先手
しばらく不定期更新で進みます。
シリルの執務室は本棟の三階にあった。
壁際に書棚が並んでいた。書類が分厚い束ごとに綴じられて、背に番号が打ってあった。机の上には今日の分が三つの山をつくっていた。シリルはそのうちの一つを開いて、ペンを走らせていた。
ペン先が止まらなかった。黒檻台帳の副本。補助承認者欄のラインホルト・バルテリアの署名。ノルデンの部分的な証言。ルーファスの閲覧申請記録。一枚の書類の上に並べながら、事実と推定の境界を崩さないようにして記述する。書類一枚の重さをシリルは知っていた。書類が弱ければ令状は下りない。書類が強ければ、拒否できない動きになる。書く手の速度が、それを語っていた。
窓の外で光が変わった。午後が終わりに近づいていた。
「ノルデンの供述に変化はありましたか」
シリルがペンを置かずに答えた。「追加の尋問は明朝です。今夜は別の捜査官が見張っています」
「供述を変えてくる可能性は」
「弁護官の接触を要請しているので、あります」
そういうことだった。ノルデンには弁護を受ける権利があった。弁護官との接触が許可されれば、その後の供述が変わる可能性があった。変わることを見越して、今ある証拠だけで動かなければならなかった。
椅子から立ち上がった。書棚の前を歩いた。棚の端に並んだ書類の背表紙に目を走らせた。第三補助施設の文字は見当たらなかった。
「アルヴィン・ケロウとベルナルド・クレイスは今もあの施設にいますか」
シリルの手が止まった。数秒、ペンが宙に浮いたままだった。
「確認が必要です」声が平坦だった。「施設の収容状況は、副局長の管轄下です」
壁に当たった感触があった。アルヴィンとベルナルドが第三補助施設に収容されていることは把握していた。しかしその情報は、ラインホルトの管理下にある書類から来ていた。今日の発見がラインホルトに伝わった場合、二人を別の場所へ動かされる可能性があった。
「令状なしの移送はできますか」
「副局長以上の命令であれば、緊急条項を使えます」シリルが言った。「令状の申請と同時に、施設の収容記録の開示も求めることができます。ただし正規の手続きでは、審査を経てからです」
今夜。ラインホルトが今日の発見を知れば、今夜のうちに動く可能性があった。その言葉を口には出さなかった。シリルも出さなかった。二人とも分かっていたからだった。
報告書が完成したのは夕刻だった。シリルが直接、本棟の上層階にある上位審査官室へ持参した。レティシアは廊下で待った。
廊下は人が少なかった。退務時刻を過ぎていた。残っているのは当直の職員と、今日の案件に関わった捜査官だけだった。
石の壁に手を触れた。感触はなかった。建物の記憶は薄く、無数の人間の通過が積み重なって個々の痕跡が埋没していた。
シリルが戻ってきた。顔が引き締まっていた。
「受理されました。上位審査官が内容を確認して、明日の朝、令状申請に移ります」
「明日の朝」
「早ければ午前中に令状が下ります」
午前中。それまでの時間が廊下の空気の中で具体的な重さを持った。今夜から明朝にかけて、ラインホルトが動ける時間があった。その時間の輪郭が、石の壁と床の間で静かに膨らんだ。
本棟を出た時、外は完全に暗かった。
局の正門に向かう石畳の上で、人の気配があった。局の紋章を付けた馬車が止まっていた。御者が乗ったまま、すぐに動ける態勢だった。
馬車の脇に人が立っていた。若い男だった。局の制服を着ていたが、袖の紋章が違った。副局長室付の職員のものだった。
男がシリルを見た。
「ハートウェル捜査官。副局長から伝言です。本日の捜査内容について、明日の朝、直接ご報告いただきたいとのことです」
シリルは足を止めなかった。歩幅が変わらなかった。
「記録します」
それだけ言って通り過ぎた。レティシアも続いた。
男の視線が後ろからついてきた。馬車が動く気配はなかった。ただ立って、こちらを見ていた。
正門を出てから振り返った。男はまだ同じ場所に立っていた。
「伝言書を見せてもらえますか」
シリルが書類を取り出した。封のない一枚の紙だった。局の書式に沿った正式な書面で、明日朝の報告要請の内容が記されていた。
紙の端に触れた。
感触があった。書いた人間のものではなかった。この紙を渡した手の感触だった。届けることへの緊張ではなく、確認することへの集中だった。シリルの反応を測っていた。届け先がどう動くかを誰かに報告しようとしている意識があった。感情の中に、急く成分があった。今夜のうちに動く必要があるという、義務に似た緊張が残っていた。
「今夜動きます」
シリルの顎がわずかに動いた。否定ではなかった。
「根拠は」
「あの男の緊張です。今夜中に何かが起きる予定がある人間の感触でした。伝言を届けた後、急いで報告しなければならない理由がある人間の」
石畳の上でシリルはしばらく動かなかった。目が局の敷地の方を向いた。何かを確認するような実務的な視線で、建物の輪郭をひとつひとつ辿っていた。
「第三補助施設の構造は知っています。入り口は二つです。正面は番兵が常駐しています。裏口は収容者の搬入出に使われます。裏口への立ち入り経路は、局の敷地外から回り込む必要があります」
「一人では行きません」
「分かっています」シリルが言った。「私が正面から入ります。収容記録の確認という名目で。あなたは——」
「裏口から」
「裏口の番兵には令状が必要です。ただし交代時刻の空白があります。深夜の二つ刻、三分から五分の間です」
三分。十分だった。
馬車は使わなかった。局の紋章付きの馬車は場所を知らせる。シリルの馬があった。二頭を借りた。
第三補助施設への道は、城郭の外壁沿いに続いていた。街灯が途切れる区間があった。石畳が砂利道に変わる場所を過ぎると、建物の輪郭が暗がりに浮かんだ。
低い建屋だった。窓が少なかった。壁が厚く、外から内部の気配が読めなかった。正面の入り口に二人の番兵が立っていた。松明の明かりが扉の前だけを照らして、その外側は闇だった。
シリルが正面に向かった。レティシアは建物の裏手に回った。
裏口は狭かった。木の扉で、鉄の錠前がかかっていた。番兵が一人いた。立哨で、動きがなかった。壁の石が湿気を含んでいた。地面に近い場所から、水の滴る音がした。
石壁の陰で待った。
夜が深かった。遠くで梟の声がした。そのまま何も変わらない時間があった。馬を繋いだ木の枝が風に揺れた。
交代時刻が来た。扉の内側から足音がした。外の番兵と短い言葉が交わされた。笑い声が聞こえた。
新しい番兵が外に出て、古い番兵が中に入った。扉が閉まる前に動いた。番兵が気づかなかった。内側に入っていた。
廊下は暗かった。外よりも空気が淀んでいた。油の臭いと石の湿り気が混じっていた。壁に沿って細い通路が伸びていた。
廊下の先からシリルの声がした。受付の職員と話していた。書類の確認を求めていた。声のトーンが変わらなかった。正規の手続きの中にいる捜査官の声だった。
収容室の区画に向かった。扉に番号が彫ってあった。シリルから聞いていた番号を確認しながら進んだ。アルヴィン・ケロウは十二番。ベルナルド・クレイスは十三番。
十二番の前に立った。扉は閉まっていた。
把手に触れた。
感触が来た。直前に誰かが触れた跡があった。今夜のものだった。急いでいた。扉を開けることへの迷いがなく、手続きへの意識もなかった。鍵を使って開けた人間の感触だった。
把手を引いた。扉が開いた。
部屋は空だった。
木の寝台があった。毛布が端に寄せてあった。テーブルの上に水差しがあった。窓の下に、靴の跡が残っていた。引きずられた跡ではなかった。自分で歩いた跡だった。
自分で、歩いた跡だった。
隣の十三番の扉も開けた。
同じだった。空だった。毛布が床に落ちていた。壁際に小さな傷が残っていた。爪で引っかいたような跡だった。形に意味はなかった。それでも誰かがこの部屋でここに手を当てていた。床に膝をついた。跡に指を伸ばした。
冷たい石から、かすかな意識が来た。閉じ込められていた長い時間の記憶ではなく、最後の夜だけの感触だった。扉が開いた。外に出るよう言われた。行き先を問う声が、返ってこなかった。靴が廊下に踏み出した。それだけが残っていた。
抵抗ではなかった。問いかけでもなかった。連れていかれた足跡だった。
廊下に戻った時、シリルが来た。
「空でした」
シリルが奥歯を噛んだ。一瞬だけ。すぐに戻った。目の焦点が壁の一点に向いた。何かを押し込む時の目だった。
「いつ移送されたか分かりますか」
「今夜のうちです。扉の感触が、直近のものでした」
廊下の奥で番兵の話し声がした。
「移送記録を確認します」シリルが言った。「施設の所長に提示を求めます」
所長に拒否された。令状が必要だと言われた。シリルが令状申請中であると告げた。
所長は表情を変えなかった。指示に従っているだけの顔だった。何も知らない人間の顔ではなかった。知っていて、動かない人間の顔だった。
施設を出た。
夜が深かった。帰路の砂利道に馬を向けた。シリルが隣を走った。しばらく黙っていた。
「先手を打たれました」シリルが言った。
「私が予測しましたが、間に合いませんでした」
「あなたのせいではない。私が判断するべきでした」
木が道の両側に並んでいた。風が葉を揺らした。
「ラインホルトは二人をどこへ移したと思いますか」
「管轄下の施設は他に四つあります」シリルが言った。「ただ、局外の施設を使う可能性もある。貴族私設の拘置施設は規制が緩い。協力関係にある貴族家が複数あると見ています」
「局外に動かされれば、令状の範囲が変わりますか」
「施設が特定できていない場合、広域令状になります。審査に三日から五日かかります」
三日から五日。ラインホルトにとって十分な時間だった。
馬の蹄の音が砂利を叩いた。
壁の傷を思い出した。床の足跡を。問いかけに返事が来なかった夜を。あの感触が指先に残っていた。三ヶ月前にルーファスが書庫で副本を見つけた時の覚悟の重さと、同じ繊維でできていた。証人が、今夜消えた。
「移送記録は改竄されますか」
「改竄すれば、それ自体が罪になります」シリルが言った。「令状を使わない緊急移送には記録義務があります。それを消せば、別の追い方ができます」
「明朝の令状申請に、移送記録の開示請求を追加できますか」
「加えます」
道が一つ増えた。
本棟の灯りが見えてきた。当直の窓だった。
空が白み始める前の、一番暗い時刻だった。指先が冷えていた。馬の鬣が夜風にゆれた。
ラインホルトは今夜、一手動かした。証人を消した。しかしそれは記録を残した。消した記録が新しい手がかりになる。先手を取られるたびに足跡の数が増えていく。終わりにするつもりで動けば動くほど、追える痕跡が積み上がる。
シリルがそれを分かって、前を向いて走っていた。
それで、十分だった。
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