口座の沈黙
しばらく不定期更新で進みます。
紙が四枚、机の上に並んでいた。
昨夜から動かしていない。金融組合の名前。フィンレイ・アンブロスという書記の手帳。査察書類に書き込まれた黒檻の参照記号。グレゴールが押した捺印の話。それぞれが別々に並んでいて、まだ一本の線にならなかった。
朝の光が石造りの窓枠を白く縁取っていた。屋敷が動き始める前の時間で、廊下を歩く音がなかった。
アンブロスが書架への出入りを止められた。退職の手続きを踏まないまま。翌年に死んだ。その間に口座を開いた。持ち出しを黙認されたものが一冊ある。
逃げる準備か、渡す準備か。
どちらにしても、受け取る側がいる。
シリルが書斎に来たのは午前の中頃だった。
「令状が下りた。午後から整理区画に入れる」
外套を着たままだった。帽子を取る動作もなかった。
「台帳を確認するだけですか。それとも持ち出せますか」
「閲覧のみ。記録に残る」
テーブルの前に立った。机の上の紙を見た。拾って読もうとはしなかった。
「組合の件は?」
「整理区画の後にする。台帳の内容次第で優先度が変わる可能性がある」
「分かりました」
整理区画は屋敷からかなり歩いた先にあった。
評議会の敷地に隣接した石造りの建物で、窓が少なかった。廊下の蝋燭が低い位置に設けてあって、棚が影を作っていた。管理官が一人ついた。年配で、歩き方が静かだった。
令状を確認した後、管理官は一言も話さなかった。
棚の間を二列ぶん歩いた。止まった。
取り出したのは黒い革表紙の台帳だった。金属の留め金がついていた。鍵が外れる音がした。金属が金属に触れる音だった。
「参照番号を指定してください」
シリルが番号を告げた。
管理官が頁を繰った。繰る音が棚の間で響いた。蝋燭を近くに持ってきた。
のぞいた。
三行だった。フィンレイ・アンブロスの名前があった。その下に、知らない名前があった。数字が並んでいた。日付と、承認の記録と思われる欄だった。
「閲覧の記録を取らせていただきます」
「構わない」
シリルが紙に署名した。管理官が台帳を閉じた。留め金が戻った。
廊下を引き返した。蝋燭の匂いが後ろに残った。
建物の外に出ると、風があった。石の壁が終わって、開けた場所に出た。
「もう一つの名前は調べられますか」
「調べる。今日中に何か出るかもしれない」
「アンブロスの参照番号に、別の人間の承認記録が紐づいていた。そういうことですか」
「アンブロスが開始した手続きを、別の人間が引き継いで承認した記録がある。手続き自体はアンブロスが退いた後も続いていたことになる」
歩きながら言った。
「退職の手続きを踏んでいない人間が、帳面の上でまだ動いていたということですか」
「アンブロスの番号が死んでいなかった、と言える」
道の端に荷車が止まっていた。迂回した。
退職の届を出していない。書架への登録を止められた。翌年に病死として届が出た。その間に、書類の手続きがアンブロスの番号で動いていた。誰かがその番号を使い続けた。
あるいは、アンブロスの番号を持つ書類そのものが、別の人間の手に渡っていた。
「手帳の中に、番号に関わる記録がある可能性はありますか」
「あり得る。書記が管理する書類には、それぞれ参照番号が振ってある。書類の束ごと持ち出せば、番号を持ち出したことになる」
空が白かった。雲の薄い日だった。
組合に向かったのは翌朝だった。
ベロウ合同組合は、王都の外縁部に近い区画にあった。石造りの建物で、看板が控えめだった。扉を押すと鈴が鳴った。
受付に座っていた男が顔を上げた。年配で、帳簿を広げていた。
「フィンレイ・アンブロスという方の名前で、三年ほど前に口座が開設されていたと聞きました。確認していただけますか」
公爵家の名前は出さなかった。
男の表情が変わらなかった。
「お名前と、ご用件をいただけますか」
名前を告げた。
「故人の口座について調べています。記録の開示は求めません。口座が現在どのような状態にあるか、それだけで構いません」
「相続権者であることを示す書類が必要です」
「書類はありません。ただ、口座が現在も存在するかどうかだけ確認できれば、それで十分です」
男がこちらを見た。何かを測っている顔だった。
立ち上がった。奥へ入った。
鈴が風のない空間でまだ揺れていた。
五分で戻ってきた。
「口座は存在します。現在は休眠状態です」
「いつから休眠に入りましたか」
「三年前です」
「本人から連絡はありましたか。休眠への移行に際して」
男が視線を少し落とした。
「それ以上のことは申し上げられません」
「分かりました。ありがとうございます」
礼を言った。扉に向かった。鈴がもう一度鳴った。
外に出ると、路地に風が抜けた。
口座は生きていた。しかし、三年間、誰も動かしていなかった。廃止も、解約も、相続への移行もない。アンブロスが死んだ後、その口座に触れた者がいなかった。
触れられなかった理由がある。
あるいは、触れる者がいなかった。
シリルへの報告は昼前だった。
「口座は存在しています。三年前から休眠。本人からの連絡があったかどうかは教えてもらえませんでした」
「台帳の名前が出た」
シリルが紙を出した。テーブルに置いた。
「エドウィン・テスラ。評議会の元書記官。五年前に退職している」
名前を見た。
聞いたことがなかった。しかし、書記官という言葉が引っかかった。
「アンブロスも書記でした」
「同時期に評議会書架に出入りしていた可能性がある。書類を追っている」
「テスラは今どこにいますか」
「王都を離れている。郊外に移ったという記録がある。それ以降の追跡がない」
窓の外を見た。
アンブロスが開始した書類を、テスラが承認した。アンブロスが退いた後も、番号が動いていた。テスラの名前が台帳に残っている。そのテスラも今は所在が取れない。
「テスラを探せますか」
「捜査局の通常権限では時間がかかる。郊外への移動が五年前とすれば、記録が薄い」
「手帳が、テスラの元にある可能性はありますか」
シリルが窓の方を向いた。考えるときに目が細くなる。
「アンブロスが渡す準備をしていたとして——書架で顔を知る人間を選ぶことはある」
「同じ書架に通っていた書記官なら、顔を合わせていた可能性が高い」
「可能性だ」
紙をテーブルに置いた。
「テスラの現在地を洗う。数日かかる」
「アンブロスの口座が手つかずのまま残っているということは、受け取るべき人間がまだ動けていない、ということかもしれません」
「どういう意味だ」
「テスラも、何らかの理由で口座に近づけない状態にある。もしくは、近づかない選択をしている」
シリルが外套の釦に手をやった。外す動作ではなかった。
「口座を動かせば、動いた記録が残る。組合は小さいが、記録の管理が厳密なことで知られていると言っていた」
「はい」
「動くことで場所が割れる。そのリスクを理解している人間は、動かない」
部屋が静かになった。
三年間、誰も手をつけなかった。アンブロスが死んでも、口座が眠ったまま残っている。受け取るべき人間がいて、しかし受け取れないでいる。
それでも、まだそこにある。
「テスラが見つかれば、手帳の在処も分かるかもしれません」
「分かるかもしれない。分からないかもしれない」
「それでも、今動けるのはそこだけです」
シリルが片眼鏡を外した。布で拭いた。はめ直した。
「捜査局の伝手で当たる。三日待ってくれ」
書斎に戻った。
紙を出した。昨日までの四枚に、新しい名前を書き足した。エドウィン・テスラ。評議会元書記官。現在地不明。
台帳の中で、アンブロスとテスラが繋がっていた。一人は死んだ。もう一人は消えた。
手帳の中に何が書かれているかは、まだ分からない。しかし、手帳が存在するとすれば、その中には台帳の番号が使われた書類の記録がある可能性がある。書記が管理する書類の束を持ち出した、ということは、手続きの痕跡を持ち出した、ということだった。
三年前に、誰かがアンブロスを黙らせた。
同じ時期に、書類の承認者としてテスラの名前が台帳に刻まれた。
テスラが手帳を持っているとすれば、テスラは何かを知っている。
知っているから、動けない。
机の前に座ったまま、窓の外を見た。雲が動いていた。風のない日なのに、雲だけが動いていた。
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