知っている名前
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夜が明けた。眠れていなかった。
蝋燭が燃え尽きた後も、机の前にいた。六枚の紙が広がったままだった。窓の外が徐々に白くなり、やがて灰色になり、それから薄い青になった。朝が来た、とそれだけ思った。
立ち上がった。顔を洗った。水が冷たかった。意識の端が少し引き戻された。
紙を見た。中央の一枚。「名前のない若い男」と書いた箇所に、視線が止まった。書架への出入り。外套の生地。三年前の消失。アンブロスの手紙。持っているものを渡したい、という一行。
名前がなければ、線が引けない。
扉が叩かれた。三回。均等な間隔だった。
開けるとシリルだった。片眼鏡が朝の光を受けていた。手に薄い書類束を持っていた。外套の肩に夜露の跡があった。早朝から動いていた、という跡だった。
「昨夜のうちに申請を出した」
部屋に入った。扉を閉めた。机の前に立って、並べた紙を見た。何も言わなかった。
「出入り記録が届いた。テスラが書架に通っていた時期と、前後三年分だ」
書類を受け取った。
一枚目を開いた。名前が縦に並んでいた。日付。時刻。目的分類。閲覧台帳番号。几帳面な筆致で記された列が続いた。
「絞り込む基準を言ってくれ」
「七年から八年前に通い始めた若い男。外套の生地が良かった。定期的な訪問。三年から五年前に来なくなっている」
シリルが向かいに座った。書類の一部を手に取った。
読み始めた。
こちらも読み始めた。名前が流れていった。老人の名前。修道院の書記官の名前。同じ名前が繰り返されるもの。女性の名前。目的分類が「文書照合」で繰り返される記録。
三ページ目に差し掛かったとき、一つの名前が引っかかった。
アルヴィン・ケロウ。
七年前から出入りが始まっていた。週に一度か二度。目的分類には「文書照合」とあった。
「この名前です」
シリルが覗き込んだ。
その瞬間、何かが伝わってきた。表情は動かなかった。片眼鏡の奥の目も変わらなかった。しかし、指先が書類の端に触れた。触れて、止まった。一拍だった。
この名前を知っている。
感じた。確信ではなかった。しかし、初めて見た名前に対する反応ではなかった。
「ケロウ家は北方に本家がある。王都に出てくる血縁が何人かいる」
声は平坦だった。情報として出した、という出し方だった。
「郷士家です」
「中位の。王都の官庁に近い仕事をしている家系だ」
次のページを開いた。ケロウの名前が続いていた。六年前まで規則的に現れ、五年前から間隔が空き始め、記録が途切れた。
「三年前より早く来なくなっています。テスラが言った時期より前に、既に減り始めている」
「テスラが最後に見た時期が三年前。実際には、その前から間隔が空いていた」
何かが変わった時期があった。六年前。書架への訪問が変化した。来る理由が変わったか、来ることを避け始めたか。
「書架に定期的に通っていた理由は何でしょうか。文書照合、という分類ですが」
「文書照合は広い。特定の台帳の内容を確認する作業も含まれる」
「自分が関与した手続きの記録を、繰り返し確認しに来ていたとすれば」
シリルが手帳を取り出した。書き始めた。
「台帳の承認記録にケロウの名前があるかどうか、局の記録と照合する」
「今日中にできますか」
「午後には分かる」
シリルが出ていった。
紙を並べ直した。「名前のない若い男」の横に、アルヴィン・ケロウと書き加えた。郷士家。文書照合。定期訪問。六年前から減少。
筋が通る。
台帳の承認欄に番号を貸したテスラ。同じ時期に書架に通い、文書照合を繰り返していたケロウ。承認手続きに関与した者が、自分の痕跡を確認しに来ていたとすれば。
アンブロスが三年前に手紙を出した。「持っているものを渡したい」。テスラには届いた。もし同じような手紙がケロウにも届いていたとすれば。ケロウが指定場所に行ったとすれば。アンブロスが渡したかった手帳を、受け取ったとすれば。
その後、アンブロスは半年で死んだ。
ケロウは今どこにいるのか。
生きているのか。
窓の外で鳩が飛んだ。石畳の上を影が横切って消えた。
午後の初めに、封書が届いた。
シリルの印章だった。宿の者が部屋に持ってきた。
開けた。
一枚の写しが入っていた。
台帳の承認記録の写し、とあった。上段に主承認者の名前と日付。その下に、補助承認者欄があった。欄外に小さく、別の筆致で書き込まれた名前があった。
読んだ。
息が止まった。
主承認者の名前は知らない名前だった。しかし補助承認者欄の名前は違った。
知っていた。
公爵家の者ではなかった。郷士の名でも、書記の名でもなかった。
王立魔法捜査局の、以前の局員の名だった。
紙をテーブルに置いた。折り目がゆっくりと開いた。
局員の名前が、台帳の補助承認欄にある。三年前の偽署名手続きの承認に、王立魔法捜査局の人間が関与していた。
それが事実だとすれば。
ルーファスが黒檻台帳を調べていた理由が変わる。ルーファスが西塔で何かを持ち出そうとしていた理由が変わる。被害者ではなく、何かを追っていた者だったかもしれない。あるいは、巻き込まれた者だったかもしれない。
どちらかは、まだ分からない。
だが——。
局員の名が台帳に載っているとすれば、この件は捜査局の内部に届く。シリルがこの写しを寄越したという事実は、シリルが既にこの名前を見た、ということを意味する。
送ってきた。
知っていて、送ってきた。
それが何を意味するのか、まだ分からなかった。
紙を手に取った。補助承認者欄の名前を、もう一度読んだ。確かめた。
読み違いではなかった。
部屋を歩いた。壁まで三歩。戻って三歩。止まった。
シリルが今何を考えているのか。この写しを送ることで何を伝えようとしたのか。この名前がシリルにとって何であるのか。
言葉にならないものが胸の奥にあった。
夕方になれば、シリルが来るかもしれなかった。来なければ、こちらから動く必要があった。
七枚目の紙を取り出した。
補助承認者。局員。と書いた。その下に、名前を書いた。
インクが乾いた。
紙を重ねた。七枚になった。
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