照合
しばらく不定期更新で進みます。
翌朝、グレゴールから報告を受けた。
「使いは昨晩のうちに届けてまいりました。受け取りの確認も取れております」
「ありがとう」
それだけ聞けば十分だった。封筒はシリルの手元にある。後は向こうの動きを待つだけだった。
窓の外は曇っていた。公爵家の庭に霧が薄く残っていて、石畳が湿っていた。夜のうちに雨が降ったのかもしれなかった。
朝食を済ませた後、机に座った。
昨日フランクルから聞いた事実を、紙に整理した。頭の中で並べているだけでは輪郭が歪む。書き出すと、線が見えてくることがある。
三年前、補助承認書類への署名をフランクルに求めた人間がいる。名前のない指示書を封筒に入れて送った。その筆跡が残っている。局内の書類と照合すれば特定できる。
フランクルはアルヴィン・ケロウの名前で固まった。
繋がり方がまだわからなかった。アルヴィンはフランクルの同期だったのかもしれないし、担当案件で関わった相手だったのかもしれない。あるいは、アルヴィンが失踪したことを知っていて、その事実が恐怖になっているのかもしれなかった。
知っていて話せない。
その言葉がどこかで引っかかっていた。
昼前に使いが来た。
シリルからだった。
「今夜、局の外で会いたい。馬車を手配する。場所は追って」
短い文面だった。追記はなかった。
今夜。
指示書の筆跡照合が動いているなら、それだけ早く結果が出ているということだ。あるいは別の情報が入った可能性もあった。どちらにせよ、急いでいる。
グレゴールに今夜の外出を伝えた。
「お供は」
「カルロを頼めますか」
「手配いたします」
「他には知らせなくていいです」
グレゴールが頷いた。それ以上は聞かなかった。三日前から変わらない反応だった。このひとは公爵家の中で何が動いているかを察している。察したうえで黙っている。
どこまで知っているのか、いつか確認しなければならないかもしれなかった。
夜になった。
馬車が公爵家の裏門の前に止まった。表門ではなく裏門だった。送ってきた者が、目立たないことを優先していた。
乗り込んだ。
中にシリルがいた。
明かりのない車内で、窓から差し込む街灯の光だけが輪郭を作っていた。腕を組んで座っていた。表情は暗がりで読めなかった。
「遅かった」
「呼ばれてから半日も経っていませんよ」
「そうだな」
馬車が動き始めた。どこへ向かうのか聞かなかった。聞く必要がなかった。向こうが決めた場所がある。
「封筒は確認した」
「筆跡の照合は」
「協力者がいる。今日の午後に局内の書類と突き合わせた」
腕を組んだまま窓の外を見た。
「一致した」
短い文だった。
「誰の筆跡でしたか」
シリルが組んでいた腕を解いた。片手を膝の上に置いた。
「エドヴァルト・ランゲ。文書管理部門の次席監査官。在職二十三年」
聞いたことのない名前だった。
「今も在職していますか」
「している。精勤で知られている。大きな問題を起こしたことがない。それが逆に問題だった」
「どういう意味ですか」
「無難な人間が上から使われる時がある。命令に従う性質で、責任を取らせやすい立場にいる人間を、上は好む」
窓の外で街並みが後ろに流れた。今度はこちらが黙った。
精勤で、問題がなく、在職二十三年。その人間が三年前、名前のない指示書を書いてフランクルに送った。
「ランゲ本人が発案したわけではないと」
「そうだとすれば、彼の上から指示が来た。ランゲは中継点に過ぎない」
「その上が、黒幕ということになる」
シリルが頷いた。暗がりの中でも、その動きははっきりわかった。
馬車が止まった。
古い宿屋の裏口だった。シリルが先に降りた。こちらの手を取った。一瞬だけ手が触れた。
その時、切れ端が届いた。
緊張だった。しかし表面のものではなかった。もっと深いところにある、長い間かかえてきた種類の緊張だった。シリルがこの調査を通じて感じてきた何かが、ほんの一瞬だけ表に出た。
扉が閉まって、手が離れた。
宿屋の廊下を歩いた。二階に上がった。突き当たりの部屋をシリルが開けた。
窓のない小部屋だった。テーブルと椅子が二つ。燭台が一本。
シリルが扉を内側から閂で留めた。
椅子に座った。向かいにシリルが座った。テーブルの上に封筒が一つ置かれた。フランクルから受け取ったものではなかった。別のものだった。
「ランゲの筆跡を確認した書類と、フランクルから受け取った封筒の写しだ」
封筒を開けた。二枚の紙が入っていた。
一枚目は局内の正式書類だった。文書管理部門の承認印の脇に、署名が入っていた。右肩上がりの、細かい文字。数字の「三」の最後の画に、特徴的な跳ね方があった。
二枚目は、フランクルから受け取った指示書の写しだった。
見比べた。
同じだった。
数字の「三」の跳ね方が、完全に一致していた。右肩上がりの角度も、文字の細かさも。筆者が同じ人間だと、専門家でなくても分かるだけの一致があった。
「これが証拠になりますか」
「筆跡照合の専門家を入れれば正式な証拠になる。今の段階では動くための根拠になる」
テーブルの上に紙を戻した。
「ランゲに接触できますか」
「できない。動けば上に伝わる。ランゲを通じて、命令した側に私たちが筆跡を掴んだことが知れる」
「では」
「ランゲの上を特定する必要がある。ランゲの通常業務の中で、誰と連絡を取っていたかを調べる。三年前の前後で、通常とは異なる動きがあれば痕跡が残る」
「時間がかかる」
「かかる」
シリルが燭台の炎を見た。揺れていた。外から風が入っているわけではなかった。炎が自分で揺れていた。
「アルヴィン・ケロウについて聞いた」
顔を上げた。
「フランクルの反応は、覚え書きに書いた通りです。固まった後に否定した。知っていて話せない様子でした」
「そうだろうと思っていた」
「ご存知だったんですか」
シリルが炎から目を離した。
「フランクルとアルヴィンは、三年前に同じ案件を担当していた可能性がある。記録で確認しようとしたが、関連する書類が消えている」
「消えている」
「三年前の査察関連書類の一部が、記録上存在するのに実物がない。破棄記録もない。ただ、ない」
胃のあたりが重くなった。
「アルヴィンが消した、あるいは誰かがアルヴィンの関与を消した」
「どちらかだ。どちらかによって、次に調べる方向が変わる」
テーブルの上の紙をもう一度見た。数字の「三」の跳ね方。
これを書いた人間がランゲだとわかった。ランゲを動かした人間がいる。その人間を特定するには、ランゲの周囲を調べる必要がある。しかしランゲに接触すれば逆に気取られる。
「ランゲが三年前に誰と連絡を取っていたか。それを、ランゲ本人を通じずに調べる方法はありますか」
シリルが少し考えた。
「書庫の受け取り記録がある。閲覧申請に氏名が残る。同じ時期に同じ種類の書類を申請していた人間が複数いれば、その中に接触相手がいる可能性がある」
「申請できますか」
「私の名義では難しい。私が申請した記録が残れば、調査の方向性が伝わる」
「では誰か別の人間が申請する」
「協力者の一人が使える。明後日には動ける」
明後日。
フランクルが指示書を渡したのが昨日。今日、筆跡照合が完了した。明後日には次の手が動く。
速い。
「ランゲの上を特定できた時、どうするつもりですか」
シリルが答えるまでに間があった。
「それは特定してから考える」
正直な答えだった。決めていないということではなく、相手が誰かによって手段が変わるということだった。
「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「アルヴィン・ケロウは、今どこにいると思いますか」
炎が揺れた。
シリルが答えなかった。答えない、という意思が伝わってくるような沈黙だった。知っているのか、それとも知ろうとするのが怖いのか、どちらかだった。
「分からない」
低い声だった。
「三年前から追っている。手がかりは出てくる。でも本人が出てこない」
手がかりは出てくる、という言い方だった。完全に追跡が途切れているわけではない。それでも本人には辿り着いていない。
生きているのか、死んでいるのか。
その問いを声にしなかった。今は必要な問いではなかった。
「ランゲの上の人間が誰か分かれば、アルヴィンの消息も変わってくる可能性がありますか」
シリルが少し間を置いた。
「ある。アルヴィンが自分の意思で消えているなら、こちらが真相に近づくほど動きやすくなる。誰かに消されているなら、指示した人間と同じ場所に繋がる」
どちらにせよ、ランゲの上にいる人間が鍵を持っている。
燭台の炎が、また揺れた。
宿屋を出た。
夜の通りは静かだった。馬車が待っていた。カルロが御者台に座っていた。
乗り込む前に、シリルが言った。
「フランクルは今夜、南区の家にいる」
「確認しているんですか」
「朝から見ている」
昨日フランクルと会って、そのまま見張りを立てたということだった。フランクルが指示書を渡した事実を、誰かに伝えることを警戒している。
「何かあればすぐに知らせる」
馬車の扉を閉めた。
窓から見ると、シリルは別の馬車に乗り込んでいた。公爵家の方向ではなく、局の方向でもなかった。どこへ向かうのか、見えなくなるまで窓の外を見ていた。
馬車が動き始めた。
頭の中に順番を並べた。
ランゲが指示書を書いた。ランゲに指示した人間がいる。ランゲの周囲を明後日から調べる。書庫の閲覧申請記録に、ランゲと同じ時期に動いていた人間がいれば、そこに接触相手の候補がいる。
アルヴィン・ケロウは行方がわかっていない。フランクルはその名前で固まった。
二つの糸が、同じ場所に繋がっている可能性があった。
三年前。査察書類。消えた秘書。そしてランゲ。
誰かがこの全てを、三年間動かしてきた。
石畳の上を車輪が渡っていく音が、外から低く届いた。
公爵家の門が見えた時、玄関の明かりを背にしてグレゴールが立っているのが見えた。
夜の冷気の中で、出迎えというより待っていた、という立ち方だった。扉が開くのを、ただ待っていた。
三年間、このひとも何かを待ち続けてきたのかもしれない。
馬車が止まった。
書斎に戻った。
机の上に自分で書いた覚え書きが残っていた。昼間に整理したものだった。一行加えた。
ランゲ・エドヴァルト。文書管理部門次席監査官。指示書の筆跡と一致。ランゲの上に命令した人間がいる。
読み返した。
三年前から始まった事件が、今もまだ動いている。ルーファスが死んだのは、この三年間の積み重ねが臨界点に達したからだった。
次は、ランゲの上にいる人間だった。
燭台の火を消した。
暗くなった部屋の中で、フランクルの部屋の窓に掛かっていた厚い布を思い出した。昼の光を殺していた。三年間、そうやって光を入れない部屋に住んでいた男が、指示書を誰かに渡した夜をどう過ごしているか、少し考えた。
答えは出なかった。
眠ることにした。
明後日、動きがある。
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