記憶の封鎖
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夜が明けた。
灰色の光が窓の縁から差し込んだ。蝋燭は燃え尽きて、台の上に白い残滓だけを残していた。
机の上の七枚の紙が、朝の光の中にあった。昨夜と同じ順番で重なっていた。最後の一枚の裏に書き加えた一行——封じの方向が、犯人の立場を示す——が、乾いたインクで静かにそこにあった。
眠らなかった。眠れなかった、というより、眠る理由が見つからなかった。目を閉じると、補助承認者欄の名前が浮かんだ。局員の名前。アンブロスが手放そうとしていた何か。ケロウが持ったまま消えた名前。それだけではなかった。封鎖魔法の外周収束。鑑識が見逃した方向の問題。シリルが局長に直接申請を選んだ理由。
頭の中で整理が続いていた。終わらなかった。整理するたびに、新しい問いが生まれた。
椅子から立って、窓の前に立った。中庭が見えた。石畳の上に朝露が光っていた。庭師の姿はまだなかった。屋敷全体が静かだった。
起きている必要があった。シリルから連絡が来るなら、早朝か昼前だと思っていた。局長への直接申請は通常の手続きを迂回する。急ぐ案件として扱われる可能性があった。訓練記録の照合に一晩かければ——今朝には何らかの答えが出る。
水差しから水を注いで飲んだ。冷たかった。頭が少し落ち着いた。
着替えを済ませる前に、扉を叩く音がした。
侍女ではなかった。音の間隔が違った。待機している者の気遣いある叩き方ではなく、用件を持って来た者の叩き方だった。
「どうぞ」
扉が開いた。廊下に立っていたのは屋敷付きの若い使用人で、手に封書を持っていた。赤い蝋印が見えた。見たことのある形だった。王立魔法捜査局の印章ではなかった。個人用の印章だった。シリルのものだと分かった。
「先ほど局の使者が届けてまいりました」
封書を受け取った。使用人が下がった。扉が閉まった。
机に戻って、蝋印を割った。紙が一枚入っていた。短い文だった。
『訓練記録の照合が完了した。内周収束と外周収束の両技法が確認された。報告書は局長の手元にある。午前十時、局の応接室へ来られたい。同行者は不要。』
日付と署名があった。今日の朝の日付だった。
封書を机の上に置いた。折り目を指でなぞった。
局の応接室。シリルの執務室ではなかった。応接室は来客を迎える部屋だった。記録や書類を扱う場ではなく、話を聞く場だった。
局長が会う、ということだった。
シリルだけではなく、局長が直接。昨夜の報告書に自分の名前が載った。補助承認者の特定に繋がる推定を行った者として。局長がその報告書を読んで、直接確認したいことができた。
あるいは——確認だけではなかった。
七枚の紙を手に取った。封書の文面をもう一度読んだ。訓練記録の照合が完了した。両技法が確認された。これは証拠だった。封鎖魔法の構造的矛盾が立証された。密室は内側から封じられていなかった。外から封じることができた者が、犯人の条件に加わった。
その条件に当てはまる者が、局の内部にいた。
だから局長は直接会う必要があった。
七枚の紙を束ねて、机の引き出しに入れた。封書だけを手に持った。午前十時まで、まだ時間があった。
時間を使って考えた。
ケロウが消えた。テスラが書架から遠ざかった。アンブロスが手紙を出した。三年前の偽署名。今回の密室。補助承認者欄の名前。これらが一本の線の上にある、と昨夜シリルと確認した。
だが線には両端がある。始まりと、終わり。
始まりは三年前の査察書類偽装だった。誰かが書類に偽の署名を付けた。その署名を認めた補助承認者がいた。それが今回の補助承認者欄に残っている名前だった。三年間、その名前は台帳の奥に埋もれていた。誰も掘り起こそうとしなかった。掘り起こそうとした者は——消えた。
ケロウ。ルーファス様。
どちらも局の関係者か、局と繋がりを持つ人間だった。
線の終わりはまだ見えなかった。補助承認者欄の名前が犯人だと確定したわけではなかった。その名前が指し示す先に、さらに大きな何かがある可能性があった。
局の応接室。局長。一つの問いが浮かんだ。
局長はなぜ昨夜のうちに訓練記録を照合したのか。
シリルが申請してから翌朝の封書までの間に、照合が完了している。通常の手続きではない速さだった。急ぐ必要があったから。なぜ急ぐ必要があったのか。
答えは一つだった。局長もまた、急いでいた。
玄関で外套を羽織った時、グレゴールが廊下の端に立っていた。老執事の目が、こちらの手元の封書に向いた。
何も言わなかった。
「局へ行きます」
グレゴールの顔が動いた。動いたが、表情は読めなかった。年を重ねた顔は、感情を表面に出さない術を知っていた。
「お供はいかが」
「不要とのことでした」
間があった。一拍、二拍。
「局長がお会いになるのでしょうか」
問いかけではなかった。確認だった。グレゴールは知っていた——局長が動く案件がどういう種類のものか。それを知っていた。
「そのようです」
外套の前を整えた。手袋を嵌めた。グレゴールが一歩前に出た。
「お気をつけて、レティシア様」
言葉の重さが、挨拶の形をしていた。ただの行ってらっしゃいではなかった。老執事は何かを知っていた。どこまで知っているかは分からなかった。だが、局長という言葉が出た瞬間から、その目が変わっていた。
馬車に乗った。石畳の上を車輪が転がり始めた。
グレゴールが玄関の前に立っていた。見えなくなるまで、動かなかった。
局の廊下はひんやりしていた。石造りの壁が、外の朝の光を遮った。足音が規則正しく反響した。
応接室の入口でシリルが待っていた。外套姿のままだった。昨夜と同じだった。目が一度、こちらの全体を確認した。
「来てくれた」
「呼ばれました」
廊下を並んで歩いた。足音だけが続いた。応接室の扉の前で立ち止まった。
「局長は、昨夜の報告書を読んでいる。一つだけ」
シリルが扉を向いたまま言った。視線が扉の木目の上にあった。
「局長が問う内容に答えるだけでいい。推測や追加の推定は、求められるまで出すな」
「分かりました」
「局内にいる庇う側の者が誰かは、局長はまだ確定していない。だから慎重に動いている」
「庇う側が誰かを、局長は疑っている候補がある、ということですか」
シリルが少し間を置いた。
「複数いる」
それ以上言わなかった。扉を二度叩いた。
中から低い声が答えた。扉が開いた。
局長は白髪の男だった。五十代か、六十に近いか。背筋が真っ直ぐで、手が机の上に整然と置かれていた。目が細く、穏やかに見えた。穏やかに見えたが、その目の奥が穏やかかどうかは分からなかった。
「レティシア・グレイ様ですね」
「はい」
「おかけください」
椅子に座った。局長の前、机を挟んだ向かい側だった。シリルが脇に立った。
「昨夜の報告書を読みました」
局長が封書を一枚取った。報告書の写しだった。
「封鎖魔法の外周収束技法について。鑑識が内側からの施術として記録したものが、外側からでも同一の痕跡を残す可能性があると指摘された」
「はい」
「その根拠を、ご自身の言葉で確認させていただきたい」
静かな声だった。試すような声ではなかった。確認する声だった。知っていることを照合するための声だった。
「封鎖魔法は、施術方向によって収束点が変わります。内側から施術した場合は外壁面に向かって収束します。外側から施術した場合も、外壁面——内側から見て同じ外壁面——に向かって収束します。どちらの方向から施術しても、痕跡の収束点が一致する。鑑識が施術方向を判断する基準を持っていなければ、内側か外側かの区別が記録に反映されていない可能性があります」
局長が写しを置いた。
「その知識は、どこから」
「シリル捜査官から教えていただきました。魔法の理論書には載っていない、訓練を受けた者だけが持つ知識だと聞きました」
「正確です」
局長が両手を机の上で組んだ。
「訓練記録を確認しました。外周収束技法は、一定の階位以上の捜査官に対してのみ教授されています。現在、局内でその訓練を受けた者は三十七名」
三十七名。
「その三十七名の中に、補助承認者欄に記載された人物と同一の者がいるかどうかは」
「照合中です」
局長の目が、初めてわずかに動いた。
「今朝、別の問題が出た」
シリルが微動だにしなかった。
「ケロウ・アルヴィンの件です」
ケロウの名前が出た瞬間、背中の温度が変わった。
「ケロウの行方について、何か」
「今朝五時、西区の宿屋で、ケロウに似た男が倒れているのを発見されたという報告が入りました」
「倒れている」
「死亡ではありません。生きています。ただ——意識がない。魔法的な処置が施された形跡があります。記憶に干渉する術式の痕跡が」
「記憶の消去ですか」
局長が首を振った。
「消去ではなく、封鎖です。消えてはいない。封じられている」
封鎖。密室と同じ言葉が浮かんだ。外から封じることで内側が見えなくなる。
「封じられた記憶は、解除できますか」
「術式の種類によります。局の術士が確認しています」
「解除できれば、ケロウは何かを話せる」
「話せるかもしれません。ただ——」
局長が机の端に指を置いた。
「封じ方が精緻です。急造の術式ではない。これは訓練を受けた者の手技です」
沈黙が落ちた。
精緻な記憶の封鎖。訓練を受けた者の手技。同じ条件がまた浮かんだ。封鎖魔法の外周収束を知る者。局の訓練を受けた三十七名。
「ケロウが生きている理由を、どう見ますか」
局長の目が細くなった。答える前に、一拍あった。
「ケロウが何かを持っていたとすれば、それを消したくなかったから、とも読める」
「消したくなかった——封じることで、持ち続けたかった」
「あるいは。消すと証拠になると判断した」
どちらにしても、ケロウは生かされた。生かして封じた。理由があった。
局長が立ち上がった。背筋が伸びたままだった。窓の外を一度見た。
「今日のところは以上です。また連絡します」
「分かりました」
立ち上がった。シリルが扉に向かった。局長が振り返らずに言った。
「報告書の推定は正確でした」
静かな言葉だった。
「封じの方向が犯人の立場を示す、という言葉は——今朝の訓練記録の照合で、より具体的な意味を持つようになっています」
廊下を歩きながら、最後の言葉を繰り返した。
より具体的な意味を持つようになっている。
訓練記録の照合が進んでいる。三十七名の中に、補助承認者欄の名前と重なる者が浮かんでいる。ケロウが封じられた状態で発見された。それが今朝の変化だった。
局の外に出た。石畳の上に馬車が待っていた。シリルが並んで立った。局の建物を背にしていた。
「ケロウの宿屋は、西区のどのあたりですか」
「なぜ」
「場所が分かれば、どこから来たかが分かる。どこから来たかが分かれば、誰と接触していたかの手がかりになります」
シリルが外套の前を整えた。
「まだ現場の封鎖が解けていない。今日中には報告が来る」
「分かりました」
馬車に乗った。車輪が動き始めた。
帰り道、窓の外を見た。石畳の街路。行き交う人影。朝の光の中で、普通の一日が続いていた。
局長との会話を整理した。
アンブロスが名前を知っていた経路について、書架に写しがあった可能性を答えた。それは正しかった。だが——もう一つの可能性があった。言わなかった可能性が。
補助承認者欄の名前を持つ者が、直接アンブロスに接触していた可能性。なぜ接触するのか。アンブロスが何かを掴んでいたから。掴んでいるならば、取り込む方が消すよりも安全だった時期があった。だがアンブロスは手紙を出した。取り込みが失敗した。
そこから先、アンブロスに何が起きたのかは、記録がなかった。
消えたのか。封じられたのか。あるいは今もどこかにいるのか。
馬車が屋敷の門を入った。グレゴールが玄関の前に立って待っていた。昨夜と同じ場所に、同じ姿勢で。
馬車を降りた。老執事の目が、こちらの顔を一度読んだ。
「いかがでしたか」
「ケロウが見つかりました」
グレゴールの体が、わずかに動いた。動いた方向が、前でも後でもなかった。固まった、と表現する方が近かった。
「生きています。ただ、意識がない。記憶が封じられている」
「……」
「グレゴール」
老執事の顔が上がった。
「アンブロスの現在の所在を、ご存知ですか」
答えるまでに、時間があった。長い時間ではなかった。だが、間があった。この間が持つ意味を、老執事は知っていた。こちらも知っていた。
「三年前に、局の関係する何かで接触があったと聞きます」
「接触があった」
「アンブロスが手紙を出した、と記録にあります。その手紙を出した後、どうなったかは分かっておりません」
グレゴールが視線を落とした。石畳の一点を見た。
「……私が最後にアンブロスの消息を聞いたのは、三年前の秋のことです。局の査察が終わった直後でした」
「その後は」
「それ以来、何も」
屋敷の中から風が通り抜けた。外套の裾が揺れた。
「グレゴール。あなたは、補助承認者欄の名前を知っていますか」
老執事が顔を上げた。目が、こちらをまっすぐに見た。年を経た顔が、初めて何かを決めようとしている顔になった。
答えるまでに、また間があった。今度は長かった。
「……知っておりません」
声が、平らだった。
知っておりません、という言葉が持つ重さが、知っている者の重さと同じだった。
これ以上は今日ではない、と判断した。老執事が何かを抱えていることは分かった。それを開く鍵が何かは、まだ分からなかった。急げば閉じる。
「分かりました。ありがとうございます」
玄関に入った。外套を脱いだ。
背後でグレゴールが扉を閉める音がした。
部屋に戻って、引き出しから七枚の紙を出した。机の上に広げた。
新しい紙を一枚取った。今朝の情報を書き加えた。
ケロウ発見——西区宿屋。意識なし。記憶封鎖。精緻な術式。訓練を受けた者の手技。
その下に一行書いた。
アンブロス——三年前の秋以降、消息なし。手紙を出した直後。
インクが乾くのを待った。
線の終わりが、まだ見えなかった。だが、アンブロスという名前が、次に追うべき標的として形を持ち始めていた。ケロウは封じられている。封じを解ける術士が局にいる。解除できれば、ケロウが話す。だがアンブロスは——三年間、どこにいたのか。
グレゴールは知らない、と言った。
知らない、という言葉が嘘かどうかは、もう少し時間が必要だった。
窓の外で鳥が鳴いた。昨夜と違って、空が晴れていた。
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