別の名目
しばらく不定期更新で進みます。
雨が本降りになっていた。
本棟の庇の下でシリルが連絡を取った。文書用の伝達紙に短く書いて、封じた。廊下を走り抜けた下働きの少年を呼び止め、手渡した。少年は走った。紙一枚を持って、建物の奥へ消えた。
待った。
壁の傍の長椅子に座り、廊下を見ていた。雨音が窓の外から絶えず続いた。職員が通り過ぎた。誰も止まらなかった。誰もこちらを見なかった。それが却って意識的に見えた。視線を逸らすことも、人は慣れると無意識にやらなくなる。今の局内の人間の動きは、習慣ではなく意図がある動きだった。
「返事が来ます」シリルが言った。「今日中に」
カリエント伯爵家の施設を考えた。符号で隠された移送先。ラインホルト副局長の義兄の家。令状の管轄が別の領の裁判所になる。申請から二日。その二日の間に、また移送が行われる可能性がある。
シリルはその懸念を口にしなかった。
「人身安全確認の申請は」繰り返した。「捜査令状とは仕組みが違いますか」
「収容者の権利に基づく照会です。収容者が所在する施設へ通知が届く。施設側は照会を拒否できない。ただし捜索はできない。収容者の状態確認が限度です」
「それで十分です」
シリルが少し間を置いた。「確認だけで、ということですか」
「確認できれば、その場で異能が使えます」
また間があった。
「施設への入室が認められた時点で、という意味です」
「その通りです」
夕方近くなって返事が届いた。
小さく折られた紙だった。シリルが広げ、目を通した。読み終えて、折り直した。
「明日の午前に会えます」
「場所は」
「局の外です。市街の食堂」
翌朝、石畳の路地に面した食堂だった。客の少ない時間だった。窓際の席に男が座っていた。四十代の半ば。茶色の髪に白いものが混じり、目の下に線があった。局の制服ではなく、私服の外套を着ていた。顔の色が薄かった。屋内にいる時間の長い人間の色だった。
「イルバ捜査官」シリルが言った。
男は立たなかった。手だけを少し動かした。座るよう促す動きだった。
「ハートウェル」イルバが言った。「隣にいるのは」
「レティシア・グレイ。協力者です」
イルバの目がこちらを見た。止まった。品定めではなく、距離を測るような目だった。
「公爵家の令嬢が捜査に関わっている」
「そうです」
テーブルに紙を置いた。シリルが昨日書いたものだった。イルバが手を伸ばして取った。読んだ。読む間、顔が動かなかった。読み終えて、紙をテーブルに戻した。
「カリエント伯爵家の私設施設への人身安全確認申請」
「そうです」
「ラインホルトの義兄の家だ」
「知っています」
イルバがカップを持ち上げた。中身はもう冷えているらしく、口に運ばずに置いた。
「なぜ私の名前が必要なんですか」
「申請者がラインホルトの管轄外である必要があります。私では管轄が重なる」
「私はどう重ならないんですか」
「南部捜査課所属です。カリエント伯爵家の施設がある領の管轄を持っている」
イルバが窓の外を見た。朝の路地で荷車が通っていた。荷を積んだ馬が石畳に蹄を打ち鳴らした。
「三年前のことを知っていますか」イルバが言った。
シリルが答えなかった。
「署名が偽造された事件。私の報告書が書き換えられた」
テーブルの縁に手が置かれていた。触れた。
指先に感触が来た。
重かった。諦めではなかった。まだ動かないでいるものの感触だった。三年間、動かせないでいた何かがここに来て座っていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ重かった。持ち続けることに慣れた重さだった。
「あなたはそれを」
「知っていた」イルバが言った。静かな声だった。「黙っていた。三年間」
手をテーブルから離した。
代わりに、雨が窓を打った。細い音だった。
「申請書を出せば、審査が通れば、施設の扉が開く。それを知りたいんでしょう」イルバが続けた。
「そうです」シリルが言った。
「今回だけです」
イルバが立った。紙を手に取った。外套を直した。
「申請は今日中に出します。人身安全確認の規定では、施設側は四十八時間以内に照会に応じる義務がある。二日後に施設への立ち入りが認められる」
「ラインホルトへの通知は」
「南部捜査課長を通じた申請になります。ラインホルトの経路には乗らない」
イルバが歩いた。入口のほうへ向かい、途中で振り向いた。
「収容者の名前を教えてください」
「アルヴィン・ケロウ。ベルナルド・クレイス」
名前を告げた瞬間、イルバの目が少しだけ変わった。知っていたのかもしれなかった。名前を聞いて何かを思い出したのかもしれなかった。判断できなかった。
「分かりました」
出ていった。
食堂に二人だけになった。
シリルがカップを持った。飲まなかった。
「三年前に何がありましたか」
シリルが答えるまでに間があった。
「私が捜査官になる前の事件です。ラインホルトが副局長になる前。魔法道具の横流し案件で、証拠になるはずの報告書が書き換えられた。イルバが作成した文書が、記録に残る前に内容を差し替えられた。当時の担当者を追おうとしたが、イルバは異動になった。南部捜査課に。それが三年前のことです」
「イルバは異動させられた」
「そうです」
窓の外で荷車の音が遠ざかった。
グレゴールを思い出した。焼却した名簿の写しを持ちながら公爵邸にいた老執事。コーバンが符号対応表の記憶を持って資料室にいた。イルバが書き換えられた報告書の記憶を持って南部捜査課にいた。
消したつもりのものが、人の中に残っていた。場所を移されても、閑職に追われても、持ち続けていた。
「イルバは信頼できますか」
「できます」シリルが答えた。「だから会いに来た」
局に戻った。
廊下でラインホルトの秘書に会った。若い男で、目の動く速さが速かった。すれ違った瞬間、外套の袖が触れた。
感触が来た。
探っていた。こちらの動きを把握しようとしていた。任務だった。誰かの指示を受けて廊下にいた。たまたまの通行ではなかった。廊下で待っていた。いつ通るかを測っていた。
足を止めなかった。
シリルも止まらなかった。
廊下を曲がってから、声を出さずに口だけ動かした。シリルがうなずいた。
別の部屋を借りた。昨日と違う部屋だった。シリルが地図を広げた。カリエント伯爵家の施設がある領の地図だった。
「施設の構造は分かりますか」
「仮収容の施設です。私設ですが、王立魔法捜査局の業務委託を受けていた実績がある。規格の建物のはずです。入口が一つ、収容棟が奥にある」
「収容棟への入室が必要です」
「人身安全確認の照会は、収容者本人への面談が義務付けられています。収容棟まで通してもらえる」
「面談の立会人が付きますか」
「施設側の職員が付きます。ただし会話の内容の記録義務はない」
地図の上に指を置いた。施設の位置を示す印があった。本棟から離れた場所だった。王都からは馬車で半日ほどの距離に見えた。
地図の紙の感触があった。最近書かれた地図だった。印の位置に誰かが指を当てた跡があった。確認のための動作だった。迷いがなかった。何度か同じ場所を指した跡だった。
「この地図は」
「私が手元に持っていたものです」
「前から確認していましたか」
シリルが少し止まった。「一週間前から」
一週間前。アルヴィンとベルナルドの失踪が判明した時より前だった。
「施設の存在は前から知っていたんですか」
「名前は知っていました。業務委託の記録に出てくる施設です。ただ、場所を具体的に調べたのは一週間前からです」
「なぜその時期に」
シリルが地図を折り畳んだ。静かな動きだった。
「収容者が別の施設に移されるとすれば、どこが候補になるかを調べていました。まだ移送される前から」
一週間前。ラインホルトが動く前から、シリルは動いていた。候補を絞り、地図を繰り返し確認し、イルバの連絡先を確かめていた。
夕方に、廊下で声をかけられた。
知らない女性だった。三十代の半ば、局の職員の制服を着ていた。書類を抱えていた。目が合った瞬間、足が止まった。
「グレイ様」
声が低かった。周囲に誰もいなかった。確認してから呼んだ声だった。
「そうです」
「お伝えしたいことがあります」
書類を抱えたまま、一歩近づいた。
「副局長が今日の午後、中央管理部に確認を入れています。カリエント伯爵家の施設への外部照会が来た場合、事前に報告するよう依頼しています」
外套の袖が揺れた。触れた。
怖れがあった。ここに来ることへの怖れだった。しかし、来ることを決めていた。理由は怖れより先にあった。何かを決めた人間の感触だった。三年間、抱えてきたものがこの人間の中にもあった。それを今日ここで降ろしに来た感触だった。
「名前を教えていただけますか」
女性が少し間を置いた。
「マルダ。中央管理部の、元記録係です」
「今は」
「別の部署です。三年前に」
書類を抱え直した。
「副局長が動いているなら、照会を出した捜査官に報告が届く前に施設側が対処するかもしれない。移送の手続きは、令状なしでも施設長の判断でできます」
「教えてくれてありがとうございます」
マルダが一歩引いた。
「私は何も言っていません」
歩き去った。廊下の燈りの中に消えた。
シリルに伝えた。
廊下を少し歩いた後、シリルが止まった。
「施設長に先に手が回ることはある。ただ、それには時間がかかる。令状を迂回した移送は記録を要する。記録には人間が要る」
「どのくらいの時間ですか」
「手続きが通れば半日。急いでも今夜中には動けない。移送が行われるとしたら明日の早朝以降です」
「一晩あります」
「そうです」
夜が来ていた。廊下の燈りが点いていた。石の壁が薄橙に染まっていた。
「イルバの申請は」
「今日中に出しています。明日の朝には記録として残る。施設側が動こうとしても、照会記録のある収容者を無断移送した場合は義務違反になる。記録が先に来れば、施設側は動けない」
一晩の差だった。申請の記録が残るのが早いか、移送の手続きが進むのが早いか。
「信じていますか」
シリルが燈りの方向を見た。
「信じています」
静かな答えだった。
三年間、消えなかったものを持っていた人間たちがいた。コーバンが、イルバが、マルダが、それぞれ別の場所で抱えてきたものがあった。ラインホルトは人を追い払うことで消えると思っていたのかもしれなかった。しかし消えなかった。人の中に留まり続けた。物の上に触れた手の跡が残るように、人の中にも残り続けた。
「二日後に施設に行けます」
「そうです」シリルが言った。
先が見えてきた。まだ扉の向こうではなかった。でも扉が、今は目に見える距離にあった。
燈りの下で、地図を折り畳んだ紙をシリルが外套の内側に収めた。一週間前から手元に置いていた地図だった。
石畳の廊下に足音が響いた。二人分の足音だった。
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