西塔の閉ざされた書架
閉ざされた書庫にはいったい何が!?
悪役令嬢レティシアの推理が今回も光る!
銀の監視札がはめられた手首だけ、いつまでも冬より冷たかった。
青い文字が皮膚の下へ沈んだあとも、細い輪の感触だけが骨に残っている。意識がそこへ向くたび、針で内側からなぞられるみたいに痛んだ。自由は奪われたのだと、魔道具の方が執拗に教えてくる。
「逃走防止と行動記録のためです」
先を行くシリルは振り返りもしない。
「痛むなら、規則どおりに」
「令嬢の扱いにしては乱暴ね」
「被疑者の扱いとしては妥当です」
淡々とした返答が、雪より冷たく喉へ落ちた。
渡り廊下の左右に控えた使用人たちは、こちらを見ないように目を伏せている。けれど感情まで伏せてはくれなかった。強く揺れた心の破片が、また勝手に頭の奥へ落ちてくる。
((監視札までつけられて))
((旦那様に合わせる顔がない))
((でも、あの部屋で笑ってはいなかった))
耳で聞く声ではない。息遣いも抑揚もないのに、嫌悪と怯えだけは生々しい。レティシアは細く息を吐き、足を止めないよう意識した。
その裏で、別の言葉がまだ棘みたいに残っている。
((黒檻の印だ))
((写しは焼いたはずなのに))
意味のわからない単語のはずなのに、それだけが妙に重い。
石階段の半ばで、レティシアは黒い外套の背へ声を投げた。
「さっき聞こえたの。黒檻って、何」
シリルの足が一段ぶんだけ止まった。片眼鏡の銀枠へ添えていた指が離れ、代わりに肩越しの視線が刺さる。
「誰から」
「死体の手首を見た人たち。特に、そこの執事が」
名指しされたグレゴールの手の中で、燭台の柄がかすかに鳴った。白手袋の指先に、必要以上の力が入っている。
((まだ残っていたのか))
まただ、とレティシアは思う。隠そうとしている人間ほど、強く揺れた一瞬だけ取りこぼす。
「わたくしは古い使用人にございます。見覚えのある印に動揺しただけで」
「見覚えがある時点で、ただの家の揉め事じゃないでしょう」
言い返すと、シリルが短く制した。
「問答は現場で。足音を消してください」
西塔の最上階は、屋敷のほかの階よりひどく冷えていた。分厚い樫の扉が開くと、乾いた紙、革、古い薬品、そして消しきれなかった焦げ臭さがいっぺんに流れてくる。高い天井まで届く書架が半円を描き、梯子の金具が鈍く月光を返した。窓は三つ。中央の窓だけ石枠に溶けかけた雪の筋を残し、閉じ切ったはずの隙間から細く風を入れている。
閲覧卓の上には蝋燭が三本。二本は根元まで焼け、一本だけが短く残っていた。椅子は一脚だけが斜めに引かれたまま。誰かが急いで立ち、戻す余裕もないまま去った形だ。
昨夜、ルーファスが最後に足を踏み入れた場所。
そう説明されなくても、書庫の空気がそう告げていた。扉の内外に局員が立ち、若い書記官が卓や床の位置を書き写している。羽根ペンの先が紙を擦る音だけが、不自然なくらい大きい。
「あなたは私の視界にいてください」
シリルが片眼鏡に触れると、青い光が床板、卓の縁、書架の取っ手を静かに洗った。
「触る前に申告を。隠した場合、監視札の制限を上げます」
「脅しが丁寧ね」
「効果があるので」
苛立ちを飲み込み、レティシアは閲覧卓へ近づいた。天板の右端に細い傷が何本もある。爪ではない。硬い金具を差し込んで、何度もこじったような傷だ。散った封蝋の欠片は濁った朱色で、公爵家の書状で見た覚えのある冷たい青銀のきらめきがない。
その瞬間、欠けた記憶が指先にだけ戻った。赤薔薇の封。青銀粉。偽造を嫌う家の癖。頭では知らないのに、手が先に本物を覚えている。
「この卓、昨夜のまま?」
書記官が頷く前に、背後の気配が揺れた。
((灰皿だけは片づけた。あれを見せれば))
レティシアは振り向かなかった。視線だけを落とす。卓の脇の小卓に真鍮の受け皿がある。磨いたばかりらしく表面だけ妙にきれいで、縁の溝に黒い粉が残っていた。
それから、天板の裏に小さな引き出し。鍵穴の周囲だけ埃が薄い。
「そこには何もございません」
グレゴールの声が一拍遅れる。遅れた時点で充分だった。
「シリル。開けるわ」
許可を求めたのは礼儀のためではない。監視役の前で、勝手に証拠へ触れたという口実を作りたくなかっただけだ。シリルは青い光を鍵穴へ寄せ、短く頷く。
「開錠済みです」
引き出しの中には、三つ折りの書状がひとつ。赤薔薇の封蝋で閉じられている。
胸の奥が嫌な縮み方をした。赤薔薇は公爵家の紋だ。だが、持ち上げた指先にひっかかる感触が軽すぎる。封蝋の表面はなめらかではなく、少し粉っぽい。
「待って。これ、うちの封じゃない」
「言い逃れにしては早いですね」
「見ればわかるわ」
月光へかざし、爪先で縁を軽くこする。細かな粉が移った。
「公爵家の封蝋には青銀の粉が練ってある。夜会の招待状も契約書も、光に当てると縁だけ冷たく光るの。これはただの朱蝋。しかも印章の棘が一本足りない」
グレゴールの瞼がぴくりと動いた。シリルは何も言わず書状を受け取り、片眼鏡の光を当てる。青光が反応しないのを見て、彼の顎がわずかに固まった。
「開いてください」
封を割る。新しい紙の匂い。まだインクの艶が折り目の内側に残っている。
零刻、西塔にて待つ。黒檻台帳を返せ。従わねば、赤薔薇が禁書庫を覗いた件を公にする。
書庫の空気がひとつ重く沈んだ。書記官の羽根ペンが止まり、扉脇の局員が無言で姿勢を正す。
昨夜ここでルーファスを呼び出すために、公爵家の名を騙った書状が使われた。しかも文面は、レティシアと禁書庫を結びつける気満々だ。
「あなた宛ての脅迫でしょうか」
シリルの声は平坦だったが、質問ではなく測定に近い。
「知らない。でも、私を巻きこむために作った書き方ではあるわ」
言いながら、鼻の奥にもうひとつの臭いが残った。紙と蝋とは違う。油を含んだ布を焦がしたときの、ぬるい焦げ臭さ。さっきから消えない。
レティシアは小卓の真鍮皿へ目をやった。
「何を燃やしたの」
グレゴールの呼吸が目に見えて浅くなる。燭台を持つ手が、今度は隠しようもなく震えた。
「汚れた紙屑です」
((紙屑ではない。名だ))
言葉が落ちた瞬間、思考と視線が一緒に走る。真鍮皿の縁の煤。小卓の下。書架の陰。掃き切れなかった灰が石床の継ぎ目に噛んでいる。
しゃがみこむと、監視札がじりっと熱を持った。無視して灰を掻く。爪に触れた乾いた欠片をつまみ上げると、焼け残りの角に罫線と文字が残っていた。
――ハートウェル
心臓がひとつ、音を立てて縮む。
完全な一行ではない。ただ、見間違えるには鮮明すぎた。ハートウェル。シリルの姓だ。
「見せてください」
背後まで来ていたシリルが言う。振り返ると、彼はいつのまにか片眼鏡を押し上げる手を止めていた。普段ならすぐ整うはずの呼吸が、ほんの一拍だけ遅い。
「あなたの名前がある」
紙片を渡すと、彼は受け取るより先に指先だけで縁を確かめた。青い光が紙の焦げ目を透かし、その間、喉の筋が一度だけ硬く動く。
「名簿の一部です」
低く落ちた声は平静だったが、語尾だけがわずかに短い。
「王立側の人間が入っている。しかも、焼かれたのは名だけではありません」
「黒檻台帳?」
問いかけると、シリルは答えず、書架の最奥へ向かった。そこだけ本の背が黒革で統一され、さらに奥に鉄格子の扉が埋め込まれている。中央へ焼きつけられた印は、ルーファスの手首にあったものと同じだった。潰れた王冠の下に、細い檻が幾重にも重なる。
黒檻。
さっき拾った単語が、ようやく目の前の形を持った。
シリルが掌をかざすと、鍵穴の周囲に青い光が走った。浮かび上がったのは新しい擦り傷と、半ば剥がれた封じの術式だ。乱暴にこじ開けられ、急いで閉めたまま術だけが噛み合っていない。
「昨夜、ここを開けた者がいる」
「ルーファスが?」
「可能性は高い」
そう答えながらも、シリルは格子に触れた指先をすぐ離さなかった。金属の感触で何かを確かめるように、親指が一度だけ縁をなぞる。
レティシアは格子の隙間から中を覗きこんだ。棚の中段に、本が一冊ちょうど収まる細長い空白がある。周囲の革には新しい擦れ。そこだけが最近まで埋まっていた痕だ。
「空いてる」
「本来なら台帳が置かれていました」
そのとき、背後でグレゴールの思考が激しく跳ねた。
((なぜ空だ。燃やしたのは写しだけか))
空。燃やした。写しだけ。
レティシアは息を止めた。頭の中で断片がゆっくり並び直る。さっきの灰は名簿の焼け残り。ここには本物が入っていたはずの隙間。写しだけを燃やした、ということは、本物は燃えていない。つまり誰かが持ち出した。
いきなり全部がわかったわけではない。けれど、違う場所に散った手掛かりが、一本の冷たい線になってつながる感覚があった。
「あなたが燃やしたのは、本物じゃないのね」
振り向くと、グレゴールの顔から色が抜けていた。老いてなお乱れなかった襟元まで、今日は初めて崩れて見える。
「若様を守るためにございます」
かすれた声が落ちる。ルーファスをそう呼んだのは、これが初めてだった。
「若様は昨夜、この保管庫から何かを持ち出されました。わたくしは、それを表に出すなと命じられた。だから、残っていた写しと名簿の断片を集めて燃やしたのです」
「誰に命じられたの」
シリルの問いは低い。責め立てるより、逃がさない声音だった。
グレゴールの唇が震える。言うべき名が喉元まで来て、そこで止まっているのが見て取れた。白手袋の親指が、無意識に燭台の柄を擦る。迷いをごまかす癖だと、他人の身体なのにレティシアはなぜか知っていた。
そのとき、ひゅう、と細い風音がした。
中央の窓が、指一本ぶんだけさらに開いていた。石枠を伝う雪解けの筋が長くなり、床へ落ちた雫が冷たく跳ねる。吹きこんだ風が、書架の陰に残っていた灰をいっせいに舞い上げた。
灰の向こうで、窓の外に影がある。
「誰かいる!」
反射的に駆けた瞬間、監視札が灼けつくように熱を持った。手首の神経に針が束で刺さる。歯を食いしばって窓枠へ身を乗り出すと、石造りの外回廊を黒い外套が横切った。足運びに迷いがない。雪で滑る場所を知っている人間の走り方だ。
「東側へ回れ! 外回廊を閉じろ!」
シリルの命令が飛ぶ。局員たちが扉の外へ駆けだし、剣の鞘が石壁へ触れて鳴った。
吹きつける風の中、窓枠へ薄い紙片が貼りついている。飛ばされる前に掴むと、焼け焦げた端に細い線が残っていた。王立の紋章に似た、冠の下の意匠。
シリルが横からそれを見た。今度は目元を消した、ではなかった。むしろ逆だ。片眼鏡の奥で瞳孔がわずかに狭まり、頬の筋が硬くなる。感情を殺す前の、ほんの一瞬の生身がそこにあった。
「外回廊は封鎖していたはずです」
低い声のまま、彼は窓枠と紙片を交互に見る。
「通れたのは、術を知ってる人間だけ」
レティシアが言うと、シリルは否定しなかった。その沈黙だけで十分だった。公爵家の側にも、王立の側にも、封鎖を扱える人間がいる。そして今の紙片は、そのどちらかにしか届かない場所から飛んできた。
手の中の灰が、汗でじわりと滲む。
ルーファスは黒檻台帳を巡って動いた。誰かはそれを追い、写しを燃やし、名を消し、偽の赤薔薇でレティシアを呼び餌にした。名簿にはシリル・ハートウェルの名まである。王立も安全ではない。公爵家ももちろん違う。
無実を証明するだけでは足りない。
犯人を当てるだけでも、まだ足りない。
誰が敵かと同じくらい、誰を味方と思い込んではいけないかを見極めなければ、次に死ぬのは自分かもしれない。
レティシアは焼け跡のついた紙片を握りしめ、隣の男を見た。雪明りの下で、シリルはもう何も漏らしていない。それでもさっき一瞬だけ見えた硬さが、かえって事態の深さを告げていた。
なら、まず疑うべきは、いちばん頼れそうな顔をして立っている人間たちだ。
監視札の痛みを飲み込みながら、レティシアはそう決めた。
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