第十三話 姉さんみたいには、説明できない
校内研究発表会の日程が正式に決まったのは、六月の半ばだった。
「七月の第三水曜日。あと一か月ちょっとしかないわね」
秋月先生が、部室のホワイトボードに日付を書き込みながら言った。マーカーのインクが少し薄くなっていて、数字の最後の一画だけ、かすれてしまっている。
「発表時間は、一グループにつき十五分。質疑応答が五分。決して長くはないけれど、これまで調べてきたことを、しっかりまとめる必要があるわ」
「十五分……」
あかりが、少し不安そうな顔をした。
「うちら、天文も地学も地歴も気象も、いろいろやりすぎて、絶対まとまらへんくない?」
「それは追々考えるとして。まずは、それぞれの担当分野について、部内で発表の練習をしてみましょう。人に説明できて、初めて『わかっている』と言えるものだから」
秋月先生のその言葉を受けて、最初に発表練習をすることになったのは、かなめだった。
「天文分野は、かなめが一番詳しいから」
あかりにそう言われて、かなめは少し緊張した面持ちで、部室のホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、始めます」
かなめは、手元のノートに視線を落としながら話し始めた。
「日本標準時は、東経百三十五度の子午線を基準に定められています。地球は二十四時間で一回転、つまり三百六十度回転するので、経度十五度ごとに一時間の時差が生じます。明石は、その基準となる経線上にあるため、日本標準時の基準地点とされているわけです」
淀みのない説明だった。けれど、聞いているつむぎとあかりの表情が、次第に曇っていく。
「均時差についても補足すると、地球の公転軌道の離心率と、地軸の傾きの両方が要因となって、視太陽時と平均太陽時の間には、年間を通じて最大で約十六分程度のずれが生じます」
「……えっと」
あかりが、恐る恐る手を挙げた。
「離心率、って、なんやったっけ」
「軌道が完全な円からどれだけずれているかを示す数値」
「ああ、うん……それで、視太陽時って?」
「実際の太陽の位置を基準にした時刻。平均太陽時は、その一年間のずれを均して、一定の速さで進むように定義した時刻」
「うん、うん……」
あかりは頷きながらも、明らかについていけていない様子だった。表情だけは真剣に頷いているのに、その目はもう完全に別の場所を漂っている。まるで台風の中で、真面目な顔をして立っている案山子のようだった。
つむぎも、ノートにメモを取ろうとする手が止まっていた。単語一つ一つは、以前かなめから聞いたことがあるはずなのに、こうして立て続けに説明されると、頭の中で情報が渋滞してしまう。まるで、狭い道路に大型トラックが何台も同時に入ってきたような感覚だった。
部屋の隅で、チックがもぞりと寝返りを打ち、寝言のように呟いた。
「難しい、ねむい」
「あんたが眠いのは、いつものことやろ」
あかりが小声で突っ込むと、チックはそのまま何も答えず、また寝息を立て始めた。緊張感のある空気の中に、そのマイペースさが、少しだけ場違いに、けれどありがたく感じられた。
「あの、かなめさん」
こよみが、遠慮がちに声をかけた。
「専門的な言葉が多くて、少し追いつくのが難しいかもしれません。もう少しゆっくり、噛み砕いて説明していただけると……」
「……ごめん」
かなめは、一瞬だけ言葉に詰まり、それから少し早口で続けた。
「じゃあ、言い直す。太陽の動きだけを基準にすると、一年を通して時間の進み方が微妙に不規則になる。だから、それを均等にならした『平均太陽時』というものを使っている。実際の太陽の位置とのずれは、最大十六分くらい」
「うん、それは、さっきよりわかりやすい、けど……」
あかりが、それでも困った顔をしているのを見て、かなめの表情が、少しずつ硬くなっていった。
「休憩にしましょうか」
秋月先生が、空気を読んでそう提案した。
休憩時間、あかりは早速、自動販売機に走り、四人分の飲み物を買ってきた。
「はい、頭の栄養」
「炭酸ジュース、頭の栄養になるんですか」
こよみが、微笑みながら受け取る。
「気分の栄養、ってことで」
その適当さに、こよみは小さく笑い、かなめは受け取りながらも、まだ考え込むような顔をしていた。
かなめは部室の隅で一人、ノートを見直していた。つむぎがそっと近づいて声をかける。
「かなめさん、大丈夫ですか?」
「べつに、大丈夫」
そう言うわりに、かなめの声は、いつもより張りがなかった。
「わたしの説明、わかりにくかった?」
「えっと……」
正直に言うべきか迷って、つむぎは少し言葉を選んだ。
「難しい言葉が多かったのは、正直、ありました。でも、かなめさんがすごく詳しいっていうのは、伝わりました」
「詳しいだけじゃ、意味ない」
かなめは、ぽつりとそう呟いた。
「姉さんなら、もっとうまく説明する。天文科学館で、子どもにも大人にも、ちゃんとわかるように話してた……わたしは、同じことを話してるはずなのに、なんでこんなに、伝わらないんだろう」
その声には、悔しさと、それ以上に、何か深く根を張った疲れのようなものが滲んでいた。
「かなめさんは、正しく説明しようとしすぎてるのかもしれません」
つむぎが、思わずそう口にした。
「正しく、って……間違ったことを言うわけにはいかないでしょう」
「そうじゃなくて」
つむぎは、自分の言葉を探しながら続けた。
「全部を、漏れなく、正確に伝えようとしすぎてる気がします。でも、聞く側は、全部を一度に理解できるわけじゃないから……」
そこまで言って、つむぎは自分のノートを開いた。そこには、これまでの活動の中で、かなめから聞いた話の断片が、いくつも書き留められていた。
「わたし、かなめさんの話の中で、自分が面白いって思った部分だけ、書いてきてたんです。全部じゃなくて」
ノートを見せる。そこには、こんな言葉が並んでいた。
「星を見るのは、過去を見るのと同じ」
「時計の十二時と、太陽の南中は、違うものらしい」
「動かない星、へん――チックの言葉」
「食べられる時間と、食べられない時間」
「これ……」
かなめは、ノートに書かれた自分の言葉を、まじまじと見つめた。
「わたしが言ったことを、こんなふうに、覚えてたの」
「はい。難しい説明の中で、わたしがちゃんと『わかった』って思えた部分だけ、残してました」
かなめは、しばらく黙ってノートを見つめていた。
「……姉さんの説明が上手いのは、たぶん、全部を正確に伝えようとしてるからじゃない。相手が、どこに興味を持つかを、ちゃんと見てるからなんだと思う」
ぽつりと、そう呟いた。
「わたしは、間違ってると思われるのが怖くて、全部を正確に言おうとしてた。でも、それだと、誰にも届かない」
「届かなくは、なかったと思います。わたしのノートに、ちゃんと残ってますから」
つむぎのその言葉に、かなめは小さく息を吐いた。何かがすとんと、胸の中で収まったような表情だった。
そこへ、あかりがひょっこり顔を出した。
「かなめ、元気出た? うち、ジュースもう一本、隠し持ってるで」
「隠し持つ意味、ある?」
「非常用や、非常用……というか、休憩中、実はこっそり練習してたんよ、うちも」
「あかりさんが? 珍しいですね」
こよみが目を丸くする。
「せっかくやし、ちょっと聞いてみて……うちの店のプリンの話」
あかりは、なぜか妙に自信満々な顔で咳払いをした。
「えー、標準時プリンはですね、十二時に固まるようにできとって、それは日本標準時という、東経百三十五度を基準に決められた時刻の……」
そこまで言って、あかりは自分の言葉に自分でつまずいた。
「あかん、もう嚙んだ」
「発表前に自爆するの、早すぎません?」
つむぎが思わず笑ってしまう。
「いや、練習やから、今、嚙んどいてよかったんちゃう?」
その開き直りに、こよみとかなめも、こらえきれずに吹き出した。重い空気が、少しずつ和らいでいく。
「もう一回、やらせてもらっていい?」
休憩が終わり、かなめは再びホワイトボードの前に立った。
「さっきは、うまく説明できなかった。今度は、専門用語を減らして、順番も変えてみる」
かなめはまず、つむぎのノートに書かれていた言葉を、そのまま使うことから始めた。
「星を見るのは、実は、過去を見るのと同じなんだ。今わたしたちが見ている星の光は、何年も、何十年も前に、その星を出発した光。だから、星を見るってことは、その星の『昔』を見てるってこと」
「あ、それ、わかりやすい」
あかりが目を輝かせた。
「うん」
かなめは少し安堵したように頷き、続けた。
「それから、明石が『時のまち』って言われるのは、この町を通ってる線が、日本全体の時計の基準になってるから。でも、時計の十二時と、太陽が真南でいちばん高くなる瞬間は、実は少しずれてる。これは、あかりの店のプリンのときに、みんなで話したよね」
「うんうん、覚えとる!」
説明の順番が変わり、専門用語の代わりに、みんなが実際に体験したことを引用しながら話すことで、かなめの言葉は驚くほどすんなりと頭に入ってくるようになった。
「わかりやすいです、すごく」
こよみも、感心したように頷いた。
説明を終えたかなめは、少し照れくさそうに、けれど確かな手応えを感じている様子だった。
「正しく全部伝えるより……誰かの『わかった』につながる言葉を選ぶほうが、大事なのかもしれない」
その言葉に、秋月先生が満足そうに微笑んだ。
「いい発見ね。それこそが、発表するっていうことの本質だと思うわ」
つむぎは、自分のノートをそっと抱きしめた。誰かの言葉を、ただ聞いて終わるのではなく、自分の中に残し、今度は別の誰かへ伝えていく。それが、こんな形で人の助けになるとは思ってもみなかった。
夕暮れの旧校舎の廊下を、四人は並んで歩いていった。




