焼かれなかった名前
しばらく不定期更新で進みます。
朝、台所の音が聞こえる前に目が覚めた。
窓の外がまだ暗い時刻だった。天井の石は夏でも冷たく見えた。
机の上に覚え書きがある。昨夜書き足した一行が残っている。
ランゲ・エドヴァルト。文書管理部門次席監査官。指示書の筆跡と一致。ランゲの上に命令した人間がいる。
目を閉じた。明後日、シリルの協力者が書庫の閲覧申請記録を調べる。それまで動けない。
食事の前にグレゴールが書斎へ来た。
燭台に火をつけに来ただけのはずだった。でも部屋の入り口に立ったまま、動かなかった。
「何か」
グレゴールが振り返った。老人の顔が燭台の光を受けて、片側だけ明るくなった。
「お嬢様が昨夜、遅くにお戻りになりました」
「そうですね」
「カルロから聞きました。宿屋に寄っていらしたと」
「はい」
グレゴールが動いた。扉を閉めた。それだけで、部屋の空気の意味が変わった。
「三年前の査察の件を、お調べになっていますか」
炎が揺れた。
「……知っているんですか」
「ルーファス様から聞きました。亡くなる三日前でした」
胸のあたりが重くなった。ルーファスが死んだのが七日前。グレゴールはその四日前から、この話を抱えていた。
「ルーファス様が、何をおっしゃっていたんですか」
グレゴールが少し間を置いた。
「ランゲという名前を出されました。文書管理部門の人間で、三年前の査察で不正な書類に関わったと。写しを持っておられました」
「写し」
「お嬢様に必要になった時に渡すよう、預かっておりました」
机の引き出しを見た。違う。グレゴールが胸元に手をやった。上着の内ポケットから、折りたたんだ紙が出てきた。
受け取った。広げた。
右肩上がりの、細かい文字。数字の「三」の最後の画に、特徴的な跳ね方。
昨夜シリルと見比べた書類と同じだった。
「グレゴール。ルーファス様はこの書類をどこで手に入れたか、言っていましたか」
「おっしゃいませんでした。ただ、西塔へ向かわれる前の晩に渡されました。もし自分に何かあったら、お嬢様に見せろ、と」
ルーファスは自分が呼び出される理由を知っていた。それがどういう結末を招くかも、ある程度見えていた。それでも西塔へ行った。
「ルーファス様はなぜ、私に」
「お嬢様が解けると思っておられたのでしょう」
グレゴールの声に感情はなかった。事実を述べている声だった。
「お嬢様はこの屋敷に来られてから、変わられました。ルーファス様はそれを見ておられました」
変わった。レティシア公爵令嬢として生まれた人間ではなく、自分として行動し始めた、ということを、ルーファスは気づいていた。
「グレゴール。三年前に何があったか、知っていますか」
老人が部屋の奥へ歩いた。椅子は使わなかった。窓の前に立って、外の明けかけた空を見た。
「査察が入りました。この屋敷では。ルーファス様が局に提出した書類に、不審な点があるという名目で」
「不審な点」
「実際には、なかったのです。ルーファス様の書類には問題がなかった。ただ、局側の書類に署名されていました。補助承認者の欄に、ルーファス様のお名前が使われていた」
補助承認者欄。
黒檻台帳に関連する手続きで、誰かがルーファスの名前を無断で使った。それが三年前だった。
「その補助承認書類に、他に誰の名前がありましたか」
「一人しか見ておりません」グレゴールが窓から視線を戻した。「ルーファス様が見せてくださった、焼く前に。局内の者で、そのとき既に局を辞めていた人間の名前でした」
「名前を覚えていますか」
「アルヴィン・ケロウという方でした」
部屋の空気が動いた気がした。窓は閉まっていた。炎が揺れた。
アルヴィン・ケロウ。フランクルが固まった名前。シリルが三年間追いかけている人間。行方がわかっていない。
「その書類に、最終的な承認者の署名はありましたか」
「ございました。上席者の署名欄に捺印も。ルーファス様が、局の上の方だとおっしゃっていました。お名前を一度目にしました」
グレゴールが沈黙した。
「言えますか」
「ヴァン・テルフという名前でした」
知らない名前だった。局の中での地位が高い人間。三年前に、アルヴィン・ケロウとランゲの周囲にいた人間。
「ルーファス様はなぜ書類を焼いたんですか」
「脅されたからです」グレゴールの声が静かに落ちた。「三年前に、ルーファス様が書類を持ったまま局に問い合わせようとした時、何者かから手紙が届きました。書類を持ち続けるなら、この屋敷の者全員が消えると」
窓の外の空が白んでいた。夜明けが近かった。
「それで焼いた」
「はい。ルーファス様はそう判断されました」
三年前、ルーファスは書類を焼くことで屋敷を守った。でも写しを取っていた。グレゴールに渡して、西塔へ行った。
「この写しは、どこで」
「焼く前夜に作られたものです。ルーファス様は器用でしたので。元の書類の内容を、手で写された」
だから局側に印影がない。ルーファスが手で写したものだった。
グレゴールが去った後、机に向かった。
覚え書きに一行加えた。
ヴァン・テルフ。上席者署名欄。三年前、査察書類の最終承認者。ランゲに指示した可能性が高い。アルヴィン・ケロウと同一の書類に名前がある。
ペンを置いた。
シリルの協力者は書庫の閲覧申請記録を調べる予定だった。ランゲと同じ時期に同じ種類の書類を閲覧した人間を絞り込む。そこにヴァン・テルフの名前があれば、三年前の繋がりが証明に近づく。
問題は、ヴァン・テルフが今も局に在籍しているかどうかだった。三年が経っていた。
シリルに知らせる必要があった。今日中に。
伝書は使わなかった。局内に回る可能性があった。カルロを呼んだ。
「シリル様のところへ直接行って、昨夜の宿屋へ伝言を届けることはできますか」
カルロが少し考えた。
「宿屋の場所は分かります。昨夜お連れしましたから」
「名前は出さずに、こう伝えてください。——書庫で調べる名前について、前回とは別の情報が入った。会う必要がある」
カルロが出かけた。
書斎に戻った。ルーファスが写した書類を机の上に広げたまま、しばらく見た。
右肩上がりの、細かい文字。ランゲの筆跡。その隣に、別の書き方の文字でアルヴィン・ケロウの名前があった。そしてヴァン・テルフの署名。
三年前に、この三人が同じ書類の上にいた。
アルヴィンは消えた。ランゲは残った。ヴァン・テルフはどこにいるのか。
書類を折りたたんだ。覚え書きの間に挟んだ。
明後日まで待つ必要は、もうなかった。
昼前に返事が来た。
カルロが小さな封筒を持ってきた。一行だけ書いてあった。
——十六時に、南通りの薬屋の裏。単独で。
封筒を燭台の火で焼いた。残った灰を手で崩した。
十六時まで、待った。
薬屋の裏は、建物と建物の間の狭い路地だった。夕刻近い光が石畳を斜めに照らしていた。
シリルが先に来ていた。壁に背をつけて立っていた。
近づくと、シリルが視線で周囲を確認してから口を開いた。
「情報とは」
「グレゴールから。ルーファスが死ぬ前に渡した書類の写しがありました。三年前の、補助承認書類の写し」
シリルが動かなかった。
「その書類に、名前が三つありました。ランゲ。アルヴィン・ケロウ。そしてヴァン・テルフ。上席者の署名欄に」
「ヴァン・テルフ」
シリルの声のトーンが変わった。知っている名前だった。
「知っている人物ですか」
「知っている」少し時間を使ってから答えた。「現在は局を離れている。三年前に文書局の副長を務めていた。査察関連の書類は、副長の承認なしに通らない」
副長。
文書局の副長が、三年前に承認者だった。ランゲはその副長の指示で動いていた。アルヴィン・ケロウの名前が、同じ書類に載っていた。
「ヴァン・テルフは今、どこにいますか」
「辞めた後、北部の領地に戻ったと記録にある。だが」シリルが少し止まった。「三年前に私が調査しようとした時、その人物の在所確認を申請した書類が握りつぶされた」
「誰に」
「申請を受けた部署が、保留のまま動かなかった。担当者を問い合わせると、異動があって連絡が取れないと言われた。その後、書類上の記録に書き換えられた痕跡があった」
「三年前から、誰かがヴァン・テルフの行方を隠している」
「そういうことだ」
路地の奥で、どこかの建物の扉が閉まる音がした。風が冷たかった。
「アルヴィン・ケロウも、ヴァン・テルフも、消えている。ランゲだけが残っている」
「ランゲは残る必要があった。書類処理の実務を動かせる人間として」
使われていた、ということだった。三年前も今も。
「書庫の閲覧申請記録を調べれば、ヴァン・テルフとランゲの接触の記録が出ますか」
「三年前の記録が残っていれば。だが書き換えられている可能性がある」
「残っているかどうか含めて、明後日の調査で分かりますか」
「それが分かることが、まず最初の成果になる」
シリルが壁から離れた。
「ルーファスの写し、持っているか」
上着の内ポケットから出した。受け取ったシリルが、それを広げて一点で視線を止めた。
「ランゲの筆跡と昨夜の書類で一致した特徴が、ここにも」
「署名欄の右側です」
シリルが折りたたんで返した。
「写しを取る。元の紙は持っておいてくれ。最終的に照合に使う」
受け取った。
路地が夕刻の影に沈んでいた。
「ヴァン・テルフが局を離れた理由は何ですか」
「辞表が提出されている。理由は個人的事情とある」
「信じていますか」
答えまでに間があった。
「信じていない。三年前の査察の直後に辞めている。タイミングが合いすぎる」
タイミングが合いすぎる。
ヴァン・テルフは、何かが動き始める前に局を出た。アルヴィンも消えた。ランゲだけが残って、書類を処理し続けた。誰かが、この構造を作った。
ヴァン・テルフを動かしていた人間がいる。
「副長の上には」
「次長と局長がいる」シリルが短く答えた。「どちらも、三年前と今で人が変わっている」
変わっている。入れ替わりが隠蔽の一部かもしれない。あるいはそれとは無関係な人事かもしれない。
「明後日の調査で、ヴァン・テルフの名前が書庫の記録に残っていれば」
「残っていれば、ランゲとの接触が証明できる。ヴァン・テルフが承認者として書類に残っている事実と合わせて、三年前の指示命令系統が形になる」
「その先に、誰かいると思いますか」
シリルが視線を路地の奥に向けた。建物の角から街の音が聞こえていた。
「いる。ヴァン・テルフは書類を通す立場だった。でも書類の内容を決めた人間が別にいる。何を通すか、誰の名前を使うか——それを決める立場の人間が」
「黒檻台帳を管理する立場の人間」
「そうだ」
シリルが路地の入り口の方向を確認した。
「戻ってくれ。明後日、動いたら連絡する」
「分かりました」
路地を出た。南通りの石畳が夕方の光を受けて、温かい色になっていた。
頭の中に線を引いた。
ランゲ——ヴァン・テルフ——その上に誰か。
ヴァン・テルフの先が、黒檻台帳の核心に繋がっている。
馬車まで歩きながら、アルヴィン・ケロウのことを考えた。
ヴァン・テルフと同じ書類に名前があった。ヴァン・テルフが消えた時期と前後して、アルヴィンも消えた。
二人の消え方が、違う可能性があった。
ヴァン・テルフは自分で消えた。アルヴィンは、消された。
その違いが正しければ、アルヴィンだけが証人として残っている可能性があった。
まだ生きているか、そうでないか。
どちらかを知るためには、ヴァン・テルフの先にいる人間に近づく必要があった。
馬車の扉を閉めた。
石畳の音が始まった。
公爵家の窓に明かりが灯っているのが見えた。グレゴールが三年間抱えてきた紙一枚が、今日ようやく動き始めた。
ルーファスは焼けなかった書類を、最後の最後にこちらへ渡した。
次は、それを証明に変える番だった。
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