死者の名前
しばらく不定期更新で進みます。
夜が深くなっても、眠れなかった。
机の上の紙を、ランプの炎が照らし続けていた。三行が浮かんでいた。
*補助承認者欄の名前——死亡したとされていた者。*
*アンブロスの宛先——局ではない。王家の直轄。届かなかった。*
*ケロウの悔恨——届けようとした何かが届かなかった。*
死者が書類を承認した。査察の印に、在職中に死んだとされる者の署名体が残っていた。事故ではない。誰かが、死者の名を使って書類を通した。問題は、その「死者」が本当に死んでいるかどうかだった。名簿から消えることと、息が止まることは違う。
扉が叩かれた。
深夜だった。使用人が来る時間ではなかった。
「どなたですか」
「シリルです」
扉を開けると、廊下にコートが濡れた男が立っていた。外套が雨を吸って黒く重くなっていた。夜の冷気が足元から入り込んだ。
「急ぎの用件ができました」
部屋に通した。ランプを一つ追加で灯した。シリルが濡れたコートを脱いで椅子に置いた。机の上の紙を見た。
「書いていましたか」
「グレゴールから聞いたことです。読んでください」
シリルが三行を読んだ。黙った。少し考えた。
「五名の中に、一人気になる記録があります。マクスウェル・ドルンという調査補助員。書類の整理・管理を担当していた者で、査察書類に触れる立場として最も自然な位置にいました。三年前の二月に死亡記録が出ています」
「査察は三月でした」
「そうです。ドルンの死亡届は二月に提出されている。ところが、三月の査察書類の補助承認者欄に、ドルンの署名体が残っている。死んでいるはずの人間が、一ヶ月後の書類に印を押した形になる」
机の上の一行が、立体を取り始めた。
「遺体確認の記録は」
「ありません。死亡証明を発行したのは局内の記録係で、外部機関への確認を求めていない。局の内部で記録を作って完結させた」
「失踪を死亡として処理した」
「そう考えるのが妥当です。ただし」
シリルが少し間を置いた。
「ケロウが封じられる三ヶ月前、近隣の宿屋にドルンという名の男が宿泊した記録があります。架空名の可能性もある。しかし筆跡が局内の旧記録と一致する可能性が高い」
三年間、死亡扱いで消えていた男が、ケロウが封じられる直前に同じ都市の宿屋に現れた。二人の間に何かがあった。接触か、あるいは片方が相手を通じて何かを届けようとした。そして一方が封じられた。
「今夜来た本来の用件は、それですか」
「別の件です。グレゴールの書庫から文書が消えた件を伝えましたね」
「今日グレゴールから聞きました」
「今夜、屋敷の近隣で不審な人物の目撃情報がありました。男。四十前後。灰色のコート。屋敷の裏口付近をうろついていた、と」
裏口が書庫に最も近い出入り口だった。
「その男の特徴を、目撃者が一点覚えていました。左手に古い傷跡があった、と。指を曲げると白く浮き上がる、と」
何かが揺れた。最近、同じものを見た気がした。どこで。誰の。
三日前。屋敷の門前。薬の届け物をしていた老人の荷物を手伝っていた男。グレゴールに小声で何か話しかけていた。振り返った瞬間、左手が視界に入った。正式な使用人ではなかった。外から来た者だった。
「三日前、門前に来た者がいます。グレゴールと話をしていた。左手の傷跡——見えた気がします」
「今夜グレゴールに確認できますか」
時計を確認した。深夜をとうに過ぎていた。
「明日の朝では」
「遅いかもしれません。書庫の文書を持ち出したとすれば、今夜中に動く」
グレゴールは眠っていなかった。扉を叩くと即座に返事が来た。老執事が寝台の端に腰を下ろし、ランプを灯していた。老いた顔に疲労が刻まれていたが、驚きの色はなかった。来ることを待っていた顔だった。
「三日前、門前に来た者のことを聞かせてください。左手に傷跡のある方です」
グレゴールが低く息を吐いた。
「……見えておりましたか」
「少しだけ」
「エドワードという名です。アンブロスの弟です」
部屋の空気が変わった。
三年前に消えた秘書の身内が、今もこの屋敷の近くにいた。書庫を探す前日に、グレゴールと言葉を交わしていた。
「エドワードは今どこに」
「都市の外れです。時折、私に会いに来ます」
「書庫の文書について、話をしましたか」
グレゴールが黙った。沈黙がそのまま答えだった。
「エドワードは、兄の消息を三年間探し続けています。私が書庫に写しがあると——うっかり話してしまったことがありました。それが」
「エドワードが持ち出した」
「私が話す前に、すでに持ち出していた可能性もあります。いつ話したか、正確に」
老執事が頭を下げた。背中が曲がった。白い髪の頂点が、ランプの光を受けた。
「申し訳ありません」
「グレゴール、顔を上げてください」
老執事の目に疲労と後悔が混ざっていた。どちらも三年分のものに見えた。
「エドワードが写しを届けようとしているとしたら、届け先は分かりますか」
「分かりません。ただ——エドワードは、兄が手紙を送ろうとした宛先を、ずっと探していました。王家の直轄に関わる人物と言われて、その名前を特定しようとしていた。もしその名前を見つけたなら、届けに行くかもしれません。今夜にも」
「アンブロスの弟です。エドワード。写しを持ち出して、兄が三年前に届けられなかったものを届けようとしている可能性があります」
廊下でシリルに伝えた。シリルが短く考えた。
「住所を」
「都市の東外れ、染物屋通りの突き当たりにある宿の二階の角部屋と聞いています」
「行きます」
「私も一緒に」
「危険があります」
「エドワードは敵ではありません。アンブロスの弟です。兄の消えた三年間を抱えて動いている人間を、私は追いません」
シリルがわずかに止まった。表情は変わらなかった。だが止まった。
「……分かりました」
馬車が石畳を叩いた。染物屋通りは眠っていた。水と灰の匂いだけがした。突き当たりの宿屋に、二階の窓だけ灯りがついていた。
宿の主人を起こした。シリルが短く話し、二階の角部屋を確認した。主人が頷いた。
階段を上がった。廊下が長かった。シリルが扉を叩いた。返事がなかった。もう一度叩いた。中で椅子が動く音がした。
「エドワード・アンブロス。王立魔法捜査局です」
沈黙が伸びた。扉の内側で何かが動く気配がした。
「入ってください」
鍵が外れた。扉が開いた。
男が立っていた。四十前後。顔色が悪かった。眠れていなかった顔だった。左手の甲に、古い傷跡が浮いていた。指の付け根から手首にかけて、縫合の跡のような白い線が走っていた。
右手に封書があった。
男の目が動いた。シリルを見た。それからこちらを見た。
「あなたは」
「レティシア・グレイです。グレゴールから話を聞きました」
男の顔に、何かが走った。警戒と、それを超えた何か。
「グレゴールが……」
封書を抱えたまま、男が動かなかった。部屋の中はランプが一つだけだった。荷物がまとめられていた。今夜出るつもりだった。
「エドワードさん。あなたが届けようとしている相手を、私たちも探しています。届け先の名前を教えてもらえますか。一緒に辿ります」
男が封書を見た。指が白くなっていた。
「兄が……三年間」
声が低かった。震えではなく、何度も飲み込んできたものが滲み出る声だった。
「三年間、何も言えなかった。どこにいるのかも分からない。もし生きていたとしても、戻れない場所にいるなら——せめてこれだけは届けたかった。兄が届けられなかったものを」
「兄上の代わりに」
「三年遅れです。もう間に合わないかもしれない。それでも」
封書を見る男の目が、揺れていなかった。揺れを全部飲み込んだ後の顔だった。
「兄が届けようとしていた宛先は——コルネリウス・フォン・ライエという方です。三年前、王家の記録管理を担っておられた」
コルネリウス・フォン・ライエ。
シリルが止まった。一瞬だったが、止まった。その止まり方が分かった。知っている名前だった。
「シリル」
シリルの顔が、ランプの光の中で固くなっていた。
「ライエ氏は三年前に王家の記録管理部門を辞しています。理由は体調不良と公式には記録されている。しかし辞した時期が——ドルンの死亡届が出された翌月です」
翌月。
連鎖していた。ドルンが死亡扱いになった。翌月、ライエが辞職した。三ヶ月後、アンブロスが消えた。アンブロスが届けようとした手紙の宛先が、ライエだった。
「ライエが辞職したのは、アンブロスの手紙が来る前に何かを察知して、身を隠すために離れたからかもしれない。あるいは——身を隠せない状況に追い込まれたか」
「どちらにしても」
「ライエはまだ生きているはずです」
エドワードが封書を差し出した。両手だった。少し震えていた。
「持っていてください。私が持っていると、また危険になる。もし——もし兄を、見つけていただけるなら」
受け取った。重くなかった。紙一枚の重さしかなかった。中身の重さがまったく違った。
「探します」
答えてから、男の顔を見た。三年間という時間の形が、その顔にあった。
宿を出た。夜が白みかけていた。
馬車に乗った。シリルが隣に座った。石畳を叩く音が続いた。
「ライエを探します」
「はい」
「ライエが生きていて、証言できる状態にあれば——補助承認者欄の名前の経緯が明らかになります」
「ドルンも生きている可能性がある。ライエとドルンが同じ場所にいれば」
「ライエがドルンを匿っているかもしれません。あるいはその逆」
窓の外で空が変わり始めていた。夜と朝の境界が、灰色の層として広がっていた。
「ドルンが自分の意志で姿を消したのか、消されたのかが分かりません」
「どちらかで、全く違う意味を持つ」
「補助承認者欄の偽装にドルン自身が関わっていたなら、逃げるのは当然です。だが強制されていた立場なら——ケロウの残響に残っていたのは悔恨だけでした。後ろめたさではなかった。届けたかったのに届けられなかった、その悔恨だけが形として残っていた」
「加担した者の感情ではない、と」
「そう感じました。ドルンは逃げた。自分を守るために名前を消して。ケロウを通じてライエに連絡しようとした。その前にケロウが封じられた」
馬車が揺れた。
「ライエを探す時、局内の誰かに悟られれば先手を打たれます」
「局内で動ける人間を極力絞ります。私が直接動きます」
「一人では危険です」
「あなたが一緒に動きますか」
「動けます」
答えてから、自分の声を聞いた。三ヶ月前には出なかった声だった。あの朝、密室の中で目が覚めた時には、こんな言葉が自分の口から出るとは思っていなかった。
シリルがこちらを見た。表情は変わらなかった。だがその目の中に、何かが確定した気がした。値踏みではなく、確認だった。
「よく分かりました」
言い方が、普段より少し重かった。
「では、共に動きましょう」
公爵邸の前で馬車が止まった。
手の中の封書が、変わらない重さで収まっていた。三年前にアンブロスが届けられなかったものと、同じ内容が書かれているはずだった。三年分の遅延を経て、今この手にある。
石畳に降りた。空が明るくなっていた。
屋敷の扉を前に、一度立ち止まった。追うべきものが二つになっていた。死亡扱いで姿を消したドルン。辞職して身を隠したライエ。どちらを引けば、もう一方もついてくる。
次に開くべき扉は、ライエという名前をしていた。
お読みいただきありがとうございました ! 面白いなと思っていただいた方は評価・ブックマークなどいただけると作者の励みになります !




