三年前の来客
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夜通し机の前にいた。
窓の外が黒から藍に変わり、藍から灰になるのを、ただ見ていた。体を動かす理由がなかった。封書は引き出しの中にある。机の上に出したままにしておけなかった。夜中に手を伸ばしてしまいそうで、引き出しに入れた。
入れても、そこにあるという感触は消えなかった。
四つの名前。三つは知らない。一つは知っている。
知っているというのは正確ではなかった。一度だけ、シリルが上官の名前として口にした。顔も知らない。声も知らない。三年前の書類に署名した、という事実だけがある。それだけで、何かが変わってしまった夜だった。
窓ガラスに朝露が張った頃、橙色が白に変わっていた。
グレゴールが茶を持ってきた。
書斎の床に書き散らした紙が三枚あった。思考を整理しようとして、うまくいかないまま丸めた紙だった。老執事はそれを見た。窓の明かりを見た。机の引き出しに視線が止まった。それだけだった。
「グレゴール」
出て行こうとする背中に声をかけた。
「三年前の査察について。書類への署名に関わった人間を、あなたは知っていますか」
老執事が振り返った。答えるまでに少し間があった。考えているのではなかった。どこまで話すかを測っている間だと分かった。
「公爵様が、当時の査察書類をご覧になったことがございました」
「査察後のことですか」
「はい。ご覧になった翌日、書庫の一部が空になっておりました」
「誰が持ち出したか、分かりましたか」
「分かりませんでした」グレゴールが目を伏せた。「お嬢様がまだ小さかった頃のことです。私が気づいた時には、既に三日が経っておりました。公爵様にお伝えしましたが、それ以上何もおっしゃらなかった。その後、査察の話は屋敷の中で出なくなりました」
扉が静かに閉まった。
書庫の書類が消えた。三年前、査察の後。それとライエが補助承認欄を切り取って逃げた話が、同じ線上にある気がしていた。どう繋がるかは、まだ見えなかった。
シリルが来たのは、午前の早い時刻だった。約束より前だった。
外套に朝の冷気が染みていた。夜の疲れは顔に出ていなかったが、目の下がわずかに窪んでいた。眠れなかった人間の顔だった。自分も同じ顔をしているはずだった。
「早かった」
「局に寄った後、直接来ました」椅子を引いて座った。「通常の報告書だけ出してきました。ヴァルサーには会っていません」
懐から紙を出した。机の上に広げた。几帳面な字で事案の概要と対応の優先順位が書いてあった。ヴァルサーの名前はなかった。最後の項目だけが空欄だった。
「ヴァルサーについては、今は動きません」
「証拠が弱いから」
「それだけではありません」シリルが紙の端を指で押さえた。「補助承認の書類には複数の署名があった。写しに四つの名前がある。一人だけ追い詰めても、関与者が残れば終わりません。全ての経路を繋げてから、一度に動く必要があります」
「時間がかかれば向こうが先に動く」
「はい。だから——」シリルが視線を上げた。「一つ、心当たりがあります。記録管理部門に長く在職していた人間で、今は退職しています。三年前の査察に直接関与していた記録がある。エドモント・フランクルという名前です」
「どこにいますか」
「南区の民間に住んでいます。今日、会いに行けますか」
「行けます」
「あなたが会いに行けば、私の名前は表に出ない。ヴァルサー側に動きが伝わる前に、証言が取れます」シリルが一拍置いた。「それ以上に——あなたの異能を使えれば、相手が話せる状態かどうかが分かる。私には判断できないことです」
直接的だった。一晩で何かが変わっていた。
「監視札の範囲内で動けますか」
「確認しました。護衛を一人つければ問題ない」
「会ったら、何を聞きますか」
「一つだけ」シリルが紙にフランクルの名前と住所を書き加えた。「補助承認の書類に署名した時、誰の指示を受けたか、を。それだけで十分です。指示の出所が分かれば、ヴァルサーと書類が繋がる。写しが証拠になる」
紙を差し出してきた。受け取った。
「もう一つ、聞いていいですか」
シリルが顔を上げた。
「今朝、グレゴールから話を聞きました。三年前、査察の後に公爵家の書庫から書類が消えたそうです。誰が持ち出したかは分からなかったと」
シリルの目が少し鋭くなった。情報を精査している顔だった。
「グレゴールから直接、話を聞かせてもらえますか」
グレゴールを呼んだ。一分もしないうちに足音がした。
老執事が入ってきた。シリルを見た。表情は変わらなかった。
「ハートウェル様に、書庫の件を話してもらえますか」
グレゴールがシリルを見た。シリルがグレゴールを見た。短い沈黙があった。
「三年前、公爵様が査察書類をご覧になった三日後、書庫の一部が空になっておりました」グレゴールが言った。「誰が持ち出したかは確認できていません。査察前後に書庫を利用した方は、公爵様ご本人、ライエ殿、私の三名が常時おりました。加えて——来客が一名、書庫に通っております」
シリルの手が止まった。
「来客というのは」
「王立魔法捜査局からのお方でした。査察書類の確認という名目で、一度だけ書庫に通しました。訪問記録に残っているはずです」
「名前は覚えていますか」
「記録を確認すれば分かります」
「後で見せてもらえますか」
グレゴールが頷いた。出て行った。
書庫は屋敷の奥にあった。
グレゴールと棚の間を歩いた。三年前の来客記録を探すのに、三十分かかった。査察前後の時期は棚の整理が途中のまま止まっていた。
帳簿が一冊出てきた。訪問記録だった。
グレゴールが該当の月を開いた。
一行があった。
日付。来訪者の所属と名前。用件。案内した場所。
所属:王立魔法捜査局記録管理部。
名前:エドモント・フランクル。
用件:査察書類の確認。案内先:書庫。
手が止まった。止まったことに、少し遅れて気づいた。
フランクルは三年前にここにいた。書庫に通されていた。
「この方が来た時のことを覚えていますか」
「覚えております。若い方でした。一時間ほど書庫にいらっしゃいました。確認が終わった後、私がお見送りしました」
「書庫の書類が消えたのは、その何日後でしたか」
「三日後だったと記憶しています」
帳簿を閉じた。
局の退職者で、記録管理部門の人間だった。書類の扱いを知っていた。三年前に書庫に来た。その三日後に書類が消えた。
持ち出したのがフランクルだとは、まだ断言できなかった。三日後という時間差がある。別の人間が書庫に入った可能性もある。ただ——書庫を訪れたから書類の場所を把握できた。そこから先の動きは、今日会って確かめるしかなかった。
「ハートウェル様にこの記録をお知らせできますか」
「使いを出しましょうか」
「お願いします。この名前と日付を」
該当ページを示した。グレゴールが頷いた。
書庫を出た。廊下に昼前の光が入っていた。
シリルは局に戻っていた。この記録が届けば、午後の動きが変わるかもしれなかった。フランクルが証人なのか、それとも書類を持ち出した当事者なのか。どちらにしても、今日会えば分かる。
南区まで馬車で四十分ほどだった。フランクルはそこで三年間暮らしていた。三年前の書庫の件を知っているかどうかは、その扉を開けるまで分からなかった。
廊下の窓から南の空を見た。
扉の向こうで、その人間が何を知っているか。
知っていれば話すかどうか。
どちらも、会ってみなければ分からなかった。
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