照会の朝と、施設の扉
しばらく不定期更新で進みます。
夜が明けた。
石造りの宿は音を吸い込む。廊下に足音はなかった。薄く開けた窓の隙間から夜明け前の冷気が忍び込んでいた。
横になっていたが、眠れなかった。目だけを動かして天井を見ていた。灰色の石だった。染みがなかった。
マルダの声が繰り返された。
副局長が今日の午後、中央管理部に確認を入れている。カリエント伯爵家の施設への外部照会が来た場合、事前に報告するよう依頼している——。
施設長の判断で、令状なしの移送はできる。急いでも今夜中は無理。移送が行われるとしたら明日の早朝以降。
対してイルバの申請は昨夜中に出た。今朝の第一便で施設への照会通知が届く。記録が先に作られれば、施設側は動けない。
どちらが先か。それだけだった。
起き上がった。顔を洗った。昨日と同じ服を着た。
廊下に出ると、シリルの部屋の扉の下に光が漏れていた。ノックをするとすぐに返事があった。
机に向かっていた。書類の束があった。一番上の紙に文字が整然と並んでいた。指の腹で同じ段落をなぞった跡があった。何度も繰り返した跡だった。
「申請の控えですか」
「イルバから昨夜受け取りました」
シリルが書類を揃えた。整然とした動きだった。
「出発は昼前です。施設まで馬車で半日かかります」
食堂で食事を取った。パンが硬かった。スープが薄かった。それでも全部食べた。今日一日、体を動かさなければいけなかった。
「アルヴィン・ケロウについて教えてください」
シリルがカップを置いた。
「三年前の案件の主任捜査官です。魔法道具の横流し——封鎖魔法の応用品を民間に流した件です。証拠報告書を完成させた。承認を求めた。戻ってきた書類に偽造された署名が入っていた」
「書き換えられた側ですか」
「書き換えを発見した側です。その後の記録が薄くなっています。捜査官として動いていた形跡が、ある日を境に消えた。在籍記録は残っている。最後に残ったのが、第三補助施設への出向記録だけです」
在籍記録は残して、活動記録だけ消す方法があった。人間自体は消せないから。
「ベルナルド・クレイスは」
「アルヴィンの部下です。当時、事件の担当書記として名前があります。一緒に追われた。一緒に施設に送られた」
二人が知っていた。だから二人とも消えた。
窓の外で荷車の音がした。王都がもう動き始めていた。
昼前に使いが来た。私服の若い男が折り畳んだ紙を一枚渡して帰った。
シリルが開いた。短い文だった。
申請受理。施設への照会通知、今朝の第一便で発送済み。
紙が折り畳まれた。外套の内側に収まった。
「出発します」
馬車は古かった。局の公用ではなく、宿を通じて手配したものだった。御者は無口な老人で、こちらを一度も振り返らなかった。
王都の外壁を越えると空が広くなった。石畳が途切れ、街道に入ると揺れが増した。座席の木の感触が手の平に伝わった。
触れるたびに記憶が来た。この馬車は多くの人間を運んでいた。商人が乗った。家族が乗った。移動のための道具だった。特別な記憶はなかった。ただの時間の蓄積だった。
シリルが地図を一度開いた。確認して折り畳んだ。それだけだった。
畑が続いた。農夫が畑の端で腰を伸ばした。馬車を見た。また屈んだ。日常の動作だった。事件も陰謀も関係なかった。
森に入った。木立が密になった。光が細くなった。馬が速度を落とした。轍が深くなっていた。車輪が引っかかるたびに体が揺れた。
建物が見えた。
石造りの二階建てだった。窓が少なかった。外壁に蔓が這っていた。手入れされていない蔓だったが、石そのものは最近修繕されていた。古く見せているが、機能は保たれていた。外から判断できる以上のことが内部で行われている建物の外見だった。
入口に制服の男が二人立っていた。
馬車を降りた。砂利の感触があった。森の中の空気だった。木の匂いがした。風が少なかった。
「王立魔法捜査局、人身安全確認照会のための来訪です」
シリルが証票を提示した。一人が確認して建物の中に入った。一人が残った。
残った男の腰のあたりで指が微かに動いた。魔道具だった。通信用の何かだった。こちらの到着を誰かに伝えた。伝えた先がどこかは分からなかった。
中から管理者が出てきた。中年の男だった。職員とは服が違った。
「ハートウェル捜査官、お越しをお待ちしていました」
待っていた。照会通知が届いてから、何時間も準備する時間があった。
「こちら、グレイ様ですね」
申請書にレティシアの名前は入っていなかった。にもかかわらず名前を知っていた。誰かから伝えられていた。
「随行者です」
「承知しました。では中へどうぞ」
廊下が薄暗かった。魔道具の燈りが一定間隔で設置されていた。安定した光だったが、数が少なかった。石の壁が光を吸い込んだ。
管理者の背中から感触が来た。
緊張があった。通常の緊張ではなかった。計画が動いている緊張だった。来訪者に対して何かを準備していた。今朝からその準備を進めていた。うまく機能するかを気にしていた。
別室に通された。椅子が二脚。窓が一つ。曇りガラスだった。外の形が滲んでいた。
「収容者の状態について、先にご説明があります。今朝から体調が優れないようで、医療スタッフが確認中です。面談は医師の判断次第になりますので、少々お待ちください」
扉が閉まった。
「緊急医療搬送を使うつもりです」
シリルが声を抑えて言った。
「体調不良の証明があれば、照会記録より優先して収容者を別施設に移せる。合法的な移送です」
「今すぐ動きましょう」
扉をノックした。廊下の職員が顔を出した。
「管理者の方に申し上げます。面談の遅延について、照会申請書に基づく正式な申し立てを行います。申し立て用紙の提出先を教えてください。記録便の最終便は今夕ですので、今日中の受理を求めます」
職員の顔が止まった。想定していなかった動きだった。
「……確認してまいります」
足音が早くなった。廊下の奥に消えた。
複数の足音が続いて動いた。急ぎ足だった。何かを確認しに走る音だった。
壁の向こうで声がした。何を話しているか聞こえなかった。しかし声の速さからは判断できた。想定外の事態に対応していた。
十数分後に管理者が戻ってきた。表情が変わっていた。硬さが薄れていた。
「お待たせしました。医師の確認が取れました。体調不良は軽微なものです。面談は実施できます。収容棟にご案内します」
背中からの感触が変わっていた。
計画の方向が切り替わっていた。面談を妨害するのではなく、立会人を通じて会話の内容を管理する方向に変えていた。面談そのものは通す。ただし全て聞かれる。それならば利用する方に切り替えた。
廊下を進んだ。曲がった。また廊下だった。窓がなかった。空気が重くなった。
奥に鉄の扉があった。管理者が鍵を出した。鍵穴に差し込んだ。解錠した。
扉が開いた。
向こうに廊下が続いていた。
左右に扉があった。番号が振られていた。魔道具の燈りが天井についていた。音がなかった。
人がいる静けさだった。複数の人間が閉じ込められている静けさだった。音を立てないようにしている静けさだった。三年間続いてきた静けさの重さがあった。
「こちらです」
管理者が左手の扉の前で止まった。七番だった。
「面談の立会人は一名、規定に基づきます」
「承知しています」
扉が開いた。
男が椅子に座っていた。
四十代だった。顔が上がった。こちらを見た。目が合った。
瞬間、感触が来た。
驚きがあった。来るとは思っていなかった。三年間、誰も来なかった。もう来ないと思っていた。それでも来た。来てしまった。どうすればいいか分からなかった。怖れがあった。ただし怖れより先に、三年間押し込め続けていた何かが、今この瞬間に動こうとしていた。封じ込めていた扉が内側から押されていた。
男が口を開いた。声が出なかった。
もう一度開いた。
「……来てくれたんですか」
立会人の職員が横に立っていた。何も言わなかった。止めなかった。
レティシアは部屋に入った。
アルヴィン・ケロウと向き合った。
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