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転移先は密室殺人事件の渦中!? 悪役令嬢に憑依した私が、魔法世界で異能力探偵になります   作者: 堀吉 蔵人


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退いた男

しばらく不定期更新で進みます。

馬車の窓の外で、北地区の石造りが途切れた。


漆喰と木の建物が増えた。路地が狭くなった。朝市の残骸——踏み込まれた野菜くずと泥が混じった痕跡——が石畳の端に寄せられていた。荷を担いだ男が横を抜けた。洗い物を抱えた女が路地の奥へ消えた。通りを歩く人間の目線が、一様に低かった。


護衛のカルロは御者台に座ったまま何も言わなかった。昨日グレゴールが準備した男で、名前だけ聞いた。余計なことを言わない人間だった。それで十分だった。


膝の上に紙を広げた。シリルが手書きで加えた行だった。


エドモント・フランクル。南区四番街、路地奥の長屋。


記録管理部門に長く在職。三年前に退職。


書庫に来た日から三日後、公爵家の書類が消えた。補助承認の書類に何らかの形で関与した記録がある。


シリルが言った言葉を思い返した。「指示の出所が分かれば、ヴァルサーと書類が繋がる」。


一つだけ聞けばいい。


誰の指示で署名したか、を。



大通りで馬車を止めた。路地の入り口が馬車の幅より狭かった。


カルロが先に降りた。入り口を見た。頷いた。行けます、とだけ言った。


長屋の壁は古かった。漆喰が角から剥がれ、雨染みが横方向に幾本も走っていた。扉が四つ並んでいた。一番奥が目的の番号だった。


扉を三度叩いた。


返事がなかった。


もう一度叩いた。


「誰だ」


低い声だった。扉越しにくぐもっていた。


「エドモント・フランクルさんですか。三年前の査察書類について、話を聞かせていただけますか」


沈黙があった。長かった。


扉が開いた。


六十前後の男が立っていた。白い無精髭。眉間の皺が深かった。目だけが動いていた。カルロを確認し、こちらを見て、路地の先を素早く確認した。昔、人を調べる側にいた人間の動き方だった。


「一人か」


「護衛が一人います。彼は外で待ちます」


男がカルロを見た。カルロは表情を変えなかった。腕を組んで路地の入り口に背を向けた。


男が扉を大きく開けた。



部屋は狭かった。


テーブルが一つ、椅子が二つ。棚に本が数冊。窓に厚い布が掛かっていて、昼前の光を殺していた。壁際に木箱が三つ積まれていた。


「座れ」


椅子を一つ指で示した。男自身は窓際の椅子を引いて座った。こちらを正面から見た。目の角度が高かった。


「公爵令嬢が南区まで来る用件がある」


「ハートウェル様から名前を伺いました」


男の目が細くなった。


「ハートウェルが動いているのなら、なぜ自分で来ない」


「あなたに接触したことが局内に伝わると困る方が、私ではない側にいます」


短い沈黙があった。男がテーブルの端に視線を落とした。


その時、何かが届いた。


異能は感覚に近かった。視覚でも聴覚でもなかった。皮膚の下を電流のように走るものだった。相手の感情の切れ端が、距離が縮まった瞬間に届く。言葉ではなく、輪郭のないものだった。


恐怖ではなかった。


何年も同じものを抱えてきた人間の、疲れに近いものだった。


「補助承認の書類に署名した当時の話を聞かせていただけますか。誰の指示で署名されましたか」


「答える理由がない」


「写しがあります」


男の顔が止まった。


目の動きが、一瞬だけ消えた。


「——どこから出た」


「分かりません。でも手元にあります。四名の署名が残っている。写しが証拠になれば、指示の出所との繋がりが証明できる」


男が立ち上がった。


棚の一番下の引き出しを開けた。


封筒が一つ出てきた。封が開いていた。テーブルの上に置いた。音がなかった。そっと置いた、という動き方ではなく、降ろした、という感じだった。


「三年前に受け取ったものだ。指示書だ。名前は書いていない。ただし——筆跡は残る。局内の書類と照合すれば、分かる人間には分かる」


中を確認した。


紙が一枚。十行ほどの文章だった。補助承認書類への署名を求める内容で、上位機関の要請による案件として通常手続きの例外処理とすること、という指示だった。名前の欄は空白のままだった。


筆跡を見た。右肩上がりの、細かい文字だった。数字の「三」の最後の画が、特徴的な跳ね方をしていた。


「三年間、これを持っていた理由は」


男が息を吐いた。窓の布の縁が、かすかに揺れた。


「使い道がなかった。名前のない指示書一枚を私が持っていても、何も証明できない。捨てることもできなかった」


封筒を受け取った。


その時、紙に触れた瞬間に切れ端が来た。書いた人間のものではなかった。受け取った男の記憶に焼き付いていたものだった。三年前、その封筒が届いた日の感触だった。


重かった。


押しつぶされるような種類の重さだった。


「感謝します」


男が短く顎を引いた。それだけだった。



「もう一つだけ、聞いていいですか」


男が椅子に座ったまま、こちらを見た。


「アルヴィン・ケロウという名前を知っていますか」


固まった。


一拍もかからなかった。体が止まり、顔が止まった。まばたきが一瞬途絶えた。


「——知らない」


「ご存知のはずです」


「知らないと言った」


声が一段低くなっていた。


「アルヴィン・ケロウは今どこにいますか」


「話は終わりだ」


立ち上がって扉を手で示した。


立ち上がった。封筒を懐に収めた。扉に向かいながら、一度だけ振り返った。


男は窓の方を向いていた。こちらを見ていなかった。


「今日、話していただいたことに感謝します」


返事はなかった。



路地に出た。


カルロが入り口で待っていた。封筒が懐にある。軽かった。


馬車まで歩いた。石畳に昼前の影が斜めに落ちていた。


アルヴィン・ケロウ。


フランクルはその名前を知っていた。固まった。固まってから否定した。知っていて話せない何かがあるか、知っていて話したくない何かがあるか。どちらかだった。どちらかの違いは、今は分からなかった。


馬車に乗り込んだ。封筒を膝の上に出した。


筆跡を見た。右肩上がり。数字の「三」の跳ね方。局内でこの文字を書く人間が特定できれば、補助承認の指示がどこから出たか分かる。その指示がヴァルサーと繋がれば、写しの四名と上の人間が一本の線で繋がる。


三年間、あの男は封筒を持ち続けた。


使い道がなかったと言った。出口がなかったのだ。名前のない書類を一人で持っていても証明できない。それでも捨てなかった。捨てることで何かが消えてしまうのを、拒んでいたのかもしれなかった。


窓の外で南区の家並みが後ろへ流れた。


フランクルがアルヴィンの名前で固まった事実を、シリルはどう受け取るか。



公爵家に戻ると、グレゴールが玄関に立っていた。


「ハートウェル様から使いが来ております」


「手紙がありますか」


「書斎でお預かりしています」


書斎の机の上に封書が一通あった。短い文面だった。筆跡照合のため局内に協力者を確保した。今日中に文書を渡してほしいという内容だった。


追記が一行あった。別のインクで書かれていた。後から付け足したのだと分かった。


「アルヴィン・ケロウについて、何か得られた場合は至急連絡を」


シリルもその名前を追っていた。


グレゴールを呼んだ。今夜の使いを頼んだ。封筒と、覚え書きを一枚用意した。フランクルから受け取った旨と、アルヴィンの名前に対する反応を短く書いた。理由は書かなかった。事実だけを書いた。


封緘した。


窓の外が夕刻に向かっていた。


南区の長屋の男が、今夜どうしているかを少し考えた。三年分の重さを誰かに渡した後の夜だった。引き受けたのは自分だった。指示書の筆跡を確かめる作業は、これからだった。


グレゴールが使いに出た足音が、廊下を遠ざかっていった。

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