書記の名前
しばらく不定期更新で進みます。
朝の光が薄いうちにシリルが来た。
応接室の扉を開けたとき、彼はすでにテーブルの前に立っていた。座る気配がなかった。外套を着たままで、片手に折り畳んだ紙を持っていた。
「名前が取れた」
それだけだった。
紙をテーブルに置いた。こちらが手を伸ばすのを待っていた。
広げた。細い字で一行、名前が書いてあった。
フィンレイ・アンブロス。
どこかで聞いた気がした。だが確信がなかった。この身体に残った記憶の断片はいつも不確かで、全体の文脈を欠いたまま浮かんでくる。公爵家付きの書記として登録されていた人間の名前。三年前に死亡届が出され、病死として処理された人間。
「現役録の確認は?」
「評議会の現役録には存在しない。だが王立書記局の補助登録に、同名の人間が五年前まで在籍している記録がある。評議会書架に出入りが許可されていた立場だ」
「五年前に」
「それ以降は途絶えている。更新が止まった時期が、死亡届の前年にあたる」
シリルが紙の隣にもう一枚出した。登録番号と日付が並んでいた。
「登録を止めた理由は?」
「退職届の控えが残っていない。手続きを踏んでいない」
テーブルの紙を見た。フィンレイ・アンブロス。この名前が公爵家に繋がっていた。死亡届を出したのが公爵家だった。登録の更新が止まり、翌年に死んでいる。その時期に、評議会書架の査察書類に黒檻の記号が書き足された。
「グレゴールに聞けますか」
シリルが一瞬だけこちらを見た。片眼鏡の向こうで、何かを測っている。
「情報を引き出せると思うか」
「知っているかどうかだけ確認したい」
「その確認の結果が、どちらに傾いても?」
どちらに傾いても、ということの意味は分かった。グレゴールが知っていて、それが公爵家に不利なものだったとしても。
「調査の範囲を広げたいなら、知っている人間に聞くしかない」
シリルが外套の釦に手をやった。外す気配はなかった。
「一時間後に戻る。それまでに話を聞いておいてくれ」
グレゴールを呼んだのは庭に面した小部屋だった。使用人が行き来しない時間帯に人を呼ぶ場所として、この屋敷で覚えた数少ない知識の一つだった。
老執事は静かに入ってきた。扉を閉めた。立ったままだった。
「フィンレイ・アンブロスという名前を知っていますか」
グレゴールの手が、わずかに動いた。外套の裾に触れ、止まった。表情は変わらなかった。
「三年前に公爵家から死亡届が出ています。病死として処理されています」
「……存じております」
「この屋敷に出入りがありましたか」
間があった。窓の外で鳥が鳴いた。
「書記としての出入りが、一時期ございました」
「何の書記ですか」
「旦那様の個人書類を管理する立場でございました。一年ほどで退きました」
「退いた理由は?」
グレゴールが視線を床に向けた。こちらを見ることをやめた動作ではなかった。何かを思い出している顔だった。
「病を患われたと伺いました。はっきりとした説明は、旦那様からございませんでした」
「届出日の一年前に、評議会書架への登録が更新されていません。病気で退いたとして、評議会書架への登録を止める必要がありましたか」
沈黙だった。
今度は長かった。窓際の壁に影が動いた。雲が通る影だった。
「アンブロス氏は」
グレゴールが口を開いた。声が低かった。いつもより低かった。
「書架に通う立場を、自ら手放したわけではないと、わたくしは考えておりました」
「手放したのではない、としたら」
「誰かが止めた、ということでございます」
何かを断ち切る言い方ではなかった。ずっと前から形を持っていた考えを、はじめて声に出したような言い方だった。
「旦那様の書類を管理していたアンブロス氏が、書架への出入りを止められた。一年後に病死として届が出た。届を出したのが公爵家だった」
「はい」
「その経緯を、あなたは把握していましたか」
「全てではございません」
グレゴールがこちらを見た。皺の刻まれた顔が、やや上を向いた。老人が何かを堪えるときの顔だった。
「しかし、届の書類に捺印を求められたことは覚えております。わたくしが承認することで、書類が効力を持つ立場でした」
体の芯で何かが動いた。
捺印を求められた。承認した。
届の書類に、グレゴールの名前が入っている。旦那様の指示で、あるいは旦那様の名の下で。公爵家の書記が死んだとき、その手続きの一端をグレゴールが担った。
「異議を唱えましたか」
「いいえ」
「唱えられませんでしたか。それとも、唱えなかったのですか」
グレゴールの喉が動いた。
「唱えなかった、でございます」
「なぜですか」
「疑問を持たなかったわけではございません」
それだけだった。それ以上を継がなかった。持たなかった疑問ではない。持ちながら、声にしなかった。
「査察書類の追記欄に、黒檻の記号が書き込まれています。アンブロス氏の名前が出てくる書類の一枚に。インクが後から書き加えられたものでした」
グレゴールが動かなかった。
「その記号が何を指しているか、心当たりはありますか」
「……黒檻台帳の参照番号であれば、台帳そのものを確認しなければ判断できません」
「台帳は整理区画にある可能性が高い。令状が下りれば確認できます」
「令状が下りた場合——」
グレゴールが一歩、こちらに近づいた。小さな動作だった。しかし近かった。
「台帳の内容は、旦那様の名前と繋がる記録である可能性がございます。お嬢様が確認される前に、その覚悟だけは、あっていただきたいと存じます」
シリルが戻ったとき、こちらはテーブルの前に座っていた。
「話せたか」
「グレゴールが死亡届の承認捺印をしていました。旦那様の指示だったと思われます」
シリルが外套を脱いだ。椅子を引いて座った。紙を一枚出した。
「令状の申請に追加できる」
「アンブロス氏が整理区画の台帳と繋がっているとすれば、令状の範囲に含める根拠になりますか」
「届出人と書記の関係、査察書類の追記、台帳への参照記号。三点を並べれば通る」
シリルが片眼鏡の向きを直した。
「台帳を開けた時、何が出るかによって、その後の動きが決まる」
「グレゴールはそれを知っていると思います」
「知っていて、話したのか?」
「覚悟しておくようにと言いました」
シリルが少し考えた。考えるときに目が細くなる癖があった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「公爵家の内情を調べることに、あなた自身は躊躇いがないか」
窓から光が入った。テーブルの上で紙が白く光った。
「躊躇いがないとは言いません。ただ、躊躇っている時間がないことも知っています」
シリルが紙を引いた。令状申請の追加書類に、ペンを走らせはじめた。
夕方、グレゴールが書斎の前で待っていた。
呼んでいなかった。
「お嬢様」
「なんですか」
「アンブロス氏が、最後に屋敷を去るとき」
グレゴールが廊下の先を一瞬だけ見た。誰もいなかった。
「一冊だけ持ち出した、と記憶しております。手帳のような、小さなものです。旦那様のお書き物が含まれていると申しておりました。わたくしは止めませんでした」
「その手帳がどこにあるか、知っていますか」
「知りません。しかし、あの方が書架に通っていた時期に、口座を開設された金融組合の名前は聞いた覚えがございます」
名前を言った。
聞き覚えのない名前だった。
「記録があるかもしれません」
グレゴールが一礼した。廊下を戻った。足音が遠くなった。
机に向かった。
紙に書き留めた。金融組合の名前。手帳の存在。査察書類の記号と台帳の参照番号。グレゴールの捺印。
令状が下りれば、整理区画で台帳を開ける。台帳の中にアンブロスの名前があれば、その人物が何を知っていたかが分かる。手帳が存在するなら、それが今どこにあるか——口座を持っていた組合が、手掛かりになるかもしれない。
三年前に死んだ書記は、持ち出したものがある。
その行き先が、まだ残っている。
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