封書の名前
しばらく不定期更新で進みます。
南市の石畳は、北地区より摩耗が深かった。角が丸くなった石が、靴底に均等な圧を返してくる。香辛料と染料と、川の匂いが重なっていた。肉屋の前を通るたびに脂の臭気が服に染みた。荷を担いだ男が横を抜け、子どもが呼び声をあげながら走り去った。
シリルは外套の前を閉じたまま歩いた。証票は懐に収めている。問いかけてくる者がいれば立ち止まるが、そうでなければ通行人と区別がつかない動き方だった。
染物屋通りから一本入った筋に、それはあった。
石造りの壁、古びた木の窓枠。「レヴァルト商会」の文字が看板板に彫り込まれていた。扉の前に荷箱が積まれ、封蝋が押してあった。最近届いた品だった。
店は開いていた。
押すと鈴が鳴った。
内部は思ったより広かった。棚に布地、小瓶、調理器具が並んでいた。普通の輸入品の陳列だった。帳場の奥に男がいた。四十代、薄い茶の髪、几帳面な身なりをしていた。顔を上げ、客二人を見た。目が一瞬だけ止まった。
「いらっしゃいませ。何かお探しで」
「輸入品の取引についてお聞きしたい」シリルが証票を懐から出して、すぐ戻した。「三年前、魔道具を扱っておられましたか」
「うちは雑貨専門でして。魔道具は——」
「三年前も同じですか」
男の手が止まった。帳場の算木を置く動きが、中途半端な位置で固まった。
「——変わりません。ずっと雑貨専門です」
シリルが室内に視線を流した。棚を順に確認している。男はシリルの動きを目で追っていた。その隙に、棚のそばへ歩いた。
陳列された小瓶の一つに、指先を触れた。
滑り込んでくるものがあった。感情の残滓だった。恐れや怒りではない。焦りだった——荷を受け取る前に立ち去った人間のそれ。三年近く前の痕跡だった。この棚を経由して何かが動いたことは間違いなかった。
手を離した。帳場の端に什器棚があった。扉に鍵がかかっている。鍵穴の周辺の埃が、わずかに拭われていた。最近誰かが触れた痕跡だった。
「コルネリウス・フォン・ライエという名前をご存じですか」
シリルが正面から言った。
男が息を吸った。算木を置いた。机の上に両手を平らに置いて、それから少しだけ引いた。
「——なぜその名前を」
「ご存じですか」
返事まで間があった。長い間だった。
「知らないとは言いません」
声が変わっていた。三年分の疲れが出てきた声だった。
「ライエ様には、三年前に少し。書類の確認を頼みに来ると聞いていたんですが、結局来ないまま、連絡も途絶えました。代わりに別の方が来て——確認が済んだから、もう来ないと言いました。それで終わったと思っていたんです」
「三年前以降にも、同じようなことを聞きに来た方がいましたか」
男が目を机の表面に落とした。計算でも後悔でもない。長く封じてきた何かが、問いによって動かされた顔だった。
「三ヶ月くらい前に、一度だけ」
「どのような方でしたか」
「若い男性でした。局の証票を持っていましたが、何局かは聞いていません。三年前の仕入れ先の記録を確認したいと。うちにはそういった記録がないとお答えしました」
「名前は」
「名乗りませんでした。帰り際に手帳を出していて、表紙に文字が書いてあるのが見えたんです。ドルン、という字だったと——それだけは覚えています。はっきり視界に入りましたから」
シリルが黙った。表情は変わらなかった。立ち方が変わった。肩の位置が低くなった。意識が一点に収束した人間の、静止だった。
男が続けた。
「何も持って行かずに帰りました。それ以来来ていません。でも——帰ってから夜になって、少し怖くなりました。なぜ今頃になって三年前のことを、と。うちは普通の商会です。普通の商売しかしていません。なのになぜ続けて人が来るのか、と」
声が細くなっていた。恐れではなかった。三ヶ月間、誰にも言えないまま持ちこたえてきた重さが、声の端に滲んでいた。
「その方は、あの棚に触れましたか」
男が顔を上げた。
「——見ていました。こちらを向いて話しながら、ずっとあの棚を見ていました。でも触れてはいなかったと思います。鍵が必要なことは見れば分かりますから」
棚の鍵穴を、もう一度見た。
埃が拭われている。三ヶ月前に誰かが触れた。ドルンが来た時期と一致する。中身を持って行かれていない。鍵はここにない。
外に出た。
染物屋通りの角まで歩いて、立ち止まった。往来が続いていた。昼の光が石畳に均等に落ちていた。
「ドルンが三ヶ月前にここへ来ていた」
「はい。ライエの痕跡を追っているか、自分の痕跡を消しに来たか」
「両方でしょう。何も持ち帰れなかった。ライエはまだそれを手放していない」
荷車が通った。石畳に車輪の音が響いた。
「棚を鍵なしでは開けられなかった。ドルンも同じだった。鍵はライエが持っている。あるいは誰かに預けている」
「庇護者がいる」
「三年間、住所変更の記録もなく、国外移転の記録もなく、ドルンにも見つかっていない。それだけの庇護者が」
石畳の上で光が動いていた。雲が流れていた。
「庇護者を特定するには、ライエがいた記録管理部門の人脈を洗う必要があります。局の記録を使わなければできない」
「誰を信用できるか分からない状態で」
「慎重にやります。ドルンの名前は当面報告に含めません」
「なぜですか」
「誰が聞いているか分からない」
それだけで十分だった。
書斎に戻ったのは夕方だった。
東の空から橙色が入り始めていた。グレゴールが茶を置いて出て行った。
机の上に封書があった。昨夜から動かしていなかった。
三年前に書かれた封書だった。エドワード・アンブロスが兄の代わりに持ち歩き、届けようとしていた。今は自分の手の中にある。昨夜は開けなかった。
今日になって、開ける理由がはっきりした。
ライエは三年前、書類の補助承認者の欄を切り取って逃げた。写しを作り、誰かに届けようとした。届け先はルーファスだった。ルーファスへ届けようとしたエドワード・アンブロスが、届けられないまま死んだ。封書だけが今ここにある。
爪で縁を持ち上げた。糊が乾いて固まっていたが、力をかけると剥がれた。
中に紙が二枚あった。
最初の一枚を広げた。短い文だった。
この文書を必要とする人間の手へ届けてほしい。いつになるかは分からない。しかし必ず届く日があると信じて、あなたに預ける。内容は読まないでほしい。読まなければ、守ることができる。
差出人はなかった。受取人の名前もなかった。
二枚目を広げた。几帳面な字が小さく密に書かれていた。表題はなかった。名前の列だけがあった。
補助承認者の欄の写しだった。
四つの名前。
一つ目。知らない名前だった。
二つ目。知らない名前だった。
三つ目。知らない名前だった。
最後の一つ。
王立魔法捜査局長補 コンラート・ヴァルサー。
指が止まった。止まったことに、少し遅れて気づいた。
知っている名前だった。知っているというより、聞いたことがあった。一度だけ。シリルが局内での立場を説明した時に、上官の名前として出てきた。
窓の外の橙色が、じわじわと濃くなっていた。
部屋の温度は変わっていなかった。茶が湯気を立てていた。
紙を持ったまま動けなかった。
四つの名前の最後に、コンラート・ヴァルサーの名前がある。三年前に書類に署名した人間。ライエが危険を冒して切り取り、写しを作り、届けようとした。届けられないまま三年が経った。
今朝、局内には知られたくないと言っていた人間の、上官の名前が。
紙を折り返した。四つの名前を、もう一度見た。
シリルに見せなければならない。
見せた時にシリルがどう動くか。
信用していないわけではなかった。今日一日、見ていた。南市で証票を見せた時の動き。男の証言を聞く時の静止の仕方。帰路で「誰が聞いているか分からない」と言った時の声の質。事件を追っている。それは分かっていた。
上官の名前が出た時の反応は、予測できなかった。
それでも、見せる相手は一人しかいなかった。
シリルが来たのは、日が落ちてから一時間後だった。
書斎の扉を叩く音がして、グレゴールに通されてきた。外套に夜気が入っていた。
「局への報告の整理が出来ました。内容をお伝えしておきたかったので」
椅子に掛けた。机を挟んで向かいに座った。書類を出しかけたシリルの手が、机の上の封書を見て止まった。
「それは」
「昨夜からここにありました。今日、開けました」
シリルが封書を見た。
「中に二枚あります。一枚目は届け先への書き置きです。二枚目が本体」
封書を差し出した。シリルが受け取った。
一枚目を読んだ。二枚目を広げた。
部屋が静かだった。
窓の外で風が木を揺らしていた。グレゴールが廊下を歩く音が、遠くで一度聞こえた。茶の湯気が細くなっていた。
シリルが紙を持ったまま、動かなかった。
「いつから持っていましたか」
「封書は昨夜届きました。エドワード・アンブロスが所持していたものです。ルーファスへ届けようとして、届けられなかった」
「そしてルーファスが死んだ後、あなたの手に来た」
「はい」
シリルが紙を机の上に置いた。指先が紙の端に残った。
「この名前を知っていましたか」
「今朝まで知りませんでした。あなたが上官の名前を言及した時に、初めて一致しました」
シリルが少し間を置いた。
「コンラート・ヴァルサー」
名前を声に出して言った。抑揚がなかった。
「局長補として三年前から在職しています。私の直属の上官です」
「知っていましたか。三年前の書類への署名を」
「知りませんでした」
間はなかった。シリルの目は紙の上にあった。
「信じます」
シリルが顔を上げた。
「根拠は」
「今日の動き方です。南市に局内の記録を使わず向かった。ドルンの名前を報告に含めないと言った。それは誰が聞いているか分からないからでした。ヴァルサーが共犯者と知っていたなら、もう少し違う隠し方をしていたはずです。——そう見えました」
シリルが少し考えた。
「そのような判断をしますか」
「します」
部屋の明かりが、ゆっくりと夜の濃さに変わっていた。
シリルが紙を封書の中に戻した。丁寧に折った。封書を机の上に置いた。手を引いた。持っていかなかった。
「これをどうするか。一晩考えます」
「分かりました」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「昨夜からこれを持っていて、一人で開けた。局へ持ち込まずに、私以外の誰にも見せずに」
「あなた以外に見せる相手がいませんでした」
シリルが少し間を置いた。今度は長かった。
「——ありがとうございます」
形式的な言葉ではなかった。何かが混ざっていた。
「お礼を言われるようなことではないと思いますが」
「正直に言えば」シリルが机の封書を見た。「この名前が出てくる可能性は、頭の端にはありました。誰がどこまで関与しているか分からない以上、上層部も例外ではないと。ただ——補助承認者の欄に、という形で出てくるとは」
「動揺していますか」
「しています。今も」
声は変わっていなかった。表情も変わっていなかった。でもそう言った。
「そういう顔には見えませんでした」
「見えないようにしています」シリルが立った。「一晩、一人で考えます。明朝また来ます」
扉へ向かって、途中で止まった。振り返らなかった。
「信頼してもらえているうちに、信頼に足る判断をします」
背中だけを見ていた。
扉が閉まった。
一人になった。
机の上の封書を見た。シリルが持っていかなかった。置いていった。
なぜ持っていかなかったのか。
自分の手元に置いておく方が安全だと判断したのか。それとも——自分に預けたかったのか。
夜が深くなっていた。
封書の表面に、指が触れた。
三年前に書かれた。一度も開かれないまま来た。今夜、届いた。三年遅れで。
ライエはまだどこかにいる。庇護者がいる。届けようとした証拠が、やっと動き始めた。
次に動くのは、どちらかだ。
シリルが動くか、向こうが動くか。
どちらが先かで、全てが変わる。
窓の外で風が鳴っていた。夜が静かだった。
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