黒檻台帳に刻まれた私の名
単なる密室殺人事件ではなかった!?
王立の組織をも巻き込む陰謀に悪役令嬢探偵レティシアが立ち向かう!!
石床を蹴った瞬間、監視札が手首へ噛みついた。
銀輪の内側で青い文字が走る。痛みは熱ではなく、薄い刃を何枚も皮膚の下へ滑りこまされる感触に近かった。痺れが肘まで駆け上がり、肩口で束になって胸を絞る。逃げるな。止まれ。勝手に動くな。声に出されなくても、魔道具の命令はまっすぐ身体へ刻まれる。
膝が抜けかける。けれどレティシアは窓辺から目を離さなかった。いま見失えば終わる。黒い影も、窓枠に残った紙片も、この屋敷なら都合よく片づけられる。自分の無実まで灰と一緒に掃かれてたまるものか。
「外へ出るわ」
「急ぐな」
次の一歩を踏む前に、黒手袋が肘を支えた。シリルの声は低く短い。
「監視札は急な加速を罰します」
「先に言いなさいよ」
吐き捨てた声の端が震える。痛みだけではない。走る速さまで輪に決められる感覚が、腹の底を逆撫でした。しかも腹立たしいことに、身体のどこかがこういう締めつけを知っているみたいに先回りして固くなる。その違和感まで、いまは振り払うしかない。
シリルは謝罪の代わりに部下へ顔を向けた。
「二名は東へ先行。格子門の封鎖を維持しろ。令嬢は私が見る」
西塔の外回廊は、屋内よりひと息ぶん冷たかった。石壁に沿って吹きつける雪が頬を切り、欄干の向こうで中庭の闇が白く霞む。東端の格子門には青い封鎖光が脈打っていたが、その前に人影はない。先行した局員の叫びだけが風に裂けた。
「見失いました!」
床の雪には靴跡が東へ続いていた。けれど整いすぎている。歩幅が一定で、つま先の流れもない。追われて乱れた跡ではなく、見せるために置かれた線だ。
レティシアは欄干の脇へ寄り、意識して呼吸を落とした。さっきの痛みがまだ骨の中に残っている。監視札は無茶な動きにだけ強く噛むらしい。重心をずらし、熱が増さない角度を探りながら膝を折る。拘束具の機嫌を読まなければ床ひとつ調べられない。その事実が遅れて屈辱になった。
欄干の飾りに黒い糸くずが引っかかっている。摘み上げると、厚く粗い織りだった。夜会服ではない。もっと実務向きの、油臭い布だ。指先にぬめる匂いが残る。灯火油を焦がしたような、生ぬるい焦げ臭さ。さっき書庫で嗅いだものと同じだった。
「これ」
シリルが片眼鏡の青光を当てる。布端を撫でた光が、彼の眉をわずかに寄せた。
「灯火用の油です。書庫の蝋ではない」
「台所か、燭台の手入れ場」
「少なくとも主人筋の装いではありません」
近くの局員がその言い方にかすかに強張った。公爵家の回廊で下働きの気配を口にするだけで、空気がざらつく。レティシアは欄干の外を見た。ここから身を乗り出して逃げたなら、雪の縁が崩れるか、手をついた跡が残るはずだった。なのにどこも乱れていない。
走ったなら乱れる。
消えたなら、消えた痕がいる。
残っているのは、窓の前を横切ったと信じさせるための線だけ。
「誰もここから逃げていない」
口にした途端、頭の奥へいくつかの欠片が落ちてきた。音として聞こえるわけではない。誰かが息を呑んだ拍子にこぼした意味だけが、遅れて言葉の形になる。
((見えたのは裾だけだ))
((高い音がして、反射で東を見た))
((あの令嬢がまた思いつきで))
最後の一片は無視した。前の二つで充分だった。今日だけで少しわかった。この妙な拾い方は、相手が強く揺れた時にしか起きない。静かな相手の胸の内は読めない。割れた表面から飛び散った破片だけが、勝手にこちらへ刺さる。
靴跡の脇へ指を差し入れると、雪の下に細い銀色が埋もれていた。拾い上げたそれは指ほどの長さの金属筒で、先端に小さな穴が並んでいる。
「笛?」
シリルが受け取り、親指で縁をなぞった。片眼鏡の青が一瞬だけ強まり、金属へ薄く霜が浮く。
「風鳴りの簡易札です。投げると術式が弾けて、甲高い音を立てる」
「音で東を見せて、その間に別の場所で動いた」
「書庫です」
シリルが即答した。同時に胸の内で線がつながる。逃げた影は囮だ。こちらを外へ出し、東へ走らせ、その隙に書庫で何かを片づけるための細工。そうまでして消したかったものが、まだ向こうに残っている。
レティシアは踵を返した。今度は走らない。足幅を狭め、息を乱さず、監視札が牙を立てる一線だけを外して速度を上げる。痛みを避ける歩き方を、もう身体が覚え始めているのが嫌だった。従うのではない。癖を利用しているだけだと、自分へ言い聞かせながら西塔へ戻る。
扉を押し開けた途端、乾いた紙の匂いの底に別の熱気が混じった。焦げた油と、熱せられた真鍮の臭い。書庫の中央でグレゴールが灰皿の前に屈みこみ、白手袋の指先で何かを押し潰している。老いた背はさっきより小さく見えた。真鍮皿は鈍い赤みを残し、まだ完全には冷えていない。
「そこまでです」
シリルの声が飛ぶ。グレゴールの肩が跳ね、その拍子に紙片がひとつ卓の脚もとへこぼれた。
レティシアは身を屈めた。熱が残っていて指腹がじりっと焼ける。それでも焼け残りの文字は読めた。罫線の上に並ぶ小さな見出し。
収受印。引渡人。移送刻。戻入欄。
その四つで足りた。蔵書目録でも出納簿でもない。人を受け取り、人を引き渡し、戻ったかどうかを記す欄だ。
「黒檻台帳って……人の帳面なのね」
書庫の空気が一度止まった。蝋燭が揺れ、書架の影が細くなる。シリルは彼女の手元を見たまま低く言う。
「説明を」
グレゴールの喉が上下した。口を開く前に、胸の底の揺れが先に零れる。耳ではなく、まぶたの裏へ直接落ちてくるみたいな切れ端だった。
((若様は見てはいけなかった))
((これ以上は、レティシア様まで))
保身とは違う震えだった。処分を恐れているのではない。その先へ火が回ることを恐れている。レティシアは紙片を握ったまま老執事を見据える。
「紙屑を燃やしたんじゃなかったのね」
グレゴールはついに膝をついた。灰で汚れた白手袋が、石床の上で頼りなく見える。
「あれは……写しにございます」
声は掠れていた。
「本物は昨夜のうちに持ち去られました。若様は保管庫からそれを抜き取り、誰かの手へ渡る前に中身を確かめようとなさった。わたくしは残った写しと名の断片だけでも消さねばと」
「誰に見つかる前に?」
問いかけると、グレゴールの瞳が揺れた。
((家の外ではない))
((印章に触れられる者だ))
やはり切れ端だけだ。けれど充分に鋭い。屋敷の内か、少なくとも屋敷の印章へ触れられる近い人間。喉元まで上がった名を、レティシアは飲み込んだ。まだ証拠がない。ここで形にしたら、それ自体が刃になる。
「写しを燃やしたのはルーファスを守るため?」
グレゴールは首を振ることも頷くこともできず、指先を握りしめた。
「若様だけではございません。これが表へ出れば、公爵家だけで済まぬのです」
シリルの片眼鏡が、そこで小さく鳴った。青い光が一度だけ白く滲む。焼け残りに自分の姓があった以上、王立側まで火が回ると彼も理解している。
「黒檻とは何です」
問い返したのはシリルだった。短いが逃がさない声音だ。グレゴールは目を閉じ、古い扉の軋みのような声で答える。
「表へ出せぬ者を閉じ、引き渡した記録にございます。名の横には送り出す側の印、受ける側の印、その時刻が並ぶ。戻された者には戻入欄がつき、戻らぬ者はそれきり空白のまま……」
最後の語尾が掠れた。
「屋敷の中で消えたはずの名も、王立にいないはずの名も、そこには残るのでございます」
「だからハートウェルの姓があった」
レティシアが言うと、グレゴールは否定しなかった。その沈黙だけで充分だった。王立の名。公爵家の印章。密室の死体。別々に見えていたものが、最悪の形で噛み合っていく。
ルーファスはそれを見てしまった。だから死んだ。
その結論が腹の底へ落ちた瞬間、足もとの石床がひどく薄くなった気がした。
「若様は、誰かを助けようとしたの」
自分でも驚くほど静かな声だった。グレゴールの瞼が震える。
「……ええ」
「誰を」
老執事は長く答えなかった。仕えてきた家と、守りきれなかった相手とのあいだで裂かれる顔になる。それからようやく、レティシアを見た。目の前の彼女と、もっと幼い記憶の中の誰かを重ねている目だった。
「レティシア様を、でございます」
その一言が落ちるまでの沈黙がやけに長い。
「私を?」
「若様は昨夜の頁で見つけてしまわれたのです。黒檻の記録の中に、レティシア様のお名前を」
監視札が、かちりと鳴った。
次の瞬間、胸骨の裏へ細い鉄片を打ち込まれたみたいに息が止まった。指先だけが妙に熱い。喉の奥は冷えているのに、銀輪の重みだけがいやに馴染む。その馴染み方が、たまらなく気味が悪かった。
自分の名が、黒檻の頁にある。
人としてではなく、運ばれた荷みたいな欄の中に。
胃の奥がひっくり返る。意味を飲みこむより早く、欠けた記憶の裏から感触がせり上がった。湿った布の匂い。暗い石壁。幼い喉が枯れるまで泣いたあとの熱。細い指で扉を叩き、爪がめくれそうになる痛み。鉄輪が擦れ合う鈍い音。
思い出したわけではない。けれど、身体のどこかは知っている。だから監視札へ触れるたび、今日の拘束具以上の嫌悪が先に立ったのだ。いまさら自分の中で辻褄が合ってしまうのが、ぞっとするほど嫌だった。
「どういう意味」
絞り出した声は、自分のものとは思えないほど薄い。
「私は、いつ檻に入れられたの」
グレゴールの唇が止まる。だが次の一片は、耳ではなくもっと近いところで落ちてきた。
((あの夜の檻を、この方は覚えておられない))
((申し上げれば、また傷になる))
何もかもは見えない。ただ、隠したい箇所だけが痛みみたいに伝わる。レティシアはそれを振り払うように唇を噛んだ。知らない過去に怯えるのも腹が立つ。知らないまま帳面に載せられていたことは、もっと腹が立った。
落としかけた紙片をシリルが素早く受け取り、そのまま証拠封紙へ滑りこませる。彼は部下たちへ向き直った。
「以後、この書庫への出入りを封じる。グレゴールは別室で聴取。ここで見聞きしたことは一切口外するな」
命令は短く、迷いがない。局員たちが動き出す。そのあいだもシリルの視線だけはレティシアから外れなかった。いつもの疑いだけではない。危険物の位置を測るような、鋭く静かな目だ。
「日暮れまで、という条件は変更します」
「処分を早めるってこと?」
「逆です」
彼は一歩だけ距離を詰めた。雪の匂いを含んだ外套が、書物と灰の乾いた臭いを押しのける。
「あなたを犯人候補の椅子へ縛ったままにしておくほうが、真犯人には都合がいい。あなたはまだ被疑者です。ですが同時に、黒檻台帳の当事者で、次に狙われる側かもしれない」
守るとは言わない。信用するとも言わない。けれど線の引き方が現実的だった。甘い言葉よりよほど信じやすい。
「それで」
喉の奥がまだ冷えている。それでもレティシアは問うた。
「私は、捜査から外されるの」
「外せません」
シリルの返答は即答だった。
「あなたはこの件の中心にいる。しかも、よくないことに勘が働く」
「勘?」
「人が隠したいところへ、妙に早く手が届く」
その言い方にだけ、彼の観察が滲んでいた。レティシアは目を逸らさない。頭の奥ではまだ、さっきの切れ端が残響している。全部を読めるわけではない。覗こうとして覗けるものでもない。誰かの心が激しく揺れた瞬間にだけ、言葉になり損ねたものが零れ落ちる。その半端さは不気味で、同時に救いでもあった。もし明瞭に全部聞こえるのなら、きっとこんな顔では立っていられない。
「外したら困るのは、私だけじゃないでしょう」
シリルは否定しなかった。
グレゴールが連れ出される直前、掠れた声でひとつだけ残した。
「若様は、レティシア様を脅すために頁を持ち出したのではございません」
老執事の目尻へ深い影が落ちる。
「守ろうとなさったのです。もう二度と、檻へ戻されぬように」
扉が閉まる。書庫は再び静まり返った。空の保管庫。燃え残りの写し。風に走った囮の影。黒檻の頁に記された自分の名。ばらばらだったものが、一本の線になって足もとへ戻ってきている。
無実を証明するだけでは、もう足りない。
犯人を当てるだけでも、たぶん足りない。
誰がルーファスを殺したのか。その前に、誰が自分を帳面へ載せ、誰がそれを隠し続けたのか。
自分の知らない自分まで掘り返さなければ、この事件からは出られない。
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