながら言った。
「見えなかった、っていうのを、そのままタイトルにするんですか?」
あかりが、少し驚いたように尋ねる。
「はい。見えなかったことも、ちゃんとした記録だと思うので。むしろ、見えなかった理由――雲の量とか、湿度とか、天候の条件を、詳しく書いておけば、それは立派な観測結果になると思います」
「面白い視点ですね」
こよみが微笑んだ。
かなめは、しばらく黙って空を見上げていたが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、今日は、雲量と、時々見える星の位置だけでも、記録に残そう」
望遠鏡を覗くと、時折、雲の切れ間からいくつかの星が顔をのぞかせた。かなめはその一瞬を逃さないように、素早く望遠鏡の向きを調整し、観測ノートに記録していく。
「あ、今、見えた」
あかりが声を上げる。
「あれは、たぶん、こと座のベガ」
かなめが確認するように言った。
「夏の大三角の一つ」
「ベガ……なんか、名前だけ聞くと、ラスベガスみたいやな」
あかりが真顔でそう言った。
「関係ない」
かなめが即座に否定する。
「星の名前と、地名は、たぶん語源からして違う」
「たぶん、って濁すってことは、絶対とは言い切れんのやろ?」
「……確認しておく」
かなめが意外にも律儀に、その場でスマートフォンを取り出して調べ始めたので、あかりとこよみは思わず声を上げて笑った。
「かなめさん、そういう真面目なところ、すごく好きです」
こよみが、しみじみと言う。
「べつに、好かれるためにやってるわけじゃない……」
かなめは少し赤くなった顔を隠すように、望遠鏡の方に向き直った。
雲の切れ間から見える星の位置を、四人は交代でスケッチし、時刻とともに記録していった。決して満足のいく観測とは言えなかったが、それでも、確かな手応えのある時間だった。
夜が更けるにつれて、雲は少しも晴れる気配を見せなかった。それでも、四人は根気強く、屋上での観測を続けた。冷えてきた体を、あかりの水筒のホットレモネードが、じんわりと温めてくれる。
「今日は、これくらいにしておきましょうか」
深夜近くになって、秋月先生がそう声をかけた。
「結局、あんまり写真、撮れなかったな……」
あかりが、少し残念そうに言う。
つむぎのノートには、見えた星だけでなく、雲に隠れていた時刻も残されていた。かなめはその記録を見て、ゆっくりと頷いた。
「うん。完璧な観測じゃなくても、ちゃんと記録として残せば、それは意味を持つ」
そう言うかなめの表情には、これまでの焦りが少し和らいでいるように見えた。
「わたし、ずっと、完璧な観測結果を出さなきゃって、思い込んでた気がする」
「そう思うのは、自然なことだと思います」
こよみが、優しく言葉を返した。
「でも、今日みたいな、うまくいかない夜も、ちゃんと記録として残す。それも、立派な研究の姿勢だと思います」
すばるが望遠鏡を片付けながら、かなめに微笑みかけた。
「かなめ、今日みたいな夜の過ごし方、悪くなかったでしょう?」
「……うん。悪くなかった」
かなめは、素直にそう答えた。以前の姉と比べて焦っていた様子とは、少し違う表情だった。
片付けが終わり、屋上を後にしようとしたとき、チックが望遠鏡の脇から、じっと夜空を見上げているのに気づいた。
「チック、何見てるの?」
あかりが尋ねると、チックは雲の切れ間から見える、かすかな星の光をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あの星、まだ待ってる」
「待ってる?」
「星、消えない……見えなくても、ちゃんと、そこにいる」
その言葉に、四人は、しばらく黙って夜空を見上げた。雲に隠れて、ほとんど見えない星々。けれど、そこに確かに存在していることを、四人は改めて実感していた。
「見えない夜も、星はちゃんとそこにいる、か……」
つむぎがその言葉をノートに書き留めた。
屋上を降りる階段で、かなめがふと足を止めて言った。
「今日の記録も、発表に使いたい」
かなめの声には、観測前の焦りとは違う落ち着きがあった。
「発表でも、完璧な星の写真がなくても、今日みたいな『見えなかった夜』の記録を、ちゃんと見せられたら、それはそれで、意味のある発表になる気がする」
「賛成です」
こよみが頷いた。
校舎を出ると、夜の空気はひんやりと澄んでいた。雲の切れ間から、かすかに星がのぞいている。
「また今度、晴れた夜に、ちゃんと観測しような」
あかりの言葉に、かなめはいつになく柔らかい表情で頷いた。
「うん。次は、きっと」




