石造りの記録
しばらく不定期更新で進みます。
朝、鏡の前に立った。
グレゴールが選んだのは落ち着いた紺の外出着だった。装飾は少なく、胸元の留め具だけが銀で光っている。公爵家の令嬢として通用し、かつ目立ちすぎない——その加減を、老執事は長年の経験で把握していた。
「今日はお一人ではございません」
グレゴールが後ろで言った。鏡の中の顔が静かだった。白い肌、淡い金の髪、澄んだ灰色の瞳。三ヶ月経っても、この顔に慣れたとは言えなかった。
「ハートウェル捜査官と同行します」
「存じております」グレゴールが留め具を確かめた。「お気をつけて」
それだけだった。行き先を問わなかった。問わないことが、この老執事の判断だった。
馬車が来たのは八時過ぎだった。通りはまだ霧が低く、石畳が濡れて光っていた。シリルはすでに馬車の前に立っていた。普段と変わらない外套、同じ落ち着いた表情。目が合ったとき、短く頷いた。
馬車に乗ると、互いにしばらく口を開かなかった。車輪が石畳を打つ音が規則的に続いた。王都の中心部を抜け、道が変わると、音の質が少し変わった。舗装の粗さが増し、路面の振動が腰まで届いた。
「施設までは一時間ほどかかります」
シリルが窓の外を見ながら言った。
「分かりました」
「入る際の手順を確認させてください」シリルが視線を戻した。「グレイ令嬢という立場で入ります。公爵家の関係者として施設の視察を希望する——正式な申請ではなく、管理者への直接の申し入れです」
「管理者は事前に知っていますか」
「知りません。今日の予定は、局内には伝えていない」
「ラインホルトに流れないように」
「そうです」シリルが少し間を置いた。「管理者が断る可能性もある。その場合は——」
「断らせないようにします」
シリルが短く息を吐いた。
「公爵家の名を使う、という意味ですか」
「それ以上でも以下でもありません」
窓の外で、建物が少なくなった。都市の縁が近づいていた。石造りの倉庫群を過ぎると、道が緩やかに上り坂になった。丘の上に灰色の塀が見え始めた。遠目には石切り場の外壁のようにも見えた。飾りがない。そういう種類の建物だった。
第三補助施設は、丘の中腹にあった。
塀は高く、苔が縁に取りついていた。門は鉄製で、飾り気がなかった。施設名を示す看板はなく、入口の脇に小さな銘板があるだけだった。王立魔法捜査局補助施設第三号——文字は刻まれているが、新しくはなかった。石の表面が薄く風化して、文字の輪郭が丸くなっていた。
馬車が止まると、門番が二人、こちらへ近づいてきた。若い男だった。片方が胸の徽章を確認しようとして、シリルの外套の紋章に気づき、わずかに動きが止まった。
「王立魔法捜査局、ハートウェル捜査官です。グレイ家のレティシア令嬢と同行しています。管理者に取り次いでください」
シリルの声は平坦だった。抑揚がなく、説明もなかった。二人の門番が顔を見合わせた。片方が中へ走った。
待った。鉄の門の前で、風が吹いた。丘の上から降りてくる風は、王都の中より冷たく、草と土の匂いを含んでいた。施設の中から音はしなかった。鳥の声もなかった。煙突から細い煙が立っていたが、それだけだった。
三分ほどで、背の高い中年の男が出てきた。四十代後半か五十代、髪に白いものが混じっていた。歩き方が速く、表情が定まっていなかった。
「ハートウェル捜査官、本日のご訪問については——」
「管理者の方ですか」
「はい、デルクス管理官です」
「では中でお話しできますか。令嬢にはここで長く立っていていただくわけにはいかない」
デルクスが視線をこちらへ向けた。公爵家の令嬢、という肩書が何をもたらすか、計算しているのが表情に出ていた。断れば後で問題になる。通せばどこかへ話が行く。どちらに転んでも危うい地点で、男は揺れていた。
「……どうぞ」
中は静かだった。
廊下の壁は石造りで、表面に漆喰が塗られていた。窓は小さく、外の光が縦に細く落ちていた。廊下の両側に扉が並んでいた。番号だけが書かれていた。下の方の扉から、何かが擦れるような微かな音がして、すぐに消えた。
デルクスに案内されながら、歩いた。廊下の奥で、人の気配がした。職員らしき人物が二人、書類を持って歩いていた。こちらを見て、すぐに視線を逸らした。急いで逸らした、という動作だった。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、廊下の突き当たりにある小部屋だった。椅子と机があり、窓はなかった。壁に棚が一つ、薄い書類が数冊積まれていた。空気が閉じた場所の匂いをしていた。
「本日のご訪問の目的を、改めてお聞かせいただけますか」
デルクスが机を挟んで立った。座らなかった。シリルも座らなかった。
「三年前から在籍が継続されている二名と、面会を希望します。アルヴィン・ケロウとベルナルド・クレイスです」
デルクスの顔が一瞬固まった。次の瞬間には何事もなかったような表情を取り戻そうとしていたが、遅かった。名前を聞いた瞬間の、あの一拍の停止が残っていた。知っていた。この名前を、事前に知っていた。
「在籍者との面会には、局の正式な申請が——」
「令嬢からの要請です」
シリルがそちらへ視線を向けた。
「公爵家として、三年前の書類に関連する件で確認が必要なことがあります。まず在籍者に会うことができるかを確認させてください」
デルクスが黙った。長い沈黙だった。指先が机の端に触れて、かすかに動いた。
「在籍は確認できますか」
「……確認は取れます」
「では」
デルクスがもう一度こちらを見た。グレイ家の名が、何かを押し返しているのが分かった。断ればその場で終わらない。公爵家との関係を、管理官が独断で悪化させたという記録が残る。
「少々お待ちを」
出て行った。
二人になった部屋で、壁を見た。漆喰の面は均一で、汚れも染みも見当たらなかった。丁寧に管理されていた。こういう場所に限って、表面だけが整えられている。
「緊張していますか」
シリルが隣で小さく言った。
「していません」
「そうですか」
「しています」
シリルが短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「名前を確認した時の顔が変わりました。知っていた」
「はい。少なくとも、名前は」
「事前に知っているということは、情報が届いている可能性がある」
「ラインホルトから、か。あるいは定期報告の中に含まれているか」シリルが壁を見た。「どちらにせよ、今ここで会えなかったとしても、来たという記録は残ります」
「それは最初から分かっていました」
「ええ」
扉の外で、廊下を歩く音がした。複数の足音だった。来る前に、遠ざかった。部屋の中の静けさが戻った。
十二分ほどして、デルクスが戻った。今度は一人ではなかった。後ろに、若い職員が一人ついていた。書類を持っていた。
「面会の確認が取れました。在籍者本人の同意も確認しています」
「ありがとうございます」
「ただし——在籍者の状態について、事前にご説明する義務があります。三年間の在籍により、外部との接触が制限されていました。会話は可能ですが、精神的な負荷を与えることはご遠慮いただきたい」
精神的な負荷、という言い回しが引っかかった。面会の前に言葉を制限しようとしている。確認ではなく、誘導だった。どこまで話されるかを、あらかじめ狭めようとしている。
「もちろんです」
答えながら、その意図を覚えた。
案内されたのは、施設の奥だった。
廊下が一つ変わった。床の石の色が変わり、扉の間隔が広くなった。窓はさらに小さく、天井に設置された魔道具から柔らかい光が落ちていた。廊下の端に、監視の担当者が一人立っていた。目が合ったとき、視線が動かなかった。訓練された無表情だった。
廊下の空気が変わった。前の区画より温度が低く、かすかに乾いた土の匂いがした。地面に近い場所なのかもしれなかった。扉の一つから、何かを書く音がして、止まった。
デルクスが扉の前で止まった。
「こちらです。ケロウ在籍者の部屋になります」
扉に番号はなかった。代わりに、小さな金属のプレートがあった。名前ではなく、記号だった。整理番号のような、事務的な文字列だった。
ノックして、扉を開いた。
部屋は小さかった。
机と椅子、それと寝台。窓は一つ、小さく、外が見えるが手は届かない高さにあった。光が細く斜めに差して、埃が光の中で動いていた。本が数冊、机の端に積まれていた。背表紙が色褪せていた。何度も読まれた本の色だった。
椅子の上に、男が座っていた。
三十代前半か。髪は短く、整えられていた。顔の骨格が細く、目が静かだった。目の下に薄い影があった。立ち上がろうとして、足が少し遅れた。そのわずかな遅れに、三年間の密度が滲んでいた。
「アルヴィン・ケロウさんですか」
男が頷いた。
「あなたが」と言いかけて、止まった。視線がこちらへ来て、止まった。「——グレイ家の」
「レティシアです」
男が何かを噛み締めるように、少し口を閉じた。顎の筋肉がわずかに動いた。
「来てくれたのですか」
それだけだった。声は低く、乾いていた。三年分の沈黙が、その一文に詰まっていた。問いでも驚きでもなく、ただ事実の確認のような言葉だった。
窓から光が差していた。施設の石壁が熱を吸って、部屋に冷えた光だけを落としていた。アルヴィン・ケロウが三年間、ここで過ごした。机の上の本は読まれ続けてきた証のように、背表紙の角が擦れていた。
「話を聞かせてください」
男が目を閉じた。一拍、二拍。
「ルーファス様は」
来なかった答えが、部屋の空気の中に浮かんだ。
「三ヶ月前に亡くなりました」
男が目を開けた。表情が変わらなかった。変わらないまま、何かが溶けていった。見ている側には分からない種類の、内側だけで起きている変化だった。
受け取った、と分かった。ここに来るまでの間、どこかで知っていたのかもしれない。三年間、外の変化を知る術はなかったはずだった。それでも、男の目は驚いていなかった。驚きの手前で、もっと長い時間をかけて準備していた人間の目だった。
「そうですか」
声が落ちた。
「あなたが送った確認申請は、宛先が削除されていました」
「知っています」
「誰が削除したか、分かっていましたか」
「分かっていました」
男が机の上に手を置いた。両手が、机の板の上でかすかに動いた。指先が木の面に触れて、確かめるように止まった。
「三年前、ここへ連れてこられた時、誰の指示かは教えてもらいませんでした。でも、分かっていました。書類の経路を辿れば、行き着く場所は一つしかなかった」
「ラインホルト副局長」
男が頷いた。
「他に誰がいましたか」
アルヴィン・ケロウが椅子の上で少し身を乗り出した。目が変わった。静かさの奥に何かが動いた。三年間、動かすことなく抱えてきたものが、ようやく動くことのできる場所を見つけた、そういう変化だった。
「ベルナルドと話しましたか」
「これからです」
「彼が知っています」男が少し息を整えた。「私は申請を出した。彼は書類を見ていた。私が知っているのは送った側だけで、彼が知っているのは処理された側です。二つ合わせれば——全体が見えます」
合わせれば、全体が。
「分かりました」
「捜査官も一緒ですか」
シリルが前に出た。
「ハートウェルです」
「信頼できる人ですか」と、アルヴィンがこちらへ聞いた。
「はい」
男が少し目を細めた。何かを確認するように、顔を見た。公爵家の名を背負った令嬢が、なぜここにいるのか。信じていいのか。その問いを、直接言葉にしないまま、目の動きに含めていた。
「なら、話します」
窓の光が動いた。雲が流れたか、外の光の角度が変わったのかもしれない。部屋の中の明るさが、わずかに揺れた。
「三年前の確認申請を出した時、ルーファス様が持っていた写しの中身を、私は知っていました」
男の声が、低く落ち着いていた。三年間、誰にも言えなかったことを語り直す声だった。覚えていた。忘れようとして、忘れられなくて、ここまで持ち続けてきた言葉の声だった。
「黒檻台帳の補助承認者欄に、本来あるはずのない名前が載っていた。王立側の名前が。それを確認申請という形で外に出そうとした時——宛先が消えた」
「宛先には誰の名前を書いていましたか」
「局の外部査察官です。ラインホルトのラインを通らない、唯一の経路だった」
「それを知っていた人間が、消した」
「消した上で、私をここへ入れた」
男が手を机の板から離した。両手が膝の上に戻った。
「ベルナルドは書類の正規担当者でした。私が申請を出した書類の処理をしていた。彼が何を見て、何を知っていたか——私よりもはっきり分かっているはずです」
「彼は今、どういう状態ですか」
アルヴィンが少し黙った。
「最初の一年は、同じ廊下の部屋にいました。今は移されています。話したのは、ここへ来た当初だけです」
「話した内容は」
「ルーファス様のことです」男が目を上げた。「あの頃、ルーファス様が書庫で何かを調べていると、ベルナルドが言っていた。書類の操作に気づいた誰かが動き始めているという話だった。それがルーファス様だったとは、当時は分からなかった」
ルーファスが書庫に通い続けた三年間。アルヴィンが施設の中で封じられた三年間。ベルナルドが書類を処理したまま、同じ施設に移された三年間。三つの時間が、ここで一本につながった。
「書類に入れられた名前が、なぜ危険なのか——理由を教えてもらえますか」
アルヴィンが一拍置いた。
「黒檻台帳は、表向き魔法犯罪に関わった者の管理台帳です。しかし補助承認者欄には、台帳の運用そのものに関わる決裁者が載る」シリルが横で静かに聞いていた。「そこに王立側の名前が入るということは、台帳の管理に局の人間が直接手を入れていた証拠になる。表に出れば、局の運営に関わる問題になります」
「ラインホルトが直接関わっていた」
「少なくとも、書類の経路の上では」
部屋の空気が重くなった、という感覚ではなかった。むしろ、ずっと重かったものが、ようやく言葉になり始めた。
「ありがとうございます」
「ルーファス様が亡くなった理由を、教えてもらえますか」
声が静かだった。問い詰める声ではなかった。ただ知りたかった、という声だった。
「調査中です。ですが——ルーファスが持っていた写しが関係していたことは、ほぼ確実です」
男が目を閉じた。今度は長かった。
窓の外で、何かの鳥が短く鳴いた。施設の中では聞こえなかった音が、突然届いた。
「最後まで、手放さなかったんですね」
返す言葉がなかった。あったかもしれないが、この沈黙を言葉で満たすべきではなかった。男の声には、問いでも嘆きでもない何かがあった。三年間、封じられた場所で、外のルーファスが写しを持ち続けていたことを——信じていた人間の声だった。
受け取った。
「ベルナルドに会わせてもらえますか」
男が目を開けた。
「話してくれると思います」アルヴィンが立ち上がった。今度は、足が遅れなかった。「彼はずっと、誰かに話したかったはずです。ただ、誰も来なかった」
廊下の方でデルクスの足音がした。待機していた。扉の外から、この部屋の中を聞いていたかもしれなかった。あるいは聞いていなかったかもしれない。どちらにせよ、次の部屋へ案内を求めるだけだった。
アルヴィン・ケロウが扉の方を見た。三年間、この扉の向こうへ出られなかった男が、今、その扉を見ていた。
「一緒に行きますか」
男が少し考えた。
「……連れて行ってもらえますか」
シリルが扉に手をかけた。
廊下の冷えた空気が、部屋の中に流れ込んできた。
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